少女たちの魔女狩り

kingfish.hatenablog.com

少女たちの魔女狩り―マサチューセッツの冤罪事件

少女たちの魔女狩り―マサチューセッツの冤罪事件

土地所有権喪失の危機と悶々十代娘

セーラム村では1691年から92年にかけての冬に、まだ結婚も婚約もしていないティーンエージャーの娘がたくさんいた。ピューリタンは何につけてもまじめだったから、全く当然にも結婚を非常に重大なことと考えており、ひどく若いうちに結婚するのは賛成しなかった。だから16、17、時には20歳になっても夫も婚約者もいない娘が何人もおり、この子たちには抑圧された生命力、あらゆる方向への欲求と衝動がみなぎっていた。村の生活にはそれらのはけ口は何もなかったのだ。
この年の冬の生活は特別気をめいらせるものだった。マサチューセッツ湾植民地には災難があとからあとからつづいてやってきた。天然痘の流行。フィリップ王戦争の開始時を思いおこさせる恐ろしいインディアンの襲撃。さらに、ニューイングランドが特許状の下に享受してきた独立に近い状態を永久に失ったことがますます確実になってきていた。神はかつて彼らを選んだのだが、今彼らは選ぶに値しない存在になっており、明らかに神は彼らから顔をそむけてしまったのだ。信心深い人たちは、自分たちの心情の中に---そして隣人たちの行為の中に---神のこの心変わりの原因があると信じ、それをさがし求めつつあった。最後の審判の日がさし迫っていると本気で信じている人がたくさんいた。あらゆる徴候が、それはこの世紀の終りにくることをさし示していた。悔い改めよ、神の国は近づいている、と彼らは叫んだ。(略)
その土地所有権の危機がやってきたのは、1684年に特許状が効力を失ったときからだった。(略)
セーラム村のティーンエージャーたちが、こういうむずかしい政治的な事柄をどの程度まで理解していたかはよくわからない。しかし彼らにしても、もしも特許状がほんとに無効になったら自分の国に何がおこるかとだれもかれもが心配しているのを、感じないではいられなかったことは確かだ。もっと年上の人たちは、何世代にもわたるつらい労働によって切り開かれ耕された畑を見回しながら、せっかく神の恵みと自分たちの苦労によって自由土地保有者になったのに、ひょっとすると一種の奴隷状態にまたおとされるかもしれないことを知っていた。

地獄落ちの運命に憐れみは無用

[母とともに『ヨハネ黙示録』を熱読していたアン・パトナム12歳]
もう一つ彼女の研究の対象になったものは、もちろん、マサチューセッツの初期のベストセラーの中で最も象徴的な本、ウィッグルズワースの『最後の審判の日』だった。この本からアンは、強烈で断固たるカルヴィニズムの正義感を吸収した。彼女にはっきりわかったことは、神自身が地獄落ちの運命に定めた人々には何の憐れみもありえないこと、地獄落ちに定められた人にとっては地獄はじつは慈悲、最も尊い神の慈悲にほかならないことだった。こういう考え方をこれほど文字どおりに信じるよう育てられた少女が、何かの加減で地方の審判の日に証言するよう求められたとしたら、彼女の神より多くの憐れみを示すようなことは、まず考えられなかっただろう。

憐れみはピューリタンの徳ではなかった。

仕事に精を出し、信心の深さを、それの報奨として与えられた財産によって測る習慣になっていたピューリタンー般にとっては、貧乏人はほとんどがまんできないものだった。神の応報には目こぽしは全くないから、たとえば歯が痛む人は、きっと自分が歯を使って罪を犯しているところを神にみつかったのにちがいないとさとることができる。神がセアラ・グッドに貧困を課したのは正当な理由があるのにちがいない。そして神の意思を疑ぐるのは信心深い人のすることではない。

女性のティーン・エージャーたちの天敵は、

彼女らより年上の既婚婦人と未亡人だった。そういう人たちの多くはがっしりした田舎婦人で、重い荷物をもち上げたり、泥の中に大い足をふみこんだり、牝牛の出産や豚の屠殺を手伝ったりするのはお手のものだった。尻は大きく、手はがさがさで、生きるぎりぎりのところで暮らしているため、時には言葉も荒っぽかった。後世のとりすました、口のうまいピューリタンというカリカチュアは、まだ思いつかれていなかった。セーラム村の田舎婦人には、ヴィクトリア朝風の要素〔尊大、お上品ぶり、因習墨守、偏狭など]は何もなかった。(略)
「もうおしめをしている年ごろじゃないだろうに」。「このふしだら娘も男ができたら落ちつくだろうさ」。そんな評言は、当の若い娘たちにとってがまんできないプライバシーの侵害だった。

名士とはいえ頑固で独善的なマーサ・コーリーは魔女騒動に懐疑的であったため当初から怪しいと噂されていた。そこへ少女たちの告発。それでも事を穏便にすませようと尋ねた二人に対し。

チーヴァーとパトナムはこの女性を眺めているうちに、だんだん嫌悪感が高まっていった。それまでは、彼女の側にも言い分があるだろうと思い、悪い噂に対する疑念がなくはなかったのだが、彼女の侮蔑、彼女のたちの悪い予知に出会って、それもすべて消えつつあった。今の彼女の正義漢ぶりは彼らには鼻持ちならなかった。その上なんと、まだ十分ではないとでもいうのか、マーサはまぎれもなく瀆神的な言葉を吐いたのだ。
「私は魔女がいるなんて信じませんよ」。(略)
[あの三人と私を一緒にしないでとマーサ]
「そうね、もしあの人たちが魔女なら」と彼女は相変わらず、見る人をいらいらさせる微笑を浮かべながらいった。「あの人たちを魔女にしたからといって、私は悪魔を責める気にはなりませんね。なぜって、あの人たちは横のものを縦にもしない怠け者で、よいことをしようなんて、これっぽっちも考えなかったのですからね」。でもそういう人が私と何の関係があるのか、信仰告白者で、福音を伝える女性であるこの私と? そう彼女は高飛車にいい放った。
「ふん、うわべだけの信仰告白ではあなたは教われませんよ!」
訪問した二人はかんかんに怒って彼女のもとを去った。それは彼らが前もって恐れていた事態よりはるかに悪かった。彼らはもう彼女に何の同情も感じなかった。教会の幹からこのくさった枝を切りとるべきだ。それは早ければ早いほどよい。あきれたことだ、彼女はセアラ・グッドより悪い。オズバーンより悪い。あとの二人は、悔い改めはしなかったけれども、魔女が存在することを否定したりはしなかった。セーラム村のどこをさがしても、これほど正真正銘の無神論を言ってのける人は一人もいない。
3月19日に、マーサの逮捕状が宣誓の上で出された。

境界線の消滅

魔女騒動に巻きこまれて、尋問されると、私は悪魔をつれこむのに一役買い主したというような自白をする単純な人々がいたのだ。(略)
この時期にあっては、自分の隣人、自分の妻、自分の母、あるいはその点でいえば自分の分別さえも、あえて信用する人は、勇敢な人---さもなければ何も考えない鈍い人---だったのだ。悪魔はマサチューセッツで、事実と幻想を区切る境界線を消してしまっていた。もはや両者を区別することはできなかった。両者がちがうものだという意識すら、忘れられつつあった。
この時期には、虫にかまれただけでも命に関わるかもしれなかった。悪魔がその虫の中にいるかもしれず、それが残したマークは、使い魔が吸いつく場所だった悪魔のマークと同一視される可能性があったからである。今では魔女だけでなく男の魔法使も存在したから、若い娘たちは夢のうちにインクブスに犯されて悪魔の子を生むことになりはしないかと、びくびくしながら暮らしていた。

没収された財産を返還してもらえなかったフィリップ・イングリッシュの恨み。そしてナサニエル・ホーソーン誕生。

治安判事ジョン・ホーソーンを彼は死ぬ日まで憎んだ。死の床ではじめて彼は、魔女騒動のころホーソーンが加えた侮辱を許したが、それも心からではなかった。「もしも私のからだがよくなるものだったら、金輪際あいつを許すもんか!」 幸いなことに彼は、後に自分の血筋が憎悪の的であるホーソーンの血筋に合流して、ホーソーンの姓を名乗るようなことになろうとは、夢にも気づかないで死んだ。彼の唯一の嫡出の息子は、彼よりも前に死んでいた。しかし五人の娘が残り、その一人は、父が怒って禁止することがなかったので、詳しい事情を知らずに治安判事ホーソーンの息子の一人と結婚した。こうして綴りにWを加えた一家系が成立し、やがてそこに、はるかなる妖術の青白い開花、魅せられたナサニエル・ホーソーンが誕生した。そしてこんどはナサニエルセーラム町とセーラム村のたどった道を歩むだろう。そして幽霊たちがいつも彼につき添い、目には全く見えないものの、彼の目尻のむこうにはいつもひそんでいるだろう。だが彼はそういう幽霊を紙の上にピンで止めて、一種の文学的な信じやすさをもって点検するだろう。なぜなら彼とコットン・メーザーにはかなり似たところがあるからである。芸術家に、魔女は存在しないと説教したところでまるでききめはない。芸術家の呼吸そのものが、妖術的、魔法的なのだから。