転換期の憲法?

樋口陽一アゲイン。

憲法近代知の復権へ」

憲法近代知の復権へ - 本と奇妙な煙

とダブってるところは端折ってます。それにしても、この手の本で「?」って・・。

転換期の憲法?

転換期の憲法?

「国家からの自由」を本気で貫徹するとき、

「個人の尊厳」を支えてきた実質価値は、本当に、「国家」のうしろ支えなしに維持できるのか。(略)
国家からの自由=その反面としていわば「解放される不自由」と、国家干渉=その反面として「国家による自由の強制」という、二つの方向の交錯というかたちをとってあらわれる。そのうえまた、より根本的な次元では、価値中立的な国家が、立憲主義という、それ自体ひとつの倫理を担う諸個人をどのようにしてあてにすることができるか、という最終的な問が出てくる。

特殊なるがゆえの普遍

自明のことのようだが忘れてならないことが、一つある。狭義の“人権”、人一般としての個人、身分制共同体から解放されたと同時に放り出された、doppelfreiな個人を享有主体とする人権、という観念が、特殊フランス的であること、まさにそうであることによって“近代”を集約的に表現するものとなっているということ、である。ついでにいえば、集権的国民国家が中間団体を解体して個人をつかみ出したところにこそ、“主権”の本来的意味があったのであり、その意味で、主権もまた特殊フランス的であることによって、“近代”の表象なのである。だからこそまた、「人権の迷妄」を難じ「主権無用」を説く議論が、フランス革命批判としてくりかえされてきた。法律学はそうした歴史性を捨象して、近代憲法の基本原理としての主権と人権についての没概念的な説明をしてきた。この際、人権にせよ主権にせよ、そのフランス起源性を徹底的にいったんあぶり出したうえで、“特殊なるがゆえの普遍”という文脈をつかみ出すことが、必要なのである。

自己決定という線は譲れない

[「強い個人」の意思は、生命まで否定できるのか]そうしたなかで、人権(略)の母国であるフランスでも、デカルト以来の徹底した自己決定という原理への執着に対し、近年懐疑が提示されることが多い。(略)
“近代”の“人権”にふみとどまろうとするかぎり、諸個人の意思によって自然を構成しようとするデカルト以来の主知主義を、放棄することはできない。急進派エコロジー運動の論理は、動物や植物の「権利」を語り、自然界で人間だけが人権を享有するという設定そのものに抗議するが、人間だけが持つはずの、諸個人の理性を前提とする自己決定の原理を承認するかどうかは、決定的な分岐となるといわなければならない。諸個人の自己決定という原理を放棄することなしに、しかし、個人の尊厳という価値の不可変更性をどのようにして擁護するか、われわれは、“人権”を語ろうとするかぎり、“近代”のこのアポリアを回避して、安易な「ポストモダン」に逃げこむことはできない。

「自由のために中間権力をどうすべきか」

モンテスキューの見解

モンテスキューから見て、同時代、18世紀のイギリスというのは、自由を助長するために中間的権力、ここでいう中間団体の問題ですが、それを壊そうとした。つまり、いろんな社会的な特権的な身分制というものを壊そうとした。それは自由を助長するためなのだという位置づけがまずあるわけです。ところがモンテスキューから申しますと、ポジティヴな意味での君主制というのは、中間的諸権力というものを伴っていなくてはいけない。つまり、貴族とか特権層というものがあって初めて、王様がしたい放題の乱暴なことをしないモデレートな政体になりうるのであり、中間的諸権力がなくなってしまうと、君主制専制政治に堕落する。(略)
「イギリス人たちは自由を助長するために、中間的権力のすべてを取り除いた」。モンテスキューによれば、これは同時に、自由の砦を取り払って奴隷的状態になる危険をも意味する、そういう非常に危なっかしいことでもあるはずなのです。

「結社の自由」より「結社からの自由」

いま挙げた二つの方向のうち、モンテスキュー流に言えば、中間的権力を、本当に全部なくしてしまおうという方向は、ロックから、とりわけルソーヘ、そして実定憲法のあり方としては、ルソー=ジャコバン型のほうに転回していくわけでありますし、そのことによって危うくなる自由を、混合体制、ミックスト・ガバメントによってカバーしようとする方向は、ポジティブな意味での君主制の共和制版にほかならないアメリカの、ここで言うアメリカ=トックヴィル型のものへとつながっていくという、こういう図式がおおよそ描けるのではないか。こういうふうに考えてみますと、中間団体=結社の自由の問題が近代憲法にとって、どれだけ枢要の地位を占めるか、ということがわかるはずであります。
(略)
フランス革命が徹底的な反結社主義、それこそ「アンチ中間団体」の路線をとったということは、よく知られていることでありますから、ここではこれ以上詳しく申しませんが、ここでのいい方に即して言えば、「結社の自由」ではなくて、まさに「結社からの個人の解放」ということこそが、市民革命憲法の課題だったのです。

国家からの自由vs国家による自由

19世紀の実定公法が、国家からの自由としての結社の自由を、もちろん認めるようになるわけですが、その前の段階で、国民が市民革命によって手にした権力で、結社を壊していく。そのときの結社というのは、身分制的なものですから、身分制社会を壊していく。そういう結社からの自由、それをまさに国家権力、国家法によって確保する、という段階が必要だったということです。そういうふうな国家からの自由と、国家による自由というものの対照図式は、人権論のさまざまな領域で、重要な問題を考える素材を提供いたします。

例えば独禁法

独占をも放任する自由。国家からの自由を徹底していきますと、現実社会では、強い者が弱い者を呑み込みますから、独占形成が自由に放任されることになる。これは、確かに経済的自由の一つの自由であります。それに対して、独占を国家法によってコントロールすることによって、それこそ独禁法第一条の文言でいえば「公正且つ自由な競争を促進する」という場合の自由が、国家による自由です。

人権概念を広げるか限定するか

[シヴィルライツ(古典的自由権)がきてポリティカルライツ(参政権)さらにソーシャルライツ(社会権的なもの)]これらの発展の系譜を人権概念で包括的に理解するのが、広げるほうの考え方です。(略)
それに対して、質的限定というのは、市民革命期に、たとえば1789年宣言が、まさに人一般の権利としてひとつのものを打ち出したことの意味を、今日でも重視しようとします。そこでの人権の中には、結社の自由は入ってなく、むしろ結社からの自由が問題であったような、限定された、しかしそれだけに、大きなインパクトを持つ人権概念というものをあまり膨らませないで、それを切り札として使おう、という見地です。日本でも、選挙権は人権かという論争がありますし、また労働基本権というのは一体人権なのかが問題となるでしょう。労働基本権が人権でないというと、労働運動を理解しない保守反動の思想かといわれそうですが、そういう意味ではなくて、労働者の権利というのは、まさに人一般の権利ではない、というところに出てきたのに、それを、ただ人権、人一般、というふうに薄めてしまっていいのか、という問題です。

パルチザン戦争の出現

カール・シュミットは、63年の『パルチザンの理論』で、民族解放戦争・パルチザン戦争を、かつての非差別戦争観のもとでの限定的戦争にとってかわる、「正戦」観念のもとでの殲滅戦として、意味づけました。シュミットのこの図式を借用していえば、国連憲章が文字どおり「正戦」観念のもとで適用されはじめることになると、国連そのものが一方の戦争主体となり、それに抵抗する側との仮借ない「パルチザン戦争」が出現するでしょう。

残り僅かなのだが疲れたので、明日につづく。