近代国民国家の憲法構造

三度樋口陽一kingfish.hatenablog.com他とダブリあり、禿しく手抜きで。

近代国民国家の憲法構造

近代国民国家の憲法構造

ジャコバン主義」を

中間団体の否定を徹底させることによって“個人”を力づくで創出したという意味で個人主義とよぶことに対しては、ジャコバン支配はテロルによる個人抑圧ではなかったか、ジャコバンこそ集団主義ではなかったかという反論がある。その次元でうけとめるかぎり、私はそのことを否定しない。そのうえでしかし、二つのことがらをのべておきたい。
まず、ジャコバン・クラブというその名のとおり、彼らは結社をつくっている。しかし、彼らは、さまざまな結社が網の目となって社会を多元的に編成して働くようなシステムを構想していたのではなく、その反対であった。「一般意思の優位」という、「89年」に掲げられた観念を文字どおり貫徹しようとし、ジャコバン派が---そしてそれだけが---いわば「一般意思」の解釈権をもつことを、強力でもってつらぬこうとしたのであった。ジャコバン・クラブが、自分たちとならんでさまざまの社会的諸集団がならび立つことを強圧的に排除したという意味で、建前と実際のパラドックスといってもよいが、その文脈でいうなら、ジャコバン独裁は、集団の名による独裁ではなくて、集団多元主義の禁圧という建前を峻厳につらぬくことによる一般意思の名による独裁なのであった。『個人主義についてのエッセ』の著者ルイ・デュモンがホッブズ、ルソーについていうように、ジャコバン主義は、「きわめて個人主義的な前提」から出発して、「反個人主義的な結論」としての独裁を生んだのであった。

「自由と国家」の対置ほど、憲法学にとって月並みに見えるものはなさそうである。

ひとによっては、もっぱら「自由」対「国家」の文脈で、人権というシンボルをそこに思いうかべるだけで満足するかもしれない。だがここでは「自由」が人権=人一般の権利として語られるためには、集権的「国家」=主権の創出のなかから諸個人がつかみ出されてくることが必要だった、ということこそをまず問題にしたい。そのような意味で、われわれは、「自由」と「国家」の対置のなかから、主権と人権という憲法学の二つの基本観念の間の、密接な相互連関と緊張を読みとることとなる。といってもそれは、「国民が主権者として自覚すればするほど人権保障は実質的になる」とか、その逆に、「国民意思による決定という大義名分のもとで少数者や個人の人権が危うくされる」という意昧でのことではない。これらのことは、実際上の問題として重要だが、ここでの問題ではない。ここではあくまで、論理的な相互連関と緊張、すなわち、主権の担い手としての近代国民国家による身分制秩序の解体があってはじめて、人権主体としての個人が成立したという相互連関、および、身分制から解放されることによって実は保護の楯をも失った諸個人が、国家からの自由を主張することとなるという緊張関係、が問題なのである。

レジス・ドブレ、学校は閉じた場所であるべき

フランス革命に由来するrepubliqueの理念」と「アングロサクソンの歴史がモデルとなっているdemocratieの理念」を対置し、後者にあっては「社会が国家を支配する」のに対し、前者にあっては、「国家が社会の上に張り出している」。(略)
republiqueでは、社会が学校に似るのであって、学校の任務は、自分たち自身の理性で判断できるような市民を育てるところにある。democratieでは、学校が社会に似るのであって、その第一の任務は、労働力市場に適応する生産者を育てるところにある。この場合、『社会に開かれた』学校、さらには『アラカルトの教育』が要求される。republiqueにあっては、学校は、それ独自の壁とルールで仕切られた閉じた場所でしかありえないのであって、そうでなければ、それぞれが勝手な方向に学校をひっぱってゆく社会的、政治的、経済的、さらには宗教的な勢力に対する独立を失ってしまうだろう。

個人の自律を脅かす「市民社会

「昨日、良心の自由・表現の自由のような個人の自律を脅かすのは、国家とその検閲であった。今日、最大の危険(禁止と排除の要求)がたちあらわれているのは、『市民社会』---貪欲さと仮面をかぶった不寛容との混沌---からなのである。