ネオコンの始祖

追跡・アメリカの思想家たち (新潮選書)

追跡・アメリカの思想家たち (新潮選書)

ネオコンの始祖として、騒がれたレオ・シュトラウス

[そのブームに娘は]
「父は学者として栄誉を求めたこともなく、政治的野心とはまったく無縁の人でした。(略)
 父親は第二次大戦前夜の欧州から米国へと逃れ、戦後は主にシカゴ大学で古典ギリシャや中世の哲学を講じる学究生活を送っただけの「小柄で、感じも良くなく、カリスマ性などゼロの醜男」に過ぎない。死後三十年も経ってから、「墓場から秘密結社に指示を出しているなどといわれて」、たまらないとジェニーさんは訴えた

ハイエク江藤淳と親交のあったエドウィン・マクレラン[漱石「こころ」訳者]に著者がシュトラウスのことを尋ねると

「実にいやなことを思い出させる」といった顔つきで、シュトラウスとその門下生らを、「あの人たちは人種差別主義者ですよ」と、吐き捨てるように言った。こちらが、後を継げなくなるような激しい口調だった。

ジョージ・ナッシュの分析

ラッセル・カークの場合は、フランス革命を批判した18世紀のエドマンド・バークにさかのぼって、民主主義や近代合理主義に懐疑の目を向けた。リチャード・ウィーバーはさらにさかのぼり、西洋近代の道徳的崩壊の始まりは、14世紀イギリスの中世スコラ哲学者オッカムが切り開いた合理的思考にあるとみた。シュトラウスは、似たような考え方の経路をたどって、近代政治思想の祖であるイタリア・ルネサンス期の政治思想家マキャベリに、近代的思考の失敗(シュトラウスはそれをニヒリズムだとした)の出発点をみて、眼前の精神的荒廃をもたらした近代全体を批判した。
 シュトラウスのような近代批判者の「伝統主義」は、近代的統治構造としての民主主義の世界的拡大を唱えるネオコンとは思想的に相容れないのではないか。(略)ナッシュはそのように考えて、シュトラウスネオコンと分類しなかった。

「もう一つのワイマール」

 ヒトラーによるユダヤ人大虐殺を生み出すワイマール共和国を逃れて、シュトラウスがたどり着いたアメリカは、シュトラウスの目には「もう一つのワイマール」と映った。中核に「虚無」を侍つ自由民主主義と物質主義の近代国家であった。シュトラウスの目で見れば、いつファシズムに向かっても不思議でないように思えた。
(略)
 シュトラウスからブルームに引き継がれたアメリカ文明批判は、少数派優遇による多文化上義(同性愛結婚など)で道徳的価値観が揺らいだとして、リベラルを攻撃するネオコンに格好の援護射撃をしてくれた。

ジー

フランシス・フクヤマによれば、シュトラウス外交政策については一切言及していない。ただ、プラトンアリストテレスを読解していくなかで、政治におけるレジーム(統治形態)の持つ重要性を強調している。この考え方が、ブッシユ政権に影響を与えた。
 レジームとは、単に形式としての統治形態を指すだけでない。それによってかたちづくられる文化、生活様式、人々の精神の在り方が、政治との間で相互作用を起こす。つまり、人間性に関わるということだ。シュトラウスギリシャ哲学をそう読んだ。
 この考え方を現代に適用すると、圧政国家には外から交渉で圧力をかけても無駄であり、結局その対外的脅威を変えることは不可能だということになる。詰まるところ内側からレジーム・チェンジ(統治形態変更、体制転換)をしないと変わらない。
 ネオコンシュトラウスを現代に当てはめて、そう解釈し、早急なイラク攻撃に踏み切った。しかし、そこにはレジームの思想の読み間違いがあったとフクヤマはいう。

ラッセル・カーク

カークは共産主義を排撃しただけでない。共産主義に対峙するような思想を探る中で、自由主義に基づくアメリカニズムにも、文明を破壊するものとして常に厳しい批判の目を向けていた。保守主義の本質を考えれば納得できる。共産主義アメリカニズムも、結局はともに「近代」の所産だからだ。
(略)
カークの思想的営みは結局、根無し草のように「近代」を上滑るアメリカを英国、そして欧州、さらに世界文明の「伝統」につなぎ直すことにあった。
(略)
カークのような欧州的「伝統主義」がアメリカ思想界で力を得たのは、冷戦という特殊な事情による。つまり、「近代」の生み出した革命の狂気との戦いに、米国と欧州が手を結ばなければならなかったという状況である。

ネオコン始祖、アーヴィング・クリストル

[ウィリアム・バックリーや]ラッセル・カークらにとっては、「近代主義」の驀進を抑えることが保守の役割であった。(略)ところが、ネオコンサーバティズムを生み出したアービング・クリストルは(略)そうではないといっているのだ。(略)[近代主義]に反発したり、反応したりするのではなく、むしろそれを受け入れて、積極的に働きかけていく。それがネオコンなのだ、と主張している。
[アメリ社会主義化の先鞭をつけたとして保守が嫌うルーズベルトを修正資本主義でアメリカの近代過程を前進させたと評価]
(略)
シュトラウスによる近代批判を学ぶと、マルクスやポストモダニストによる近代批判は「近代主義のつまらない亜流」にしか見えなくなってしまうと、クリストルは言う。しかし、近代の欠陥にもかかわらず、現実の近代政治体制の選択としては「自由主義に基づく民主主義」しかない。それが現実的には最善の選択なのである。20世紀前半のナチズムのドイツを追われたシュトラウスにとってもそうであった。

ノーマン・ポドレッツ

[『メイキング・イット(成功する)』(1967)]
 「すごいひらめきを得た。負け犬になるより成り上がり者になったほうがずっといいのだ」。カネは重要だ。権力が欲しい。名声は「例えようもなく甘美だ」。
 ポドレッツは臆面もなくエゴを語り出す。(略)
[63年のエッセーでは]
「黒人が怖かった。心の底から憎んだ」
 黒人が迫害にあうのではなく、ユダヤ人やイタリア人移民が黒人の暴力にさらされて日々を送るブルックリンでの子ども時代をポドレッツは描く。体験から来る「恐怖と憎しみ」を告白するように語りながら、ポドレッツは人種差別問題の根源的解決法を探ろうとする。
(略)
「明晰さとは勇気だ。勇気とは明晰さだ」。若き日のポドレッツはそう言い、彼が引き起こす論争は、必ず核心に切り込んでいった。(略)
[反体制全盛の1967年]
多くの知識人がアメリカ的なるものすべてに敵意を示していた世相に対し、ポドレッツは真正面からもっとも「陳腐」なアメリカの価値観をぶつけてみた。カネ、権力、名声。これらを求める「成功欲」こそが、知識人さえも動かす「アメリカの現実」だと喝破してみせた。
(略)
ネオコン思想の力は、ニューヨークの下町のユダヤ人街(ゲットー)で生まれた若者たちが、家ではイディッシュ、公立学校では英語と二つの言語を使い、ユダヤ人の両親が求める伝統的生活と、自分が目指すアメリカ社会での中産階級としての生活とのギャップに苦しみ、父母と別れ、結局アメリカを選択する「過程」そのものの中にあった。1930、40年代のそうした「二重生活」は、転向前の彼らをさまざまな革新思想に惹き付けるとともに、革新思想の中にある権力構造にも敏感に反応させた。また、ユダヤ人としての自分たちの回りの環境を生み出した世界史にも目を向けさせた。

リチャード・ウィーバー「思想は必ず実を結ぶ」
大戦の無差別殺戮、原爆投下に至った道徳的崩壊の発端を14世紀オッカムにまで遡った

オッカムの唯名論が登場したことで、事物と名称の結びつきが「便宜」をもたらしたが、人の知力を使ってたどり着く「現実」は世界から消し去られてしまい、「感覚によってのみ感知されるものだけが現実となった」。それが「近代の頽廃」へと至る。
(略)
そうした近代批判の保守思想の著作だけで暮らして行けるはずもない。ウィーバーは、こつこつと教員の仕事を続けながら思索を続けていた。早逝後もよく売れたのは、本職の英語作文・修辞学の教科書だった。約二十年勤めたシカゴ大学では他の教授が嫌がる一年生の英作文教育を、死に至るまで「大切だ」といって続けた。立派な修辞学をきちんと学んで使うようになれば、人を「高貴な目標」に向かって動かすことができると信じていた。

ロバート・ニスベット

歩兵は平等だ。古い共同体でどんな役割をしていたにせよ、同じ衣服を着せられ、同じ食料をあてがわれ、同じような死を迎える。これほど“民主的”なことはない。
 「近代の民主主義というのは、革命によると同時に、(それに伴う)戦争そのものの中で誕生したといえる」。
(略)
「近代国家は戦争とその必要から生まれた。国家とはそもそものはじめから戦争遂行能力のひとつの制度化にほかならない」。
(略)
彼の批判の対象は「民主主義」の理念を掲げてアメリカを戦争国家に変えていったウィルソンであり、ルーズベルトであった

初期ネオコンと後期ネオコン

世代交代を明確に印象づけたのは(略)[マックス・ブート「ネオコンていったい何だ?」2002年]である。かつては、トロツキストだったり、リベラルだったり、民主党員だったりしたのが、「現実に圧倒されて」(アービング・クリストル)保守派に転向したのではない。自分たちはそうではない。はじめから保守であり、共和党支持だ。自分たちのテーマは「アメリカの理想をアメリカの力を使って広めることだ」と断言している。(略)
ブートの思想史的な意識では、ネオコンの源流は70年代後半の外交ネオコン((略)ポール・ウォルフォウィッツやリチャード・パールら)である。クリストル(父)やグレイザー、モイニハンらが60年代に内政への取り組みとしてネオコンサーバティズムの運動を始めた歴史はすっぽりと意識から抜け落ちている。