インドとビートルズ シタール、ドラッグ&メディテーション

マハリシを揶揄したシャンカル

 一九六八年三月クアラルンプールをツアー中(略)

ラヴィ・シャンカル(略)『ビートルズからグル呼ばわりされ続けるのには怒りを覚える。これは搾取だ』と、彼は先週当地の記者に語った」

(略)

 スカンヤ・シャンカルは、亡くなった夫がマハリシを密かに揶揄していたと明かす。「彼は物真似が上手で、よくマハリシのしゃべり方や、あの有名な笑いを真似て、みんなを笑いの渦に巻き込んでいました」(略)

マハリシが、超越瞑想を西洋に売ることにより世界に一大帝国を築いた事実に、夫が時々驚きの表情を見せていたとも言う。「シタールに無駄な時間をかけないで、聖職者の長衣を着ればよかったと、冗談を言っていました。『ああいった偽のグルになれば、はるかに少ない労力ではるかに多い金を得ることができただろうよ』と彼は私に言いました」。(略)

インドの本当の文化と宗教に対して無知で無垢な西洋人を利用しているに過ぎないと、夫は感じていたとスカンヤは言う。

LSD体験、バーズのシタール指南

『ヘルプ!4人はアイドル』は、隠しおおせない人種差別に基づくステレオタイプのオンパレードだ(略)

インドの文化や伝統をほとんど理解することなく、グロテスクなほどに偏ったプリズムを通してこの国を描いている。(略)レスターは血に飢えた宗教カルトと狂ったヨーギーの国として、インドをしつこく映画に登場させる。

(略)

ラジャハマ・レストランのセットで演奏する(略)モティハールの抱えたシタールに突然ジョージが興味を示したことが、彼の人生と、おそらく他のメンバーの人生を変えることになるのだ。

(略)

[ディランによるマリファナの洗礼]から六ヶ月して『ヘルプ!4人はアイドル』を撮影する頃には、ビートルズはすっかりマリファナに夢中になっていた。(略)

ジョンによれば、彼らは朝食からポットを吸い始め、昼食の頃には完全に酩酊状態になり、そこから先はほとんど何もできなかったそうだ。

(略)

[シタール発見の数日前、ジョン&ジョージ夫妻とのスワッピングを目論む歯科医夫妻にLSDを盛られ]

2組のビートルズカップルは、あわててフラットから逃げ出した。

(略)

クラブに着く頃にはすっかりハイになっていたジョージは、最初に恍惚状態に陥る。

 

 (略)突然、これ以上ないくらいに素晴らしい感覚が襲ってきた。今まで生きてきて感じた最高の気分を、全て集めて濃縮したような感覚だった。信じられなかったよ。恋に落ちたんだ――特定の人や物ではなく、全てと。全部完璧で、照明も完璧。店内を回って、そこにいる全く知らない人々に、どれだけ愛しているか伝えたい衝動にかられたよ。

 

 しかし彼はまた、突然感情に変化が現れたことを思い出してこう言う「ナイトクラブに直接爆弾が放り込まれ、屋根が吹き飛んだみたいだった」。

(略)

 パティは途中でリージェント・ストリート沿いの窓ガラスを割りたい衝動にかられ、ジョージを先頭になんとかディスコティークにたどり着くと、みんな狂ったように笑った。

 最後は、早朝になってジョージが鬼のように集中力を出してミニを運転し(それでもカタツムリのようなスピードで)、バンガロー様式の自宅にみんなを連れて帰った。

 ジョンもまた、幻覚に畏敬の念を抱き、この時のLSD体験を「恐ろしくも素晴らしい」と語っている。(略)ジョージの家が巨大な潜水艦になり、他のみんなが寝床に向かうなか、自分の操縦する潜水艦は、ぐるぐると回りながら家の周りを囲む木製のフェンスを超え、空中を駆け上った。

 シンシアにとって、LSDとの遭遇はもっと気味の悪いものだった。(略)

 

 (略)壁が動き、植物がしゃべり、人間が人食い鬼のように見え、時間は止まることができ、とても恐ろしい体験でした。何もコントロールできず、何が起きているか、次に何が起こるのか分からない状態が、すごく嫌でした。

 

(略)

ジョージは、経験したことのない「深さと明瞭さ」を体験したと主張する。

 

 「(略)一二時間に及んだ幻覚トリップは、「目が開かれ、人生で大切なことは『自分は何者だ?』『私はどこに行くのだ?』『どこからやって来たか?』と自問することで、その他全てのたわごとは、たわごとに過ぎないと気づくこと」

 

(略)

[パティ談]

「ジョージは、なぜ自分がこれほどまでの選ばれし有名人と成功者になったのか、取り憑かれたように考えていました。運命の介入がなければ、リヴァプールで単純労働をしながらありきたりな生活を送っていたことを、彼は知っていたのです。自分のなかの何が原因で、他の人と違う道を歩むことになったのか、ジョージは必死で探していました。これらのことを起こしたのは、どのような神の霊なのか、彼は本気で知りたがっていました」

(略)

[シェイ・スタジアムの後、五日間の休み、ザ・ザ・ガボールの邸宅を借りパーティ]

(略)

[ゲストはバーズ、ジョーン・バエズピーター・フォンダ他]

[ジョージ談]

 ジョンと僕は、ポールとリンゴがアシッドをやらないとだめだと思ったんだ――そうでないともうお互い分かり合えなくなっていた。(略)アシッドはジョンと僕を大きく変えたからね。(略)ニューヨークで手に入れたのはアルミで包んだ角砂糖で、LAにたどり着くまでツアー中ずっと持ち歩いた。

 

 周到に計画し手間をかけたにも関わらず、ポールはLSDを頑なに拒む。他のメンバーと違い、彼は本能的に薬物を敬遠する傾向にあった。(略)

[リラックスできるマリファナ]に比べ、前触れもなく激しく気分が上昇するLSDを彼は怖がった。

(略)

 リンゴはといえば、ためらうことなくLSDを染みこませた角砂糖を口に入れた。(略)ニール・アスピノールとマル・エヴァンスが、この特権グループに入るためにLSDを受け入れる。まあリンゴは、そういう役目をいつでも負わされていたわけだが。(略)ディランがビートルズマリファナを紹介した時も、ジョンはモルモットとしてリンゴに最初にジョイントを吸うよう命令した。

(略)

ピーター・フォンダもまたハイになっており、子供の頃に誤って自分を銃で撃ち、一瞬心臓が止まった経験から、LSDによる臨死体験に詳しいと、うっかり自慢してしまう。フォンダはビートルズの目の前に裸の腹を突き出して弾傷を見せ、死についてべらべらと喋り続け、彼らをうんざりさせる。その時のLSD体験をぼんやりとしか覚えていないビートルズであったが、このハリウッド俳優がどれだけ嫌な奴だったかは、しっかり記憶に残った。

(略)

ジョージは魂が肉体から離れる不思議な光景を思い出しながら、次のように語る。

 

 気がつくと、「離れる」んだ。どこかに行き、それから、どしん!と、自分の体に戻る。見回すと、ちょうどジョンが同じことをやっているのが見えた。並んでしばらく離れ、それからボーン!(略)

 

「ポールはすごく疎外感を抱いていた。僕らは意地悪に『俺たちはやってるけど、お前はやってない!』と言っていたからな」と、ジョンは振り返る。

(略)

 ジョンもまた(略)ジョーン・バエズと、微妙な状態になる。(略)

彼女によればその寝室には、「小型のプールくらいの大きさ」のベッドがあった。

(略)

[バエズ談]

私は寝て、夜中になってジョンが入って来た。たぶん彼は、こんな風に義務感を感じていたのかも「僕が誘ったし、彼女はスターだし、どうしよう」。それでジョンは、情熱のかけらも無い感じでモーションをかけてきた。私は言った「ジョン、ねえ、私もあなたと同じくらい疲れてる。私のためにやろうと思わなくていいよ」そしたら彼は、こう言った(リヴァプール訛りで)「ええ、ほんと?待って、ほっとしたよ!ほらだって、僕だってもう下でフック[ファックが訛ったもの]して来たかもしれないだろ?」。(略)2人で大笑いして、それから眠りに落ちた。

(略)

パーティのさなか、ヒンドゥスターニー古典音楽が話題に上る。(略)ジョージがバッハから引用した、いかしたリフを弾いた直後、クロスビーがそれに触発され、ラヴィ・シャンカルの音楽から拝惜して自分のレパートリーにしているリフを披露した。シタールについて言及されるのをジョージが聞き、ジョンもまた興味を示す。この時点では2人ともヒンドゥスターニー古典音楽の話を一度も聞いたことがなく、その第一人者であるラヴィ・シャンカルも全く知らなかった。

(略)

クロスビーとマッギンが、ラヴィ・シャンカルを「音楽の天才」、シタールを「魔法の楽器」と褒めそやしたことで、ビートルズは興味をそそられる。バーズはレコーディング中のラヴィ・シャンカルにワールド・パシフィック・スタジオで出会い(バーズも同じスタジオで録音していた)、シタールの巨匠の素晴らしさに圧倒された。マッギンは12弦ギターを弾いていたので、18弦から21弦まであるシタールの演奏が、いかに難しいか把握できたのである。彼はラヴィ・シャンカルを見て覚えた、インドのラーガに不可欠なチョーキングの技法と、節のインプロヴィゼーションをギターで実演してみせる。

(略)

[後年マッギンは]ビートルズインド音楽の話には熱心だったのに、話題が宗教に及ぶと興味をなくしたと(略)語っている。

ラバー・ソウル

 ロンドンに戻ると、ジョージは(略)ラヴィ・シャンカルのレコードを数枚買い、時間があれば熱心に聴いた。彼はまた、インドのアンティーク雑貨店、インディア・クラフト(略)に行き、極初歩的なシタールを購入し、シタールを絶対にマスターすると決心する。彼がシタールを一九六五年秋、ビートルズのニューアルバム『ラバー・ソウル』のレコーディングに使ったのは、実際に上手く弾けるようになるだいぶ前――それどころか、指導者の下でちゃんとしたレッスンをまだ受けてもいない頃だった。

(略)

[『ラバー・ソウル』には]アシッド・トリップが与えた衝撃が、手に取るように分かりやすく作品に表れているのだ。例えば、"Day Tripper"でジョンは、後に彼が「週末だけのヒッピー」と呼ぶ、トリッパーを装いながらも幻覚剤の効果をフルに楽しむ勇気の無い人々を揶揄することに、残酷な快感を得ている。同曲では、"a prick teaser"――後に不適切な表現を改めて、"a big teaser"になる――と嫌みを言われる女の子が出てきて、数ヶ月前に発売されたローリング・ストーンズの"Can't Get No Satisfaction"との共通点が見いだされ、面白い。ビートルズと同じようにハードなロックに進化する、筆頭ライバルのストーンズと、直接対決する気満々だったことが分かる。“Nowhere Man"でジョンは、自分の身に起こった変化について、もっと真面目で素直な告白をしている。著名な音楽評論家のイアン・マクドナルドは(略)『レヴォリューション・イン・ザ・ヘッド』で、この曲を「自分とかけ離れた人物と、"太っちょエルヴィス"期にあった自分自身――ブライアン・エプスタインの決めたパブリック・イメージを演じるため現実から切り離され、何部屋もあるウェイブリッジの豪邸で隠居するうち迷子になり、夫婦関係も冷え切り、押し寄せるドラッグの波により着実にアイデンティティの境界線が崩されている自分の両方を観察した曲」と記述する。

(略)

 興味深いのは、ジョージではなくジョンが最初に、ジョージが数ヶ月前に買った新しいシタールを"Norwegian Wood"で弾くよう勧めた点だ。(略)

 

 「ジョージがシタールを持ってたから、彼に僕の書いた曲の『ディーディドゥリーディーディー、ディドゥリーディーディー』の部分を弾いてくれと頼んだ。まだシタールをそんなに触ってなかったから、弾けるか自信が無かったみたいだけど、挑戦する気になってくれた」

(略)

ジョージの腕前はまだまだで、シタール自体の品質もひどいものだった。音響技術者にとっても[悪夢で](略)

シタールはリミッティングの問題を引き起こした。鋭い波形により、満足な音質を出す前にVUメーターの針が赤に振れてしまった」

(略)

[裕福なマイソール家に生まれたアンガディは父の命でイギリスへ]

一九四三年、裕福なイギリス人実業家の娘であるパトリシアと結婚。(略)三年後にパトリシアが相続した遺産でアジアン・ミュージック・サークルを設立。(略)

六〇年代半ば、ジョージのシタールの弦が切れた頃には、アンガディ夫妻はシタールの巨匠と親しい間柄になり、シャンカルがロンドンにいる間は、必ず夫妻を訪ねるようになっていた。

 アンガディとパトリシアの2人は、換えのシタールの弦を渡すため自らスタジオに足を運び、“Norwegian Wood"のレコーディング・セッションを見守った。(略)

[これが]ジョージがシタールに真面目に取り組み、ロンドン在住のインド人音楽家と知り合いになり、遂にはマエストロ、パンディット・ラヴィ・シャンカルとの対面を果たす足がかりとなった。さらにシャンカルとの関係により、ジョージはインドとその文化に計り知れないほど没頭していくのである。

ポール、遂にLSD体験

 一九六六年前半に3度目のアシッド・トリップを決行したジョンは、それ以降二年ほど定期的にLSDを摂取し、それはリシケシュに行くまで続く。ここで重要なのは、彼が身体的な体験と並行して、LSDにより誘発される内的視覚を土台にした文化、アート、及び人生観の推進を求めるイデオロギーを受けことだ。もはやドラッグの力を借りて頭のなかで遊ぶようなレベルではなくなっていた。皮肉なことにまだLSDを受け入れていない唯一のビートルであるポールが、ジョンをロンドンの新しくてヒップなインディカにれて行き、ジョンは『チベット死者の書:サイケデリック・バージョン』を発見することになる。(略)

どうもジョンは、本屋でその本を全部読み終えてしまったようだ。(略)

ジョンはすっかり感心してしまった。彼は遂に、ジョージと一緒にロンドンとビバリーヒルズで体験した実験を、知的な枠組みで捉えることができたのだ。

 (略)

東洋の神秘主義にはまるようになり、ジョンとジョージの関係はより特別なものに発展した。ポールでさえも、ジョージの存在感がバンド内で大きくなったのを認め(略)[ジョージの曲が]『リボルバー』には3曲収録(略)

また、ポールを驚かせたのは、ジョンの曲"She Said Sha Said"でポールが演奏するのを、ジョンがきっぱりと断ったことだ。ビバリーヒルズでの2度目のアシッド・トリップの最中にピーター・フォンダと出会ったことを歌にした曲なので、ジョンはポールの代わりにジョージを選んだというわけだ。それから間もなくしてポールは、LSDに対する懸念を振り払い、初のアシッド体験をする。(略)

一九六六年、友人のタラ・ブラウン(略)がトイレで吸い取り紙に吸わせたLSDを摂取しているのを見かけたポールは、口にしないかと誘われる。

(略)

 「やりたくなかったんだよ。他の多くの人同様、先延ばしにしていたんだけど、同調圧力がすごくて。バンド内に至っては、同調圧力というよりも恐怖圧力だった。友人からのプレッシャーと違って、3倍の力で『なあお前、メンバーみんなアシッドやったんだぞ。何ぐずぐずしてんだ?理由は何だ?どうかしてるぞ』ってプレッシャーかけてくるからね。(略)いつかやるなら今しかないと思って『いいよ、やろう』と言い、みんなでやった」

ラヴィ・シャンカル

 ジョージが最初に会った頃のラヴィ・シャンカルは、キャリアの頂点にいた。(略)

一九五〇年代半ば頃には、インドの文化大使として無数のコンサートをヨーロッパやアメリカ合衆国で行い、シタールの名手として世界で絶賛されていた。(略)

一九五六年には、ロサンゼルスのジャズ・レーベル、ワールド・パシフィック・レコードからアルバムが続々と録音・リリースされる。『スリー・ラーガズ』で始まったそのシリーズは、ジャズ界隈で好評を得ただけでなく、アメリカのフォーク・ミュージックに影響を与えることになる。

(略)

幼少期の彼は、母親と一緒に(略)ミドルクラスのベンガル人家庭で育つ。(略)

パリのフランス語の学校に入学。程なくしてインド舞踊団の一員として、ヨーロッパやアメリカ中を旅することになる。一八歳になり突然、中央インドの人里離れた村で、エキセントリックな天才音楽家ババ・アラウディン・カーンの下でシタールを学ぶことを決め、帰郷。カーンの一番弟子としてインドや海外で観客の心をつかみながら、著名人になっていく。

(略)

シャンカルに強い影響を与えた特別な人物は、3人いる。(略)

遠く離れて住む父シャーム・シャンカル・チャウダリーの強い影響下で育つ。父親はすさまじく幅広い才能と能力を持ち、サンスクリット学者であり、ヴェーダ語の詠唱に長けたヨーギーであり、政治家、弁護士、哲学者でもあった。(略)権力を持つ大臣からマハーラージャ、そしてロンドンの主要な法廷弁護士と枢密院のメンバーになり、オックフォード大学で哲学の学位、ジュネーブ大学で政治学の学位を取得した。父親よりも直接影響をラヴィ・シャンカルに与えたのは、長兄ウダイ・シャンカルである。彼は、二〇世紀前半に西洋にインド舞踊を広めた先駆者であった。ラヴィ・シャンカルの3人目の良き指導者は、彼の音楽のグルであったババ・アラウディン・カーンだ。

(略)

 シャンカルが最初に父親に会ったのは八歳の時、父が母を捨てロンドンのイギリス人女性と一緒になって大分経ってからだ。(略)

バナーラスにある街で一番の高級ホテルで、末の息子を待っていた。完璧に仕立てられたスリー・ピースのスーツを着た父親は、3人の白人女性と朝食を取っており、少年シャンカルは生まれて初めて白人を目にする。(略)女性達の香水と父のコロンに香りに少年は圧倒された。(略)

父の身につけた西洋スタイルとの出会いに怖じ気づきながらも、わくわくしたラヴィ・シャンカルは、田舎じみたミドルクラスの我が家に戻る。母親は、夫の不在と遠い国での不貞、お金の無い状態が長く続いていることにより(略)よく泣いていた。

 奇跡が起こり、数年もしないうちにシャンカルは、西洋の文化の中心地に移り住む。その頃には海外で著名な舞踊家になっていたウダイ・シャンカルが、母親と弟たちを含む家族全員を、パリに移住させることにしたのだ。(略)

伝説のロシア人バレリーナ、アンナ・パブロワに見いだされ(略)一緒にインド神話に基づき振り付けされた演目を踊るようになる。彼が独立して自身のインド舞踊団を結成する頃、西洋では、東洋のエキゾチックな文化に対する興味が高まっていた。

(略)

少年ラヴィ・シャンカルは、弱冠一二歳で兄のバレエ団に採用され(略)音楽とダンスの習得に類い希な才能を見せ(略)すぐにツアーに参加するようになる。これによりシャンカルは、世界中の面白い人々に出会い、新しい経験をするようになった。

(略)

バレエ団の何でも屋でいることに飽き、最も好きなシタールをちゃんと習得しようと、一八歳の時にインドに戻る決意をする。時は一九三〇年代半ば、ヒトラーの登場により、迫り来るヨーロッパの紛争の暗雲が(略)帰郷の理由の1つかもしれない。しかし最大の目的は、敬愛し崇拝するインドの最も革新的なサロード奏者で、ヒンドゥスターニー古典音楽の指導者であるアラウディン・カーンであった。

(略)

中央インドの人里離れた村、マイハールでの厳しい訓練が始まった。ゴキブリや蜘蛛、時にさそりやヘビの出る狭くみすぼらしい部屋に、シャンカルは滞在しなければならなかった。朝から晩までシタール習得に邁進した彼は、ラーガを完璧に演奏するために、シタールに伴うヴォーカルや他の楽器のトレーニングにも没頭した。

(略)

シャンカルの父は、ロンドンの裏道で不可解な殺人の犠牲者となり、それから間もなくして、母が悲しみの中で世を去った。(略)カーンと彼の妻は、この若い弟子の養父母になった。彼らの結びつきを一層強くしたのは、シャンカルと[カーンの娘]アンナプルナの結婚だ。彼は二一歳、彼女はまだ一四歳であった。

(略)

 ラヴィ・シャンカルがまず若いビートルに伝えたこと――シタールの演奏は西洋の古典音楽におけるヴァイオリンやチェロを学ぶのと同じで(略)ギターとは大きく異なる――から、彼が西洋のポップ・ミュージックを見下していることが透けて見えて面白い。シャンカルがロックにシタールを導入することを快く思っていなかったことも明らかだ。(略)"Norwegian Wood"におけるジョージの試みにも感心しなかったようだ。公の場では、この画期的な曲を「おかしな音を奏でる」とはねつけるに留まったシャンカルであったが、ジョージと2人の時はもっと辛辣だったようだ。(略)

ジョージが、ピーター・セラーズ風のインド訛りで、ラヴィ・シャンカルの言葉を再現した。『何てことでしょう。ここでお弾きになっているものは何ですか、ジョージ?(略)失礼を承知で言わせていただければ、何かこう、ぞっとするような、ビヨーンとした、ラジオ・ボンベイで聞く粉石けんの宣伝のようなあれです』

(略)

ビートルズの音楽も好きではなかったようで(略)

 ジョージと会ってから、私はビートルズの音楽に興味が湧きました。彼らの歌声には、あまり惹かれませんでした。彼らはほとんどの場合、高いファルセットで歌っていたからです。それ以来ずっと、その流行は続いているようですが。彼らの歌う言葉を理解するのにも、何とも大変な思いをしました!

(略)

アルン・バーラト・ラームは、ラヴィ・シャンカルがジョージに対して、教師というよりも息子を溺愛する父親のように接しているように感じた。(略)

[シャンカルの妻スカンヤ談]

「彼らの感情の上での結びつきは、共通の音楽の趣味や知的な意見交換といった次元を超えた、もっと強いものでした。頻繁に手を繋いだり抱き合ったりする2人を見るのは、感動的でした。(略)実の息子シュボの間のぎこちない関係とは、非常に対照的でした。(略)」(略)

シャンカルは、父親に畏敬の念を抱いていたにも関わらず、遠く離れて暮らす親子の関係は、親しくもなければ、満足いくものでもなかった。シャンカルはまた、別れる原因となった夫婦間の醜い諍いが、シュボを苦しめたことに対する罪悪感に駆られていた。(略)シタールの巨匠は、子供に関わらないことへの償いとして、シュボに金銭や高価な贈り物をあげたが、父と子の関係は、敵対とまではいかなくとも、冷たいままであった。それにひきかえ、息子と一歳しか違わないビートルが、子供のように自分を信じ、頼ってくれるのは、シャンカルをとてつもなく喜ばせたに違いない。

(略)

[ジョージ談]

 初めてインド音楽を聴いた時、まるでもうそれを知っているかのように感じた。(略)

 ジョージを妊娠中、母のルイーズは毎週放送されるラジオ・インディアをよく聴いていた。(略)

 毎週日曜日になると、彼女はシタールやタブラの奏でる神秘的なサウンドにチューニングを合わせた。エキゾチックな音楽が、お腹の赤ん坊に安らぎと落ち着きをもたらすことを望んで。

(略)

[インド旅の]ハイライトとなったのは、シャンカルのスピリチュアル・グルであるタット・ババを訪れた時だ。(略)

シャンカルの人生にグルが登場したのは、シャンカルが経済的にも精神的にも危機に陥っていた二八歳の時だ。当時の彼は、過度の野心を持ち、音楽事業に金を注ぎ続けた結果、破産しかけていた。さらに不幸なことに、結婚生活もうまくいかず、始まったばかりのカマラとの関係も、彼女をあわてて嫁がせた家族により妨害されていた。(略)神経をすり減らし、街を通る郊外電車の1つに飛び込んで命を絶つことに決める。(略)粗布でできた衣を着ておかしな身なりをした、ヒンドゥー僧のような男が玄関に突然やって来て、トイレを貸してくれと言う。ヒンドゥー僧は、シャンカルが手にしているシタールに気づき、演奏するよう頼む。トランス状態に陥ったかのように言葉に従ったシャンカルは、数時間演奏した後で、その夜ジョードプルの王子のために開かれるリサイタルに間に合わず、気前よくもらえるはずだった出演料も手に入らなくなったことに気づく。落胆するシャンカルにタット・ババは、その晩の出演料はもらえなくとも、これからお金がもっと入るようになり、人生ももっと良くなると告げる。シャンカルの驚くことに、それから間もなくして、奇跡的にデリーのオール・インディア・ラジオで実入りのいい仕事にありつくことができ、妻との問題だらけの関係も、一時的に改善する。それ以来、粗布をまとったヒンドゥー僧は、彼のスピリチュアルな指導者となる。

 ジョージとパティにとって、聖者に会いに行くのは感動的な体験だった。「(略)ラヴィが、グルの前では完全にヘりくだっているのを見て、目を疑いました。(略)」とパティ(略)

 シャンカルの頼みでビートル夫妻に恵みを授けたタット・ババは、それだけでなく、カルマの概念と、前世での行いにより、生まれ変わりを通して、人間の魂が肉体を変えて何度も生まれることを、2人に短く講義した。

(略)

新しい生活への扉をシャンカルが開いてくれたことは、ジョージにとって、過去との完全な決別を意味していた。インドから帰って数週間後(略)クワイエット・ビートルは、容赦なく気持ちをぶちまける。

 

 僕ら、休んで考える時間を持てたから、色んなことを見直すことができた。結局四年間、僕らはみんなが望むことをやってきた。これからは自分たちがやりたいことをやる。振り返ってみると、今までやって来たことは、全部ゴミのようなことだった。

 

 一緒にインタビューを受けていたジョンが、仲間が「ちょっと無遠慮になっている」とあわてて付け加えたが、ジョージの言葉は、全て本心から出たものだった。

マニラでの恐怖体験

一九六六年の夏に世界を回った際、思いがけなく受けたショックの数々がなければ、ビートルズがあれほどかたくなにステージ上での演奏を拒むことはなかったであろう。(略)

エプスタインは、自分がまだボーイズの役に立つことを証明しようと(略)できる限りツアーに出るよう仕向けた。

 日本とフィリピン、初めてアジアを回るツアーは、ドイツでスタートした。ミュンヘン、エッセン、ハンブルグの3都市は、何事もなく回れたが、退屈なままに終わる。ビートルズは叫ぶファンにも動じず、つまらなそうに演奏した。(略)

ファンがひどい目に遭うのを嫌う彼らは、ドイツで地元警察がファンを手荒く扱ったことを知り、驚愕する。ミュンヘンでは、ルールを守らないファンが、ゴム製の警棒で警官にひどく殴られ、エッセンの観客は、催涙ガスを浴びせられ、警察犬をけしかけられた。

 以前よく行っていたハンブルグも、ボーイズのやる気に火を付けることはできなかった。(略)ツアーに同行していたブラウンは、次のように記す。

 

 ハンブルグが公演地として選ばれたのは、ノスタルジアのためだけだ。(略)[だが]かつて彼らが演奏したバーやクラブ(ほんの四年前だ)は潰れてしまって、スター・クラブも板が打ち付けてあった。夜は妖しい魅力に溢れる場所だったのに、日の光の下では、安っぽく古びて見えた。

(略)

 ツアーで訪れる先々で、退屈な記者会見に臨む苦行もあった。会見での質問は、回を重ねるごとにありきたりで中身のないものになっていった。

(略)

[フィリピン到着]

手配された車がホテルに向けて空港を出るよりも前に、アロハシャツを着て、いかつい体格をしたギャングのような見た目の警備員が、ビートルズを拉致したのだ。何が起こっているのか分からぬまま、ビートルズは、マネジメント・チームや滑走路に置きっぱなしの荷物から離されてしまう。(略)[鞄の中のマリファナで]違法薬物所持で逮捕されるのではないかと、彼らはパニックに陥る。

 「(略)あんなに威張り散らされるのは初めてで、礼儀も何も無かった。どこに行っても(略)熱狂していたけど、いつでも敬意はあった。僕らはショービズの有名人だから。でもマニラは、飛行機を降りた瞬間からネガティブな雰囲気が漂っていて、少し怖かった」と、数年後にジョージは語っている。

 ビートルズはまずフィリピン海軍の本部に連れて行かれて、形式的な記者会見を行い、その後でマニラ湾に停泊する豪華ヨットに乗せられる。(略)

[マニラの実業家が]ビートルズとパーティをしようと企てたのだ。

 「とても蒸し暑くて、蚊だらけで、汗をびっしょりかきながら僕らは怖くて震えていた。ビートルズ結成以来、初めてニール、マルとブライアン・エプスタインから切り離された。僕らのスタッフが1人もいなかっただけじゃなく、僕らのいるキャビンの周りのデッキを、銃を持つ警官が列を作って取り囲んでいた。うんざりすることばかりで、みんな暗くなっていた。こんな国に来なきゃ良かったと思ったよ。パスすれば良かった」。

(略)

 マネージャーたちがヨットからボーイズを助け出した頃には、すっかり精神的なトラウマを負い、肉体的に疲れ果てていた彼らであったが、検査を受けないままスーツケースが戻って来て、マリファナも無事だったと聞いて元気になる。地上に戻れたことに感謝し、マニラ・ホテルのスイートルームで、昼食まで爆睡する。だが、ビートルズが安らかに眠る間、彼らの知らないところで、それまでよりもなお一層厳しい試練が沸き起ころうとしていた

(略)

[イメルダ夫人の]招待状はビートルズがまだ日本滞在中に届き、過激派右翼の脅迫による混乱やパニックに巻き込まれ、ビートルズもエプスタインも、その存在を知らされないままだった。

 マルコス夫妻は(略)政権の座に着いたばかり(略)以降数十年にわたりフィリピンを独裁支配し、その悪名が世界に轟くことになる。

(略)

マルコス夫人は、セレブリティの世界に対する憧れが強く(略)海外から国を訪れる芸能人は、例外なく彼女のパーティに参加することになっていた。逆にビートルズとエプスタインはといえば、海外ツアー中は、政府や大使の主催するフォーマルな歓迎会に絶対に出席しないことを決めていた。

(略)

ファーストレディは当然ビートルズが来るものと思っていて、多くのマニラの新聞が既に、歓迎会の開催を報道していた。ビートルズ一行のなかに、地元の新聞をわざわざ読もうとする者はいなかったのだが。

(略)

「[ホテルにやってきた]高官たちは、冷たく言い放った『これはただの要請ではない。通達がここにある。(略)』」。(略)

エプスタインは従うことを拒否し、ビートルズを説得することも断る。

 仮にあの時点で全員が前向きに素早く行動していれば、予定時間にボーイズは宮殿に到着し、惨事を免れることができただろう

(略)

数分もしないうちに英国大使のオフィスからエプスタインに電話がかかってきて、ファーストレディの願いにビートルズが応じない場合、非常に危険な橋を渡ることになり、マニラでビートルズの受ける「支援と保護」は、大統領の一存にかかっていると忠告される。(略)それでもエプスタインは頑として譲らず

(略)

数時間してもバンドは現れず、目撃者によれば、マルコス夫人は、怒りで青くなり、ハーハー言いながら出て行ってしまう。泣き出す子供たちもいた。個人的な侮辱と受け取ったマルコスの子供たちの発するファブ・フォーに対する怒りの声は、次第に大きな合唱になっていった。「ビートルズに飛びかかって、あいつらの髪の毛を切ってやる!(略)」と、八歳のボンボンが金切り声を上げた。

(略)

「次の日の朝、ホテルのドアを激しくノックする音で目覚めると、外は大混乱に陥っていた。(略)

 僕らは目を見開いてテレビを観ていた。信じられない思いだった。大統領官邸訪問をすっぽかす自分たちを、テレビで観ていたんだから」と、ジョージは振り返る。

 ファーストレディを侮辱した罪で、マニラのテレビ局がビートルズを公然と非難し始め、エプスタインは、手に負えないほど事態が悪化したことに気づく。彼は急いでテレビ出演し、直接の謝罪を試みる。(略)[だが]宮殿からの要請で、突然放送が中断されてしまう。ファーストレディからの宣戦布告だ。

 マネジメント・チームの誰も、いかに深刻な状況であるかビートルズに伝えず、彼らはそのまま、その日のコンサートに向かう。初めの午後のコンサートは事故も無く終演したが、夜に行われた2回目のコンサートでは、嵐を予感させるような不吉な兆候がみられた。(略)

 

 2回目のコンサートの最後に、ホテルまで護送してくれるはずだった警察が撤退して、我々の車列の後ろの門が封鎖された。乗り込んだリムジンは身動きが取れなくなり、12人、というより20人はいたヤクザ者のグループが、脅すように窓ガラス越しに体当たりして来て、リムジンを前後に揺らし、ビートルズに向かって暴言を叫んでいた(略)ようやく門が開いて、我々は猛スピードで逃げ去った。

 

 朝になり、ビートルズのマネジメント・チームが朝食をオーダーしようとすると、驚くことに断られてしまう。「もうルーム・サービスは提供できません。あなた方は、我々のリーダーを侮辱したのですから」と、ウェイターが無愛想に告げる。大急ぎで荷物を持ちロビーに降りると、ホテルのポーターだけでなく、警察や付き添いの警備員まで消えたことが分かり、全員愕然とする。

(略)

追い打ちをかけるように(略)フィリピン内国歳入庁の担当者がエプスタインのもとを訪れ、開催されたコンサートの所得税として、八万ドルに及ぶ大金を要求。地元のプロモーターとの契約書には、ビートルズのツアーで発生する税金は、全てプロモーターが支払うと明記されていたにも関わらず、だ。

(略)

ジョンは、フィリピン人ジャーナリストに皮肉を言う「フィリピンについて学ばなくちゃいけないことが、いくつかある。まずは、どうやってここから出るか、からだ」。この言葉が驚くほど未来を予言したものであることは、すぐに判明する。

(略)

[マニラ空港に到着すると]

エスカレーターは止められ、ポーターも利用できず、ボーイズとマネジメント・チーム、及び技術クルーは、楽器やアンプ、大型機材を自分たちで運ばなければならなかった。怒ったフィリピン人の集団が空港内に集まり(中には銃や警棒、こん棒を振り回すものもいた)、凄みを利かせながらビートルズ一行ににじり寄り、事態は深刻を極める。

 ビートルズの一団は、暴徒の攻撃を浴びるしか他になく、エプスタインは顔面をパンチされ、股間を蹴られる。あばら骨に蹴りを入れられ、転倒したエヴァンスは、片方の足が流血した状態で、足をひきずりながら、飛行機を目指して滑走路を移動。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの周りをチームが身を挺して守ったので、ボーイズは直に一撃を食らうことなく脱出できたが、すんでの所だった。

(略)

空に浮かんだ機体から見下ろすと、滑走路で彼らに向かって拳を振り上げる群衆が見えた。(略)穏やかなリンゴでさえも、「人生で一番嫌な体験だった…牢屋に入れられるかと思った」と当時を振り返る。

(略)

 ビートルズとスタッフの数人は、ツアーを推し進めて来たエプスタインが、これほどの惨事を起こしてしまったことにも苛立ちを抑えられずにいた。激しい怒りに燃えたチーム・マネージャーの1人が、マニラのコンサートの集金にしくじったことを機内でエプスタインに詰め寄り、一触即発の状態になる。どっちにしろ、しばらくツアーをしたくないと思っていたビートルズは、海外で公式なコンサートをするのはもうごめんで、次のアメリカ公演を最後にツアーをやめたいと、エプスタインに伝える口実ができた。「どうせ誰も音なんか聞こえないんだから。もうお断りだよ。ツアーはこれでおしまいだ」とションが宣言するのを、ブラウンは覚えている。

 ボーイズを身体的な危険にさらしたことで自責の念に駆られ、彼らから責められることにも深く傷ついたエプスタインは、大きな不安に襲われて神経衰弱になり、全身にひどいじんましんができてしまう。

キリスト発言

自分の手からビートルズが離れていくのではないかとパニックに陥り(略)アメリカ公演に全ての望みを掛ける(略)[が、ジョンのキリスト発言で]無残にも打ち砕かれてしまう。(略)

元の記事を書いたのは、ビートルズと仲の良いジャーナリストのモーリーン・クリーヴで(略)後にジョンは、彼女と短い間浮気していたことを認めることになる。ジョンを好ましい人物として親密な感じで描いた記事に含まれる(略)ほんの一部を切り取ったのが、件の発言だった。(略)

キリスト教はなくなる。あれは、消えて小さくなる。反論してもしょうがないよ。僕は正しいし、正しいことは証明されるはずだ。今じゃ僕らの方が、キリストよりも人気がある。どっちが先になくなるか――ロックンロールか、キリスト教か。キリストはまあいい奴だったけど、弟子はまぬけで凡人だった。あいつらがねじ曲げたから、僕は嫌になった」。

(略)

ボーイズを再び危険にさらすことに恐れおののいたエプスタインは、ツアーのキャンセルを真剣に考え始め(略)弁護士のナット・ワイスに、ツアーを直前にキャンセルした場合に発生する損失を算出してもらう。一〇〇万ドル以上になると告げられ、取り乱したエプスタインは、自分のポケットマネーから出そうとするが、ジョンが自分で謝罪すれば米国ツアーを断行できると、弁護士に説得される。

(略)

 ブラウンによれば、ブライアンが強引に説得を重ねた結果、少なくとも記者会見で発言の意図を説明することに、ジョンは同意する。

 アメリカに着陸してすぐにジョンは、メディアに向けて、長くてやや説得力に欠けた、彼の基準からすれば必要以上に下手に出た謝罪を表明。ビートルズの広報担当バロウによれば(略)ジョンは、公衆の面前で辱めを受けたことで、人目の無い所で崩れ落ちるようにすすり泣いていたそうだ。「彼は実際に手に顔をうずめて泣いていました」「ジョンは、『どんなことでもするよ…言われたとおりにする。僕が言ったことのせいで、このツアー全部がキャンセルになったら、みんなに顔向けできない』と言った」と、ブラウンは記す。

(略)

 各地の都市や小さな街で散発的に公開たき火が行われ、クー・クラックス・クランによる反対運動の儀式も止まなかった(略)

シンシナティでは(略)ローディのエヴァンスが(略)土砂降りのなか、濡れたアンプを電源につなごうとして、ステージ上を1m近く吹っ飛ばされるほどの強い電気ショックを食らったのだ。コンサートは突然のキャンセルを余儀なくされたが(略)ツアーをするようになって以来、初めての経験だった。ビートルズが、もし雨の中で演奏をしていたら、メンバーの1人が感電死していた可能性は十分ある。

(略)

決定的な事件は、バイブル・ベルトの真ん中(略)メンフィスのミッドサウス・コロシアムで起こる。(略)

2回目の公演の途中、ジョンが全力で "If I Needed Someone" を始めた時、銃声のように大きな音がして、眩しい光に包まれる。ジョンが撃たれたのではないかと恐れた他のメンバーは、凍り付く。ジョン自身は、このような状況下でもできるだけ平静を装うとしていた(略)爆発音は銃声ではなく、誰かが客席から投げこんだチェリー・ボムと呼ばれるかんしゃく玉の音であることが分かった。(略)人を殺すような威力は無かったが、ビートルズを震え上がらせるには、十分だった。メンフィスでのチェリー・ボム騒動は、ビートルズの神経に最後の一撃を与え、永遠に彼らがツアー用機材をしまい込むことに繋がった。

(略)

後にリンゴは、なぜ全米ツアーの終わりにひどく幻滅した思いを抱いたのか、彼らしく淡々と説明している。

 

 一九六六年になると、公演旅行がすごく退屈なものになって、自分にとっては終わりにしたい気持ちになった。演奏を聴いている観客なんていなかった。最初はそれでも良かったけど、演奏がどんどんひどくなって。僕がビートルズに加入したのは、彼らがリヴァプールで一番上手いバンドだったからだ。いつでも、上手いプレイヤーと演奏したい気持ちがあった。結局、理由はそういうことだよ。僕らは何よりもまず、ミュージシャン(略)だった。巨大でばかげた台の上に乗せられるためにやっていた訳じゃない。(略)僕らはっきり分かったんだよ。もう意味が無いから、早いとこツアーを終わらせた方がいいと。

 

(略)

 バンド内でおそらく最もツアー後にトラウマを抱えたのはジョージで(略)ラスト・コンサートを終えて、ロサンゼルスに戻る機内で、既に彼はバンドをやめるつもりになっていたのだ。「やれやれ、やっと終わった。もう僕はビートルズじゃない」と、彼はエプスタインにドラマチックに宣言した。(略)二度とツアーしないことを厳粛に誓うエプスタインにより、ジョージはバンドを脱退しないよう説得される。

(略)

 ジョージの情熱が向けられた先は、無論インドだった。

(略)

[一方ジョンは暇を持て余し面白半分で『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演]

(略)

 ロンドンに戻っても、依然として自分やビートルズの向かうべき道を見つけられなかったジョンは、不安から逃れるために、LSDに依存する。(略)

ブラウンによれば、「(略)いつも同様、ジョンはやり過ぎて、アシッドをほぼ毎日摂取した。本人の自白によれば、彼は何千回もトリップしたそうだ」。

(略)

惨事続きだった直近の海外ツアーや、ビートルズが人前で演奏をしないと決めたことへのショックから、エプスタインは神経衰弱に陥る。ジョンがサイケデリックのもやのなかに逃げ込む回数が増えたのは、エプスタインに対する心配も一因だった。エプスタインは、世捨て人のようにドラッグとアルコールに狂っていた。悪いことに、彼のボーイフレンドが、卑猥な写真を盾に評判に傷を付けるぞと、エプスタインを脅迫した。(略)九月の終わり、エプスタインは、睡眠薬を過剰摂取して、全てを終わらせようとする。幸いなことに、大事に至る前に(略)発見され、病院で胃の洗浄を行い回復した。エプスタインの書いた遺書は、スキャンダルを引き起こさないように隠蔽されたが、エプスタインと特に親しかったジョンは、大きなショックを受けた。

次回に続く。