憲法を生きる

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マルクス主義基本的人権

[著者は1950年東大入学]ぼくが法律学の勉強を始めた頃(略)マルキシズムからみると、基本的人権なんて、ブルジョア民主主義的なカテゴリーで、そんなのじゃ駄目だ、という話になっちゃうんだよね。日本共産党も含めた左翼の連中は、普遍的な、ある種、自然法的な基本的人権というコンセプトを、「そんなのはブルジョア国家の、いわば見せかけだよ」という式で受け止めてきた。そのことを、戦前の治安維持法の勉強をするときに、改めて感じました。立論が全然違うわけですよ。日本国憲法が制定されたのだから、議論の「建て替え」があってもよさそうなものだけど、そういうレベルでの建て替えはしないわけでしょう。

人権なんてブルジョア的で、インチキで、いずれにせよ資本家的社会のための道具でしかないと理解して、だから、憲法学的構成というか、法律学的構成のレベルで、真正面から闘う姿勢をとらないまま、所詮は政治的な力関係の問題だという論理で闘って、そして負けちゃうわけですよね。特に治安維持法の世界では。
(略)
そんなところで闘う必要はない、やるのはナンセンスだ、敵の手に乗るだけだという考え方を清算しきれないまま、戦後もやってきたと思うんですよ。それなのに、それをもう忘れたかのように、ワーッとアメリカ的な自由論、先ほどお話したような「clear and present danger rule」みたいなものに飛びついた。飛びつくのはいいんですよ。いいんですけど、基本的人権ブルジョアイデオロギーだと言ってきたのは誤りだったと認めることなしに、それでいいのだろうか。やっぱり現実の要請が強かったんだろうなあ。そういうことをやらないままで来ている。その宿題がずっとぽくたちの方に課せられてきた感じがしますね。

1959年から二年間アメリカ留学

大都会へ行くでしょ。街歩いていると必ず、シェルターが付いているわけですよ。地下壕です。いつ何時ね、原爆落とされるかもしれないっていうんでね。まさに「冷たい戦争」の当事国でしたよ。
 要するに、1960年代に大転換が起きる前のアメリカ社会にぽくは入り込んだわけ。1960年代の終り頃になって、ベトナムで絡め取られ、公民権運動で絡め取られて、彼らは悩み始めるわけだけれども、ぼくがいたあの時期というのは、そうじゃなくて、アメリカは本当に「秩序立った社会 well ordered society」で、そのことを自負していた。「このままの社会で行きましょう」ってそんな感じでしたね。
(略)
驚くべきことに、ロースクールには、女性はほとんどいなかった。黒人もたった一人かな。男性は、そうね、半分以上はソフト帽を被っていましたね。それに全員ネクタイをしていた。それで、あのブリーフ・ケースを持ってね。講義の中で、「我々法律家は we the lawyers」なんて言うんだからね。ぴちっとしていましたよ。ぼくがその後アメリカヘ行ったのは、いつだったっけ、ほぼ10年ちょっと経ってから行った。そのとき、あるロースクールを覗いて驚いたのは、第一に服装ががらっと変わっていること、第二に女性が非常に多いということでした。これはもう極端に変わっていましたね。

行政法

[某リベラル裁判官が]「明治憲法下で裁判官としての訓練を受けた私たちには、戦後困った問題が二つある」って言うんです。一つは行政法、一つは労働法。つまり、戦前に学習したものが、うよく働かない法領域が二つあるっていうんですよ。ぼくはびっくりしましたね。
 でも、なるほどなあとも思うんですよ。救済手続に限っても、行政関係にも原則として民事訴訟法の適用があるといいながら、でっかいでっかい例外を行政事件訴訟特例法って形で作ったわけでしょ。それを作ったのは、他ならぬ明治行政法体系をもう空気みたいに当たり前に思ってきた人たち。彼らは、行政法の中で民事訴訟の特例を設けるという、ごく大雑把な議論で片付ければいいと思っていたわけ。で、やってみたら、やっぱりちょっと調子悪いっていうんで、その後、「行政事件訴訟特例法」の「特例」という言葉を外して、行政事件訴訟法にした。これで完璧だろうってしばらくやってきた。つい最近まではね。何て言うんでしょうか、どうも根本的に考える機会を持たないまま、修正また修正をしてきたっていう気配はないかねっていう気がする。

デモ行進は表現の自由の一形態

アメリカに行く前、(略)ぼくが感じたのは、憲法学は公安条例を切る刀を持っていないということなんだ。(略)公安条例というのは疑いもなく、表現の自由の問題ですがね。でも、当時の憲法学者には、デモ行進の憲法的基礎付けというのが特にないんですよ。それで、「デモ行進は動く集会である」みたいな話を真面目にやっていた。
 治安警察法でやりたい放題に規制ができた明治憲法下にも、概念としての集会の自由ってのはあったんです。でも、デモ行進は表現の自由の一形態であるという発想はないわけ。言論の自由と出版の自由のように言葉に関わるものが、表現の自由の問題であると理解していましたから、デモ行進が入ってこない。

検閲

戦前の日本では、出版の自由は、「法律の留保」があったために憲法問題ではなく、もっぱら行政法の問題でした。
(略)
 戦前の日本の出版警察は特殊なものでした。内務省も法学者も〈日本には「検閲」がない、事前検閲はなく、事後的にのみ処理することがある〉という評価に終始していました。つまり原稿を停止させてそれに息の根を止めちゃうのが「検閲」であって、それ以外は「検閲」ではないと説明していた。戦前の内務省による出版規制システムは、発禁処分だけれど、これは発行の禁止を求めるものではなくて、発売頒布の禁止処分だった。だから昔の内務省の人たちは、出版警察の概論や教科書の中で自由主義的にやったと堂々と書いていますよ。発行自体は禁止していないから「検閲」ではないとね。
(略)
 ただ昭和の初期まではある程度牧歌的に運用されていました。出版社のほうはできるだけ早くマーケットに乗せ、マーケットに乗っちゃったら、ある程度売れる。その後で発売・頒布の禁止処分がなされても、もう出版しちゃってますよということが許されていた。これが成り立ったのが「大正デモクラシー」の時代です。(略)
[これではザル法だと内務省が引き締め強化]
そうなると出版社の側はどうするか。その問題が典型的に現れたのが雑誌です。出版社は全国向けに発送する前に、製本したら内務省に持っていく。そこで「内閲」が始まる。(略)ここで「何行から何行までおかしいですよ」というように言われたら、「内閲」の段階で消すわけです。消してそれに合わせた字数分だけ「××」を出版社は入れる。それでもとにかく出版社としては何とか儲けが回収できるからいいわけです。(略)
 出版社としては権力に「お伺い」をたてるメカニズムがあるから、自分たちは権力に屈服しているわけではない、ただ向こうの意向に合わせているだけだと考えた。他方でこれは権力の行使ではないと政府は説明した。ある意味で自己満足しているところが、政府とメディアの両方にあった。損するのは読者ですよ。戦後、日本の出版社はアメリカ占領軍の検閲があった際にこの「内閲」で対応しようとしたけれど、占領軍側は伏字をやると「権力の爪あとを残す」ということで認めなかった。アメリカのほうが厳しかったわけです。

明日につづく。