アメリカ独立は宗教的自由の熱情

アメリカ革命は政治的自由もあったが、宗教的自由への熱情がメインだった。国教会にデカイ面されたくない、好きな宗教やらせろ。印紙税のなにがムカツクかというと、税が自分達の宗派とは無関係の国教会に流れ込むこと。

アメリカの政教分離―植民地時代から今日まで

アメリカの政教分離―植民地時代から今日まで

政教分離について(訳者あとがきより)

日本語での政教分離という言葉と、その英語表記Separation of Church and Stateという言葉の意味するところのギャップはきわめて大きい。日本語がもっている意味合い、そして大多数の日本人がこの言葉で思い描いているのは、政治と宗教が混交してはならないという理解である。つまり、それを逆に英語で表記すると、Separation of Religion and Politicsとでもなるだろう。ところが、アメリカにおけるこの英語のもともとの意味は、連邦国家と教会との分離であり、政治と宗教の混交が直接問題とされているのではない。
(略)
ひとつひとつの邦は植民地時代からの個別の宗教的背景を色濃くもっていた。(略)これらの明確な宗教的基盤のちがいを超えて連邦を形成するには、どのひとつの邦の宗教であれ、連邦全体の宗教となるのをゆるすわけにはいかなかった。逆にいえば、もし、ひとつの宗教が他の宗教を押しのけて、連邦全体の公定宗教、つまりアメリカ合衆国の国教となるならば、連邦成立は達成されなかったことだろう。

イギリス国教会の中心地・ヴァジニア

 イギリス植民地ヴァジニアがイギリス国教会の中心地となるのは、自然の成りゆきであった。それが17世紀の世界の動きだったからだ。教会と国家とは社会の安全、安定、道徳的秩序を保持するためのパートナーだった。教会と国家というふたつの制度がおたがいに独立して機能し、分離すべきであるという概念は新奇であり、また馬鹿げていたのだ。(略)
イギリス国教会こそがこの植民地の公定宗教であるべきで、他の宗教がゆるされることなどありえなかった。ヴァジニアの定住者は毎日、朝晩二回の礼拝に出席し、それを「たびたび、意図的に欠席する者は」法によって罰せられた。

教会と国家の一体化

一国にひとつの教会、というヨーロッパの理念は目標としてかかげられつづけたが、アメリカ革命以前にその目標が完全に実現されたことはまったくなかった。革命後は、その夢はたちまちに霧散し、アメリカのどの州においてもけっして実現されることはなかった。
(略)
聖公会と同様、ピューリタンも、他の宗教への門戸を閉ざすために全力をつくしていた。彼らも、アメリカにヨーロッパ型の教会と国家の連合をつくりだすことを願っていたのだ。
 1630年代、ピューリタンはイギリスからの移民流入の増大にともなって急速に勢力を強めた。しかし、この初期の時期であっても、完全な宗教的調和の保持は至離のわざだった。1635年、仲間のひとり、ロジャー・ウィリアムズが教会と国家の連合はまったくのまちがいであると強烈に訴えた。つまり、ヨーロッパにおける血なまぐさい戦争をみれば、それだけで、愛と恵みの神が求めていたものから、教会と国家の連合がいかにかけ離れているかがわかる、と主張したのである。
(略)
彼らはウィリアムズを追放し、ウィリアムズは新しいコロニー、ロードアイランドを設立しようと、一月の雪のなかを徒歩で進んだ。その地でこそ、すべての市民が良心の自由を保障されることになっていた。

復興運動による混乱

1741年から42年にかけて、復興運動の支持者と反対者との緊張がピークに運した。「この時期、迷信にもとづく狂乱がきわめて高まり、生まれながらの精神の安定か強固な理性と反省、確固たる自立ができていない人はだれもが打ちのめされた」と、ある批評家はのべている。
 復興運動を好ましく思っている者は、これこそ多くを回心に導き、さらに多くの人を道徳的につくりかえるほんとうの神のみわざであるとした。(略)
 それに反して、復興運動に反対を唱える人びとは、行動の突拍子のなさや、信仰の特異性をいちいち指摘して、あまりにも情動が激しく、厳しい分裂をもたらすと批判した。(略)
宗教にたいして一団となって先端をきっていたかにみえていたニューイングランドは、いまやみずからの恥知らずの分裂を思い知るはめになった。こうした分裂は、クエーカーやバプティスト、つづいてメソジストや聖公会が、会衆派教会内部の分裂に乗じて拡大し、その緊張をますます強めたため、さらに深刻なものになった。民衆のレベルでは、多くの人びとが公認の正統から離れ、魔術や占星術をおこない、さらにけっして衰退することのないさまざまな迷信を信じつづけていた。たしかに、会衆派は権力の殿堂や、ハーヴァード大学、イェール大学などの教育の中心地では支配的勢力を保っていたが、独占宗教の鉄の絆は断ち切られたのである。(略)
 統一をもたらそうとするニューイングランドは、鋼鉄のように頑として国家と教会の分離に決意をもって臨むロードアイランドの存在を無視できなかった。さらに南には、イギリスにまだ残っていたカトリックの避難所としてメリランド植民地が設立されていた。

主教への憎しみ

17世紀イギリスでは、主教は絶大な政治的・精神的権力をふるっていた。主教は国家の役人であり、迫害と圧制の機関であるあの強力な貴族院の一員であった。その悪しき臭いが18世紀になっても彼らに強くまつわりついていた。こうした、全権を握る権威から逃れるだけのために多くのアメリカ人がイギリスを後にしたのである。宗教的官吏がおなじような権力をアメリカで振るうと思うだけで、植民地の住民の怒りは燃えあがり、イギリスとの絆を断つ準備をつくりあげていったのである。

アメリカ革命の熱情

 1770年代になって革命への熱狂が高まるにつれ、ロンドンの福音伝道協会から派遣されていた聖公会の宣教師は、彼らのイギリスヘの忠誠心と独立への抵抗のために、人びとの憤慨を深めることになった。(略)
バートンはさらに他の宣教師たちが「馬から引きずり降ろされたり、石や汚物を投げつけられたり、水に沈められたり、生きるために逃れ、住居や家族からも離れ、逮捕され投獄されている」とも報告している。このようにアメリカ革命とは熱情が頂点に達したときだったが、その熱情の大部分は、動機からみても表現の仕方からみても宗教的なものであった。
(略)
1776年、ヴァジニアや他の地の住民はそれぞれの邦でイギリス国教会の公定制度廃止の動きに出た。つまりそれは、国家と教会のあいだにあるすべての絆を断ち切り、信仰においても行動においても信教の統一への強制をやめ、ことに、少数者の宗数的利益のための全住民からの徴税廃止を意味していた。

明日に続く
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