プリンス録音術 レコーディング・スタジオのプリンス

ラジオからの影響

親戚の家をいくつか移り住んだ後、プリンスは親友アンドレの家族に引き取られた。

(略)

安定した生活を手に入れると、プリンスは落ち着きを取り戻した。

(略)

アンドレの母、バーナデッドはその後のプリンスにとって、最も「権威ある存在」になったという。「プリンスの人生の中でも、本当に素晴らしい出会いだった。彼女はみんなの母親だったんだ。勝手な行動はせず、手伝いをすることっていうのが彼女のルールだった。(略)

プリンスは『ミュージシャン・マガジン』誌で認めているように、昼夜を問わず、自由にミュージシャンとしての夢を追うことができた。しかしその代わり、普通のティーンエイジャーとしてのスケジュールに従わなければならなかった。「(略)あの家に住み続けた唯一の曲由は、アンドレのお母さんだ。彼女は僕に好きなことをさせてくれた、『あたしが気にしてるのは、あんたが学校を卒業することだけ』と言ってくれてたんだ」。家の地下に寝室兼練習場所をつくることをバーナデッドに許されると、プリンスとアンドレは最初のバンドを結成した。(略)当初、バンドはフェニックスと名づけられたが、その後グランドセントラルに改名される。アンドレは改名について、「プリンスの提案だったと思う。彼はグランド・ファンク・レイルロードに夢中だったんだ」と語っている。(略)

ジャクソン5を真似しようとしたんだ。プリンスは “I Want You Back”を歌っていて(略)ジャクソン5は大きなインスピレーションだったね。同年代だったし、自分たちは彼らに勝てると思ってた。(略)プリンスはスライ・ストーンとか、もっとへヴィなものも好きだった。プリンスが一番影響を受けていたのはスティーヴィ・ワンダーだ。スティーヴィの作品を愛していたけれど、『これなら俺だってできる!』なんて言ってたな。スライについても同じだ。

(略)

[プリンスはラジオからの影響についてこう語っている]

ミネアポリスは半年ほど流行から遅れていたけれど(略)夜の十二時を過ぎると、素晴らしい曲がたくさん聞けたんだ。いつも徹夜で聴いていたよ。そこでカルロス・サンタナやマリア・マルダー、ジョニ・ミッチェルを知った。影響を受けたかって?もちろんだ。当時はカルロスやボズ・スキャッグスみたいにギターを弾こうとしていたよ。(略)ジェイムズ・ブラウンは、僕のスタイルに大きな影響を与えた(略)もうひとりはジョニ・ミッチェル。色彩やサウンドについて多くを学んだから、彼女にはすごく感謝している」

セカンド・アルバム

[セカンド・アルバムのエンジニア、ゲイリー・ブラント談]

「プリンスは頭の中で全てをつくり上げていた。各パートのアレンジについても把握していたから、あとはテープに録音するだけの話だった。(略)

彼の楽曲はシンプルだったから、トラックの数はあまり必要なかった(略)」

(略)

驚いたことに、プリンスは二十四トラックあるブラントのスタジオで、十六トラックしか使わなかった。(略)

「ドラムが一番上手かった(略)圧巻のポケット・ドラマー (素晴らしいリズム感を持つドラマー)だった(略)」

プリンスのレコーディング方法は、その演奏と同様にユニークだった。(略)

「ピアノの下にブランケットを敷いて寝そべると、顔の真上にマイクを置くよう言ったんだ。彼のヴォーカルはすごく軽かった。

(略)

 プリンスは、レーベルにアルバムを提出する準備をしながら、末永く続くキャリアを見据えていた。「僕がビジネスマンであることをワーナー・ブラザーズに証明するために、金を稼がなくちゃいけなかった。ファースト・アルバムではスタジオで金を使いすぎてしまったから、レーベルには『子供が大人の仕事をしようとしてる』なんて思われていた。僕はとことん頑固だし、最高を目指すから、二度目こそはベストを尽くして、最小限の予算でヒットを出してやろうと努力したんだ。セカンド・アルバムには三万五千ドルかかったけれど、ファースト・アルバムはそれの四倍もの金がかかっていたよ」とプリンスは後年、『エボニー』誌に語っている。

『Dirty Mind』

 音楽的には恍惚を味わっていたプリンスだが、気分的には落ち込んでおり、レコーディング中にひとりで引き篭っていたのは、そのせいでもあると同じインタヴューで語っている。「『Dirty Mind』の頃、僕は鬱に陥り、体も壊してしまった。鬱の状態から抜け出せるよう、助けを求めなきゃならないほどだった。もう大丈夫だけどね

(略)

 サード・アルバムで、リリシストとして自分本来の声を見つけたプリンスは、クリエイティヴなパワーを感じていた。「『Dirty Mind』をレコーディングすることでわかった(略)思ったこと、経験したことをそのまま書けばいいってことと、何も隠す必要はないってことに気づいたんだ。ニュー・アルバムの歌詞は、僕の心の中を率直に表現している。

(略)

セックスやオーラル・セックスについて語る時、言葉を濁してばかりじゃいけない。それじゃ、ただ戯言をいうだけになってしまう。僕がさらけ出したいのは、そういう偽善だ。男も女もみんなが考えてはいるけれど、言えないことを僕は大声で言う(略)僕の曲は、セックスよりも愛のことを歌っている(略)自分のことは、素晴らしい詩人だとも、モーゼのような預言者だとも思っていない。わかっているのは、自分は思ったことを言おうとしていることと、それができる立場にあるってことだけだ」。(略)

[マット“ドクター”フィンク]は、プリンスの雑多な音楽的影響について、「彼の自宅には、ワーナー・ブラザーズからタダでもらったレコードが大量に積まれていた(略)彼はあらゆる音楽を聴いていたんだ」と語っている。

『Controversy』

[サンセット・サウンドのエンジニア、ロス・パロン談]

「あのアルバムのサウンドを実現した大きな要因のひとつは、テープ・コンプレッションだ。(略)プリンスはメーターを完全に無視していた。ミキシングの時、曲の最初から最後まで、全てがいつもレッドの領域に入っていた。(略)

テープの場合は、シグナルを詰め込みすぎると独特のサウンドが出るんだ。プリンスは、わざとテープに過重負荷をかけていただけでなく、ミックス・コンソールにも過重負荷をかけていた。つまり、テープ・コンプレッションと、コンソールの過重負荷、そしてオーラトーンのスピーカーで鳴らしてヴォーカル・トラックを録音していたことで、『Controversy』の彼のヴォーカル・サウンドがつくられたということなんだ」。

 プリンスは、ヴォーカルのレコーディング同様、ヴォーカルのミックスもひとりで行うことを好んだ。

(略)

ミックスダウン中のスタジオは、レコーディングの時と同様の雰囲気だった。「プリンスは、キャンドルをいくつか点けて、スタジオをすごく暗くしていた。満足の行くミックスができるまで、何時間も暗いスタジオの中で作業していたよ」

音楽と色彩

プリンスは(略)『ミュージシャン・マガジン』誌には、曲を書き、レコーディングしている最中は、音楽が色で見えることがあると話している。「作品に入れるサウンドは、たくさんの愛を込めて選んでいるし、どの色がどの色と合うかってことをいつも考えている(略)歩いている時、絵画で最初に使う色がひらめくように、ふとメロディが聞こえてくることがある。最初の色が正しいと信じられたら、そこから曲をつくることができる。音楽は宇宙のようだ。惑星、空気、光はうまくかみ合っているだろ(略)僕は、そうやってひとつひとつ曲をつくっていく。色や言葉が頭に浮かんだら、頭の中で聞こえている曲になるまで、各要素を入れ替えていく。それから、最初の色と交わりたいという色を重ねるんだ(略)

この赤ん坊は、自分と一緒にいたいから生まれてくるんだって確信しながら、子どもを産むようなものだね。曲を産んでいるんだ(略)例えば、リスナーをうっとりさせるような、ひとつのキーを持つ曲があるとする。そういう曲は、きちんと構成されたメロディをつけるよりも、曲の色を最も引き立てる、スピリットから湧き出たサウンドをつけた方がいい。これこそが、ファンクのルーツだと僕は思っている。僕が選ぶ楽器は曲によって異なる。色によって違う。全てが違って聞こえる。奇妙な話だけれど、僕はオリジナルな作品をつくろうと、多くのサウンドを使ってきたけれど、さらに新しい楽器、サウンド、リズムを求めている。みんなを驚かせるアイディアなら、たくさん用意しているよ(略)全てを教えるつもりはないけどね」。

『Parade』

 プリンスはベッドに寝そべって歌詞を書いていたかもしれないが、アルバムの制作を不休で続け、ほとんど眠ることはなかった。一九八五年四月十七日のレコーディング初日、プリンスは“Christopher Tracy's Parade”、“New Position”、 “I Wonder U”、 “Under The Cherry Moon”のベーシックなインストゥルメンタル・トラックをつくった。猛烈なペースだった。凄まじい勢いでレコーディングするプリンスについて、エンジニアのスーザン・ロジャーズは当時の思い出を語っている。「全てをセットアップした後、プリンスはきちんと準備ができてはいるか、私に確かめさせたの。一度スタートしたら、止まりたくないからってね。プリンスは『これからドラムを叩く。僕が演奏をやめても、テープは止めないで、そのまままわしておいてくれ』と言うと、ドラムの前に座り、目の前の譜面台に歌詞を貼りつけた。私たちがテープ・マシンの録音ボタンを押すと、彼は四曲分のドラム・トラックを連続して演奏した。四曲分を一度に!全てファースト・テイクでね。私たちが曲の合間にカットインすることはなかった。そのままを録音しただけ。そして、プリンスは戻ってくると、『よし、行くぞ!僕のベースはどこだ?』と言って、四曲全てのオーヴァーダブを始めた。こうして、すごい勢いでアルバム制作が始まったの」。

(略)

[リサ・コールマン談]

「彼はドラムからスタートするけれど、既に頭の中で曲が出来上がっていて(略)マシンの録音ボタンを押して、ドラムに駆け寄ってるから、プリンスが何かを飛び越えたり、ケーブルにつまずいたりしている音が聞こえるんだけど。それからドラムの前に座り、カウントを取って叩き始めていた。歌詞をノートの切れ端に書いていることもあって、頭の中の曲を歌おうとしてた。ドラム・トラックに合わせて、ブツブツ歌ってる時もあったし。それから頭の中で、ベース・プレイヤーの尻を蹴飛ばすって、プリンスは言ってた。ドラムを叩いている時は、他の楽器を演奏しているミュージシャンの尻を蹴飛ばすんだって。他の楽器を演奏しているミュージシャンというのももちろん、プリンス自身のことなんだけど、そうすることで負けちゃいられないって、予想外の演奏が引き出されるらしいの。すごくクールだった。

クレア・フィッシャー

 伝説的なオーケストラ・コンポーザー/アレンジャーのクレア・フィッシャーは、『Parade』で初めてプリンスのストリングスを手がけた。

(略)

フィッシャーは長年にわたってプリンスと仕事をし、絶対的な信頼を置かれたが、Housequake.com に意外な事実を明かしている。

「プリンスに会ったことはないんだ(略)私と会うかどうか訊かれた時に、プリンスは『会いたくない。今のままで十分上手くいっている』と言ったそうだ

(略)

プリンスと私の関係は、プリンスがルーファス・アンド・チャカ・カーンでの私の仕事を聞いていたのがきっかけだ。

(略)

 プリンスが、フィッシャーをどれほど高く評価していたかがわかる逸話がある。当時プリンスは、フィッシャーにストリングス・アレンジの決定権を譲ってくれたそうだ。「まず彼は、とことん自由にやらせてくれた。誰かを雇った後は、その仕事に口出しをしない賢い男だ。

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 プリンスは、自分と同じような創造面での自由をフィッシャーにも感じてもらおうと思っていた。そのため、出費を惜しまず、フィッシャーが自由に能力を発揮して、最高のアレンジが出来るよう取り計らった。これでフィッシャーに、予算の制約という重荷がなくなった。「(略)書くのは非常に楽しいけれど、レコーディング・スタジオ絡みの問題は、ミュージシャンに対するギャラだ。低予算のために、大規模なストリング・セクションを雇えないんだ。でもプリンスは十分な金を送ってくれたから、私は小さなストリング・アンサンブル用ではなく、ストリング・セクション向けのアレンジを書くことができた」とフィッシャーは語っている。

『The Black Album』

[お蔵入りの]については、ファンの間で多くの意見が飛び交ったが、実際の制作については、そこまで謎めいてはいない。当時、プリンスの第一エンジニアを務めていたスーザン・ロジャーズは、こう明かしている。「“When 2 R In Love”を除いて、私は『The私Black Album』全曲のエンジニアリングを担当した。曲は雑多で、どれも休日にやるような曲だった。(略)『The Black Album』は、プリンスが寝ながらでもつくれるようなアルバムだった。考える必要すらなかった。プリンスにとって、ファンクはすごく簡単なものだった。だから、ほとんどラフ・ミックスの曲もあって、プリンスはリリースするつもりもなかったの」。

(略)

シ ーラ・E は、“2 Nigs United For West Compton”、“Bob George”、“Le Grind"といった楽曲のインスピレーションとなった。ロジャーズによれば、三曲ともシーラの誕生パーティでかけられるよう、パーティの前に一回のセッションでレコーディングされたものだという。「プリンスは、彼女のために他愛のないパーティ・ソングをレコーディングしたかったの。特に深く考えずにつくっていて、曲をレコーディングすると、バーニー・グランドマンのところへ行きマスタリングして、その夜にDJがプレイできるようアセテート盤をつくった。それだけのこと。アルバムに収録するつもりはなかった」そうだ。

(略)

 明るく楽しい場面もあったが、レコーディング中のプリンスの気分は、『The Black Album』というタイトルが示唆するように、ダークだったという。プリンス自身、『ローリング・ストーン』誌に対し、「あの頃、僕は怒ってばかりいた(略)それがあのアルバムにも反映されている」と語っている。

(略)

[ロジャーズ談]

「彼はずっと不機嫌だったから、多くのスタッフが彼との仕事に疲れ果てていた。私たちの多くが彼と長年働いてきたけれど、彼との距離はこの頃が一番遠くなっていた。彼はペイズリー・パーク・スタジオができて喜んでいたけれど、自分の人生については満足していなかったみたい。スタジオの雰囲気も良くなかったし、昔のように一緒に楽しく仕事ができなくなっていた。当時の彼は、自分のキャリアに満足していなかったんだと思う。そうした怒りや絶望感から、『The Black Album』が生まれたの」

(略)

プリンスはこの頃、自身のキャリアで初めてラップのヴァースを楽曲に組み込んだ。その理由について、ロジャーズはこう語っている。「私たちは、ラップが今後も存続するかどうか、議論していた(略)彼はあまりラップが好きじゃなかったけれど、何らかの形で取り込むべきだってことには気づいていた。でも、どうやったらいいかはわかっていなかった。彼には本物の音楽をつくっているという自負があって、歌えない人たちや、歌の下手な人たちのことは好きじゃなかった。それでも、ラップが一時的な流行じゃなく、新たなムーヴメントだってことが、この頃にははっきりしつつあった」。

Batman

 プリンスのアイディアはいつも完全に形づくられており、わずか一、二テイクで曲が完成してしまう。ツウィッキーは、そうして次から次へと曲を仕上げていくプリンスの音楽的な意思決定プロセスを目撃したわけだが、時を経た現在でも、当時を思い出しては不思議そうに首を振る。「トラックのつくり方は、とにかく一貫していた。彼はコンソールの前に座って手を伸ばし、フェイダーを押し上げると、『ここにベースが欲しい』なんて言っていた。それぞれのトラックに何が入るか、彼にははっきりとわかっていたんだ。もうひとつ、見事なまでに一貫していたのが、プリンス作品の二十四トラック・マスターは全て、トラック1が必ずハンドクラップだったことだ。彼がリン・ドラムから録音していた、数少ない個別のアウトプットのひとつ、それがハンドクラップだった。トラック1に他の楽器をプリントしたこともあるんだけど、テープが破損してしまい、プリンスはそれに業を煮やすと、ハンドクラップよりも重要なパートをトラック1に入れなくなった。テープのトラック1とトラック24は、フランジング効果のためにローエンドはあまり入らない。つまり、内側のトラックには両側に余白があるんだけど、端のトラックには片側にしか余白がないんだ。だから、トラック1はいつもハンドクラップで、トラック2はキック・ドラム、トラック3はスネア、トラック4はギター・ペダルを通したドラム・マシンのモノ・アウトプットだった。生のドラムがなければ、これだけだ。“When Doves Cry" 以降のドラム・マシンが入っているプリンスの曲は、ドラム・マシンで4トラックを使っている。それから、フランジングをはじめとするエフェクトは、ギター・ペダルを通してテープにプリントされた。例えば、トラック9はベース・ギターで、トラック16はリード・ヴォーカル、トラック17から24はバックグラウンド・ヴォーカルのパートと決まっていたんだ」。

 『Batman』のサウンドトラック制作中、プリンスは新たに曲のアイディアを出すほかにも、伝説的な自身のヴォルト(テープ倉庫)から未発表曲を出してきて、インスピレーションを得ていたという。プリンスからの信頼を得ていたツウィッキーは、この仕事を任された。「特に面白かった仕事は、ヴォルトに入って、リリースされていないどころか、まだミックスすらされていなかった曲をミックスしたことだ。こうして僕は数週間で、放置されていた百三十五曲くらいをミックスした。彼は過去に遡りたかったんだと思う。一九七八年に録音した古いテープもあったよ。こうしたテープに関わるのは楽しかった。

(略)

僕が知らない曲ばかりだった。彼が他のアーティストにあげた曲だったんだ。だから時々、アシスタントがやって来て、『あ、これはあのレコードに入ってる曲……』なんていうこともあった。そういった時はミックスを止めたけれど、それでもスタジオの人たちが『わあ、八十年代前半のヴァージョン (リリースされたもの)とは違って、すごくパンチのある大きなサウンドだな』なんて言うのを楽しんで聞いていたよ。『Batman』のサントラ制作を通じて、プリンスは何かの音が頭に浮かぶと、『あのテープをここに持ってきてくれないか? ストリングのパートをサンプリングしたい』なんて言ってきた。プリンスは、『Batman』をいつもとは違ったプロジェクトとして捉えていたのかもしれないな。彼にとって、自分が主演していない作品向けに音楽をつくるのは初めてのことだった。だから制作当初、彼は自分が過去につくったものを聴き返し、より大局的に自分自身を見ようとしていたんだと思う」。