小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム

読んでないはずないけど、読んだ記憶がなくて、読んでみたけど、やっぱり読んでなかったみたい。

「飛びます、飛びます」

萩本 ぼくが結婚コンサルタントで(略)二郎さんに「びっくり結婚式とかいろいろありますよ」って説明していく。二郎さんは「派手な結婚式がしたい」って言うんで(略)「豪華船をだしまして、その上にジェット機を4機飛ばします」と。

小林 二郎さん、「食べものはなにがでるんですか?」とか聞くんですよね。

萩本 そうそう。「費用はいくらでもだせます」って言ってるわりに、「お弁当のなかにはコブが入ってますか?」とか、二郎さんはお弁当のことしか関心がないの。

(略)

で、最後に「じゃあ飛行機を飛ばすところをやってみましょう」って、手で飛行機をつくるんだけど、二郎さんはそれをいきなり飛ばそうとする。「管制官に『飛びます』って伝えてから飛べ」って言ったら、二郎さん、演技じゃなくほんとに恥ずかしがってね。ち~さな声で「飛びます、飛びます……」って。あの恥ずかしそ~な感じが、二郎さんの素敵なところですね。でもそのとき二郎さんは、手でつくった飛行機を口元にもってきて「飛びます、飛びます」って言うもんだから、またぼくにしつこくつっこまれる。(略)

「飛行機を口元にもってくるな!」って言うとやり直すんだけど、どうしても手が口元にきちゃう。それがやけに受けたもんだから、二郎さんは何度も「飛びます、飛びます」ってくり返して、そのうちあらゆるところで「飛びます、飛びます」って言うようになったんですよ。「飛びます、飛びます」がだんだん訛って、最後には「といやす、といやす」って言ってましたけどね。

不条理コント

萩本 (略)ファンレターが1日に200通もきたり、アイドルみたいになっちゃった時期はありましたね。公開放送にも若い子とか子どもがいっぱいくるようになって、そこからコント55号は変わっていったんです。コメディアンて、そこにいるお客さんがいちばん喜ぶことに反応するから、客席に子どもがたくさんいると舞台でコケたり、わかりやすい笑いになっちゃう。反対に大人の観客ばっかりだと単純なことでは笑わないですから、言葉を選ばなくちゃいけない。「コント55号は子どもから大学教授まで観ている」なんて雑誌に書かれたりすると、大学教授でも笑えるネタをつくらなくちゃと思って急に勉強し始めたり。そんなことをやってるうちに、自分がやりたいものと舞台やテレビで観てくれる人が期待するものとのズレを感じて、悩んだ時期もありました。

小林 その頃だったのかな、ぼくのうちにきたことがあったよね。

萩本 そうです。(略)「小林さんだったら、笑いについてぼくの知らない話をしてくれるんじゃないかな」と思ったの。それで確か、無理やりおうちにお邪魔したりしたんだと思います。

(略)

ぼくね、小林さんと会ったあとは、いつも1時間とか2時間とか歩いてました。刺激的な話を聞いたあとは必ず歩くんです。歩きながら聞いたばかりの話を頭に叩き込んだり、それをもとにしてコントを考えたりしてた。

(略)

小林 うちにきたときだったか、『ダム・ウェイター』の話をしましたよね。ハロルド・ピンターが書いた殺し屋ふたりがでてくる有名な芝居で、ダム・ウェイターっていうのは料理屋で料理を上げ下げする小さなエレベーター。そのダム・ウェイターで「殺害リスト」が送られてくるっていうんで、殺し屋はそれを待ってる。ふたりでしゃべったり蹴り合ったりしながらひたすら待ってるだけっていう話で。結局実現はしなかったけど、それを翻訳で読んだとき、「こういう不条理の世界をコント55号がやったらおもしろいんじゃないかな」と思ったわけ。

萩本 あっ、不条理の世界!「55号のコントには不条理の世界が入っている」って解説した人がいたんですよ。取材でもときどき、「どうしてああいう不条理コントをやるようになったんですか?」って聞かれてたんですけど、当時のぼくはさっぱりわかんなくてね。だいたい「不条理」なんていう言葉、55号でデビューした頃はぼくの頭のなかには入ってなかったから、「どっからでてきたんでしょうねえ。二郎さんがもともとおかしい人だから、自然とそっちのほうへ行ったんじゃないですか?」なんてごまかしてた(笑)。ああ、な~るほど、やっと今日わかりましたよ。小林さんから「不条理の世界」っていう話を聞いて、コントづくりのヒントにしたんでしょうね。(略)

小林 だけど55号のコントは、ぼくが日劇で観たときから「不条理コントだな」と思ってましたよ。だってさ、ただ道を聞きにきただけの二郎さんに、なんか気になるようなことを言って何度も引きとめたりしちゃうんだから。

萩本 ああ~、確かにそういうパターンは初めの頃から多かったですね。見ず知らずの人が歩いてるところをつかまえて、「今お帰りですか? 一緒に帰ろうか」って言ってみたり(笑)。コンビでやるコントの基本パターンて、ふたつあるんですよ。ぼくたちコメディアンの言葉で言う「天丼」と「先後(せんこう)」。天丼ていうのは、ぼけが失敗するんでつっこみが修正しようとするんだけど、何度やっても失敗する。

(略)

「先後」は先輩後輩のことで、女の子に声をかける方法を先輩がモテない後輩に指導するのが原型。道路に丸と三角を描いて、先輩が「おまえは丸の位置にいて、女の子が三角の位置にきたら声をかけろ」って言うんだけど、後輩は丸と三角の位置に固執してなかなかうまくできない。関西じゃ「先後」じゃなくて「丸三角」って言うらしいけど、55号のコントはこの先後と天丼の2パターンで回してたんです。そのなかに自然と少し不条理の要素も入ってたんだろうけど、小林さんから「不条理の世界」っていう話を聞いて、それを強烈に意識するようになったんだと思う。不条理ってぼくは好きだな、って感じて。

(略)

小林 二郎さんはいたって普通の人なんだけど、いつもあなたに巻き込まれて追いつめられて、ずいぶん走らされてたよね。それも必ず笑いながら走ってるんだから、おかしいですよね。

萩本 あっ、二郎さんが笑ってるときは、つぎの動きや言葉を考えてるときなの。「イ~ヒヒヒッ……」って言いながら、つぎはどの方向へ行こうか計算してる。

(略)

[活動期間は]

萩本 そう、実質5年ぐらいかな。(略)その5年間のことって、記憶が定かでないんです。なんだろう、操り人形みたいに、だれかに動かされてた感じがする。

(略)

自分のでたテレビも観てなかった。でも、たまに観て気になるところを見つけると、「つぎからあれを気をつけよう」と思って、そこばっかりに注意が向いちゃうんですよ。それで本番終わってから、「いけねっ、直すところだけに気をとられて、お客さんを笑わすの忘れちゃった」っていうことがあったり。活字も途中から読むのが怖くなりましたね。55号について少しでも否定的なことが書いてあると、そのあと1週間ぐらい言葉が浮ついちゃう。「あ、あの、ぼっ、ぼく..…」ってなっちゃうんです。

クレイジー・キャッツ

小林 (略)その頃クレイジーは新宿のジャズ喫茶なんかにでていて、入れ替え制じゃなかったから、コーヒー1杯で2ステージも3ステージも観られた。(略)

スパイク・ジョーンズがやってた「冗談音楽」のような音楽ギャグですね。

(略)

萩本 (略)そういう笑いって日本では初めてでしたよね。クレイジーより前に川田晴久さんたちの「あきれたぼういず」が音楽もやってましたけど、彼らの場合は音楽ギャグと言うより「うた」で笑わせてましたから。(略)

クレイジーがでてきたとき、ぼくはまだコメディアンの修業中でしたけど、「なんか新しい笑いがでてきた」ってぞくぞくしました。音楽とともにある笑いってすごくオシャレな感じがして、浅草でぼくたちがやってる笑いが泥臭く思えてきた。浅草の先輩コメディアンも、みんなそう思ってたんじゃないですかね。それまで浅草のコメディアンがテレビに呼ばれると「浅草出身です!」って胸を張って言ってたみたいですけど、クレイジーが登場してからテレビに進出した人たちは、「浅草出身って言わないようにしよう」っていう気配がありましたもん。

谷啓

萩本 ぼくが[日テレの]齋藤(太朗)さんに聞いた話では、谷さんがでっかい車に乗ってて信号で止まったとき、隣の車の人が「だれだろう、こんなでっかい車に乗ってんのは?」って言ったのが聞こえたんですって。谷さん、その言葉に耐えられなくなって、そぉ~っと車を降りて反対側に回って、「ばっかやろ~、こんな車に乗りやがって!」って、自分の車を自分で蹴ったって言うの。

(略)

谷さんのうちにはすごいプールがあったんですよ。「谷さん、このプールすごいね」って言ったら、「俺、ほんとはやなんだよね。『おまえはテレビにでてるスターなんだからプールをつくれ』って青島(幸男)さんに言われて無理やりつくったんだけど、プールで泳いだことないんだよ。つかわなくても水は入れとかなきゃなんないから大変でね、これ、いらねえなあ~って思ってんだけど」って。その頃に乗ってたでっかい外車のことも、「これも『スターはでっかい外車に乗るもんだ』って青島さんが言うから買ったんだけど、目立つから乗ってるの辛いんだよね」って言ってました。

(略)

おもしろいのはね、青島さん、ぼくには正反対のことを言ったんですよ。青島さんの家に遊びに行ったとき、「人間の価値っていうのは、でっかい家とか外車っていうんじゃなくその人の歴史にある!」みたいな話をしてくれたんで、ぼくはすっかりその影響を受けちゃった。

 実はその頃、コント55号で人気がでたからいい気になって、高い腕時計とかイタリア製のブーツなんか買っちゃってたんですよ(笑)。「スターになって貧乏生活から抜けだしたい」って思ってたから、思いっきりギンギラギンのかっこをして、でっかいうちを建てるのが夢だったの。でも青島さんの話を聞いたらそんなことを考えてた自分がすごく恥ずかしくなって、それ以来時計もしないし、外車にも乗ってないし、うちも自分で建ててないですから。

 まあ、ぼくの場合は青島さんのおかげで自分に似合わないことはしなくてすんだけど、谷さんの話を聞いてぶっ飛びましたよ。青島さん、結局普通の生活をしたい谷さんには贅沢を勧めて、派手にしようとしてたぼくには地味な暮らしを勧めてただけなんだってわかって。

小林 谷さんの家、1回火事で焼けたでしょう。そのとき河野洋さんがすぐ駆けつけたんだって。そしたら谷さん、家がまだくすぶってるのに、庭で家族とマージャンをやってたって言うの。知ってる人がお見舞いにきたとき、火事ぐらいではびくともしてないとこを見せようっていうんで。谷さんのお父さんもすごくてね、消防署の人に「あの軒んとこが気に入らなくて壊しちゃおうと思ってたので、焼けてちょうどよかたった」とかなんとか言ってたって。

タモリ

小林 (略)話してる途中、赤塚さんが「タモリも呼ぼう」って呼んだらね、タモリは神父のかっこで店に入ってきた。当然店のなかにはぼくたちのほかにもお客さんがいたんだけど、タモリは聖書をもってその人たちのところに行って、「あなたは落ちぶれることがわかっております」とかなんとか説教し始める。それを各テーブルに行ってやるから、ぼくは驚いちゃってさ(笑)。今まで観たことないからね、そんなの。

萩本 あっ、そういうことがタモリさんにとっては修業になったんでしょうね。浅草みたいに先輩にしごかれながら修業するんじゃなくて、酒の席でシャレっぽく。

(略)

タモリさんはぼくのうちのすぐ近くに住んでたときがあるんですよ。うちから10メートルぐらいのアパートに。

(略)

ある日コンコンってドアを叩く音がしてたんで、うちの若いやつが見に行って、あわてて戻ってきたの。で、すごい緊張した顔して、「げっ、玄関の前にタモリがいます!」(笑)。「えっ?」って行ってみたら、ほんとにタモリさんがいてね。ぼくもすごくびっくりしちゃって、「な~に、どしたの?」って聞いたら、「いや~、近くに住んでるんで、おもしろそうだからピンポンしたの」って言うから、「あ、そう。じゃあ、そんなとこにいないで上がんなよ」って。その頃、ぼくのうちにはパジャマ党という放送作家集団がいたんだけど、タモリさんがきたらみんな大喜び。またタモリさん、人懐っこいし、しゃべりがおもしろいし、人を惹きつけるのが抜群にうまいの。うちの作家連中はまだ若かったし、浅草で古い修業してきたぼくとは違うスマートなタモリさんのほうに、スーっと寄っていく感じでしたよ。

(略)

「ちょっとお邪魔します」なんてかしこまって入ってくるんじゃなく、冗談ぽくスルッと入ってきて、作家集団を3時間以上笑わせっぱなし。もうシャレとしては最高!ぼくもパジャマ党のみんなも、いっぺんにタモリさんのこと大好きになっちゃった。感覚的にすごく優れてますね。