宗教vs国家

 せっかちな人は第三章あたりから読むといいかも。

宗教VS.国家 (講談社現代新書)

宗教VS.国家 (講談社現代新書)

革命前のフランスにおいて

プロテスタントカトリック教会の台帳に登録されることはない。したがって正式に結婚したとはみなされないから、子どもたちも私生児の扱いとなる。洗礼証書のない死者の埋葬は、予想されるごとく、しばしば大きな困難を伴っていた。プロテスタントユダヤ教徒は、法に逆らってではなく、国家の承認する制度のなかで合法的に差別されていたのである。
 国王の名において、プロテスタントに信仰の自由と戸籍が与えられたのは、革命を目前にした1787年のことだった。いいかえれば、啓蒙の世紀につちかわれた宗教の相対化という思想は、すでに為政者のところまで浸透していたのであり、革命政府の決断には時代の準備した基盤がある。世俗の権力の管理する「戸籍」のもとでは別種の義務が課され、それとともにあらたな帰属意識、すなわち「国民」としての個人という自己意識が徐々に形成されてゆくだろう。

1804年ナポレオン戴冠式

ナポレオンは「信仰の自由」を認めたうえで、結果的には公的な宗教活動を警察法規にもとづく管理体制に組み込んでしまった老獪な人物なのである。革命後の混乱を経た宗教は、こうして一般市民の生活に顕在するものとして、公式に位置づけられた。その象徴として教皇は、戴冠式にただ出席していたようにも見える。

複数の宗教が容認される

王政復古期にはカトリックが勢力を吹き返していたが、1830年以降の七月王政においては、その反動が起きて、むしろ諸宗派を調停する動きが顕著だった。(略)
複数の「公認された宗教」という枠組みによりカトリックとブロテスタントが併置されただけでなく、枠そのものがキリスト教の外部であるユダヤ教にまで拡がった。

「教育の自由」を望む保守派

以上のような情勢のなかで積極的に「教育の自由」を唱えたのはもっぱらカトリックの保守勢力だったという点に留意しよう。その動機は、みずからの望むところにしたがい、つまり自由に伝統的な宗教教育を推進したいという主張にあった。(略)
第三共和政の初期、教育改革にとり組んだ政治家たちは、カトリック勢力を排除するために、基本的人権としての自由を犠牲にしてまでも、統一的な制度を打ち立てようとしたのである。

何をもって統一するか

 対プロシア戦争にあっけなく敗退し、コミューンで首都が血みどろになったフランスでは、国民の内部の対立が深刻な様相を増していた。併存する複数の宗教は人びとを融和の方向に導くことはなく、むしろ個別の集団を囲いこむ動因となる。事態を単純化してしまえば、一方には、フランスの魂はカトリックにあるゆえ、これにふさわしい政体が望ましいと考える陣営があり、他方には、1789年の原理に立つフランスは、民主主義とライシテを実現しなければならないと主張する陣営がある。

政教分離

フランスは、公的な制度として国家の内部に組みこまれていた教会を国家から分離したのだが、そのためには革命から一世紀以上の葛藤の歴史が必要だった。国は「教会」に対し、財政援助や資産に関する特別待遇は与えない。そして「教会」は組織の運営について全面的に自立する。
 教育の現場では、名目的にはコングレガシオンが排除されたものの、カトリック系私立の学校は存続した。ただし、当然のことながら、フランスの国民を育てる公教育の内容は国家によって管理される。共和国が「不可分」indivisibleであるためには、共通のプログラムによって育成された国民が、そのアイデンティティを形成しなければならないのである。
(略)
教室で、王党派の修道士がフランス革命を否定し、ローマ教皇の無謬性を説いては困るのである。

「普遍的な道徳」

政教分離に伴う課題は、宗教を弾圧することでもなく、国民の教会離れを促進することでもなく、じつはキリスト教信仰に代わるものを共和国が発明することにあった。フランス国民に提示し、子どもたちに教育しなければならない至上の価値。これが「普遍的な道徳」と呼ばれるものだった。

神抜きの「道徳」

教会が神という超越的な存在なくして道徳は成り立たないと主張する一方で、政教分離派は、いかなる神にも言及しない道徳が存在しうると宣言したのであり、その事実には歴史的な意味がある。二つの道徳は、内実において「姉妹」のようなものであるけれど、にもかかわらず、両者は深い亀裂で隔てられている。この亀裂こそが重大なのだ、と歴史家は念を押す。
 おそらくは、まさにこの点が、わたしたち日本人には理解しにくいのではないか。欧米を範として構造化されたわが国の初等教育機関において、じっさいに「道徳」と呼ばれる枠組みは、キリスト教道徳から宗教的な看板をはずした「姉妹編」を受容しているはずなのだが、そうした歴史的背景は意識されることさえないように思われる。

教会資産の行方、一時没収(後に手打ち)

教会は厳しい検閲と統制を経たのちに、「国家の監督」から解放されることになる。すでに指摘したように、重大な問題の一つは、教会やコングレガシオンが永続的に囲いこんできた資産の扱いをどうするかという点だった。
(略)
[教会資産の無償使用権の帰属先を信徒団体にする枠組みをカトリックは拒否]
 教育施設の閉鎖のときと同様に、またしても何千人という規模の軍隊が導入され、力尽くで修道士たちが排除され、教会財産の目録が作成され、解散を命じられた組織の資産が国や地方行政機関に移管された。その間に貴重な建造物や聖遺物が破損することもあり、また行政の無関心のために村の教会が荒れ果てたり、伝統ある教会が別の公共施設に転用されたりもした。貴重な文化財の散逸と宗教的な伝統の消失を、文明の破壊であるとして批判する運動がひろがった。

御真影」を外す

 カトリック系の学校がライックな公立学校へと変貌するさいにも、しばしば悶着や紛争が起きた。国民のほとんどは、少なくとも心情的にはカトリックだった時代である。村の小さな学校の教室に掲げられていた十字架をとりはずすことは、司祭と教員と生徒たちだけでなく、村の住民すべてにとって大事件だった。(略)
 イスラームのスカーフを教室のなかに入れることはできないと主張するフランス人の心性は、自分たちは十字架を教室から運び出したという記憶によって、今も養われているのではないか。少なくともその記憶が、スカーフの排除は政治的には正しいという実感をささえているのではないかと思われる。

友愛・連帯、人権話は明日につづく。
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