アメリカの公共宗教・その2

前日の続き。

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性

アメリカの公共宗教―多元社会における精神性

ジョージ・ホイットフィールド

[ジョナサン・エドワーズが火つけ役となった]
第一次のリヴァイヴァル運動をのちに「大覚醒」と言われるほど大規模なものにしたのは、もう一人の指導者ジョージ・ホイットフィールドである。(略)
[18世紀前半都市化が進み、元々の住民は移民に不安を抱き、移民は見知らぬ土地で孤立感を深めた]
形骸化した教会は不安を和らげることはできず、[学識だけのエリート牧師の]無味乾燥な説教は孤立感を癒せずにいた。こうして人々は、宗教的飢餓感をつのらせていったのである。そうした状況に登場したのがホイットフィールドであった。(略)
彼は時と場所を選ばず、町の広場であろうがコートハウスであろうが、いつでもどこでも集会を開いた。しかも、時と場所だけでなく教派さえも選ばなかったので、誰とでも協力できた。
(略)
それだけでなく「説教しては印刷する(preach and Print)」という方法を考案したことが大きい。(略)1740年頃には、多くの週刊誌や日刊紙が発刊されるようになっていた。(略)
 かれは一つの説教をおこなうと、すぐさまそれを新聞などのマスメディアを通じて宣伝し、今度はその宣伝によって集まってきた人々に説教する、そしてまたそれを宣伝し……というぐあいに次々と聴衆を増やしていったのであった。[友人となっていたベンジャミン・フランクリンはホイットフィールドの説教集、日誌、自伝を次々と出版し、大きな成功をおさめた]

野外伝道集会

フロンティア伝道において成功をおさめたのは、メソジスト派とバプテスト派である。メソジスト派の牧師は、馬に乗って開拓民の家庭をめぐり、バプテスト派の牧師は、自ら農夫となって開拓民とともに生活を送った。何より功を奏したのは、その頃から採用された「キャンプ・ミーティング」という手法である。(略)幌馬車に乗って集ってきた開拓民は、そこでおこなわれる巡回牧師の説教に、時を忘れて耳を傾け、自分の罪を悔い改めて祈り、感傷的な賛美歌をうたって酔いしれた。殺伐としたフロンティアの生活のなかで暮らしていた開拓民は、こうしたセンチメンタルな「リヴァイヴァル形式の礼拝」によって新たな生命へ再生し、魂の安らぎと倫理性を獲得

トクヴィル

デモクラシー社会における大きな弊害の一つには「個人主義」の問題があった。(略)平等化が進んだ社会にあっては、あらゆる権威が崩壊していき、孤立した人々は「多教者の意見」に翻弄されるようになる(略)
トクヴィルは、人々の状態を個人の内側から克服する、つまり公共心を再生させる内面的契機として宗教の意義を主張した。言い換えれば、共和制社会に欠くことのできない市民意識の形成を宗教に期待したとも言えるであろう。(略)
[トクヴィルはたいていの人々が現世利益を望むことを承知しており]〈世俗内の利益〉の追求を認めつつ〈世俗外の対象〉に向かわせること、それをデモクラシー社会における宗教の役割であると考えた(略)
 共通の観念を人々に抱かせるものとは何か。トクヴィルはそれを「モーレス(mores)」であると考えた。モーレスとは「一国民の道徳的ならびに知的状態の総体」であり、「人間のもつさまざまな観念や人々のあいだで流通する種々の意見、そして、精神の習慣を形づくるもろもろの考えの総体」のことを指す。(略)[モーレスの中核的となるのが宗教](略)
トクヴィルは「信仰なしで済むのは専制であって、自由ではない」と言っているが、それは〈世俗外〉の観念によって「多数者の専制」から自由になり、個人が自律を果たすことを意味していたと考えられる。(略)
 そして宗教は、個人だけでなく共同体にも「囲い」を課して、その自律に貢献する。(略)
[宗教は]「個人の自律」のための内面的契機となり、また「共同体の連帯」のための道徳的紐帯となり、そして「共同体の自律」のための倫理的基準にもなるのである。かくしてトクヴィルは、政教分離を前提としたうえでなお、次のように断言することができたのであった。
 社会にとって最も重要なことは、すべての市民が本当の宗教を信じているということではなく、社会が全体として一つの宗教をもっているということである。

福音派

[プリンストン宗教調査研究所による福音派の宗義は]
第一に、聖書を文字通りに理解し信仰すること、第二に、積極的な伝道をおこなうこと。第三に、「ボーン・アゲイン」(宗教的な体験に基づいて「霊的な生まれ変わり」を果たすこと)の体験をもっていること。(略)
 注意しなければならないのは、上記の三つを示してアンケートをおこなったばあい、プロテスタントだけでなくカトリック信者のうちの17%が「自分は福音派である」と答えている点である。(略)
[カウンターカルチャーへの反発があったところへ、二つの最高裁判決がさらに危機感を高めた]
1962年の「公立学校における祈りの非合法化」の判決(略)[祈りは]は特定の宗派に偏らないように配慮されたものである。しかも生徒には、祈りのあいだに沈黙している自由も与えられたし、教室から出ていることも認められた。しかし最高裁は、これを憲法の国教樹立禁止事項に違反するものだとしたのであった。
 もう一つは、1973年の「中絶の合法化」の判決(略)
[これにより]聖書的価値観に反する方向に進んでいるのは、カウンター・カルチャーに心を奪われた若者たちだけでなく、アメリカ社会そのものなのだ、という認識をもつ人々が増え(略)
これらの判決は、公的領域から宗教を排除しようとしたり、「世俗的人間中心主義」を拡大しようとしたりする動きにほかならない。それに反感をもった人々が福音派になっていったのである。(略)[ニューライトと呼ばれる保守派による掘り起こしで政治化した福音派は]1980年の大統領選挙において、ロナルド・レーガンの支特にまわった(略)
もともと福音派は「眠れる巨人」と呼ばれたことからもわかるように、政治的な行動はしてこなかった。福音派の人々は、アメリカ社会の荒廃が進むにしても、聖書にあるとおり、いずれはキリストが再臨するものと信じている。ゆえに、人間が主体的に政治的な活動をおこない、この世を改良しようとすることに、積極的な意義を見出してこなかった。政治的な意味では確かに福音派は眠っていたのである。(略)
[この政治化した福音派が大きな影響力をもつ宗教右派である]