アメリカの政教分離・その2

前日のつづき。

宗派はいろいろあるけど、とりあえず公定宗教はキリスト教にしようじゃないかとパトリック・ヘンリーが法案提出、マディソンらの反対で通過せず

宗教の公定制は

優に15世紀にわたって実験されてきた。その挙げ句の結果とはなにか。「ほぼすべての地域で、司教のあいだには驕りと傲慢が、平信徒のあいだでは、無知と卑屈が、そして両者のあいだに迷信、頑迷、そして迫害がはびこった」のだ。もし、ヘンリーの法案が通過することでもあれば、それは「すべての国と宗教から迫害された人びとにとっての避難所であった」アメリカが「寛容な方針」から乖離することになる。(略)
 さらに、マディソンは、すべての他の宗教を除外したキリスト教の公定化は、「キリスト教のある特定の宗派を公定し他のすべての教派を除外する」ことにいつでもなりうる、と読者に訴えた。

1791年に諸州によって批准された修正第一条は以下の文言ではじまる。「連邦議会は、宗教の公定化、あるいは宗教活動の自由な実践を禁ずる、いかなる法律も制定してはならない」。
 これらの重要な文言が、その後200年以上にわたって最高裁やその他の法廷を支配することになるため、この意味合いを理解しておくことは肝要である。

宗教ポータビリティ制で勢力図激変

政府による認可も支援も受けない宗教。急激に拡大しつつあった国家で、これが実際にどう機能することになるのか、だれもがまったく確信をもてないでいた。長いあいだ公的支援になれてきた教派、たとえばニューイングランド会衆派教会、あるいはその他の監督教会派は、信教の自由という波風高い海に漕ぎだすにあたって、少なからぬ懸念と恐れをいだいていた。バプティスト派やそのころ結成されたばかりのメソジスト派など、他の教派は、おなじ荒波の大海が彼らを元気づけ、挑戦しがいのあるものとみていた。そして、信教の自由をチャンスと捉えた宗教団体は劇的な繁栄を迎えた。たとえば、1850年までに、メソジストとバプティストの教会数は、会衆派と監督教会派を加えた総数の七倍に達していた。アメリカの宗教の姿が急激に変化していたのである。
 この、教会の「新たな姿」をあらわすキーワードはボランタリズムである。政府の果たしえない、あるいは果たしたくないニーズをみたすために、19世紀初期には一連のボランティア組織が発足した。アメリカ聖書協会は開拓地帯やその他の場で、安価な聖書を広く行きわたらせた。

公定教会の土地の行方

(ヴァジニアの「教区教会領畑地」)は聖公会の主教と彼らの教会を援助するために、公定教会にあたえられていたものだった。公定制度が廃止された後これらの教区教会領畑地を監督教会の独占的な土地として残すべきか、それとも公共の土地としてあつかうべきか、という問題がもちあがったのである。(略)
 立法府は、このあとほぼ20年間以上にわたって、この件自体と、この件によってますます憤りを深めた大衆とたたかいつづけた。そして1802年、これらすべての教区教会領畑地は、州の全市民の利益のために売りつくすべしという命令をくだした。当然ながら監督教会は反発し、正義は立法府ではなく法廷によってもたらされる可能性があるという決定をした。1815年、最高裁判所ははじめてこの件(「テレット対テイラー」)について審査し、判断をくだした。それも修正第一条ではなく、「永遠の正義の原則」にもとづき、「アメリカ革命は、個人の市民的権利を破壊しなかったが、それ以上に団体の市民的権利を破壊することもなかった」とのべたのだった。
 合衆国連邦憲法は古き形式と新たなものとを明確に区別する、と思っていた人びとには、この判決は敗北であった。しかし、文化的あるいは法的な面でさらに遅れをとっていたべつの深刻な訴訟では、勝利が待っていたのだ。

ニューイングランドロードアイランドを除く)では、19世紀になってかなりたっても、会衆派教会が公定教会の地位を保っていた。それを問題視する声があがった。修正第一条承認後の1791年に、どうしてこのような事態がありえたのだろうか。ところが、この修正条項は「議会は……いかなる法律も、これをつくることはしない」と言っていることを思い起こさねばならない。たしかに、州が宗教の公定制度についてなにをしようがしまいが、修正条項はなにもいわなかったのである。だから、たとえばコネティカットでは会衆派教会はその当時でも税金で支援され、選挙日や民兵軍事訓練日などのほかに州の恒例事業のときには特権にあずかっていた。(略)
 ついに1818年、きわどい住民投票の結果、ジェファソンの政党がフェデラリスト党をしのいで多数派となり、それとともに教会と国家の最後の絆は断ち切られることとなった。喜んだジェファソンはジョン・アダムズにむけて、「この祭司の古巣はついに破壊され、プロテスタントによる教皇政治もアメリカの歴史と性格をこれ以上辱めることはない」と書いた。

モルモン教の複数婚

モルモン教徒は私有財産を蔑み、一種の共同生活をいとなみ、他の隣人からは離れて暮らしていた。さらに、あきらかにもっとも衝撃的だったのは、モルモン教の信仰は一夫多妻制を認めていたことである。教会設立当初の20年間、モルモン教徒はオハイオからミズーリ、さらにイリノイヘと迫いやられ、その地でジョン・スミスは1844年に暗殺された。1847年、モルモン教徒は最後の脱出を試み、ユタのソルトレーク渓谷に向かった。その地で、最初から彼らを苦しめた悪意と迫害から逃れることを願ったのである。
 ところが1850年連邦政府によってユタ準州がつくられたことで、合衆国がモルモン教徒を忘れようとはしていないことが明らかになった。
(略)
「人は自分の宗教上の信条のゆえに、[法律に違反するような]自分の行為を許すことができるのだろうか」。[最高裁判事]ウェイトの答えはノーである。「これを許してしまえば、国の法律よりも告白された宗教的信条が上位に置かれることになる。その結果、市民一人ひとりが自分にとっての法律となることを許してしまう」と断じた。
(略)
モルモン教会がこの制度を明確なかたちで廃止するまで、ユタは合衆国への参入を許されなかった。しかも、それが許されたのは1896年のことであった。

ここまでで三分の一、残り20世紀に入ってからの話とか、学校と宗教とか、あるのですが、メンドーになったのでこれで終了。