インドとビートルズ その2

前回の続き。

『サージェント・ペパーズ』、「ハレ・クリシュナ

ビートルズを再始動させることができるのは、ポールしかいなかった。(略)

アフリカのサファリ旅行からロンドンに戻る機内で、彼は次のアルバムの斬新なアイディアを思いつく

(略)

ビートルズでいることに、僕らはうんざりしていた。(略)

突然、飛行機の中で思いついたんだ。僕らでいるのをやめてはどうかって。(略)別の自分たちを作ったらどうかって。別のバンドとしてのペルソナを実際に演じることほど、面白いことなんて無いよね」

(略)

ポールの奇怪な計画は(略)サイケデリックのもやのなかからジョンを引っ張り出すことには、成功する。ジョンは、カッカした雄牛のように猛烈な勢いでもやのなかから出てきて、その頃何度も体験したアシッド・トリップが、彼のクリエイティブな才能を蝕むどころか、むしろパワーアップさせたことを証明してみせる。ニューアルバム『サージェント・ペパーズ』のために、最初にレコーディングした "Strawberry Fields Forever" は(略)彼が過去の人ではないことを証明した。

(略)

『サージェント・ペパーズ』を、他のメンバーと違いジョージは、冷めた目で見ていた。(略)

 「組み立て作業のようになってしまったんだよ。細かい部分があるだけで、オーヴァーダビングを重ねて――僕にとっては少し疲れる作業で、ちょっと飽き飽きしてしまった。楽しめる瞬間も何度かあったけど、全体としては、あのアルバム制作を楽しむことはできなかった。インドから戻ったばかりで、僕の心はまだインドにあったから」

 

 ジョージがアルバムで興味を示したのは唯一、自身の書いた "Within You Without You" だった。

(略)

 『サージェント・ペパーズ』に熱心にならないジョージに対し、次第に耐えきれなくなっていたポールとジョンであったが、シタールの演奏に向けたジョージの情熱と、"Within You Without You" の際立つクオリティには感心する。(略)ジョージが初めてビートルズの曲から2人を閉め出し、インド人音楽家たちにスタジオを占拠させたことも、気にならないように見えた。

(略)

 一九六六年、ヴィシュヌ派のインド人予言者スワミ・バクティヴェーダンタ・プラブパーダが、ISKCON(イスコン)と呼ばれるクリシュナのカルトを設立して西洋に旋風を巻き起こし、印象的な「ハレ・クリシュナ」のチャントで、何千人もの若い男女をとりこにする。スワミは、クリシュナ神の名を唱え続けるだけで、信者は神と直接繋がることができると断言していた。このチャントのレコードを偶然手にしたジョージは、あっという間に心を奪われる。ジョンにも聞かせると、彼もまた「ハレ・クリシュナ、ハレ・ラマ」と、催眠作用のある抑揚で繰り返し唱えられるマントラに魅了される。

(略)

2人のビートルにとって「ハレ・クリシュナ」のチャントは、まるで神へと繋がる魔法の階段のようだった。(略)ジョージとジョンは、会う度に一緒にマントラを唱えるようになり、LSDの初体験を一緒に行ったことで得られた絆に加え、2つ目の繋がりができた訳だ。

 例えば、七月、絵のように美しいエーゲ海に滞在した際にも、2人はLSDマントラを一緒に楽しんだ。島を買って自分たちの王国を作るという、奇怪な計画(後に失敗に終わる)のために、ビートルズギリシャに行ったのであった。「(略)最高の旅だった。ジョンと僕はずっと、アシッドでハイになりながら、船首に座ってウクレレを弾いた。左手にはギリシャ、右手には大きな島が見えた。太陽が輝いていて、僕らは何時間も『ハレ・クリシュナ』を歌った」。

ポールがLSDを絶賛、ジョージは拒否宣言

ポールが他のメンバーとの絆をより強くしたのは一九六七年三月、2度目のトリップの時(略)『サージェント・ペパーズ』をレコーディング[中](略)間違えてLSDの錠剤を飲み(略)ラリっているジョンは、レコーディングなぞ到底無理な状態で、ポールが自宅に連れて帰ることになった。

 

 「今こそ、彼と一緒にトリップすべき時が来たと思った。いつかこうなるんじゃないかと、長いこと思っていた。ジョンと一緒にトリップするのは初めてで、他のメンバーの誰ともしたことがなかった。だらだらと一晩中起きていて、何度も幻覚を見た。その間ジョンは、とても謎めいた雰囲気で座っていて、僕は、彼が王様になる大きな幻覚を見た。彼は、完璧な未来永劫の皇帝だった。いいトリップだったよ」

 

(略)

数ヶ月も経たないうちにポールは(略)LSDを数回摂取し、とてもそれを気に入ったと語る。「摂取したら、目が開かれた。我々は、脳の十分の一しか使わない。考えてみなよ、隠された部分をコツコツ叩いたら、みんなどれだけのことを成し遂げられるかってね!全く新しい世界が開ける。政治家がLSDを摂取したら、戦争も、貧困も、飢餓も無くなる」。

(略)

[反対に]熱心にトリップし続けていたジョージが、八月の第一週、アメリカ滞在中の予期せぬ出来事から、突然ハード・ドラッグを拒否するようになる。

(略)

彼がアメリカを訪れた主な目的は、ロサンゼルスでヒンドゥスターニー古典音楽のコンサートを開催するラヴィ・シャンカルと仲間の音楽家たちに会いに行くことだった。何公演か観て、ラヴィ・シャンカルに会いに、ロサンゼルスにある彼のキンナラ音学院を訪れた後、ジョージはパティと、ロサンゼルスに住む彼女の妹ジェニファーを連れて、噂で散々聞いていたヒッピー文化の世界の中心地ヘイトアシュベリーに行くことを決める。そのわずか数日前には、麻薬や薬物を嫌悪していることでよく知られるラヴィ・シャンカルとの共同記者会見で、今後を予感させるような発言をジョージがしている。「はっきりと言わせてもらいますが、ドラッグが答えではないことは、皆さんにとって自明のことと思います。分かっていることですよね、そうじゃないですか?だから、できるだけドラッグを使わないで済ます方がいいんです。そうですよメね?」彼がこう主張する横では、シタールの巨匠が満足げにうなずいていた。それでもジョージは、ドラッグとフリー・ラヴの中心地偵察の旅を始めた時には、ミッションに適したサイケデリックな服装をしていただけでなく、多量のマリファナとアシッドで武装していた。ところが、だ。

ヘイトアシュベリーの通りを歩いてみると、自分自身がとてもハイになっていたにも関わらず、フラワー・チルドレンのいかがわしくて汚い暮らしぶりを目にして、彼は嫌悪感を覚える。ジョージが見慣れていたロンドンのアシッド・カルチャーは、インテリと富裕層が、自宅やクラブで隠れてたしなむ、優雅な娯楽だった。ヒッピーの聖地を歩き回りながら、彼は汚れてみすぼらしい男や女、子供たちに囲まれる。

(略)

[一緒にいたパティ]が見たのは、「学校をドロップアウトした顔色の悪い子供や、路上生活者、怪しい若者が大勢いて、みんな正気を失っている」状況だった。

(略)

[ジョージが勧められたSTP(強力なLSDの一種)を拒否したことで、群衆の崇拝が敵意に反転]

走って追いかけていた群衆が、車を揺さぶり始め、窓ガラスに顔を押しつけてなかを覗いた。とりわけジョージにとっては、この体験はトラウマとなる。なぜなら、暴徒の脅威が絶え間なくバンドにつきまとった[ツアーの悪夢を思い出させたから]

マハリシ登場

 驚くことに、ビートルズを次の大きな波に導いたのは、ジョージではなくパティだった。(略)[夫と共に全身全霊でインドを受け入れ、夫には内緒で]

精神復活運動に加わる。精神復活運動は、内なる平安と精神の救いを約束する、超越瞑想と呼ばれるものを教える教室を、毎週ロンドンで開いていた。

(略)

ジョージがアシッドを止める重大な決心をしたわずか数日後、パティが興奮気味に、その月の後半、マハリシが街にやって来ることが新聞で発表されたと言う。(略)一緒に誘われたポールも、子供の頃にテレビ番組で観たグルを思い出し、驚くことに乗り気になった。何か新しいことを始める気満々であったジョンも、やはり熱意を示した。当時妊娠中であった妻のモーリーンの側にいたリンゴだけが、行けるかどうか不確実だった。

(略)

[マハリシの]生まれた日付と場所には、様々な説がある。(略)地元の税務調査官の息子として生まれたと断言する人々がいる(略)父親は林野部の役人で、比較的裕福だったと言う証言もある。彼の名前もまた、一貫性がない。(略)

前半生について聞かれると、彼は決まって「僧としての誓いを立てた者は、過去のことは思い出さないものです」と答えている。

(略)

マハリシは、比較的短期間のうちに、こっそりシャンカラチャリヤの部屋を掃除する存在から、彼宛に来た手紙を読む係になり(略)遂には個人秘書に上り詰める。数年の間に(略)彼が公の場に姿を現す際には(略)場を仕切るようになった。(略)

大学を出たばかりの物理専攻の若者が――ましてやヒンドゥー信仰の教育など受けたこともなく、最高位の予言者の1人に近づくことができたのは、驚嘆に値する。

(略)

いつかスピリチュアル指導者として独立した道を歩めるよう、マヘーシュはグルからありったけの知識を吸収した。

(略)

 グル・デヴは、この秘密の瞑想の形式に再び焦点を当てるために自分を選んだのだと、マハリシはリューツに教えた。

(略)

 面白いことに、マハリシは最後まで、彼のグルに何を教わったのか、話したがらなかった。どのような手順でマントラを考案しているのか質問されると、はぐらかすのであった。

(略)

どんな瞑想の技術を使っているのか、もっと詳しく説明するよう迫られると、毎回マハリシはブツブツと口ごもった。

(略)

 一九五三年夏にシャンカラチャリヤが亡くなると(略)[マハリシは]直ちにジョティルマスを離れる。(略)シャンカラチャリヤのおかげで権力を振りかざしていた彼は、ブラフミンの聖職者の間で敵を大勢作っていたに違いない。

(略)

 注目すべきは、マヘーシュ・ヨーギーが自分を独立したグルとして見せることを、あからさまに避けていたことだ。その代わりに彼は、伝道師として自分のグルであるブラフマナンダ・サラスワティの知恵を説いていると自分を紹介した。

(略)

次々と現れる登壇者が、アディ・シャンカラとブラフマナンダ・サラスワティを手短に讃えた後で、ヒマラヤから来た僧を天まで昇るほど褒め称え、全員が舞台上から彼を、マハリシであると宣言した。

(略)

ヒンドゥー教が科学的に有効であると説明しながら、マハリシは、誰もが受けることのできるスピリチュアルな至福への、手っ取り早い方法を次のように提示した。それは、物質的快楽を放棄する必要は全く無く、オーダーメイドのマントラをチャントすることが基本となる。他の僧が信者に処方する、スピリチュアルな悟りへの複雑な道のりや、厳しい肉体鍛錬とは著しく異なり、マハリシが約束したのは、人々が日々の問題に対処するための、手軽で体のいい解決方法だった。

(略)

何世紀も信心深さが自己否定と同義であるこの古い国にとっては、いささか過激過ぎることを思い知らされることになる。二年間の広範囲に及ぶ遠征と、国の様々な地方での会議をもってしても、深い瞑想のマントラ・プログラムに入門したのは、わずか数千人に過ぎなかったのだ。

(略)

一九五〇年代のインドのような発展途上国では、圧倒的多数の人々が、物質的快楽を拒否することにより信心深くなれるという、昔からの教えにしがみついていた。つまるところ、それは貧困に陥っている無数のインド人にとって、避けられない貧しさを美徳に代える、都合のいい教えだったのだ。

(略)

 一方で、消費者向けの商品が劇的に増え、豊かさが爆発した一九五〇年代半ばの社会を生きていたリューツのようなアメリカ人にとっては、マハリシのメッセージと彼のやっていることは、解放感を味わえる非常に革新的なものであった。

(略)

マハリシはこう言った。必要なのはこれだけ――朝と晩に三〇分ずつ、座って目を閉じ、自分の教えた通りの瞑想をしなさいと。

(略)

もっと受容力のある聴衆を異国に探しに行くことになった

(略)

マハリシの最終目的地はアメリカであったが、資金が足りなかったので(略)信奉者の1人が、ビルマのラングーンまでの片道航空券の代金を出し、そこからマハリシは、チケットを買ってくれる人に頼る旅をのろのろと進め、極東の様々な都市――シンガポール、クアラルンプール、香港――を旅しながら、遂に(略)ハワイに到着する。

(略)

 一九五九年四月、インドを出発してからちょうど一年、マハリシは(略)ロサンゼルスに到着した。(略)

(略)

サンフランシスコからロサンゼルスへの機内では、隣に座る女性にロサンゼルスで講義を行おうと思っていることを伝えると、彼女は、夫が大きなホールを持っているからと、ボランティアを申し出た。なんとそのホールは、ハリウッド俳優に人気のマスカーズ・クラブであった。このクラブでマハリシはチャーリーとヘレン・リューツ夫妻に会い、彼らはそれから数十年間、最初にアメリカ、後に世界中に精神復活運動を広めるうえで、中心的な役割を果たすようになる。

(略)

 マハリシは自身のスピリチュアルな教えを、アメリカの聴衆に合うように大幅に変え(略)ヒンドゥーの信仰と哲学にまつわる基本的な指針と信条から、どんどんかけ離れていった。

(略)

一九六〇年初めまでには、「悟り」それ自体について公然と話すことを止め、代わりに「超越意識」に気づくことをマハリシは目標に掲げ出す。とても賢いことに彼は、六〇年代初期にアメリカ人の関心を占めていた主な2つのこと――競争の激しい社会で成功者となった場合に対処するための活力をもっと得るにはどうしたらいいか、と同時に、内なる緊張を緩め、自分自身と安らかな調和を保つためにはどうしたらいいか――に焦点を絞るようになる。マハリシは、自身の提供する消化されやすいマントラを飲めば、両方の問題があっという間に解決すると主張。

(略)

 インドと極東では、無料で追随者にイニシエーションを施し、マントラを与えていたマハリシであったが、アメリカの地に踏み入れた途端――まずハワイで、金を取り始めた。集金を儀式にした彼は、白いハンカチ、果物を何個か、一週間の収入を捧げる者には、秘密のマントラを与え、肉体の健康と精神の至福を約束した。資本主義社会の中心地では、金が全ての価値を決める重要な尺度であると、このヒマラヤからやって来た僧は、正しく見定めたのであった。

 アメリカに渡ってから数年もすると、マハリシの元に社交界の有名人が集まるようになる。

(略)

とどめは、ナンシーがマハリシに紹介した、タバコ産業の相続人ドリス・デューク(略)若くして一億ドル近くの遺産を相続した彼女は、しばしば「世界一裕福な女の子」と呼ばれていた。

(略)

「あなたの財産の多くは、タバコ産業から来ているとナンシーから聞きました(略)タバコは、生命に危険及ぼす植物です。それを他の人に売る人に、悪いカルマをもたらします。このカルマを相殺するため、自分のお金で生命の発展を助ける行いをしなければなりません」。(略)

何ヶ月かすると、一〇万ドルの大金がドリス・デュークの慈善信託から精神復活運動に献金され、マハリシアメリカ人信奉者を大喜びさせる。それまでマハリシの受け取った最も高額な献金で、彼の念願の夢だった新しいアシュラム(マハリシだけのための豪華バンガローも含む)を、リシケシュに建設することを可能にした。

(略)

一九六七年八月にビートルズに出会った時点で、マハリシは一〇年近く西洋に住んで[おり、西洋の聴衆にどうやって]メッセージを売り込めばいいかも分かっていた。

(略)

ビートルズが目の前で深いトランスのような状態に一〇分間陥るマハリシを見て、非常に衝撃を受けたともブラウンは回想している。

(略)

 詠唱できる魔法の言葉――霊媒ドリームランドに飛ぶことができる、神秘のトランスを与えることのできる聖人。とりわけジョンは感情を揺さぶられていた。彼は遂に見つけたのだ!鍵となるもの、答え、ずっと探していたものを!次の大いなるものを!

(略)

マハリシビートルズに「あなたがたは、自分たちの名前を通して、魔法の空気を起こしました。その魔法の影響力を行使しなければなりません。あなたがたには、重大な責任があります」と告げる。マハリシのスイートルームを出たジョンが報道陣に言うことができたのは、「まだ呆然としている」だけだった。

 マハリシに会って興奮しているのは、ジョージとジョンだけでなく、ポールも同様だった。(略)

マハリシはまた、「(略)明日、北ウェールズのバンガーにある私の瞑想学校の1つに来なさい。列車のどこかにあなたがたの席を設けますから」とビートルズに告げた。

(略)

側近やボディガードを従えたリムジンに乗り込んだのではなく、ビートルズとして単独で初めて、公共の電車でユーストン駅から出発したのだった。

(略)

 ハンター・ディヴィスによれば、人にもみくちゃにされるのを恐れて、一行はトイレにも行かず何時間も座席にじっとしていた。(略)誰も一銭も持っていないようだった。全員、マハリシが何と言うのか気にしていた。マハリシは今までにも会ったことあるようなタイプで、ただ異なる次元に属しているだけかもしれない、とジョンが言う。「分かるだろ、EMIもあれば、デッカもあるけど、どれもレコードには変わりない」。

 一方でジョージは(略)自分はそうは思わない、今度こそ本物だという確信があると言った。ミックは静かに座り、真剣な表情をしていた。ジョンは、ビートルズとして働き続けるのをやめることができるから、インドに行って残りの人生を洞窟の中で座って過ごすようにマハリシに言われたいと言う。「でも、彼はそんなこと言わないよ、きっと。あっちに行って "Lucy in the Sky with Diamonds" を書け、と言われるだけさ」。

 ビートルズは、ようやくマハリシのコンパートメントに入る決心をする。マハリシは彼らと雑談しながら、ものすごい勢いで笑った。(略)自分の瞑想は一度学べば、毎朝三〇分だけの実践でいいのだ(略)銀行のようなものだ(略)金を持ち歩く必要はなく、欲しいものを取り出すために時々ぱっと寄ればいい、と言った。

 「もし強欲だったらどうするのですか?昼食の後で三〇分瞑想し、夕食の後でまた三〇分こっそりやったら?」とジョンは聞く。みんな大笑いし、マハリシは、今度は笑い過ぎて天井に頭を打ち付けそうになった。

 バンガー駅に着くと、巨大な群衆が一行を待ち構えていた。

(略)

[突然の招待で]滞在場所を特別に用意する時間が無かった。そのため、夜になるとビートルズは(略)一般会員と同様に、大学の学生寮に泊まった。「ビートルズにとっては、これが余計に冒険心をくすぐり、昔のような仲間意識の温かい波が、彼らを覆った」と、ブラウンは記す。

(略)

 バンガーに集結した大勢の報道陣は(略)[これが]バンドの宣伝活動の一環なのか、何か重大な新事業なのか、最初は分からないでいた。それでも記者たちは、ビートルズが記者会見を開き、驚くような発表をしたため、じっと彼らを見守らざるを得なくなる。ビートルズは、ドラッグをやめると宣言したのだ。(略)体内に異物が入っていると、スピリチュアルな調和を得ることが不可能である[から](略)ドラッグを全てあきらめることにした、と

(略)

そのニュースは人々に大きな衝撃を与えた。(略)

ビートルズは一九六〇年代半ばのドラッグ・カルチャーに深くはまり込んでいると、世間は認知していた。何しろ、サイケデリック・ロックの象徴として称賛された『サージェント・ペパーズ』がリリースされたのは、ほんの数ヶ月前なのだから。

(略)

[だがさらにドラマチックな事件が起きる]

エプスタイン死去

マネージャーは、バンドにもはや必要とされていないのではないかと不安にさいなまれるようになる。それでも、ボーイズとマネージャーの間の感情の上での絆は、強かった。(略)

インド人グルに夢中になっているビートルズに同調さえもし(そのふりをしていただけかもしれないが)、バンガーに行ってマハリシのイニシエーションを受けると約束していた。

(略)

 奇妙なパラドクスとも言えるのは、エプスタインの方は、ビートルズの1人1人が今何をやっているのか、必ず詳しく知ろうとしたにも関わらず、ビートルズの誰1人としてマネージャーの私生活がどうなっているのか知らず、また知ろうともしなかったことだ。全員、エプスタインがゲイであること、かなり荒っぽい客をボーイフレンドにしていたことも知っていたが、誰も彼が何度も脅され、脅迫状を送られ、金品を奪われ、暴行さえ受けていたことを知らなかった。ボーイズは自分たちの生活と、当然のことながら音楽で頭がいっぱいで、マネージャーが大量の酒とともに憂慮すべき量のドラッグや錠剤を摂取していたことに気づいていなかった。ただ時折、"やり過ぎの"エプスタインと、冗談にするだけだった。(略)

[2度の自殺未遂で]エプスタインが問題を抱えていることに気づいてはいたはずだが、彼が崖っ縁に立っていることを知るよしも無かった。そのため、ドラッグの過剰摂取でエプスタインが死んだ(略)との知らせがバンガーにいるビートルズに届くと、彼らは大変なショックを受ける。

 エプスタインの死をより一層不気味なものにしているのは、ビートルズが新しい精神上のグルを信頼するようになったばかりの瞬間に、起こったという事実である。

(略)

秘密のマントラをもらって二四時間も経たないうちにマネージャーが亡くなったことにより、新たな興味の対象に過ぎなかった超越瞑想が、マハリシへの絶対的な信頼へと彼らの中で変化する。このことが大事なきっかけとなり、インドにあるマハリシのアシュラムに、ビートルズが半年以内に足を向けたのは、間違いない。

(略)

[パティ談]

「ブライアンが亡くなり、ビートルズは途方に暮れました。みんなぶるぶると震えていました!

(略)

ブラウンによれば、ボーイズは混乱しているように見え、両親が突然消えてしまった小さな子供のように、その時、理に適った権威的存在に見えた人物――マハリシに、慰めと導きを求めた。

(略)

彼は、物質世界と精神世界の違いを短く説いてみせた。驚くことにマハリシはまた、1人1人に美しい花を持たせ、手のひらで握りつぶし、その美しさがいくつかの細胞と水でできた錯覚に過ぎないことを教える。

(略)

 突然のエプスタインの死に最もダメージを受けたのは、ジョンだった。(略)

マイルズは次のように回想する。

 

 普段のジョンは、ビートルズの中で一番シニカルで傷つきにくいように見えたが、ブライアンの死により彼はすっかり自信を失っていた。何年も後に、彼は(略)こう語っている。(略)すごく怖かった。『もう一巻の終わりだ!』と思ったね」

 (略)

ミックはそつなく沈黙していたが、ガールフレンドのマリアンヌは、公然とマハリシに敵意をむき出し、悲劇を軽いものにしようとする、マハリシの手口を非難した。

 

 「私からすれば、マハリシのやり方はとても悪く、ひどく不謹慎です。(略)

ブライアン・エプスタインは、次に移った。彼はあなたたちをもう必要としていない。あなたたちも、彼を必要なくなった。彼はあなたたちにとって父のようだったが、もういない。これからは私があなたたちの父親だ。今からみんなの面倒を私がみる』だ。もうぞっとした!」

(略)

ビートルズが孤児となってから四日後の九月一日、バンドはセント・ジョンズ・ウッドにあるポールの家に集まり、ブライアン亡き後の人生について話し合った。(略)バンドの責任者としての役割を早々に受け入れたポールの発案だった。(略)

「誰も決して、ブライアンの代わりにはなり得ない」とポールが言い続けていたと、ブラウンは回想しつつ、おそらくポール以外はね、と皮肉を付け加えている。

(略)

[ポールは『マジカル・ミステリー・ツアー』を提案]

 ポールのプロジェクトに全く関心のないジョージが、瞑想コースを続けるため、すぐにでもマハリシのアシュラムに出発した方がいいと提案するも、誰からも賛同を得ることはできなかった。(略)

 ここで重要なのは(略)ジョージに、ジョンが全く同調しなかったことだ。年上のビートルは、エプスタインの死に打ちのめされるあまり、その時点では、バンド内で主導権を握る状態にはなかった。

(略)

 ジョンは、『マジカル・ミステリー・ツアー』が見当違いのばかげたプロジェクトだとしても、今のバンドにとって必要なものだと感じていた。

反体制派のマハリシ批判、ヨーコの存在

政治的に過激で極めて反体制である若い世代と、それに付き合う準備の出来ていないマハリシとの間で、信条をめぐり決定的に対立することもあった。(略)

[欧米中の若者が、「覚醒し、波長を合わせ、ドロップアウトしろ」]と呼びかけるLSDの高僧リアリーのスローガンにしびれていた時期だった。一方のインド人グルにとって(略)フラワーパワーは、受け入れ難い考え方だった。

 ドラッグの使用に反対するマハリシは、「両親に従わなければいけません。彼らは、何が最善か知っているのですから」とアドバイスした。彼はまた核軍縮に反対でベトム戦争に賛成していた。(略)

[学生が]仲間の人間を殺さないように兵役を拒否した方がいいかと聞くと、「我々は、国の選ばれた指導者に従わなければなりません。彼らは人民の代表で、より多くの情報を持っていて、正しい判断を下す資質があるのですから」と彼は答えた。

(略)

 保守系主流メディアは(略)マハリシの体制寄りのメッセージを称賛する。対して急進的なメディアは、インド人グルへの敵対心を次第に強め(略)相当数の媒体が、マハリシの実体は、いかさまを働く詐欺師だと指摘した。

(略)

 面白いことにビートルズは、自分たちのスピリチュアル・グルが、当時欧米社会を席巻していた反乱の動きと完全にずれているというパラドクスを、あまり気にしなかったようだ。(略)

ジョンとジョージは、マハリシの約束するスピリチュアルな至福に夢中になるあまり、彼が、政治的に正しいかそうでないか、気に掛けることもしなかったのだ。マイルズは(略)マハリシが自分を聖職者であると偽っている(略)インド人の右翼政治家と関係があるかもしれないと警告するが、ジョンは聞く耳を持たなかった。グルがビートルズを使って金儲けを企んでいると告げられると、ジョンは「有色人種野郎に、俺の金で黄金の城なんて建てさせるつもりはない!もしお前がそう思ってるならな!」と怒鳴ったそうだ。(略)他のヒンドゥーのスピリチュアル指導者らが、マハリシが商業目的で信仰を利用していると批判していると、マイルズが指摘すると、「彼が商業的だからってなんだ?僕らは世界一商業的なバンドだ!」と言い返す。

(略)

[マハリシビートルズ出演を餌にABCと特番制作の交渉をしていたことが発覚]

「彼は現代人じゃないんだ(略)こういったことを理解できないだけさ」。ジョージは許そうとしていたが、鋭いポールはマハリシビートルズを利用して(略)いることに気づいた。(略)

ポールは『マジカル・ミステリー・ツアー』がテレビ的に惨敗に終わり、バンド内で(略)劣勢に転じていたのだ。とりわけジョンは、過去一年の間に(とりわけエプスタインの死後)ポールが、他のメンバーにあれこれ指図してきたことに腹を立てており、彼の独りよがりなプロジェクトが失敗したことを公然と冷笑していた。2人の間の力関係は、またしても逆転したのであった。(略)

それに加えポール自身も、バンドが一緒に休暇を取り、リラックスした状態で事態を把握する必要があると感じていた。(略)はっきりしていることは、ポールが旅行を(略)気晴らしとして捉えていて、マハリシと長期の関係を築くつもりは全く無かったということだ。

(略)

対照的に、マハリシと瞑想に対するジョンの執着は現実的とは言い難いもので、ジョージよりも激しい有様だった。

(略)

ジョージのようにインドとその信仰や文化に対する永続的な興味を持っている訳ではなく、頭の中の混乱を鎮める手っ取り早い解決策として、マハリシを追い求めた。欲望に対し常に激しく忠実であったジョンは、インド人グルと超越瞑想が、普段調合しているドラッグよりも自分の内に潜む悪魔に効果的に働きかけてくれることを熱望した。

(略)

 ジョンがマハリシに傾ける情熱の大部分は、一九六六年の冬以降、彼が吸い込まれている感情起因していた。(略)[ヨーコとの]間柄は、彼が今までに経験したことが無いような消耗する関係に発展していた。

(略)

ヨーコのような女性に出会ったことのなかったジョンは、彼女に夢中になる。

(略)

特筆すべきは、ジョンとヨーコが実際にセックスをするのは、出会ってから一年半以上経過してからという点だ。(略)

ヨーコのことで罪悪感を持たなかったのは、シンシアに嘘をついていなかったから(略)恋愛関係ではなく、知的な関係だったからだ――とブラウンは回想する。ヨーコの、人を苛立たせるような機知に富む会話と、マイルドな狂気が、ジョンを性的に興奮させた。

(略) 

 女性と性交渉の無い濃密な関係にあったことは、ジョンの心の均衡に揺さぶりをかけ、マハリシと、彼のマントラに人知れず心酔することに繋がったように思える。

(略)

[リシケシュに]シンシアと一緒にヨーコを連れて行くことを考慮し始めるが、妻だけでなくバンドの他のメンバーや、その妻と恋人がカンカンに怒ることが予測できたため、尻込みした。

(略)

 それでもジョンは、ヨーコを置き去りにすることを考えただけで、とりわけシンシアに対して、苦々しく恨めしい感情に襲われる。(略)

[『ミステリー・ツアー』放映記念パーティで]公衆の面前で妻を侮辱し、人々に大きなショックを与える。(略)酔っ払ったジョンは、一晩中シンシアを完全に無視し、露出の多いベリー・ダンサーの衣装を着たジョージの妻パティに、おおっぴらに言い寄ったのだ。(略)最終的には(略)一〇代の歌手ルルが(略)みんなの前で彼を叱り飛ばす。叱責に対しジョンは、悪さをした子供のように反応する。シンシアが、泣きながらパーティから出て行ったにも関わらず、だ。翌日のイギリスのタブロイド紙は、最高に面白い年末の有名人スキャンダルでお祭り騒ぎになる。

(略)

 リシケシュに出発する前に、最後にビートルズのやったことは、ジョンの曲 "Across the Universe" を録音することだった。その頃ジョンの思考に押し寄せていた相反する感情や考えの洪水を、はっきりと表したような、心を打つ曲だ。後に彼は、曲の成り立ちを次のように説明――発作のようにしつこく文句を言うシンシアに嫌気がさして、寝室を抜けだし、俗世の苛立ちに流される代わりに、コズミック・リタニ(連祷)に舞い上がり、(マハリシのスピリチュアル・グルの肩書きでもある)「ジャイ・グル・デヴァ」の名の下に神を讃え、ヒンドゥー教の聖なるチャント「オーム」で締めくくった。(略)仕上がりに満足できなかったジョンではあるが、歌詞は誇りに思っていて、後に自分の書いた最上の詩の1つと言っている。

ミア・ファロー

マハリシは、ビートルズがリシケシュを訪れるより前に、別の国際的なセレブリティをアシュラムにおびき出すことに成功する。(略)新進気鋭の女優ミア・ファローだ。ミアは当時、ハリウッドで最も騒がれるセレブになっていた。一九六六年、二一歳で三〇歳以上年の離れたフランク・シナトラと嵐のように結婚をし、映画出演をしないことを夫に約束したミアが(略)『ローズマリーの赤ちゃん』主演のオファーを受け、結婚から一年も経たないうちに夫婦関係の危機を迎える。激怒したシナトラが離婚届を若い妻に叩きつけ、ミアは精神的に参ってしま[い](略)マハリシと彼のマントラに救いを求めたのだ。

 ミアの三歳下の妹プルーデンス・ファローは、既に超越瞑想の信者であった。麻薬依存症者だったことがあり、一〇代の頃には何らかの精神疾患を患い、病院で治療を受けたこともあった。

(略)

[ミアは]マハリシの称賛を一身に浴び(略)数日間(略)特別扱いを受けた後で、「マハリシには全くイライラさせられる。(略)私はここに瞑想に来たのだから」と不平をもらした。

(略)

「瞑想にはうんざりした。アシュラムを出て行く。デリーから電話する」と打たれた電報は、マイアミにいるシナトラに宛てたものだった。

(略)

[ビートルズ到着まで引き留めようと冒険旅行を提案]

四日間、野生動物でいっぱいの森の観光コースで、ミアは元気を取り戻したように見えた。

(略)

ミアの誕生日に(略)あげる50個以上の贈り物を購入させるため、マハリシは60キロも離れたデヘラードゥーンに一団を送っていた。(略)

 その晩の講義でマハリシは、壇上で隣にミアを座らせる。彼女のブロンドの頭には、銀紙で作られた小さな王冠が乗せられていた。彼女はまるで、贈り物を1つずつ受け取る妖精のプリンセスのようだった。

(略)

[だが夜遅くナンシーの部屋にやってきたミアは]パーティの悪口を言い始める。「私はクソみたいに怒ってるの!あんなとんでもないもの見たことある?ステージの上で、みんなに跪かれて、馬鹿になった気分!

(略)

聖なる場所の最後の夜に乾杯!あーあ、とんだお笑いぐさ。マハリシは聖人なんかじゃない。夕食前に彼の家にいた時、私を口説こうとさえしたんだから」と言う。

 何かの間違いじゃないかと問われ、ミアは(略)

「聞いて。私はクソぼけ野郎じゃない。言い寄られたら気づくに決まってる。誕生日を記念して、祈祷を捧げると彼専用のプジャ・ルーム(瞑想部屋)に招き入れられた。(略)祈祷の儀式が終わると花輪を首にかけてきて、私の髪をなで始めた。聞いて。プジャとくどきの違いくらい私には分かる(略)

突然、驚くほど男性的な毛むくじゃらの2本の腕が私に巻き付いてきたのに気づいた。パニックになり、階段を夢中で駆け上がった」とミアは、数年後に自伝で回想している。ミアは後から振り返り、あまりに突然起こったことで、マハリシが実際に性的に誘惑してきたのか判別が付かないと言っている。しかし当日の晩は、グルが体を使って表現するのは肉欲ではなく愛情からだとナンシーが説明しても、全く聞く耳を持たず、翌朝出発すると言い張った。(略)残されたプルーデンスは1人部屋に籠もり瞑想、マハリシは見るからに落ち込んでいた。

次回は、遂にビートルズが到着。

インドとビートルズ シタール、ドラッグ&メディテーション

マハリシを揶揄したシャンカル

 一九六八年三月クアラルンプールをツアー中(略)

ラヴィ・シャンカル(略)『ビートルズからグル呼ばわりされ続けるのには怒りを覚える。これは搾取だ』と、彼は先週当地の記者に語った」

(略)

 スカンヤ・シャンカルは、亡くなった夫がマハリシを密かに揶揄していたと明かす。「彼は物真似が上手で、よくマハリシのしゃべり方や、あの有名な笑いを真似て、みんなを笑いの渦に巻き込んでいました」(略)

マハリシが、超越瞑想を西洋に売ることにより世界に一大帝国を築いた事実に、夫が時々驚きの表情を見せていたとも言う。「シタールに無駄な時間をかけないで、聖職者の長衣を着ればよかったと、冗談を言っていました。『ああいった偽のグルになれば、はるかに少ない労力ではるかに多い金を得ることができただろうよ』と彼は私に言いました」。(略)

インドの本当の文化と宗教に対して無知で無垢な西洋人を利用しているに過ぎないと、夫は感じていたとスカンヤは言う。

LSD体験、バーズのシタール指南

『ヘルプ!4人はアイドル』は、隠しおおせない人種差別に基づくステレオタイプのオンパレードだ(略)

インドの文化や伝統をほとんど理解することなく、グロテスクなほどに偏ったプリズムを通してこの国を描いている。(略)レスターは血に飢えた宗教カルトと狂ったヨーギーの国として、インドをしつこく映画に登場させる。

(略)

ラジャハマ・レストランのセットで演奏する(略)モティハールの抱えたシタールに突然ジョージが興味を示したことが、彼の人生と、おそらく他のメンバーの人生を変えることになるのだ。

(略)

[ディランによるマリファナの洗礼]から六ヶ月して『ヘルプ!4人はアイドル』を撮影する頃には、ビートルズはすっかりマリファナに夢中になっていた。(略)

ジョンによれば、彼らは朝食からポットを吸い始め、昼食の頃には完全に酩酊状態になり、そこから先はほとんど何もできなかったそうだ。

(略)

[シタール発見の数日前、ジョン&ジョージ夫妻とのスワッピングを目論む歯科医夫妻にLSDを盛られ]

2組のビートルズカップルは、あわててフラットから逃げ出した。

(略)

クラブに着く頃にはすっかりハイになっていたジョージは、最初に恍惚状態に陥る。

 

 (略)突然、これ以上ないくらいに素晴らしい感覚が襲ってきた。今まで生きてきて感じた最高の気分を、全て集めて濃縮したような感覚だった。信じられなかったよ。恋に落ちたんだ――特定の人や物ではなく、全てと。全部完璧で、照明も完璧。店内を回って、そこにいる全く知らない人々に、どれだけ愛しているか伝えたい衝動にかられたよ。

 

 しかし彼はまた、突然感情に変化が現れたことを思い出してこう言う「ナイトクラブに直接爆弾が放り込まれ、屋根が吹き飛んだみたいだった」。

(略)

 パティは途中でリージェント・ストリート沿いの窓ガラスを割りたい衝動にかられ、ジョージを先頭になんとかディスコティークにたどり着くと、みんな狂ったように笑った。

 最後は、早朝になってジョージが鬼のように集中力を出してミニを運転し(それでもカタツムリのようなスピードで)、バンガロー様式の自宅にみんなを連れて帰った。

 ジョンもまた、幻覚に畏敬の念を抱き、この時のLSD体験を「恐ろしくも素晴らしい」と語っている。(略)ジョージの家が巨大な潜水艦になり、他のみんなが寝床に向かうなか、自分の操縦する潜水艦は、ぐるぐると回りながら家の周りを囲む木製のフェンスを超え、空中を駆け上った。

 シンシアにとって、LSDとの遭遇はもっと気味の悪いものだった。(略)

 

 (略)壁が動き、植物がしゃべり、人間が人食い鬼のように見え、時間は止まることができ、とても恐ろしい体験でした。何もコントロールできず、何が起きているか、次に何が起こるのか分からない状態が、すごく嫌でした。

 

(略)

ジョージは、経験したことのない「深さと明瞭さ」を体験したと主張する。

 

 「(略)一二時間に及んだ幻覚トリップは、「目が開かれ、人生で大切なことは『自分は何者だ?』『私はどこに行くのだ?』『どこからやって来たか?』と自問することで、その他全てのたわごとは、たわごとに過ぎないと気づくこと」

 

(略)

[パティ談]

「ジョージは、なぜ自分がこれほどまでの選ばれし有名人と成功者になったのか、取り憑かれたように考えていました。運命の介入がなければ、リヴァプールで単純労働をしながらありきたりな生活を送っていたことを、彼は知っていたのです。自分のなかの何が原因で、他の人と違う道を歩むことになったのか、ジョージは必死で探していました。これらのことを起こしたのは、どのような神の霊なのか、彼は本気で知りたがっていました」

(略)

[シェイ・スタジアムの後、五日間の休み、ザ・ザ・ガボールの邸宅を借りパーティ]

(略)

[ゲストはバーズ、ジョーン・バエズピーター・フォンダ他]

[ジョージ談]

 ジョンと僕は、ポールとリンゴがアシッドをやらないとだめだと思ったんだ――そうでないともうお互い分かり合えなくなっていた。(略)アシッドはジョンと僕を大きく変えたからね。(略)ニューヨークで手に入れたのはアルミで包んだ角砂糖で、LAにたどり着くまでツアー中ずっと持ち歩いた。

 

 周到に計画し手間をかけたにも関わらず、ポールはLSDを頑なに拒む。他のメンバーと違い、彼は本能的に薬物を敬遠する傾向にあった。(略)

[リラックスできるマリファナ]に比べ、前触れもなく激しく気分が上昇するLSDを彼は怖がった。

(略)

 リンゴはといえば、ためらうことなくLSDを染みこませた角砂糖を口に入れた。(略)ニール・アスピノールとマル・エヴァンスが、この特権グループに入るためにLSDを受け入れる。まあリンゴは、そういう役目をいつでも負わされていたわけだが。(略)ディランがビートルズマリファナを紹介した時も、ジョンはモルモットとしてリンゴに最初にジョイントを吸うよう命令した。

(略)

ピーター・フォンダもまたハイになっており、子供の頃に誤って自分を銃で撃ち、一瞬心臓が止まった経験から、LSDによる臨死体験に詳しいと、うっかり自慢してしまう。フォンダはビートルズの目の前に裸の腹を突き出して弾傷を見せ、死についてべらべらと喋り続け、彼らをうんざりさせる。その時のLSD体験をぼんやりとしか覚えていないビートルズであったが、このハリウッド俳優がどれだけ嫌な奴だったかは、しっかり記憶に残った。

(略)

ジョージは魂が肉体から離れる不思議な光景を思い出しながら、次のように語る。

 

 気がつくと、「離れる」んだ。どこかに行き、それから、どしん!と、自分の体に戻る。見回すと、ちょうどジョンが同じことをやっているのが見えた。並んでしばらく離れ、それからボーン!(略)

 

「ポールはすごく疎外感を抱いていた。僕らは意地悪に『俺たちはやってるけど、お前はやってない!』と言っていたからな」と、ジョンは振り返る。

(略)

 ジョンもまた(略)ジョーン・バエズと、微妙な状態になる。(略)

彼女によればその寝室には、「小型のプールくらいの大きさ」のベッドがあった。

(略)

[バエズ談]

私は寝て、夜中になってジョンが入って来た。たぶん彼は、こんな風に義務感を感じていたのかも「僕が誘ったし、彼女はスターだし、どうしよう」。それでジョンは、情熱のかけらも無い感じでモーションをかけてきた。私は言った「ジョン、ねえ、私もあなたと同じくらい疲れてる。私のためにやろうと思わなくていいよ」そしたら彼は、こう言った(リヴァプール訛りで)「ええ、ほんと?待って、ほっとしたよ!ほらだって、僕だってもう下でフック[ファックが訛ったもの]して来たかもしれないだろ?」。(略)2人で大笑いして、それから眠りに落ちた。

(略)

パーティのさなか、ヒンドゥスターニー古典音楽が話題に上る。(略)ジョージがバッハから引用した、いかしたリフを弾いた直後、クロスビーがそれに触発され、ラヴィ・シャンカルの音楽から拝惜して自分のレパートリーにしているリフを披露した。シタールについて言及されるのをジョージが聞き、ジョンもまた興味を示す。この時点では2人ともヒンドゥスターニー古典音楽の話を一度も聞いたことがなく、その第一人者であるラヴィ・シャンカルも全く知らなかった。

(略)

クロスビーとマッギンが、ラヴィ・シャンカルを「音楽の天才」、シタールを「魔法の楽器」と褒めそやしたことで、ビートルズは興味をそそられる。バーズはレコーディング中のラヴィ・シャンカルにワールド・パシフィック・スタジオで出会い(バーズも同じスタジオで録音していた)、シタールの巨匠の素晴らしさに圧倒された。マッギンは12弦ギターを弾いていたので、18弦から21弦まであるシタールの演奏が、いかに難しいか把握できたのである。彼はラヴィ・シャンカルを見て覚えた、インドのラーガに不可欠なチョーキングの技法と、節のインプロヴィゼーションをギターで実演してみせる。

(略)

[後年マッギンは]ビートルズインド音楽の話には熱心だったのに、話題が宗教に及ぶと興味をなくしたと(略)語っている。

ラバー・ソウル

 ロンドンに戻ると、ジョージは(略)ラヴィ・シャンカルのレコードを数枚買い、時間があれば熱心に聴いた。彼はまた、インドのアンティーク雑貨店、インディア・クラフト(略)に行き、極初歩的なシタールを購入し、シタールを絶対にマスターすると決心する。彼がシタールを一九六五年秋、ビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』のレコーディングに使ったのは、実際に上手く弾けるようになるだいぶ前――それどころか、指導者の下でちゃんとしたレッスンをまだ受けてもいない頃だった。

(略)

[『ラバー・ソウル』には]アシッド・トリップが与えた衝撃が、手に取るように分かりやすく作品に表れているのだ。例えば、"Day Tripper"でジョンは、後に彼が「週末だけのヒッピー」と呼ぶ、トリッパーを装いながらも幻覚剤の効果をフルに楽しむ勇気の無い人々を揶揄することに、残酷な快感を得ている。同曲では、"a prick teaser"――後に不適切な表現を改めて、"a big teaser"になる――と嫌みを言われる女の子が出てきて、数ヶ月前に発売されたローリング・ストーンズの"Can't Get No Satisfaction"との共通点が見いだされ、面白い。ビートルズと同じようにハードなロックに進化する、筆頭ライバルのストーンズと、直接対決する気満々だったことが分かる。“Nowhere Man"でジョンは、自分の身に起こった変化について、もっと真面目で素直な告白をしている。著名な音楽評論家のイアン・マクドナルドは(略)『レヴォリューション・イン・ザ・ヘッド』で、この曲を「自分とかけ離れた人物と、"太っちょエルヴィス"期にあった自分自身――ブライアン・エプスタインの決めたパブリック・イメージを演じるため現実から切り離され、何部屋もあるウェイブリッジの豪邸で隠居するうち迷子になり、夫婦関係も冷え切り、押し寄せるドラッグの波により着実にアイデンティティの境界線が崩されている自分の両方を観察した曲」と記述する。

(略)

 興味深いのは、ジョージではなくジョンが最初に、ジョージが数ヶ月前に買った新しいシタールを"Norwegian Wood"で弾くよう勧めた点だ。(略)

 

 「ジョージがシタールを持ってたから、彼に僕の書いた曲の『ディーディドゥリーディーディー、ディドゥリーディーディー』の部分を弾いてくれと頼んだ。まだシタールをそんなに触ってなかったから、弾けるか自信が無かったみたいだけど、挑戦する気になってくれた」

(略)

ジョージの腕前はまだまだで、シタール自体の品質もひどいものだった。音響技術者にとっても[悪夢で](略)

シタールはリミッティングの問題を引き起こした。鋭い波形により、満足な音質を出す前にVUメーターの針が赤に振れてしまった」

(略)

[裕福なマイソール家に生まれたアンガディは父の命でイギリスへ]

一九四三年、裕福なイギリス人実業家の娘であるパトリシアと結婚。(略)三年後にパトリシアが相続した遺産でアジアン・ミュージック・サークルを設立。(略)

六〇年代半ば、ジョージのシタールの弦が切れた頃には、アンガディ夫妻はシタールの巨匠と親しい間柄になり、シャンカルがロンドンにいる間は、必ず夫妻を訪ねるようになっていた。

 アンガディとパトリシアの2人は、換えのシタールの弦を渡すため自らスタジオに足を運び、“Norwegian Wood"のレコーディング・セッションを見守った。(略)

[これが]ジョージがシタールに真面目に取り組み、ロンドン在住のインド人音楽家と知り合いになり、遂にはマエストロ、パンディット・ラヴィ・シャンカルとの対面を果たす足がかりとなった。さらにシャンカルとの関係により、ジョージはインドとその文化に計り知れないほど没頭していくのである。

ポール、遂にLSD体験

 一九六六年前半に3度目のアシッド・トリップを決行したジョンは、それ以降二年ほど定期的にLSDを摂取し、それはリシケシュに行くまで続く。ここで重要なのは、彼が身体的な体験と並行して、LSDにより誘発される内的視覚を土台にした文化、アート、及び人生観の推進を求めるイデオロギーを受けことだ。もはやドラッグの力を借りて頭のなかで遊ぶようなレベルではなくなっていた。皮肉なことにまだLSDを受け入れていない唯一のビートルであるポールが、ジョンをロンドンの新しくてヒップなインディカにれて行き、ジョンは『チベット死者の書:サイケデリック・バージョン』を発見することになる。(略)

どうもジョンは、本屋でその本を全部読み終えてしまったようだ。(略)

ジョンはすっかり感心してしまった。彼は遂に、ジョージと一緒にロンドンとビバリーヒルズで体験した実験を、知的な枠組みで捉えることができたのだ。

 (略)

東洋の神秘主義にはまるようになり、ジョンとジョージの関係はより特別なものに発展した。ポールでさえも、ジョージの存在感がバンド内で大きくなったのを認め(略)[ジョージの曲が]『リボルバー』には3曲収録(略)

また、ポールを驚かせたのは、ジョンの曲"She Said Sha Said"でポールが演奏するのを、ジョンがきっぱりと断ったことだ。ビバリーヒルズでの2度目のアシッド・トリップの最中にピーター・フォンダと出会ったことを歌にした曲なので、ジョンはポールの代わりにジョージを選んだというわけだ。それから間もなくしてポールは、LSDに対する懸念を振り払い、初のアシッド体験をする。(略)

一九六六年、友人のタラ・ブラウン(略)がトイレで吸い取り紙に吸わせたLSDを摂取しているのを見かけたポールは、口にしないかと誘われる。

(略)

 「やりたくなかったんだよ。他の多くの人同様、先延ばしにしていたんだけど、同調圧力がすごくて。バンド内に至っては、同調圧力というよりも恐怖圧力だった。友人からのプレッシャーと違って、3倍の力で『なあお前、メンバーみんなアシッドやったんだぞ。何ぐずぐずしてんだ?理由は何だ?どうかしてるぞ』ってプレッシャーかけてくるからね。(略)いつかやるなら今しかないと思って『いいよ、やろう』と言い、みんなでやった」

ラヴィ・シャンカル

 ジョージが最初に会った頃のラヴィ・シャンカルは、キャリアの頂点にいた。(略)

一九五〇年代半ば頃には、インドの文化大使として無数のコンサートをヨーロッパやアメリカ合衆国で行い、シタールの名手として世界で絶賛されていた。(略)

一九五六年には、ロサンゼルスのジャズ・レーベル、ワールド・パシフィック・レコードからアルバムが続々と録音・リリースされる。『スリー・ラーガズ』で始まったそのシリーズは、ジャズ界隈で好評を得ただけでなく、アメリカのフォーク・ミュージックに影響を与えることになる。

(略)

幼少期の彼は、母親と一緒に(略)ミドルクラスのベンガル人家庭で育つ。(略)

パリのフランス語の学校に入学。程なくしてインド舞踊団の一員として、ヨーロッパやアメリカ中を旅することになる。一八歳になり突然、中央インドの人里離れた村で、エキセントリックな天才音楽家ババ・アラウディン・カーンの下でシタールを学ぶことを決め、帰郷。カーンの一番弟子としてインドや海外で観客の心をつかみながら、著名人になっていく。

(略)

シャンカルに強い影響を与えた特別な人物は、3人いる。(略)

遠く離れて住む父シャーム・シャンカル・チャウダリーの強い影響下で育つ。父親はすさまじく幅広い才能と能力を持ち、サンスクリット学者であり、ヴェーダ語の詠唱に長けたヨーギーであり、政治家、弁護士、哲学者でもあった。(略)権力を持つ大臣からマハーラージャ、そしてロンドンの主要な法廷弁護士と枢密院のメンバーになり、オックフォード大学で哲学の学位、ジュネーブ大学で政治学の学位を取得した。父親よりも直接影響をラヴィ・シャンカルに与えたのは、長兄ウダイ・シャンカルである。彼は、二〇世紀前半に西洋にインド舞踊を広めた先駆者であった。ラヴィ・シャンカルの3人目の良き指導者は、彼の音楽のグルであったババ・アラウディン・カーンだ。

(略)

 シャンカルが最初に父親に会ったのは八歳の時、父が母を捨てロンドンのイギリス人女性と一緒になって大分経ってからだ。(略)

バナーラスにある街で一番の高級ホテルで、末の息子を待っていた。完璧に仕立てられたスリー・ピースのスーツを着た父親は、3人の白人女性と朝食を取っており、少年シャンカルは生まれて初めて白人を目にする。(略)女性達の香水と父のコロンに香りに少年は圧倒された。(略)

父の身につけた西洋スタイルとの出会いに怖じ気づきながらも、わくわくしたラヴィ・シャンカルは、田舎じみたミドルクラスの我が家に戻る。母親は、夫の不在と遠い国での不貞、お金の無い状態が長く続いていることにより(略)よく泣いていた。

 奇跡が起こり、数年もしないうちにシャンカルは、西洋の文化の中心地に移り住む。その頃には海外で著名な舞踊家になっていたウダイ・シャンカルが、母親と弟たちを含む家族全員を、パリに移住させることにしたのだ。(略)

伝説のロシア人バレリーナ、アンナ・パブロワに見いだされ(略)一緒にインド神話に基づき振り付けされた演目を踊るようになる。彼が独立して自身のインド舞踊団を結成する頃、西洋では、東洋のエキゾチックな文化に対する興味が高まっていた。

(略)

少年ラヴィ・シャンカルは、弱冠一二歳で兄のバレエ団に採用され(略)音楽とダンスの習得に類い希な才能を見せ(略)すぐにツアーに参加するようになる。これによりシャンカルは、世界中の面白い人々に出会い、新しい経験をするようになった。

(略)

バレエ団の何でも屋でいることに飽き、最も好きなシタールをちゃんと習得しようと、一八歳の時にインドに戻る決意をする。時は一九三〇年代半ば、ヒトラーの登場により、迫り来るヨーロッパの紛争の暗雲が(略)帰郷の理由の1つかもしれない。しかし最大の目的は、敬愛し崇拝するインドの最も革新的なサロード奏者で、ヒンドゥスターニー古典音楽の指導者であるアラウディン・カーンであった。

(略)

中央インドの人里離れた村、マイハールでの厳しい訓練が始まった。ゴキブリや蜘蛛、時にさそりやヘビの出る狭くみすぼらしい部屋に、シャンカルは滞在しなければならなかった。朝から晩までシタール習得に邁進した彼は、ラーガを完璧に演奏するために、シタールに伴うヴォーカルや他の楽器のトレーニングにも没頭した。

(略)

シャンカルの父は、ロンドンの裏道で不可解な殺人の犠牲者となり、それから間もなくして、母が悲しみの中で世を去った。(略)カーンと彼の妻は、この若い弟子の養父母になった。彼らの結びつきを一層強くしたのは、シャンカルと[カーンの娘]アンナプルナの結婚だ。彼は二一歳、彼女はまだ一四歳であった。

(略)

 ラヴィ・シャンカルがまず若いビートルに伝えたこと――シタールの演奏は西洋の古典音楽におけるヴァイオリンやチェロを学ぶのと同じで(略)ギターとは大きく異なる――から、彼が西洋のポップ・ミュージックを見下していることが透けて見えて面白い。シャンカルがロックにシタールを導入することを快く思っていなかったことも明らかだ。(略)"Norwegian Wood"におけるジョージの試みにも感心しなかったようだ。公の場では、この画期的な曲を「おかしな音を奏でる」とはねつけるに留まったシャンカルであったが、ジョージと2人の時はもっと辛辣だったようだ。(略)

ジョージが、ピーター・セラーズ風のインド訛りで、ラヴィ・シャンカルの言葉を再現した。『何てことでしょう。ここでお弾きになっているものは何ですか、ジョージ?(略)失礼を承知で言わせていただければ、何かこう、ぞっとするような、ビヨーンとした、ラジオ・ボンベイで聞く粉石けんの宣伝のようなあれです』

(略)

ビートルズの音楽も好きではなかったようで(略)

 ジョージと会ってから、私はビートルズの音楽に興味が湧きました。彼らの歌声には、あまり惹かれませんでした。彼らはほとんどの場合、高いファルセットで歌っていたからです。それ以来ずっと、その流行は続いているようですが。彼らの歌う言葉を理解するのにも、何とも大変な思いをしました!

(略)

アルン・バーラト・ラームは、ラヴィ・シャンカルがジョージに対して、教師というよりも息子を溺愛する父親のように接しているように感じた。(略)

[シャンカルの妻スカンヤ談]

「彼らの感情の上での結びつきは、共通の音楽の趣味や知的な意見交換といった次元を超えた、もっと強いものでした。頻繁に手を繋いだり抱き合ったりする2人を見るのは、感動的でした。(略)実の息子シュボの間のぎこちない関係とは、非常に対照的でした。(略)」(略)

シャンカルは、父親に畏敬の念を抱いていたにも関わらず、遠く離れて暮らす親子の関係は、親しくもなければ、満足いくものでもなかった。シャンカルはまた、別れる原因となった夫婦間の醜い諍いが、シュボを苦しめたことに対する罪悪感に駆られていた。(略)シタールの巨匠は、子供に関わらないことへの償いとして、シュボに金銭や高価な贈り物をあげたが、父と子の関係は、敵対とまではいかなくとも、冷たいままであった。それにひきかえ、息子と一歳しか違わないビートルが、子供のように自分を信じ、頼ってくれるのは、シャンカルをとてつもなく喜ばせたに違いない。

(略)

[ジョージ談]

 初めてインド音楽を聴いた時、まるでもうそれを知っているかのように感じた。(略)

 ジョージを妊娠中、母のルイーズは毎週放送されるラジオ・インディアをよく聴いていた。(略)

 毎週日曜日になると、彼女はシタールやタブラの奏でる神秘的なサウンドにチューニングを合わせた。エキゾチックな音楽が、お腹の赤ん坊に安らぎと落ち着きをもたらすことを望んで。

(略)

[インド旅の]ハイライトとなったのは、シャンカルのスピリチュアル・グルであるタット・ババを訪れた時だ。(略)

シャンカルの人生にグルが登場したのは、シャンカルが経済的にも精神的にも危機に陥っていた二八歳の時だ。当時の彼は、過度の野心を持ち、音楽事業に金を注ぎ続けた結果、破産しかけていた。さらに不幸なことに、結婚生活もうまくいかず、始まったばかりのカマラとの関係も、彼女をあわてて嫁がせた家族により妨害されていた。(略)神経をすり減らし、街を通る郊外電車の1つに飛び込んで命を絶つことに決める。(略)粗布でできた衣を着ておかしな身なりをした、ヒンドゥー僧のような男が玄関に突然やって来て、トイレを貸してくれと言う。ヒンドゥー僧は、シャンカルが手にしているシタールに気づき、演奏するよう頼む。トランス状態に陥ったかのように言葉に従ったシャンカルは、数時間演奏した後で、その夜ジョードプルの王子のために開かれるリサイタルに間に合わず、気前よくもらえるはずだった出演料も手に入らなくなったことに気づく。落胆するシャンカルにタット・ババは、その晩の出演料はもらえなくとも、これからお金がもっと入るようになり、人生ももっと良くなると告げる。シャンカルの驚くことに、それから間もなくして、奇跡的にデリーのオール・インディア・ラジオで実入りのいい仕事にありつくことができ、妻との問題だらけの関係も、一時的に改善する。それ以来、粗布をまとったヒンドゥー僧は、彼のスピリチュアルな指導者となる。

 ジョージとパティにとって、聖者に会いに行くのは感動的な体験だった。「(略)ラヴィが、グルの前では完全にヘりくだっているのを見て、目を疑いました。(略)」とパティ(略)

 シャンカルの頼みでビートル夫妻に恵みを授けたタット・ババは、それだけでなく、カルマの概念と、前世での行いにより、生まれ変わりを通して、人間の魂が肉体を変えて何度も生まれることを、2人に短く講義した。

(略)

新しい生活への扉をシャンカルが開いてくれたことは、ジョージにとって、過去との完全な決別を意味していた。インドから帰って数週間後(略)クワイエット・ビートルは、容赦なく気持ちをぶちまける。

 

 僕ら、休んで考える時間を持てたから、色んなことを見直すことができた。結局四年間、僕らはみんなが望むことをやってきた。これからは自分たちがやりたいことをやる。振り返ってみると、今までやって来たことは、全部ゴミのようなことだった。

 

 一緒にインタビューを受けていたジョンが、仲間が「ちょっと無遠慮になっている」とあわてて付け加えたが、ジョージの言葉は、全て本心から出たものだった。

マニラでの恐怖体験

一九六六年の夏に世界を回った際、思いがけなく受けたショックの数々がなければ、ビートルズがあれほどかたくなにステージ上での演奏を拒むことはなかったであろう。(略)

エプスタインは、自分がまだボーイズの役に立つことを証明しようと(略)できる限りツアーに出るよう仕向けた。

 日本とフィリピン、初めてアジアを回るツアーは、ドイツでスタートした。ミュンヘン、エッセン、ハンブルグの3都市は、何事もなく回れたが、退屈なままに終わる。ビートルズは叫ぶファンにも動じず、つまらなそうに演奏した。(略)

ファンがひどい目に遭うのを嫌う彼らは、ドイツで地元警察がファンを手荒く扱ったことを知り、驚愕する。ミュンヘンでは、ルールを守らないファンが、ゴム製の警棒で警官にひどく殴られ、エッセンの観客は、催涙ガスを浴びせられ、警察犬をけしかけられた。

 以前よく行っていたハンブルグも、ボーイズのやる気に火を付けることはできなかった。(略)ツアーに同行していたブラウンは、次のように記す。

 

 ハンブルグが公演地として選ばれたのは、ノスタルジアのためだけだ。(略)[だが]かつて彼らが演奏したバーやクラブ(ほんの四年前だ)は潰れてしまって、スター・クラブも板が打ち付けてあった。夜は妖しい魅力に溢れる場所だったのに、日の光の下では、安っぽく古びて見えた。

(略)

 ツアーで訪れる先々で、退屈な記者会見に臨む苦行もあった。会見での質問は、回を重ねるごとにありきたりで中身のないものになっていった。

(略)

[フィリピン到着]

手配された車がホテルに向けて空港を出るよりも前に、アロハシャツを着て、いかつい体格をしたギャングのような見た目の警備員が、ビートルズを拉致したのだ。何が起こっているのか分からぬまま、ビートルズは、マネジメント・チームや滑走路に置きっぱなしの荷物から離されてしまう。(略)[鞄の中のマリファナで]違法薬物所持で逮捕されるのではないかと、彼らはパニックに陥る。

 「(略)あんなに威張り散らされるのは初めてで、礼儀も何も無かった。どこに行っても(略)熱狂していたけど、いつでも敬意はあった。僕らはショービズの有名人だから。でもマニラは、飛行機を降りた瞬間からネガティブな雰囲気が漂っていて、少し怖かった」と、数年後にジョージは語っている。

 ビートルズはまずフィリピン海軍の本部に連れて行かれて、形式的な記者会見を行い、その後でマニラ湾に停泊する豪華ヨットに乗せられる。(略)

[マニラの実業家が]ビートルズとパーティをしようと企てたのだ。

 「とても蒸し暑くて、蚊だらけで、汗をびっしょりかきながら僕らは怖くて震えていた。ビートルズ結成以来、初めてニール、マルとブライアン・エプスタインから切り離された。僕らのスタッフが1人もいなかっただけじゃなく、僕らのいるキャビンの周りのデッキを、銃を持つ警官が列を作って取り囲んでいた。うんざりすることばかりで、みんな暗くなっていた。こんな国に来なきゃ良かったと思ったよ。パスすれば良かった」。

(略)

 マネージャーたちがヨットからボーイズを助け出した頃には、すっかり精神的なトラウマを負い、肉体的に疲れ果てていた彼らであったが、検査を受けないままスーツケースが戻って来て、マリファナも無事だったと聞いて元気になる。地上に戻れたことに感謝し、マニラ・ホテルのスイートルームで、昼食まで爆睡する。だが、ビートルズが安らかに眠る間、彼らの知らないところで、それまでよりもなお一層厳しい試練が沸き起ころうとしていた

(略)

[イメルダ夫人の]招待状はビートルズがまだ日本滞在中に届き、過激派右翼の脅迫による混乱やパニックに巻き込まれ、ビートルズもエプスタインも、その存在を知らされないままだった。

 マルコス夫妻は(略)政権の座に着いたばかり(略)以降数十年にわたりフィリピンを独裁支配し、その悪名が世界に轟くことになる。

(略)

マルコス夫人は、セレブリティの世界に対する憧れが強く(略)海外から国を訪れる芸能人は、例外なく彼女のパーティに参加することになっていた。逆にビートルズとエプスタインはといえば、海外ツアー中は、政府や大使の主催するフォーマルな歓迎会に絶対に出席しないことを決めていた。

(略)

ファーストレディは当然ビートルズが来るものと思っていて、多くのマニラの新聞が既に、歓迎会の開催を報道していた。ビートルズ一行のなかに、地元の新聞をわざわざ読もうとする者はいなかったのだが。

(略)

「[ホテルにやってきた]高官たちは、冷たく言い放った『これはただの要請ではない。通達がここにある。(略)』」。(略)

エプスタインは従うことを拒否し、ビートルズを説得することも断る。

 仮にあの時点で全員が前向きに素早く行動していれば、予定時間にボーイズは宮殿に到着し、惨事を免れることができただろう

(略)

数分もしないうちに英国大使のオフィスからエプスタインに電話がかかってきて、ファーストレディの願いにビートルズが応じない場合、非常に危険な橋を渡ることになり、マニラでビートルズの受ける「支援と保護」は、大統領の一存にかかっていると忠告される。(略)それでもエプスタインは頑として譲らず

(略)

数時間してもバンドは現れず、目撃者によれば、マルコス夫人は、怒りで青くなり、ハーハー言いながら出て行ってしまう。泣き出す子供たちもいた。個人的な侮辱と受け取ったマルコスの子供たちの発するファブ・フォーに対する怒りの声は、次第に大きな合唱になっていった。「ビートルズに飛びかかって、あいつらの髪の毛を切ってやる!(略)」と、八歳のボンボンが金切り声を上げた。

(略)

「次の日の朝、ホテルのドアを激しくノックする音で目覚めると、外は大混乱に陥っていた。(略)

 僕らは目を見開いてテレビを観ていた。信じられない思いだった。大統領官邸訪問をすっぽかす自分たちを、テレビで観ていたんだから」と、ジョージは振り返る。

 ファーストレディを侮辱した罪で、マニラのテレビ局がビートルズを公然と非難し始め、エプスタインは、手に負えないほど事態が悪化したことに気づく。彼は急いでテレビ出演し、直接の謝罪を試みる。(略)[だが]宮殿からの要請で、突然放送が中断されてしまう。ファーストレディからの宣戦布告だ。

 マネジメント・チームの誰も、いかに深刻な状況であるかビートルズに伝えず、彼らはそのまま、その日のコンサートに向かう。初めの午後のコンサートは事故も無く終演したが、夜に行われた2回目のコンサートでは、嵐を予感させるような不吉な兆候がみられた。(略)

 

 2回目のコンサートの最後に、ホテルまで護送してくれるはずだった警察が撤退して、我々の車列の後ろの門が封鎖された。乗り込んだリムジンは身動きが取れなくなり、12人、というより20人はいたヤクザ者のグループが、脅すように窓ガラス越しに体当たりして来て、リムジンを前後に揺らし、ビートルズに向かって暴言を叫んでいた(略)ようやく門が開いて、我々は猛スピードで逃げ去った。

 

 朝になり、ビートルズのマネジメント・チームが朝食をオーダーしようとすると、驚くことに断られてしまう。「もうルーム・サービスは提供できません。あなた方は、我々のリーダーを侮辱したのですから」と、ウェイターが無愛想に告げる。大急ぎで荷物を持ちロビーに降りると、ホテルのポーターだけでなく、警察や付き添いの警備員まで消えたことが分かり、全員愕然とする。

(略)

追い打ちをかけるように(略)フィリピン内国歳入庁の担当者がエプスタインのもとを訪れ、開催されたコンサートの所得税として、八万ドルに及ぶ大金を要求。地元のプロモーターとの契約書には、ビートルズのツアーで発生する税金は、全てプロモーターが支払うと明記されていたにも関わらず、だ。

(略)

ジョンは、フィリピン人ジャーナリストに皮肉を言う「フィリピンについて学ばなくちゃいけないことが、いくつかある。まずは、どうやってここから出るか、からだ」。この言葉が驚くほど未来を予言したものであることは、すぐに判明する。

(略)

[マニラ空港に到着すると]

エスカレーターは止められ、ポーターも利用できず、ボーイズとマネジメント・チーム、及び技術クルーは、楽器やアンプ、大型機材を自分たちで運ばなければならなかった。怒ったフィリピン人の集団が空港内に集まり(中には銃や警棒、こん棒を振り回すものもいた)、凄みを利かせながらビートルズ一行ににじり寄り、事態は深刻を極める。

 ビートルズの一団は、暴徒の攻撃を浴びるしか他になく、エプスタインは顔面をパンチされ、股間を蹴られる。あばら骨に蹴りを入れられ、転倒したエヴァンスは、片方の足が流血した状態で、足をひきずりながら、飛行機を目指して滑走路を移動。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの周りをチームが身を挺して守ったので、ボーイズは直に一撃を食らうことなく脱出できたが、すんでの所だった。

(略)

空に浮かんだ機体から見下ろすと、滑走路で彼らに向かって拳を振り上げる群衆が見えた。(略)穏やかなリンゴでさえも、「人生で一番嫌な体験だった…牢屋に入れられるかと思った」と当時を振り返る。

(略)

 ビートルズとスタッフの数人は、ツアーを推し進めて来たエプスタインが、これほどの惨事を起こしてしまったことにも苛立ちを抑えられずにいた。激しい怒りに燃えたチーム・マネージャーの1人が、マニラのコンサートの集金にしくじったことを機内でエプスタインに詰め寄り、一触即発の状態になる。どっちにしろ、しばらくツアーをしたくないと思っていたビートルズは、海外で公式なコンサートをするのはもうごめんで、次のアメリカ公演を最後にツアーをやめたいと、エプスタインに伝える口実ができた。「どうせ誰も音なんか聞こえないんだから。もうお断りだよ。ツアーはこれでおしまいだ」とションが宣言するのを、ブラウンは覚えている。

 ボーイズを身体的な危険にさらしたことで自責の念に駆られ、彼らから責められることにも深く傷ついたエプスタインは、大きな不安に襲われて神経衰弱になり、全身にひどいじんましんができてしまう。

キリスト発言

自分の手からビートルズが離れていくのではないかとパニックに陥り(略)アメリカ公演に全ての望みを掛ける(略)[が、ジョンのキリスト発言で]無残にも打ち砕かれてしまう。(略)

元の記事を書いたのは、ビートルズと仲の良いジャーナリストのモーリーン・クリーヴで(略)後にジョンは、彼女と短い間浮気していたことを認めることになる。ジョンを好ましい人物として親密な感じで描いた記事に含まれる(略)ほんの一部を切り取ったのが、件の発言だった。(略)

キリスト教はなくなる。あれは、消えて小さくなる。反論してもしょうがないよ。僕は正しいし、正しいことは証明されるはずだ。今じゃ僕らの方が、キリストよりも人気がある。どっちが先になくなるか――ロックンロールか、キリスト教か。キリストはまあいい奴だったけど、弟子はまぬけで凡人だった。あいつらがねじ曲げたから、僕は嫌になった」。

(略)

ボーイズを再び危険にさらすことに恐れおののいたエプスタインは、ツアーのキャンセルを真剣に考え始め(略)弁護士のナット・ワイスに、ツアーを直前にキャンセルした場合に発生する損失を算出してもらう。一〇〇万ドル以上になると告げられ、取り乱したエプスタインは、自分のポケットマネーから出そうとするが、ジョンが自分で謝罪すれば米国ツアーを断行できると、弁護士に説得される。

(略)

 ブラウンによれば、ブライアンが強引に説得を重ねた結果、少なくとも記者会見で発言の意図を説明することに、ジョンは同意する。

 アメリカに着陸してすぐにジョンは、メディアに向けて、長くてやや説得力に欠けた、彼の基準からすれば必要以上に下手に出た謝罪を表明。ビートルズの広報担当バロウによれば(略)ジョンは、公衆の面前で辱めを受けたことで、人目の無い所で崩れ落ちるようにすすり泣いていたそうだ。「彼は実際に手に顔をうずめて泣いていました」「ジョンは、『どんなことでもするよ…言われたとおりにする。僕が言ったことのせいで、このツアー全部がキャンセルになったら、みんなに顔向けできない』と言った」と、ブラウンは記す。

(略)

 各地の都市や小さな街で散発的に公開たき火が行われ、クー・クラックス・クランによる反対運動の儀式も止まなかった(略)

シンシナティでは(略)ローディのエヴァンスが(略)土砂降りのなか、濡れたアンプを電源につなごうとして、ステージ上を1m近く吹っ飛ばされるほどの強い電気ショックを食らったのだ。コンサートは突然のキャンセルを余儀なくされたが(略)ツアーをするようになって以来、初めての経験だった。ビートルズが、もし雨の中で演奏をしていたら、メンバーの1人が感電死していた可能性は十分ある。

(略)

決定的な事件は、バイブル・ベルトの真ん中(略)メンフィスのミッドサウス・コロシアムで起こる。(略)

2回目の公演の途中、ジョンが全力で "If I Needed Someone" を始めた時、銃声のように大きな音がして、眩しい光に包まれる。ジョンが撃たれたのではないかと恐れた他のメンバーは、凍り付く。ジョン自身は、このような状況下でもできるだけ平静を装うとしていた(略)爆発音は銃声ではなく、誰かが客席から投げこんだチェリー・ボムと呼ばれるかんしゃく玉の音であることが分かった。(略)人を殺すような威力は無かったが、ビートルズを震え上がらせるには、十分だった。メンフィスでのチェリー・ボム騒動は、ビートルズの神経に最後の一撃を与え、永遠に彼らがツアー用機材をしまい込むことに繋がった。

(略)

後にリンゴは、なぜ全米ツアーの終わりにひどく幻滅した思いを抱いたのか、彼らしく淡々と説明している。

 

 一九六六年になると、公演旅行がすごく退屈なものになって、自分にとっては終わりにしたい気持ちになった。演奏を聴いている観客なんていなかった。最初はそれでも良かったけど、演奏がどんどんひどくなって。僕がビートルズに加入したのは、彼らがリヴァプールで一番上手いバンドだったからだ。いつでも、上手いプレイヤーと演奏したい気持ちがあった。結局、理由はそういうことだよ。僕らは何よりもまず、ミュージシャン(略)だった。巨大でばかげた台の上に乗せられるためにやっていた訳じゃない。(略)僕らはっきり分かったんだよ。もう意味が無いから、早いとこツアーを終わらせた方がいいと。

 

(略)

 バンド内でおそらく最もツアー後にトラウマを抱えたのはジョージで(略)ラスト・コンサートを終えて、ロサンゼルスに戻る機内で、既に彼はバンドをやめるつもりになっていたのだ。「やれやれ、やっと終わった。もう僕はビートルズじゃない」と、彼はエプスタインにドラマチックに宣言した。(略)二度とツアーしないことを厳粛に誓うエプスタインにより、ジョージはバンドを脱退しないよう説得される。

(略)

 ジョージの情熱が向けられた先は、無論インドだった。

(略)

[一方ジョンは暇を持て余し面白半分で『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演]

(略)

 ロンドンに戻っても、依然として自分やビートルズの向かうべき道を見つけられなかったジョンは、不安から逃れるために、LSDに依存する。(略)

ブラウンによれば、「(略)いつも同様、ジョンはやり過ぎて、アシッドをほぼ毎日摂取した。本人の自白によれば、彼は何千回もトリップしたそうだ」。

(略)

惨事続きだった直近の海外ツアーや、ビートルズが人前で演奏をしないと決めたことへのショックから、エプスタインは神経衰弱に陥る。ジョンがサイケデリックのもやのなかに逃げ込む回数が増えたのは、エプスタインに対する心配も一因だった。エプスタインは、世捨て人のようにドラッグとアルコールに狂っていた。悪いことに、彼のボーイフレンドが、卑猥な写真を盾に評判に傷を付けるぞと、エプスタインを脅迫した。(略)九月の終わり、エプスタインは、睡眠薬を過剰摂取して、全てを終わらせようとする。幸いなことに、大事に至る前に(略)発見され、病院で胃の洗浄を行い回復した。エプスタインの書いた遺書は、スキャンダルを引き起こさないように隠蔽されたが、エプスタインと特に親しかったジョンは、大きなショックを受けた。

次回に続く。

象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー

フラメンコの衝撃、ホセ・フェリシアーノ

〈ヴィレッジ・ゲイト〉に、ある日、テイジとともに出かけた。(略)

 最初に出てきたのは、ハービー・マン(略)次は、ランバート・ヘンドリックス&ロス(略)神業的スキャット・コーラスを披露した。

 そして、いよいよ(略)ソニー・ロリンズ・バンドが登場し、最前衛の音楽で聴衆を熱狂させた。

 これで終わりかと思ったら、ガット・ギターを持った小太りのおじさんが大トリとして登場した。(略)ギターを弾き始めた瞬間、これまでに聴いたことのない強烈な音楽が溢れ出てきたのだ。僕だけでなく、満場の聴衆もその音楽に唖然として聴き入った。一曲目の演奏が終わると、会場が一瞬静まりかえった。そして次の瞬間、全員が立ち上がり凄まじい拍手が起こった。

 たった一本のガット・ギターから、どうしてあのような迫力とリズム、華麗な音色が出てくるのか、とても信じられないものであった。

 おじさんは、涼しい顔で驚異的なテクニックを披露し、怒濤の如く華麗な音楽を演奏した。このおじさんこそが前述したサビカスだ。(略)

世界中の民族音楽に詳しいテイジは、「今のは、スペイン・ジプシーの音楽で、フラメンコというものだ」と教えてくれた。

(略)

どこかに教えてくれるギタリストがいないかと調べたが見つからない。(略)

グリニッジ・ヴィレッジのブリーカー・ストリートという有名な道を歩いていたら、あれ以来耳にこびりついているフラメンコ・ギターの音が、通り沿いの小さなカフェのなかから聴こえてきた。(略)

[演奏していた青年に教えてくれと言うと、彼の先生を紹介してくれた]

フラメンコ音楽には楽譜というものがない。教則本も存在しない。ホアン先生に習い始めてびっくりしたのは、先生がいきなり曲を弾いて「それ、やってみろ!」という、その指導方法だった。(略)

先生の弾く曲に使われるテクニックについてひとつずつ聞いていくと、ロスケアード、アルペジオピカードトレモロ、アルサプアなどと呼ばれるテクニックを複合的に使っていることが判明した。

(略)

 僕は、来る日も来る日も、毎日十時間はこれらのテクニックを身につけるために練習を続けた。

(略)

カフェを三軒持っている、ジャックというルーマニア移民で、百九十センチは優にある大男のボスがいた。(略)

[日本贔屓と聞いて交渉]

「そうか、お前は日本人か!(略)俺は、オーヤマ先生の弟子で、空手をやっていて黒帯だ。(略)

[空手と剣道、どちらが強いかと議論になり、対決し、見事勝利]

「お前はたいしたもんだ!空手のほうが強いはずなのに、剣道が勝つこともあるんだな!」(略)

それ以来、大の仲良しになり、僕はジャックのカフェのひとつでフラメンコ・ギター演奏のライブをやらせてもらうことになった。(略)見物客の多い週末などは、演奏後に灰皿を回すと三十〜四十ドルくらいの実入りがあったものだ。忘れもしないのは、同じカフェに出演していた仲間のミュージシャンに盲目のパーカッショニストがいて、ひとりでコンガを叩きながら独特の小節を利かせた歌を唱っていたことだ。耳がおそろしく敏感で、僕がギターを持って店に入っていくと足音だけで判断し「ハーイ!ショー」と声をかけてきたものである。こいつは僕のフラメンコ・ギターに興味をもったらしくどこからかギターを調達してきて、暇があると「弾き方を教えろ」というのでしばらく手ほどきをしたら、見る見るうちに弾きこなすようになり、右手の奏法にフラメンコ的ストロークを駆使したギター弾き語りで個性的な歌を唱うようになった。

 この人物が、のちにドアーズの「ライト・マイ・ファイア」のカバーで大スターとなったホセ・フェリシアーノである。

(略)

アパートからすぐのウエスト・サード・ストリートにスペイン料理のレストランがあり、なんとその店はサビカスの行きつけだったのである。(略)

サビカスは、その人間性と圧倒的なギターのスキルでニューヨーク在住のジプシー・アーティストたちのドンのような存在であり、レストランはフラメンコ・アーティストたちの溜まり場になっていた。僕は(略)いつのまにかサビカス本人とも親しくなり、隙を見つけては超絶テクニックの一端を本人から直接伝授してもらったのである。

(略)

ある日テイジが「最近ガスライト・カフェで歌っている若いシンガーが素晴らしい!一緒に観に行こう!」と言うので聴きに出かけると、すでに人気者だったらしくカフェは満員。ハーモニカを首からさげ、ギターを抱えて登場したその青年は、ボブ・ディランという名であった。(略)

また、奇妙なバンドがカフェ・ビザールでデビューするというので見物に行くと、八人編成くらいの大勢のメンバーがまるで仮装行列の如き格好で登場し、ロックバンドらしき楽器を持っているのは三人ぐらいで、ほかのやつらは錫杖のようなものでたまに床を打ったり、なにも持たずにたまに喚いたりするだけなのだ。奇天烈で珍妙なパフォーマンスに飽きてしまい途中で退散したのだが、それが、フランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションの初舞台だったのだ。

 

本場スペインへ

前衛劇『六人を乗せた馬車』[に](略)音楽監督兼作曲家、そして演奏家として参加することになったテイジが、楽団のメンバーとして僕を誘ってくれたのだ。

(略)

[オフ・ブロードウェイ賞でベスト・プロダクション賞を取り]

アメリカ縦断のキャンパス劇場公演が決まってしまった。

(略)

[さらにヨーロッパ公演も決定。ダブリン公演までの期間、ひとりフラメンコの本場、スペインへ]

 ギタリスタたちは六人ほどいたが、椅子を持ってきてお互いにチューニングを合わせてから、ショウの前の、腕、指ほぐしのためだろう、アドリブでいろいろなフラメンコの代表曲を弾き始めた。ブレリアス、ソレア、シギリアス、アレグリアスなどである。

 フラメンコの場合、曲といっても譜面に書かれたものを指すのではなく、ひとつの名前が付けられた曲様式と呼んだほうが正しい。様式は、リズム、コンパス(一フレーズの長さが決めてあり、そのなかのアクセントの形が決められている)、コード(主題和音)とその変化、の三要素が様式の骨幹を形成している。たとえば最も重要な代表曲「ソレア」は、リズムは三拍子で、十二拍でコンパスを形成する。アクセントは、三拍目、六拍目、八拍目、十拍目、十二拍目と決められている。基本和音は三コードであり、アドリブの遊びもそのなかで行われるので、様式をまず覚えてしまえば演奏するのも聴くのも楽しめる仕掛けになっている。

 誤解のないようにお伝えしたいのは、あくまでこれは基本様式であり、そこから始まって多様な形のものが発生していることを記しておく。

(略)

 さて、ギタリスタたちの素晴らしいアドリブ演奏がいよいよ熱を帯びてきた頃合いに、そばでパルマ(手拍子)をしていたカンタオール(歌い手)が歌い始めた。すると、ギタリスタたちはその演奏の役割を歌の伴奏にパッと切り替える。歌終わりを見計らい、今度はギターがソロを引き取る。一人が独特のファルセタ(フレーズ)を弾くと、別のギタリスタがそこに加担してファルセタを盛り上げていく。カンタオールはじっとそのファルセタを聴き、ノリのよいファルセタが聴こえると「オレー!」と合いの手を入れる。そしてまたカンオールが歌いだすのだ。そこへ、美しいコスチュームを着たバイラオラ[女性の踊り手]が参加してパルマとパソ(足拍子)でさらに盛り上げる。ギターと歌とパルマとパソが渾然一体となって曲はどんどんクレッシェンドしていき、最高潮のそのとき、鮮やかにピタっとキメる。

(略)

「ハポネサは中国人ではない。ハポン(日本)という別の国だ」

「そうか、初めて会った。ではなぜそのハポネサがここに来たのだ?」

「フラメンコ・ギターの習得のためだ」

(略)

「(略)ハポネサがフラメンコを弾けるとは思えない。弾いてみろ!」(略)

サビカスから伝授されたファルセタを交えた一曲を弾き出すと、かなり驚いた様子で、「おーい!ここにいるハポネサという東洋人がちゃんとフラメンコを弾いてるぜ!観に来いよ!」と仲間に知らせた。(略)

軽く一曲を弾き終わると、かなり感心した様子で皆が「オーレー!」とニコニコしながら拍手してくれた。「なかなか、やるな。ちゃんとフラメンコしているぜ、いまのはサビカスのファルセタが入っていたな。どこで教わった?」と今度はギタリスタが訊いてきた。「ニューヨークでサビカス本人から伝授された」「本当か!それは、すごい!お前はサビカスに会ったのか?」と言う。フランコ政権を嫌ってスペインから亡命してしまったサビカスは、スペインのジプシーたちの憧れの存在であることがあらためて確認された。「もっとほかの曲も弾いてみろ」と言うので、弾き始めるとそのギタリスタが一緒にアドリブで参加してきて、僕を取り囲んでのジャムセッションがおっ始まってしまった。

(略)

 その日からほとんど毎夜〈コラル・デ・ラ・モレリア〉へ通い、裏口入店して彼らジプシー・アルティスタたちと親交を深め、ギタリスタからはいろいろなファルセタを教わることができた。

(略)

[4年の海外遊学を終え1964年帰国]

知り合いの映画スター・菅原謙次の妹がフラメンコダンサー小松原庸子であることを知り、彼女のレッスンのギター伴奏をすることを頼まれた。ある日、練習しているスタジオに行くと、そこにもう一人の日本人女性フラメンコダンサーがいた。その踊り手のフラメンコを見て僕は衝撃を受けた。しなやかで情熱的な動き、歯切れの良いリズムの取り方、素晴らしいものだった。彼女が、天才フラメンコダンサー・長嶺ヤス子である。

 僕は彼女の舞踊家としての素晴らしさに魅了され、彼女のほうもギタリストとして本場スペインでの経験のある僕の存在が大切になった。僕らはコンビを組み、いくつかのレパートリーを仕上げた。いつのまにかエージェントが付き、東京じゅうの高級ナイトクラブや大型キャバレーに出演するようになったのだ。(略)

[東京ヒルトンからも出演依頼]

ジョーン・バエズが東京ヒルトンに滞在しスターヒルに食事をしに来たのだ。食事とともにショウを観たジョーン・バエズは、僕たちのフラメンコをいたく気に入り、ショウのあとに僕をテーブルへ招いてくれた。彼女としては、なぜ日本人が本格的フラメンコを演奏することができるのか、不思議だったようである。

福澤幸雄・享年二十五歳

ファッション・モデルの松田和子と幸雄が恋に落ちた。(略)幸雄よりも七歳年上で日本人モデルとして初めてパリのオート・クチュールで活躍した人物である。松田和子がキャンティで食事をしていたある日、幸雄が突然そのテーブルに座り込んで話始めたらしい。(略)二人が出会ってほどなくして、幸雄は松田和子の家に出入りするようになった。

 

 一九六九年二月、松田和子は彼女のアパートでうたた寝をしてる幸雄を起こした。前夜に僕ら兄弟やかまやつひろし等とカードゲームに夜中まで興じていた幸雄は、かなり疲れていた様子だったらしい。幸雄は彼女をアパートに残しレース場に向かうため車で出かけた。

「あの朝……私が幸雄を起こさなければ……」

 彼女がトヨタのテスト・コースでの幸雄の事故死を知ったのは、その日の午後である。

バークレイレコード、〈ALFA〉、「マイ・ウェイ

[父を訪ねてきた]エディ・バークレイというその人物は[ダリダ、シャルル・アズナブールを擁する]〈バークレイレコード〉というフランス有数のレコード会社の社長だった。(略)

[キングレコードからフランス制作のレコードが販売されていたが]

日本のマーケットを視察したエディ・バークレイは日本での独自のレコードプロデュースを思い立ったのだ。著作権管理などが整備されている日本のマーケットの将来性を感じたのだろう。(略)

[著者に専属プロデューサーの依頼]

 こうして僕と加橋かつみの運命的なパリ行きが決まった。

 この一九六九年のパリで僕はロックミュージカル『ヘアー』に出会うことになる。

(略)

[売れっ子作曲家になっていた村井邦彦から国際電話]

「ショーちゃんがいるなら僕もパリに行ってみよう」(略)

行動力溢れる村井邦彦のパリへの最初の旅が、その後の彼と僕とのさまざまな音楽プロジェクトの始まりになった。

(略)

現在日本で最も売れている作曲家であり音楽出版社の社長であると吹聴[すると](略)エディ・バークレイは村井邦彦をバークレイ傘下の音楽出版社エディションバークレイに紹介してくれた。

(略)

[音楽出版社とのビジネスミーティング前日]

「ショーちゃん明日のミーティングのために僕の会社の名前を考えようよ!」

「エッ?会社の名前はまだないの?」(略)

イプシロンというのはどうかな?」

「なにそれ」

「アルファ、ベータ、イプシロン

「それなら一番初めのアルファにしちゃったら?」

(略)

 後日談としてこの時僕はアルファのスペルを〈ALFA〉と書いたのだ。すっかり信用した村井邦彦は日本に帰国してから会社を登録する際そのまま〈ALFA〉にしてしまった。あとで調べたら実はアルファの正式のスペルは〈ALPHA〉だったのだ。

(略)

ヒット曲がたくさん生まれてレコード会社にまで発展した後はかえって〈ALFA〉のほうがかっこよく見えるのが不思議だ。

(略)

[村井の商談中、オフィスの廊下をウロウロしていると]

ギターを弾き、歌っている青年を発見(略)その歌は、夕暮れのような哀愁を感じさせながらも、メロディーは力強く、すぐに魅了されてしまった。

 そこで僕は、商談真っ最中のオフィスに割り込み、ジルベール・マルアニにその青年のことをたずねた。ジャック・ルヴォーという名の青年であり、歌っているのはきっと「コムダビチュード」という曲だが、まだ歌詞ができていないのだと教えてくれた。僕は村井邦彦に、是が非でもその曲の出版権をもらうべきだと伝えた。ジルベール・マルアニに相談すると、出版権を無料で渡してくれるという。そしてなんと、「ポール・アンカが作詞することになるかもしれないがまあ、ハリウッドのことだから少々眉唾だけどね」と、笑いながら話すのである。

(略)

[帰国後]村井邦彦はすぐに音楽出版社〈アルファミュージック〉を設立(略)

[ある日]ラジオからその曲が聞こえてきて、驚いた。フランク・シナトラが歌っているのである。しかもその曲はすでに全米ヒットチャートの一位を独占状態だという。ポール・アンカが詞を作り、曲名は「マイ・ウェイ」になっていた。こうして、僕と村井が発見した「マイ・ウェイ」はいろいろな意味でアルファミュージックの貴重な財産となった。

マッシュルーム・レーベル、ユーミン

 話は一九七〇年に戻る。

 ヘアーの公演が終わり音楽制作を再開した僕は、友人のミッキー・カーチス内田裕也、そして京都のイベントプロデューサー・木村英輝たちとともにレコードレーベル創立の構想を練っていた。(略)

当時流行していたドラッグ・カルチャーや、幻覚作用のあるキノコ、マジックマッシュルームの話題になった。

 「それを食べると、ずいぶんハイになれるらしいよ」

 なんて話をしているそばで、ミッキーの当時の奥さんが真っ赤なマッシュルームのイラストを描いていた。それを気に入った僕らは「これをレーベルマークにして、名前はマッシュルーム・レーベルにしよう」と決めたのだ。

(略)

[四人とも経営資質はないので村井邦彦に相談]

村井は大いに面白がり、仲間になってくれるという。村井邦彦が、ものすごい行動力、そして交渉力の持ち主であることは承知していたけれど、コロムビアレコードに掛け合って、すぐに制作費二千万円を調達してきたことには驚いた。

(略)

村井邦彦の発想による(略)気の合うミュージシャン同士でセッションをしながら音楽をつくりあげていく[という制作方法でスタート](略)

[しかし、セールスはふるわず、ついにはアルファのオフィスの片隅、机ひとつの会社に。風前の灯から、突然の奇跡、「学生街の喫茶店」が100万枚の大ヒット]

(略)

[ユーミンのアルバム売上は3万枚]投資を回収するにはほど遠い(略)

なんとかしなければと(略)テレビ番組とのタイアップ[を試みた](略) 

「ここに、二百万という大金を費やして制作した楽曲がある。これをタダで使わせてやる代わりに、ドラマの始めと終わりにこの曲を流して、クレジットを入れてくれ」

(略)

「あの日にかえりたい」は、本邦初のテレビドラマ・タイアップに[なり大ブレーク](略)三枚のアルバムは、このシングルのヒットに連動して凄まじい勢いで売れ始めた。

 

デヴィッド・サンボーン

 一九七八年(略)僕のアイデア深町純を連れてふたりでニューヨークへ乗り込んだ。当時のニューヨークのトップ・ミュージシャンを多数キャスティングした夢のようなアルバム創りである。

(略)

デヴィッド・サンボーンは幼いころの小児麻痺でまっすぐサックスをくわえることができず、唇の端でくわえて吹くユニークなサックス奏者だった。(略)

ソロを入れる番になったのだが、肝心のサンボーンが見当たらない。(略)

リチャード・ティーがこっそり僕を呼ぶのだ。「ショー。俺に心当たりがあるから、だまってついてこい!」と言う。

 巨漢のティーについて行くと、なんとトイレに入っていった。(略)足が見えるトイレのドアを怪力のティーが蹴破ると、そこに、なにかの麻薬で泡を吹いてくたばっているサンボーンがいた。そのサンボーンを、ティーがかついでスタジオに連れていった。そのまますぐに、一番メインのサンボーンのソロパートを録音することになったのだが、さすがに今の今までくたばっていたので、まずはバックトラックを流して練習をしようと言うと、なんとサンボーンは、いいから即録音しろとのことである。

 言われるままにすぐ録音に入って驚いた!見事に一発OKの演奏だったのだ。

(略)

スティーヴ・ガッドの逸話もある。(略)自由に叩いてもらって(略)マイクの確認作業をしていたところ、不思議なカウベルという打楽器の音が入ってくる。(略)エンジニアとともにこっそりスタジオに入りスティーヴの様子を見に行くと驚いた。なんとスティーヴは右手に二本のスティックをはさんで持ち、タムタムのビートの隙間に目にも止まらないタイミングでカウベルを鳴らしていた。

(略)

[『オン・ザ・ムーブ』発売]

彼らを日本に招聘してコンサートを行い、ライブアルバム『深町純&ニューヨーク・オールスター・ライヴ』を録音(略)

このとき来日した(略)マイク・マイニエッリというヴィヴラフォンの名手には(略)吉田美奈子の『モノクローム』に参加してもらった。(略)「トルネード」という楽曲が気に入ったマイニエッリは、延々と演奏をやめなかったというエピソードがある。

イエロー・マジック・オーケストラ

 一九七八年、僕の企画事務所であるシロ・プランニング[で](略)村井邦彦と話をしていると細野晴臣がやってきた。〈イエロー・マジック・オーケストラ〉という新しいプロジェクトを構想しているという。ニューミュージック系のセッションミュージシャンの親分である細野がオーケストラというのだから、僕たちはてっきり大勢のミュージシャンを集めて演奏するのだろうと想像した。

 村井邦彦は「細野に全部任せる!」と言って細かいことは気にしていない様子だった。

 数か月後、村井邦彦から[困った声音の]電話が来た。(略)

彼がかけたテープから聞こえてきたのは「ピッ、ボッ、ブー」といった調子の奇妙な電子音だった。

(略)

 ラジオは、どこの局でも扱ってもらえなかった。当時のラジオ局の番組編成では音楽はすべてジャンル分けされていたのだが、YMOの音楽はどれにも当てはまらず、またサウンドが奇抜すぎるということで断られてしまう。

(略)

 そんな状況で思いついたのが一九七八年十二月に新宿紀伊国屋ホールで催した〈アルファ・フュージョン・フェスティバル〉というイベントだ。(略)

[アルファには、渡辺香津美カシオペアがいるし]

A&Mレコードに協力を依頼すれば出演者には困らないだろう。それらのフュージョン・アーティストのあいだにジャンル不明のYMOを出演させて、なんとかプロモーションできないだろうかという苦し紛れの戦略を実行することにした。

 

[米国からはニール・ラーセンの出演が決定]

プロデューサーであるトミー・リピューマの滞在するホテルオークラへ、上等なシャンパンを幾本か持っていき、しこたま飲ませた。(略)

 半分酩酊状態で紀伊国屋ホールに到着したトミー・リピューマは、YMOの演奏が始まると、ノリノリだ。

「これはユニークで面白い!アメリカでリリースしよう!」

 なんて口走っている。おっ、と思ってさっそく村井邦彦に連絡。村井はすぐにA&Mの会長であるジェリー・モスに電話して、「日本でトミーがこう言ってるから、アメリカでのリリース、よろしく頼むよ!」と勢いよく伝え、ジェリー・モスはなんだかよくわからないうちに「OK」と答えたらしい。

 

 強引な交渉だな、とばかり思われてもいけないので、出来事の背景にあるA&Mレコードとの信頼関係について記しておこう。(略)

[キングが代理店だった時は、カーペンターズしかヒットがなかったが]

アルファレコードがディストリビューターになってからは、A&Mの作品が本邦で次々にヒットすることになる。(略)ハーブ・アルパートの「ライズ」というトランペット作品は、当時博報堂の敏腕ADであった村口伸一のアイデアで、キリン・シーグラムロバートブラウンのテレビコマーシャルの音楽に採用され(略)大成功(略)[クインシー・ジョーンズ愛のコリーダ」]は、ディスコへのプロモーションで大ヒットさせた。

 後日アメリカのA&M本社に赴いたとき、クインシー・ジョーンズハーブ・アルパートから「日本のアルファと契約してよかった。なかなかやるな!」と大いに感謝された。

(略)

 アメリカに帰ったトミー・リピューマは、酒の酔いも覚め果てて頭を抱えていたらしい。(略)「いったいこれをどうやって売れというのだ!」と。そこへたまたま〈チューブス〉(略)のマネージャーがやってきて、聞こえてくる音に興味を示してきた。トミーから日本のユニークなバンドだと説明を受けるとますます気に入った様子で「今年の夏に行うチューブスの三夜連続コンサートに出演させたい!」と言う。(略)費用はアルファ持ちという話である。(略)[機材運搬に]多くの予算を必要とする。

 アルファレコードの社運を賭けるプロジェクトになった。

(略)

僕がメンバーに提案したのは、アメリカ人が日本人に対して抱いている典型的なイメージを逆手にとって日本のアイデンティティとして表現しようというものであった。日本人は無口で無表情だと思われているのだから「曲間に拍手をもらってもニコリともせず、お辞儀もせず、無表情のまま怒涛の如く演奏を続けよう」と言った。メンバーは「そりゃ楽でいいですね」などと言っていた。また(略)制服を着用するイメージをもっているだろう、と考えたので、ファッションセンスのある高橋幸宏に相談してユニフォームを作ってもらうことにした。

(略)

 アメリカでは、メインアクトの演奏をより印象付けて聴かせるために、メインアクトが登場するまでは演奏ボリュームをしぼるということが慣習的に行われているのだが、YMOのようなインストゥルメンタル・グループの舞台でこれをやられては致命的だ。そこで、舞台監督のマット・リーチに千ドルの賄賂を握らせて、さらに「わざわざ日本から来た、ジェリー・モス肝いりのバンドなんだ。しっかり音を出さないと、ジェリー・モスが怒るぞ!ショウ・ビジネス界に出入りできなくなるぞ!」と念を押した。

 

 そしていよいよYMOの演奏が始まると、なんと一曲目から大喝采スタンディングオベーション。会場の熱気は三曲目あたりでピークに達し、そのまま最後の曲まで盛り上がり続けた。非の打ちどころのない大成功であった。

 ロサンゼルスの夏の野外コンサートで集まる観客のほとんどは、マリファナか酒での酩酊状態であり、東京でのトミー・リピューマと同じ状態だったのだろう。

 現地には日本から音楽専門誌約十社の記者を連れていった。「A&Mのスター・アーティストをインタビューできるぞ!」と伝えていたのだが、それを目的に参加した彼らも、YMOの熱狂を目前にして(略)「日の丸ガンバレ」気分で一斉にYMOの記事を書き日本に送った。二日目と三日目には急遽ビデオ撮影班を編成し、記録した映像を日本に持ち帰らせた。それをさっそく村井邦彦NHKに売り込むと、日本人が大活躍しているという明るいニュースに喜んだ。NHKは十五分ほどの特集放送をした。(略)

これが日本中にYMOブームをまき起すことになった。

(略)

YMO一行はアメリカ各地でのライブ・ハウスでのプロモーション・ツアーを行った。

 僕はその途中、日本でのアルバムの販売状況を確認するために東京の村井邦彦に電話をかけた。村井は例によって至極呑気な間延びした口調で「なんか知らないけどライブのテレビ放映効果で売れ始めちゃってるみたいだよ。デイリー・セールが五桁だってさ!」

「ふーん……そうなんだ」

 ツアーで疲れていたためか、具体的な数字をイメージせずに聞き流していたのだが、冷静に考えると、一日五桁というのはとんでもない数字である。

 日本では空前のYMOブームが起きていたのだ。

 そんなことは露知らぬまま、アメリカのドサ回りを終えた僕たちは日本に帰国した。

(略)

[二度目の世界ツアー、出発を前に渋る坂本龍一。ツアーを中止にするわけもいかず]

「ツアーが終わったあと、ソロアルバムを制作しよう」と提案し、ようやく坂本はツアーへの参加を承知した。

(略)

 テレビの司会者が細野晴臣にフランス語でなにやら[質問](略)

細野は大マジメな顔で、

「ざるそば食べたい」(略)

司会者もマジメな顔でフランス語の質問を続ける。

「こんどは天プラそば食べたい」

二十一世紀のヒットと佐藤博

 出所時に僕を待っていてくれたのが現在の妻・陽子である。(略)

娘の煌子が生まれ、おだやかに暮らしていたある日、昔のフラメンコ・ギターの仲間である三谷真言が訪ねてきて(略)

紹介してきたのが大郷剛(略)彼が、レコードデビューをさせたくて夢見ていたのが〈ソルジャ(SoulJa)〉というラップ・アーティストであった。(略)

ラップという音楽があまり好きではなかったのだが、大郷剛が目をキラキラさせて熱心に話すので取り掛かってみることにした。

 そしてまず、昔のフラメンコ・ギター仲間でテレビ東京ミュージックの社長・太田修平に企画を相談し、太田がユニバーサル・ミュージックの会長・石坂敬一にその話をしたところ、「ショーちゃんは昔から知っている。時々大ヒットを創るから、スタッフに伝えるよ」ということで太田の計らいでユニバーサル・ミュージックに行くことに(略)各レーベルのトップが揃って待っていた。

「知っているだろうが、プロデューサーの川添さんだ。この人は必ずヒットを創るから、言うことを聞くように」

 石坂敬一の鶴の一声でアルバム制作が決定した。(略)

 時を同じくして[佐藤博が自宅を訪れ](略)

 「川添さん!僕は現在、情けないことに経済難民なんですよ。家賃が三か月払えずにいて、追い出されそうなんです。自宅にスタジオがあるので出て行くわけにはいかないんです」「よし、わかった。なんとか仕事を作るよ!」というわけで、佐藤博をソルジャのレコーディングのサウンド・クリエイターに起用することにした。

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