象の記憶 日本のポップ音楽で世界に衝撃を与えたプロデューサー

フラメンコの衝撃、ホセ・フェリシアーノ

〈ヴィレッジ・ゲイト〉に、ある日、テイジとともに出かけた。(略)

 最初に出てきたのは、ハービー・マン(略)次は、ランバート・ヘンドリックス&ロス(略)神業的スキャット・コーラスを披露した。

 そして、いよいよ(略)ソニー・ロリンズ・バンドが登場し、最前衛の音楽で聴衆を熱狂させた。

 これで終わりかと思ったら、ガット・ギターを持った小太りのおじさんが大トリとして登場した。(略)ギターを弾き始めた瞬間、これまでに聴いたことのない強烈な音楽が溢れ出てきたのだ。僕だけでなく、満場の聴衆もその音楽に唖然として聴き入った。一曲目の演奏が終わると、会場が一瞬静まりかえった。そして次の瞬間、全員が立ち上がり凄まじい拍手が起こった。

 たった一本のガット・ギターから、どうしてあのような迫力とリズム、華麗な音色が出てくるのか、とても信じられないものであった。

 おじさんは、涼しい顔で驚異的なテクニックを披露し、怒濤の如く華麗な音楽を演奏した。このおじさんこそが前述したサビカスだ。(略)

世界中の民族音楽に詳しいテイジは、「今のは、スペイン・ジプシーの音楽で、フラメンコというものだ」と教えてくれた。

(略)

どこかに教えてくれるギタリストがいないかと調べたが見つからない。(略)

グリニッジ・ヴィレッジのブリーカー・ストリートという有名な道を歩いていたら、あれ以来耳にこびりついているフラメンコ・ギターの音が、通り沿いの小さなカフェのなかから聴こえてきた。(略)

[演奏していた青年に教えてくれと言うと、彼の先生を紹介してくれた]

フラメンコ音楽には楽譜というものがない。教則本も存在しない。ホアン先生に習い始めてびっくりしたのは、先生がいきなり曲を弾いて「それ、やってみろ!」という、その指導方法だった。(略)

先生の弾く曲に使われるテクニックについてひとつずつ聞いていくと、ロスケアード、アルペジオピカードトレモロ、アルサプアなどと呼ばれるテクニックを複合的に使っていることが判明した。

(略)

 僕は、来る日も来る日も、毎日十時間はこれらのテクニックを身につけるために練習を続けた。

(略)

カフェを三軒持っている、ジャックというルーマニア移民で、百九十センチは優にある大男のボスがいた。(略)

[日本贔屓と聞いて交渉]

「そうか、お前は日本人か!(略)俺は、オーヤマ先生の弟子で、空手をやっていて黒帯だ。(略)

[空手と剣道、どちらが強いかと議論になり、対決し、見事勝利]

「お前はたいしたもんだ!空手のほうが強いはずなのに、剣道が勝つこともあるんだな!」(略)

それ以来、大の仲良しになり、僕はジャックのカフェのひとつでフラメンコ・ギター演奏のライブをやらせてもらうことになった。(略)見物客の多い週末などは、演奏後に灰皿を回すと三十〜四十ドルくらいの実入りがあったものだ。忘れもしないのは、同じカフェに出演していた仲間のミュージシャンに盲目のパーカッショニストがいて、ひとりでコンガを叩きながら独特の小節を利かせた歌を唱っていたことだ。耳がおそろしく敏感で、僕がギターを持って店に入っていくと足音だけで判断し「ハーイ!ショー」と声をかけてきたものである。こいつは僕のフラメンコ・ギターに興味をもったらしくどこからかギターを調達してきて、暇があると「弾き方を教えろ」というのでしばらく手ほどきをしたら、見る見るうちに弾きこなすようになり、右手の奏法にフラメンコ的ストロークを駆使したギター弾き語りで個性的な歌を唱うようになった。

 この人物が、のちにドアーズの「ライト・マイ・ファイア」のカバーで大スターとなったホセ・フェリシアーノである。

(略)

アパートからすぐのウエスト・サード・ストリートにスペイン料理のレストランがあり、なんとその店はサビカスの行きつけだったのである。(略)

サビカスは、その人間性と圧倒的なギターのスキルでニューヨーク在住のジプシー・アーティストたちのドンのような存在であり、レストランはフラメンコ・アーティストたちの溜まり場になっていた。僕は(略)いつのまにかサビカス本人とも親しくなり、隙を見つけては超絶テクニックの一端を本人から直接伝授してもらったのである。

(略)

ある日テイジが「最近ガスライト・カフェで歌っている若いシンガーが素晴らしい!一緒に観に行こう!」と言うので聴きに出かけると、すでに人気者だったらしくカフェは満員。ハーモニカを首からさげ、ギターを抱えて登場したその青年は、ボブ・ディランという名であった。(略)

また、奇妙なバンドがカフェ・ビザールでデビューするというので見物に行くと、八人編成くらいの大勢のメンバーがまるで仮装行列の如き格好で登場し、ロックバンドらしき楽器を持っているのは三人ぐらいで、ほかのやつらは錫杖のようなものでたまに床を打ったり、なにも持たずにたまに喚いたりするだけなのだ。奇天烈で珍妙なパフォーマンスに飽きてしまい途中で退散したのだが、それが、フランク・ザッパマザーズ・オブ・インヴェンションの初舞台だったのだ。

 

本場スペインへ

前衛劇『六人を乗せた馬車』[に](略)音楽監督兼作曲家、そして演奏家として参加することになったテイジが、楽団のメンバーとして僕を誘ってくれたのだ。

(略)

[オフ・ブロードウェイ賞でベスト・プロダクション賞を取り]

アメリカ縦断のキャンパス劇場公演が決まってしまった。

(略)

[さらにヨーロッパ公演も決定。ダブリン公演までの期間、ひとりフラメンコの本場、スペインへ]

 ギタリスタたちは六人ほどいたが、椅子を持ってきてお互いにチューニングを合わせてから、ショウの前の、腕、指ほぐしのためだろう、アドリブでいろいろなフラメンコの代表曲を弾き始めた。ブレリアス、ソレア、シギリアス、アレグリアスなどである。

 フラメンコの場合、曲といっても譜面に書かれたものを指すのではなく、ひとつの名前が付けられた曲様式と呼んだほうが正しい。様式は、リズム、コンパス(一フレーズの長さが決めてあり、そのなかのアクセントの形が決められている)、コード(主題和音)とその変化、の三要素が様式の骨幹を形成している。たとえば最も重要な代表曲「ソレア」は、リズムは三拍子で、十二拍でコンパスを形成する。アクセントは、三拍目、六拍目、八拍目、十拍目、十二拍目と決められている。基本和音は三コードであり、アドリブの遊びもそのなかで行われるので、様式をまず覚えてしまえば演奏するのも聴くのも楽しめる仕掛けになっている。

 誤解のないようにお伝えしたいのは、あくまでこれは基本様式であり、そこから始まって多様な形のものが発生していることを記しておく。

(略)

 さて、ギタリスタたちの素晴らしいアドリブ演奏がいよいよ熱を帯びてきた頃合いに、そばでパルマ(手拍子)をしていたカンタオール(歌い手)が歌い始めた。すると、ギタリスタたちはその演奏の役割を歌の伴奏にパッと切り替える。歌終わりを見計らい、今度はギターがソロを引き取る。一人が独特のファルセタ(フレーズ)を弾くと、別のギタリスタがそこに加担してファルセタを盛り上げていく。カンタオールはじっとそのファルセタを聴き、ノリのよいファルセタが聴こえると「オレー!」と合いの手を入れる。そしてまたカンオールが歌いだすのだ。そこへ、美しいコスチュームを着たバイラオラ[女性の踊り手]が参加してパルマとパソ(足拍子)でさらに盛り上げる。ギターと歌とパルマとパソが渾然一体となって曲はどんどんクレッシェンドしていき、最高潮のそのとき、鮮やかにピタっとキメる。

(略)

「ハポネサは中国人ではない。ハポン(日本)という別の国だ」

「そうか、初めて会った。ではなぜそのハポネサがここに来たのだ?」

「フラメンコ・ギターの習得のためだ」

(略)

「(略)ハポネサがフラメンコを弾けるとは思えない。弾いてみろ!」(略)

サビカスから伝授されたファルセタを交えた一曲を弾き出すと、かなり驚いた様子で、「おーい!ここにいるハポネサという東洋人がちゃんとフラメンコを弾いてるぜ!観に来いよ!」と仲間に知らせた。(略)

軽く一曲を弾き終わると、かなり感心した様子で皆が「オーレー!」とニコニコしながら拍手してくれた。「なかなか、やるな。ちゃんとフラメンコしているぜ、いまのはサビカスのファルセタが入っていたな。どこで教わった?」と今度はギタリスタが訊いてきた。「ニューヨークでサビカス本人から伝授された」「本当か!それは、すごい!お前はサビカスに会ったのか?」と言う。フランコ政権を嫌ってスペインから亡命してしまったサビカスは、スペインのジプシーたちの憧れの存在であることがあらためて確認された。「もっとほかの曲も弾いてみろ」と言うので、弾き始めるとそのギタリスタが一緒にアドリブで参加してきて、僕を取り囲んでのジャムセッションがおっ始まってしまった。

(略)

 その日からほとんど毎夜〈コラル・デ・ラ・モレリア〉へ通い、裏口入店して彼らジプシー・アルティスタたちと親交を深め、ギタリスタからはいろいろなファルセタを教わることができた。

(略)

[4年の海外遊学を終え1964年帰国]

知り合いの映画スター・菅原謙次の妹がフラメンコダンサー小松原庸子であることを知り、彼女のレッスンのギター伴奏をすることを頼まれた。ある日、練習しているスタジオに行くと、そこにもう一人の日本人女性フラメンコダンサーがいた。その踊り手のフラメンコを見て僕は衝撃を受けた。しなやかで情熱的な動き、歯切れの良いリズムの取り方、素晴らしいものだった。彼女が、天才フラメンコダンサー・長嶺ヤス子である。

 僕は彼女の舞踊家としての素晴らしさに魅了され、彼女のほうもギタリストとして本場スペインでの経験のある僕の存在が大切になった。僕らはコンビを組み、いくつかのレパートリーを仕上げた。いつのまにかエージェントが付き、東京じゅうの高級ナイトクラブや大型キャバレーに出演するようになったのだ。(略)

[東京ヒルトンからも出演依頼]

ジョーン・バエズが東京ヒルトンに滞在しスターヒルに食事をしに来たのだ。食事とともにショウを観たジョーン・バエズは、僕たちのフラメンコをいたく気に入り、ショウのあとに僕をテーブルへ招いてくれた。彼女としては、なぜ日本人が本格的フラメンコを演奏することができるのか、不思議だったようである。

福澤幸雄・享年二十五歳

ファッション・モデルの松田和子と幸雄が恋に落ちた。(略)幸雄よりも七歳年上で日本人モデルとして初めてパリのオート・クチュールで活躍した人物である。松田和子がキャンティで食事をしていたある日、幸雄が突然そのテーブルに座り込んで話始めたらしい。(略)二人が出会ってほどなくして、幸雄は松田和子の家に出入りするようになった。

 

 一九六九年二月、松田和子は彼女のアパートでうたた寝をしてる幸雄を起こした。前夜に僕ら兄弟やかまやつひろし等とカードゲームに夜中まで興じていた幸雄は、かなり疲れていた様子だったらしい。幸雄は彼女をアパートに残しレース場に向かうため車で出かけた。

「あの朝……私が幸雄を起こさなければ……」

 彼女がトヨタのテスト・コースでの幸雄の事故死を知ったのは、その日の午後である。

バークレイレコード、〈ALFA〉、「マイ・ウェイ

[父を訪ねてきた]エディ・バークレイというその人物は[ダリダ、シャルル・アズナブールを擁する]〈バークレイレコード〉というフランス有数のレコード会社の社長だった。(略)

[キングレコードからフランス制作のレコードが販売されていたが]

日本のマーケットを視察したエディ・バークレイは日本での独自のレコードプロデュースを思い立ったのだ。著作権管理などが整備されている日本のマーケットの将来性を感じたのだろう。(略)

[著者に専属プロデューサーの依頼]

 こうして僕と加橋かつみの運命的なパリ行きが決まった。

 この一九六九年のパリで僕はロックミュージカル『ヘアー』に出会うことになる。

(略)

[売れっ子作曲家になっていた村井邦彦から国際電話]

「ショーちゃんがいるなら僕もパリに行ってみよう」(略)

行動力溢れる村井邦彦のパリへの最初の旅が、その後の彼と僕とのさまざまな音楽プロジェクトの始まりになった。

(略)

現在日本で最も売れている作曲家であり音楽出版社の社長であると吹聴[すると](略)エディ・バークレイは村井邦彦をバークレイ傘下の音楽出版社エディションバークレイに紹介してくれた。

(略)

[音楽出版社とのビジネスミーティング前日]

「ショーちゃん明日のミーティングのために僕の会社の名前を考えようよ!」

「エッ?会社の名前はまだないの?」(略)

イプシロンというのはどうかな?」

「なにそれ」

「アルファ、ベータ、イプシロン

「それなら一番初めのアルファにしちゃったら?」

(略)

 後日談としてこの時僕はアルファのスペルを〈ALFA〉と書いたのだ。すっかり信用した村井邦彦は日本に帰国してから会社を登録する際そのまま〈ALFA〉にしてしまった。あとで調べたら実はアルファの正式のスペルは〈ALPHA〉だったのだ。

(略)

ヒット曲がたくさん生まれてレコード会社にまで発展した後はかえって〈ALFA〉のほうがかっこよく見えるのが不思議だ。

(略)

[村井の商談中、オフィスの廊下をウロウロしていると]

ギターを弾き、歌っている青年を発見(略)その歌は、夕暮れのような哀愁を感じさせながらも、メロディーは力強く、すぐに魅了されてしまった。

 そこで僕は、商談真っ最中のオフィスに割り込み、ジルベール・マルアニにその青年のことをたずねた。ジャック・ルヴォーという名の青年であり、歌っているのはきっと「コムダビチュード」という曲だが、まだ歌詞ができていないのだと教えてくれた。僕は村井邦彦に、是が非でもその曲の出版権をもらうべきだと伝えた。ジルベール・マルアニに相談すると、出版権を無料で渡してくれるという。そしてなんと、「ポール・アンカが作詞することになるかもしれないがまあ、ハリウッドのことだから少々眉唾だけどね」と、笑いながら話すのである。

(略)

[帰国後]村井邦彦はすぐに音楽出版社〈アルファミュージック〉を設立(略)

[ある日]ラジオからその曲が聞こえてきて、驚いた。フランク・シナトラが歌っているのである。しかもその曲はすでに全米ヒットチャートの一位を独占状態だという。ポール・アンカが詞を作り、曲名は「マイ・ウェイ」になっていた。こうして、僕と村井が発見した「マイ・ウェイ」はいろいろな意味でアルファミュージックの貴重な財産となった。

マッシュルーム・レーベル、ユーミン

 話は一九七〇年に戻る。

 ヘアーの公演が終わり音楽制作を再開した僕は、友人のミッキー・カーチス内田裕也、そして京都のイベントプロデューサー・木村英輝たちとともにレコードレーベル創立の構想を練っていた。(略)

当時流行していたドラッグ・カルチャーや、幻覚作用のあるキノコ、マジックマッシュルームの話題になった。

 「それを食べると、ずいぶんハイになれるらしいよ」

 なんて話をしているそばで、ミッキーの当時の奥さんが真っ赤なマッシュルームのイラストを描いていた。それを気に入った僕らは「これをレーベルマークにして、名前はマッシュルーム・レーベルにしよう」と決めたのだ。

(略)

[四人とも経営資質はないので村井邦彦に相談]

村井は大いに面白がり、仲間になってくれるという。村井邦彦が、ものすごい行動力、そして交渉力の持ち主であることは承知していたけれど、コロムビアレコードに掛け合って、すぐに制作費二千万円を調達してきたことには驚いた。

(略)

村井邦彦の発想による(略)気の合うミュージシャン同士でセッションをしながら音楽をつくりあげていく[という制作方法でスタート](略)

[しかし、セールスはふるわず、ついにはアルファのオフィスの片隅、机ひとつの会社に。風前の灯から、突然の奇跡、「学生街の喫茶店」が100万枚の大ヒット]

(略)

[ユーミンのアルバム売上は3万枚]投資を回収するにはほど遠い(略)

なんとかしなければと(略)テレビ番組とのタイアップ[を試みた](略) 

「ここに、二百万という大金を費やして制作した楽曲がある。これをタダで使わせてやる代わりに、ドラマの始めと終わりにこの曲を流して、クレジットを入れてくれ」

(略)

「あの日にかえりたい」は、本邦初のテレビドラマ・タイアップに[なり大ブレーク](略)三枚のアルバムは、このシングルのヒットに連動して凄まじい勢いで売れ始めた。

 

デヴィッド・サンボーン

 一九七八年(略)僕のアイデア深町純を連れてふたりでニューヨークへ乗り込んだ。当時のニューヨークのトップ・ミュージシャンを多数キャスティングした夢のようなアルバム創りである。

(略)

デヴィッド・サンボーンは幼いころの小児麻痺でまっすぐサックスをくわえることができず、唇の端でくわえて吹くユニークなサックス奏者だった。(略)

ソロを入れる番になったのだが、肝心のサンボーンが見当たらない。(略)

リチャード・ティーがこっそり僕を呼ぶのだ。「ショー。俺に心当たりがあるから、だまってついてこい!」と言う。

 巨漢のティーについて行くと、なんとトイレに入っていった。(略)足が見えるトイレのドアを怪力のティーが蹴破ると、そこに、なにかの麻薬で泡を吹いてくたばっているサンボーンがいた。そのサンボーンを、ティーがかついでスタジオに連れていった。そのまますぐに、一番メインのサンボーンのソロパートを録音することになったのだが、さすがに今の今までくたばっていたので、まずはバックトラックを流して練習をしようと言うと、なんとサンボーンは、いいから即録音しろとのことである。

 言われるままにすぐ録音に入って驚いた!見事に一発OKの演奏だったのだ。

(略)

スティーヴ・ガッドの逸話もある。(略)自由に叩いてもらって(略)マイクの確認作業をしていたところ、不思議なカウベルという打楽器の音が入ってくる。(略)エンジニアとともにこっそりスタジオに入りスティーヴの様子を見に行くと驚いた。なんとスティーヴは右手に二本のスティックをはさんで持ち、タムタムのビートの隙間に目にも止まらないタイミングでカウベルを鳴らしていた。

(略)

[『オン・ザ・ムーブ』発売]

彼らを日本に招聘してコンサートを行い、ライブアルバム『深町純&ニューヨーク・オールスター・ライヴ』を録音(略)

このとき来日した(略)マイク・マイニエッリというヴィヴラフォンの名手には(略)吉田美奈子の『モノクローム』に参加してもらった。(略)「トルネード」という楽曲が気に入ったマイニエッリは、延々と演奏をやめなかったというエピソードがある。

イエロー・マジック・オーケストラ

 一九七八年、僕の企画事務所であるシロ・プランニング[で](略)村井邦彦と話をしていると細野晴臣がやってきた。〈イエロー・マジック・オーケストラ〉という新しいプロジェクトを構想しているという。ニューミュージック系のセッションミュージシャンの親分である細野がオーケストラというのだから、僕たちはてっきり大勢のミュージシャンを集めて演奏するのだろうと想像した。

 村井邦彦は「細野に全部任せる!」と言って細かいことは気にしていない様子だった。

 数か月後、村井邦彦から[困った声音の]電話が来た。(略)

彼がかけたテープから聞こえてきたのは「ピッ、ボッ、ブー」といった調子の奇妙な電子音だった。

(略)

 ラジオは、どこの局でも扱ってもらえなかった。当時のラジオ局の番組編成では音楽はすべてジャンル分けされていたのだが、YMOの音楽はどれにも当てはまらず、またサウンドが奇抜すぎるということで断られてしまう。

(略)

 そんな状況で思いついたのが一九七八年十二月に新宿紀伊国屋ホールで催した〈アルファ・フュージョン・フェスティバル〉というイベントだ。(略)

[アルファには、渡辺香津美カシオペアがいるし]

A&Mレコードに協力を依頼すれば出演者には困らないだろう。それらのフュージョン・アーティストのあいだにジャンル不明のYMOを出演させて、なんとかプロモーションできないだろうかという苦し紛れの戦略を実行することにした。

 

[米国からはニール・ラーセンの出演が決定]

プロデューサーであるトミー・リピューマの滞在するホテルオークラへ、上等なシャンパンを幾本か持っていき、しこたま飲ませた。(略)

 半分酩酊状態で紀伊国屋ホールに到着したトミー・リピューマは、YMOの演奏が始まると、ノリノリだ。

「これはユニークで面白い!アメリカでリリースしよう!」

 なんて口走っている。おっ、と思ってさっそく村井邦彦に連絡。村井はすぐにA&Mの会長であるジェリー・モスに電話して、「日本でトミーがこう言ってるから、アメリカでのリリース、よろしく頼むよ!」と勢いよく伝え、ジェリー・モスはなんだかよくわからないうちに「OK」と答えたらしい。

 

 強引な交渉だな、とばかり思われてもいけないので、出来事の背景にあるA&Mレコードとの信頼関係について記しておこう。(略)

[キングが代理店だった時は、カーペンターズしかヒットがなかったが]

アルファレコードがディストリビューターになってからは、A&Mの作品が本邦で次々にヒットすることになる。(略)ハーブ・アルパートの「ライズ」というトランペット作品は、当時博報堂の敏腕ADであった村口伸一のアイデアで、キリン・シーグラムロバートブラウンのテレビコマーシャルの音楽に採用され(略)大成功(略)[クインシー・ジョーンズ愛のコリーダ」]は、ディスコへのプロモーションで大ヒットさせた。

 後日アメリカのA&M本社に赴いたとき、クインシー・ジョーンズハーブ・アルパートから「日本のアルファと契約してよかった。なかなかやるな!」と大いに感謝された。

(略)

 アメリカに帰ったトミー・リピューマは、酒の酔いも覚め果てて頭を抱えていたらしい。(略)「いったいこれをどうやって売れというのだ!」と。そこへたまたま〈チューブス〉(略)のマネージャーがやってきて、聞こえてくる音に興味を示してきた。トミーから日本のユニークなバンドだと説明を受けるとますます気に入った様子で「今年の夏に行うチューブスの三夜連続コンサートに出演させたい!」と言う。(略)費用はアルファ持ちという話である。(略)[機材運搬に]多くの予算を必要とする。

 アルファレコードの社運を賭けるプロジェクトになった。

(略)

僕がメンバーに提案したのは、アメリカ人が日本人に対して抱いている典型的なイメージを逆手にとって日本のアイデンティティとして表現しようというものであった。日本人は無口で無表情だと思われているのだから「曲間に拍手をもらってもニコリともせず、お辞儀もせず、無表情のまま怒涛の如く演奏を続けよう」と言った。メンバーは「そりゃ楽でいいですね」などと言っていた。また(略)制服を着用するイメージをもっているだろう、と考えたので、ファッションセンスのある高橋幸宏に相談してユニフォームを作ってもらうことにした。

(略)

 アメリカでは、メインアクトの演奏をより印象付けて聴かせるために、メインアクトが登場するまでは演奏ボリュームをしぼるということが慣習的に行われているのだが、YMOのようなインストゥルメンタル・グループの舞台でこれをやられては致命的だ。そこで、舞台監督のマット・リーチに千ドルの賄賂を握らせて、さらに「わざわざ日本から来た、ジェリー・モス肝いりのバンドなんだ。しっかり音を出さないと、ジェリー・モスが怒るぞ!ショウ・ビジネス界に出入りできなくなるぞ!」と念を押した。

 

 そしていよいよYMOの演奏が始まると、なんと一曲目から大喝采スタンディングオベーション。会場の熱気は三曲目あたりでピークに達し、そのまま最後の曲まで盛り上がり続けた。非の打ちどころのない大成功であった。

 ロサンゼルスの夏の野外コンサートで集まる観客のほとんどは、マリファナか酒での酩酊状態であり、東京でのトミー・リピューマと同じ状態だったのだろう。

 現地には日本から音楽専門誌約十社の記者を連れていった。「A&Mのスター・アーティストをインタビューできるぞ!」と伝えていたのだが、それを目的に参加した彼らも、YMOの熱狂を目前にして(略)「日の丸ガンバレ」気分で一斉にYMOの記事を書き日本に送った。二日目と三日目には急遽ビデオ撮影班を編成し、記録した映像を日本に持ち帰らせた。それをさっそく村井邦彦NHKに売り込むと、日本人が大活躍しているという明るいニュースに喜んだ。NHKは十五分ほどの特集放送をした。(略)

これが日本中にYMOブームをまき起すことになった。

(略)

YMO一行はアメリカ各地でのライブ・ハウスでのプロモーション・ツアーを行った。

 僕はその途中、日本でのアルバムの販売状況を確認するために東京の村井邦彦に電話をかけた。村井は例によって至極呑気な間延びした口調で「なんか知らないけどライブのテレビ放映効果で売れ始めちゃってるみたいだよ。デイリー・セールが五桁だってさ!」

「ふーん……そうなんだ」

 ツアーで疲れていたためか、具体的な数字をイメージせずに聞き流していたのだが、冷静に考えると、一日五桁というのはとんでもない数字である。

 日本では空前のYMOブームが起きていたのだ。

 そんなことは露知らぬまま、アメリカのドサ回りを終えた僕たちは日本に帰国した。

(略)

[二度目の世界ツアー、出発を前に渋る坂本龍一。ツアーを中止にするわけもいかず]

「ツアーが終わったあと、ソロアルバムを制作しよう」と提案し、ようやく坂本はツアーへの参加を承知した。

(略)

 テレビの司会者が細野晴臣にフランス語でなにやら[質問](略)

細野は大マジメな顔で、

「ざるそば食べたい」(略)

司会者もマジメな顔でフランス語の質問を続ける。

「こんどは天プラそば食べたい」

二十一世紀のヒットと佐藤博

 出所時に僕を待っていてくれたのが現在の妻・陽子である。(略)

娘の煌子が生まれ、おだやかに暮らしていたある日、昔のフラメンコ・ギターの仲間である三谷真言が訪ねてきて(略)

紹介してきたのが大郷剛(略)彼が、レコードデビューをさせたくて夢見ていたのが〈ソルジャ(SoulJa)〉というラップ・アーティストであった。(略)

ラップという音楽があまり好きではなかったのだが、大郷剛が目をキラキラさせて熱心に話すので取り掛かってみることにした。

 そしてまず、昔のフラメンコ・ギター仲間でテレビ東京ミュージックの社長・太田修平に企画を相談し、太田がユニバーサル・ミュージックの会長・石坂敬一にその話をしたところ、「ショーちゃんは昔から知っている。時々大ヒットを創るから、スタッフに伝えるよ」ということで太田の計らいでユニバーサル・ミュージックに行くことに(略)各レーベルのトップが揃って待っていた。

「知っているだろうが、プロデューサーの川添さんだ。この人は必ずヒットを創るから、言うことを聞くように」

 石坂敬一の鶴の一声でアルバム制作が決定した。(略)

 時を同じくして[佐藤博が自宅を訪れ](略)

 「川添さん!僕は現在、情けないことに経済難民なんですよ。家賃が三か月払えずにいて、追い出されそうなんです。自宅にスタジオがあるので出て行くわけにはいかないんです」「よし、わかった。なんとか仕事を作るよ!」というわけで、佐藤博をソルジャのレコーディングのサウンド・クリエイターに起用することにした。

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