表現の自由―その公共性ともろさについて 毛利透

第二章まで(あと省略)。順番を変えてアレントから先に。

表現の自由―その公共性ともろさについて

表現の自由―その公共性ともろさについて

世界を変えようと喋り続ける幸福が他者を巻き込み、そこから生まれた「権力」のみが、自由を維持しながら世界を変える可能性をもつ

政治に参加するのは少数である。それで何の問題もないし、そうでなければならない。こう言いきったのはハンナ・アレントであった。(略)
このアレントの主張に対しては、度し難いエリート主義だという批判が多く寄せられている。(略)
[だが]ハーバーマスは彼女をラディカル・デモクラットであると性格づけている。
(略)
[アレント全体主義分析]
共同の世界へのつながりを失い「根無し草」となった彼らは(略)自分が「いつでもどこでも取り替えがきく」存在だということに気づかざるをえない。(略)
そういう人間は、自分が殺される番になっても、その殺戮を受け入れてしまうのだ。(略)
全体主義政権が「おまえは無用な人間だ」(略)と言ってきたとき、彼らは「やっぱりな」と思ってしまうからである。(略)
アレントは警告している。「いたるところでいつも無数の人間が、功利主義的に考えるかぎり実際に〈無用〉になりつつある」。
(略)
アレントが批判するのは(略)たまの選挙となると「皆さんそろって投票しましょう」という大プロパガンダによってそのように政治的経験を奪われた有権者に匿名の一票を投じるよう動員をかけ、支配に正当性のみかけを与えようとする体制なのだ。その投票結果は市民の意思を表してなどいない。なぜなら、市民の意思を形成する場が、そこには欠けているからだ。これに対しアレントが求めるのは「国の公的問題に全市民が直接参加する」評議会制(略)
アレントは、「大衆」を排除するのではなく、「大衆」が「市民」となりうる政治体制を構築しようとしたのだ。彼女はそれが可能だと考えている。だからハーバーマスは、彼女を「恐れ知らずのラディカル・デモクラット」と呼んだのである。
(略)
アレントは、政治的に活動することは極めて危険だとしつこく繰り返しており、まるでこんなことはやらない方がいいと言わんばかりである。「活動者は、「行為者」というだけではなく、常に同時に受難者でもある」。(略)
ほとんどの場合失敗が目に見えている、だから、人は容易に暴力に頼ろうとする。暴力を使えば、無言で、つまり自分が何物であるかをさらさずに、しかも確実に目的を達成できるからだ。政治を何かの目的を達成する手段ととらえるなら、活動など何の役にも立たず、暴力を活用するのが一番効率的である。「こういう考え方を追求していけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう」。
(略)
 自由を守ろうとすれば、政治を何かの手段ととらえてはいけない。手段ととらえれば、自由はたちまち邪魔者になる。
(略)
アレントが賞賛するのは、そこでしゃべり続けること、「政治的要求を掲げて世界について論及し続けること」の幸福と世界を変えることの幸福が一致していたからである。誰かが何かをしゃべったからといって世界が突然変わるわけではない、しかし、しゃべることは他者を巻き込み、他者との間に関係をつくることによって権力を生む可能性をもつ。この公的領域から生まれる「権力」のみが、自由を維持しながら世界を変える可能性をもつのだ。

市民的自由を行使する変人

日本の憲法学は表現の自由の重要性を説きながら、それを「行使」している人間は全人口からすればごく少数しかいないということの意味についてまったく考察してこなかった(略)
アレントが現代における政治への参加者として想定していたのは、生活に不自由のない富裕層ではない。日常的な社会の不公正に耐えられなくなって、どうしても異議申立てをしたいという人々だ。(略)憲法は、臆病者の勇気をくじかず、促進するインセンティブを与えなければならない。民主政を支えているのは、普通の人々ではなく、市民的自由を行使する変人である。そして、誰もが「市民」に、つまり変人になれることを保障するのが憲法の重要な役目である。

なぜ憲法学はハーバーマスの「公共圏」という概念を導入しなかったか

憲法学の体系において(略)公共性とは国家権力の特性だったのであり、自由とは対立的な位置関係にある。国家権力は公共性を有するからこそ、恣意的な行動が許されないのである。だから従来の憲法学は、政党の公共性についての議論がよく示すように、この属性を狭義の国家権力を超えて及ぼすことには慎重であった。今日でも公共圈概念を用いることは、公共性をもつのだから全くの自由には委ねられない、というような国家による規制を許容する論理となりかねないという危険をはらんでいることを承知しておくべきであろう。

公共圈論の不在は樋口にありと愛敬

近年愛敬浩一は憲法学における公共圈論の不在を、特に代表的な自由主義憲法学者樋口陽一を対象にして、批判すべき事態だととらえている。樋口は近代国家において国家の主権と個人の人権とが直接対峙するものとして成立したことを指摘し、この秩序の危険を承知しつつも、そこで「個人」の自由が承認されたことの意義を強調して、その「諸個人の自立と自律にもとづく res publica を構築」する可能性に賭けるべきだと述べる。しかし、愛敬によれば、樋口の「国家と個人の二極対立」論には「諸個人が他者との対話を統けながら、公論を形成していくことで「市民」となるプロセスが介在する余地がほとんどない」。(略)
この問題性は近年の樋口説がカール・シュミットにあまりに接近していることによって増幅している。

無政治的諸個人が実質的同種性意識によって一気に集合する「喝采する国民」

シュミットがこの文で言おうとしたのは、現実に公然と集い「単純な叫びによって」喝采することこそ「政治的存在」としての国民のあり方だということである。そこは当然討議の場ではない。「国民自身は討論をおこないえない」。(略)
表現の自由や結社の自由の行使が政治的性格を有するようになると、この強い保護は撤回される。[国民の同一性を攪乱するとして規制の対象となる](略)
シュミットの立場をよく示すのが「公論よりも意見の公開性の方が重要である」という言葉である。ここで「意見の公開性」とは秘密政治の反対概念を意味している。(略)議会外の活動は、その公開性を担保するために必要なのであるが、逆にそれ以上の役割を担ってはいない。討論するのはあくまでも議会である。
(略)
ワイマール共和国の著しい分裂状況を国家の決断独占により克服しようとした彼にとって、自由な政治活動は何より政治的統一体を脅かすものとしてとらえられた。
[彼にとって政治的影響をもつメディアの出現は議会制神話崩壊・自由主義の終焉だった](略)
それは国民の同一性を害する部分利益の噴出なのである。

ロールズ

ロールズもこの「市民としての義務」が表現の自由と衝突することは認めており、だからそれは法的でなく、「道徳的義務」であることを強調している。しかしそれでも、重要問題については立憲民主制を支持する者でも自らが真理と考える理由をそのまましゃべってはいけないという要請は、言いたいことを言う権利としての表現の自由保障の趣旨と合致しているのか、疑問がぬぐえない。
(略)
彼の理論体系には市民が自由に議論をたたかわすことから公共性が生まれるような場自体が存在しないことを示している。彼の非政治的と政治的の区別は、私的かつ自由な善の領域と公的かつ規律される国家権力の領域の区別なのであり、つまりは典型的なリベラリズムである。

長谷部恭男

 これに対して、ロールズの政治的リベラリズムに影響されつつ理論構築を進める、日本の長谷部恭男こそ、公共空間をロールズよりも広く理解した上で、それでもそこでの言論を「社会の共通の利益」をめぐるものに限定することを提唱しつつあるように思われる。彼は包括的世界観と政治的正義をともに支持する能力を「分裂症的」とし、それに支えられるリベラル・デモクラシーを「不自然な選択に支えられた人為的な体制」であると強調する。

各個人は、他人に対して働きかけようとする際には常に、その前に自分の内心で、表現しようとする内容が、自己が正しいと思うというだけでなく社会全体の利益から根拠づけられるかどうか吟味しなければならない。しかも、ロールズが「公共的理由」要請は道徳的義務にとどまることを断っているのに対し、長谷部は自己の主張を憲法理論として展開しており、この義務づけは(違反への制裁が許されると考えられているのかは、不明確だが)法的なものと考えられる。(略)彼は、国家の決定に影響を及ぼそうとする表現活動には「自由」を認めていないわけである

長谷部が公的領域での自由に強い警戒を示すのは、政治的意思形成の場に共約不可能な諸主張が流れ込み、討議や決定が不可能になって多様な価値観の共存という立憲主義の目的が達成できなくなることを危惧するからであろう。しかし重大な問題は、ここで「討議」と「決定」とが区別されていないことにある。

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com