ノー・ディレクション・ホーム その2 ボブ・ディラン

前日の続き。 

 デイヴ・ヴァン・ロンク 

 頑なに個人主義的な左派を貫いてきたヴァン・ロンクだが、政治的で時事的な曲を歌うことはなかった。「曲で人が変わるとは思っていないんだ。フィル・オクスの曲で抗議活動が持続したり、ピケが張られ続けたり、ストライキ公民権運動をする人びとの士気が高まったなんて思えない。彼の曲は個人的な良心について語るものだ、徴兵カードを燃やしたり、自分自身を燃やしたりね。何の役にも立たないんだ、世界のあらゆる悪から自分や聴衆を切り離すということ以外はね。世界中の悪と無関係でいられるわけないのに」。ヴァン・ロンクはプロテスト・ソングを空想的な無政府主義だと考えているのだろうか? 「いや。あれはポピュリズムだ。ああいう曲のなかには社会の愛国心が流れているものなんだが、ディランの曲にはその要素がすごく少ない。プロテスト・ソングには嫌気がさすよ、おれ自身は国際主義者だからね。アメリカ人だけが特別に善や義務を抱えているとは思わないし、アメリカ人だけが特別に悪を抱えているとも思っていない。黒人を激励するような歌には耐えられないね。むしろこういう歌を聞きたいよ。『なあ、何もしないなら父親以上に幸せになれないぞ』っていうね」

 ヴァン・ロンクがディランに与えた影響は多岐にわたった。

(略)

デイヴのレパートリーのなかでディランが定期的に歌っていたのは「ディンクの歌」「朝日のあたる家」「ポ・ラザルス」「僕の墓をきれいにして」の四曲だけだった。ボブはデイヴのスタイル、物の見方、解釈を取り入れた。ヴァン・ロンクのスキャットや唸りは巧みで、南部の田舎の言葉を熱心に取り込んでもいた。ディランはデイヴのギター奏法をいくつか習得したが、それ以上に大きく影響されたのは彼の格別のショーマンシップ、音と沈黙で空間を満たして観客の注意を引きつける能力だった。

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ファーストアルバム 

大半の曲を五テイク以内で録り終えた。何曲かは驚くべきことに二回で録り終えた。シナトラでさえもウォームアップのためだけに十数回は歌ったことだろう。

(略)

翌日彼が私に語ったのは「死を見つめて」を録っているときに、廊下の掃除をしていた年配の黒人清掃員が歌を聞くためにスタジオに入ってきたことだった。ボブはそのときに自分の歌は多くの人に聞いてもらえるだろうと思ったという。悲劇的な古い哀歌に足を止めたその清掃員は、ほうきに寄りかかり、目を向け耳を傾けていた。ボブがそのことをずっと忘れなかったのは、ハモンドやリーバーソンのどんな言葉よりも、その光景が心に残っていたからだった。シンプルに「ボブ・ディラン」と名づけられたファーストアルバムは、一九六一年十一月に行われた三回のセッションで収録されたが、一九六二年三月十九日まで発売されることはなかった。

(略)

一九六一年の後半、自分が勢いよく突き進んでいると思っていた彼にとって、五か月間レコードが宙づり状態に置かれることは残酷なまでに期待外れの結果だった。このアルバムがリリースされる頃には、この作品が引き出しの底に残された昔の曲のように思え、気恥ずかしさを感じていた。ディランの失望は、エンシニアリングと編集が終わった後の十二月からもう始まっていた。

アルバートグロスマン登場

別名「ザ・ベア」は、そのあだ名の通りの体型と態度で、顔は明かりのなかに引きずり出されたフクロウのようだ。

(略)

 ディランがアルバートに会ったとき、ディランは用心深かった。

(略)

それぞれがすぐに相手の最も悪い特徴を身につけた。最も顕著な違いはボブが人への大きな思いやりを持つ比較的オープンな人間であったのに対し、アルバートはいつも駆け引きをするチェスプレーヤーだった点だ。最悪の状態のとき、グロスマンは人を見下し、最高のとき、商業的な言葉や安っぽさを最小限に控えて仕事する眼識を備えたマネージャーだった。最悪の状態のとき、関心の中心は金となり、最高のとき、クオリティとスタイルを持つアーティストからのみ金を生み出した。

 ディランがコロンビアと契約するとすぐに、音楽ビジネスの強欲なサメたちが血を嗅ぎつけた。ボブは待機戦術に出た。ハモンドはシーガーやジュディ・コリンズやウィーヴァーズ、そしてなかでもガスリーを担当したハロルド・レヴンソールをマネージャー役に勧めた。ディランとレヴンソールの関係は上手くいかなかった。ボブは、影響力あるミュージシャンのボブ・ギブソンと大学のタレントブッキング・グループ「キャンパス・コンセプツ」を立ち上げたロイ・シルヴァーと親しくし始めていた。シルヴァー――のちにコメディアンのビル・コスビーのマネージャーとなる――は、最初期のディランフリークのひとりで、自身最初の結婚を犠牲にしてしまったほどだとのちに私に語った。「夜家に帰る代わりに、ボビーを聴けるヴィレッジの場所を探しまわったり、彼とつるんだりしていた」。一九六一年の終わりに、シルヴァーとギブソンはカナダでディランを一週間二五〇ドルでブッキングした。「彼をシラキュースの週末に一五〇ドルでブッキングできると、これで大金持ちになれると声を上げた」。シルヴァーは当時グロスマンと仕事をしていたが、一九六二年にグロスマンへ、一万ドルでディランらの契約を譲った。

(略)

ボブのLPが発売される頃、数か月をかけてディランの信頼を築いたグロスマンは、直接的な申し出を行った。当時ボブは、アルバートが年に五万ドルを生み出せないアーティストとは仕事をする気がないと語ったと言い、ボブはその数字に驚いたという。ディランは、アルバートが自分を単なるコーヒーハウスのパフォーマーではなく、コンサートをしたりレコーディングをするアーティストだと考えているようだと語った。アルバートはボブがディンキータウン時代から敬愛していたオデッタのマネージャーを務めて評価を得ていた。彼が手がけるピーター・ポール&マリーの高まる名声もディランに好印象を与えていた。

グロスマンに父親像を見いだす 

 長年グロスマンと親交のあった私は、彼のことをやりたいことが上手くいかない男だと考えていた。グロスマンは才能がありながらも決して上手くいかなかったイスラエルのデュオ「デュダイム」に入れ込んでいた。ジョーン・バエズから断られ、グロスマンは黒髪のソプラノ歌手リン・ゴールドを発掘して宣伝したが、無名のままで終わった。駆け出しの頃、グロスマンは遥かにオープンで、スターたちへの様々な発言を残している。その後はかなり厳しくなり、距離をとり、神経が図太くなっていく。担当するスターたちは「彼の人民」となり、誰も、もちろんライターも、彼らについての質問をすることは歓迎されなかった。一九六五年に私がグロスマンに対して、あるディランの発言の真意は何だったと思うか尋ねると、アルバートは笑って言った。「私はただのユダヤ人ビジネスマンさ」

 そういうディランとグロスマンが互いを見いだしたことに驚きはなかった。しばらくのあいだ、彼らの気性は驚くほど似ていた。グロスマンの方が十数歳上ではあったものの、他のどんなアーティストもグロスマンにこれほどの影響を与えたことはなかった。ディランの嗜好はグロスマンがポール・バターフィールドや、ジョン・リー・フッカーや、クウェスキン・ジャグ・バンドや、ザ・バンドと契約することにつながった。ピーター・ヤーロウは、ディランがグロスマンのなかに自分が求めていた父親像を見いだしていて、関係が崩れていく一九六五年から七一年にかけて、ボブは恩義のあった権威的存在たる父親を象徴的に打ちのめしていったのだと語った。グロスマンもボブのなかに反抗的な息子を見ていたのかもしれない。ボブはその家族という器の亀裂について語ることはほとんどなく、アルバートはそんな亀裂などないかのように振る舞っていた。

アーティ・モーグル

 グロスマンと密に仕事をしていたのは、トミー・ドーシー・バンドの元ロードマネージャーで、聡明かつ活動的な重役であるアーティ・モーグルだった。(略)

一九六二年の初夏、グロスマンとシルヴァーはディランをモーグルと引き合わせた。

(略)

モーグルはディランにリーズとの契約を解除させ、その後一九六二年七月十三日にウィットマーク社と三年間の契約を結んだ。「ディランに一〇〇〇ドルでウィットマーク社との契約を提案した」とモーグルは私に語った。

(略)

「ウィットマークでの三年間で、ディランは二三七の著作権をもたらした。聞いたこともない数だ! 彼は驚くほどに多作なんだ。普通だったら、三年で二五曲くらいだろう」

[ジョン・ハモンド談]

(略)

「世界最高のタレントスカウト」を自称するモーグルは、グロスマンの経済的成功に一役買ったのかもしれない。ピーター・ポール&マリーとの契約に際して、ワーナー・ブラザースは三万ドルの前払金を支払い、グロスマンはそこから数百万ドルを増やした。

 ビッグ・ジョー・ウィリアムス

 ディランは六十歳のブルースマン、ビッグ・ジョー・ウィリアムスとも親しくしていた。

(略)

エセル・ウォーターズのミンストレル・ショーがオクティベハ郡にやってきたとき、彼はその集団についていき街を去った。一九三〇年代はメンフィスでヴォカリオン・レコード用に録音を行った。一九三五年以降の十年は、ブルーバード、コロンビア、その他様々なレーベルで数々の収録を行った。

 一九六二年の初頭にマイク・ポルコがフォーク・シティへのビッグ・ジョーのブッキングを検討していたとき、ディランは大々的な賛辞を送った。「彼は最も優れたブルースマンだ。ここに呼ぶべきだよ」。マイクはそれに従い、二月に三週間招待した。ディランはほとんど毎晩顔を出し、何度かビッグ・ジョーとステージで演奏もした。路上で仕事をしてきたジョーにとって、このニューヨークでの初仕事は刺激的なものだった。昔のブルースの復興を促進することにも一役買い、ジョーはやがていくつかのレーベルからLPを発売することにもなった。

(略)

 数年後、ビッグ・ジョーは昔を懐かしむ父親のように私のインタヴューに答えてくれ、ディランとは彼が六歳(!)のときにシカゴで会ったことがあると語った(ボブはおそらく、一九六〇年に東へ向かう途中にシカゴでジョーと会ったのだろう)。ディランは一九六二年に、十歳の頃シカゴへと逃げ出したことがあると発言し、真相はさらに分かりにくくなっている。「黒人のミュージシャンが街頭でギターを弾いているのを見て、彼のところへ行き、スプーンで一緒に演奏を始めた。ぼくは小さい頃スプーンを弾いてたんだ」。ディランの話を補完するかのように、ビッグ・ジョーもその旅について語っている。「初めてボブに会ったのは一九四六年か四七年のシカゴだ。正確な年は覚えてないが、彼はものすごく幼くて、いっても六歳くらいだったんじゃないかな。見た目はいまと変わらなかった。彼は生まれたときから才能があったのだと思う。うきうきしてやって来て、いまと同じように冗談を言っていた。まあ、俺は当時シカゴの街頭で演奏していたんだ、一九二七年以来ずっとそうだったようにね。どうしてか彼は『ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー』や『ハイウェイ?』なんかの俺が収録した曲を知っていた。

(略)

それから六年か七年後、ミネアポリスで彼を見かけた。トニー・グローヴァーと演奏していた。俺が知ってるミシシッピ川の、対岸でね」 

 ディランに投資したPP&M 

グロスマンはロイ・シルヴァーのパートナーシップの一部をOPM――投資用に他人からあつめた資金――で買い取った。(略)

一万ドルのうちの半分は、sが負担した。取引が内密に行われたのは、主にディランがすべてを自分の力でやっているという気分になってもらうためだった。

(略)

彼らが自分たちの考えにしたがって融資したとディランが知ったのは、「風に吹かれて」がピーター・ポール&マリーのヒット曲になってしばらくしてからだった。

(略)

グロスマンとモーグルはディランの曲を広め始めた。

(略)

アルバートは、ヤーロウとミルト・オクンに近づいた。ミルト・オクンは音楽ディレクターとして、ピーター・ポール&マリーのほかに、チャド・ミッチェル・トリオやブラザーズ・フォアを手がけていた。オクンはベラフォンテと仕事をした経験があり、のちにジョン・デンヴァーのパブリッシャー兼プロデューサーになった。

(略)

アルバートは特別、『風に吹かれて』をピーター・ポール&マリーのためにとは言わなかった。まず思ったのはミッチェル・トリオが気に入るんじゃないかということだった」

 ジョーン・バエズ

 ディランの直感は、ジョーンの誘いを受け入れてカーメルで彼女と秋を過ごすべきだと告げていた。彼はおそらくまだスージーを愛していたが、彼女はすでにその夏、西四丁目から出て行くことに決めていた。それは別れではあったが終わりではなかった。ボブはまだバランスを取れると思っていた。

(略)

 ジョーンは新しい家がカーメルヴァレーに建つのを待つあいだ、質素で、モダンで、木造の梁が渡されたコテージに住んでいた。そこは低木に覆われた渓谷に隔てられ、太平洋岸から一マイルも離れていなかった。ガラス張りの壁が、広々とした居間に田園の風景を運び込み、モダンな彫刻や、ベンチや、カジュアルな椅子が点々と置かれていた。私はディランがそこで見いだすことになる静穏を事前に見たことになる。ニューヨークのストレスから一〇〇万マイル隔たった静けさだった。カーメルとビッグサーは岩だらけの海岸と風に揺れる糸杉の地だった

(略)

一九六三年の秋、ディランはその平穏な国であるジョーンの住まいに初めて滞在し、自身初の隠遁的な曲「レイ・ダウン・ユア・ウィアリー・チューン」を書いた。

(略)

 カーメルは、彼が夢にまで見た『怒りの葡萄』の地ベーカーズフィールドだった。北部のそう遠くないモンタレーにはスタインベックが描いたキャナリー・ロウがあり、サリナスのレタス畑があった。そこはディランにとって「エデンの門」の向こうの「エデンの東」だった。注意の行き届いたジョーンのもとで、彼は厳格なスケジュールで行動した。かつては混沌と切迫感が彼の創造性を刺激していたが、今やそれは平穏に代わっていた。

(略)

コテージの近くには人気のない砂浜の入り江があり、そこへは彼女のスポーツカーで十分か、歩いても三十分程度で行くことができた。彼はそこで泳いだり太平洋に思いを馳せたりするのが好きだった。朝、彼女の家でタイプライターを置いて仕事をするあいだ、ジョーンは邪魔になるのをおそれて、彼をひとりにしておいた。彼が初めて味わう平穏だった。

(略)

一九六六年、当時のあなたにとってディランはどんな存在だったか問われると、彼女は顔を曇らせて思いに沈んだ。おそらくまだ彼女には、あのときのことを客観的に振り返る準備ができていなかったのだろう。慎重に選ばれた言葉には、わずかに辛辣さが込められていた。「彼はややこしくて、問題を抱えた、難しい人。ボビーは、頭のなかにかすかに傷ついたダイヤモンドを抱えている人だと思う。普通の人よりもろいのよ。彼が歌うのを座って見ていると、ちょっとした言葉や何かが通り過ぎただけでも簡単に気を散らしてしまった。でも彼がそういうことを自覚しているのかどうかは誰にも分からない。ごまかすのがとても上手だから。わたしの意見では、何らかの理由から、彼はすべての責任から解放されたがっているように見える。どんな責任からも、どんな人からもね。わたしはそう感じる。差し出すものは最低限にして何とか切り抜けようとしているみたいに。もし自分自身のことをまったくかまわなければ、他の誰のこともかまわないでいい。彼はあまりに、あまりに輝いていて、彼の内にあるおかしな磁石が人を引き寄せる。つまり、わたしはボビーが好きで、彼のためなら何でもできるの、何でもね。わたしたちのあいだでどこが間違ったのか、わたしには全然分からない。ボビーがわたしのことをどう思っているのかも分からない。わたしをどう思うかなんて、大事なことじゃない」

(略)

「ただ、彼もわたしも社会を批判してきて、彼は最後には社会に対してできることは何一つないから放っておけと言い、わたしは反対のことを言っていた。一九六五年から一九六六年にかけてのディランのメッセージは次のようなものだったと思う。みんな家に帰ってマリファナを吸おう、他にすることなんてないんだから。みんなで吸っていた方がまだましだ。そこでわたしたちの道は分かれた」

(略)

どうして、彼は一九六四年に変わったのだろうか? 変化を強いられたのだろうか。「そうじゃない。彼は自分自身を含めて、誰の責任も背負いたくなかったんだと思う。ボビーは免除されたがっていたんじゃないかしら。それだけ。当時問題になっていたあらゆることからの免除ね。彼はよく、すべては大した問題じゃないと言いたがる。ボビーとわたしはまさに正反対。それに気づくのにすごく時間がかかった。

(略)

 長く、不安定な、そして公私にわたったボブとジョーンの関係は、まれにみるほど複雑だった。彼ら自身も何が起きているか分かっていなかったほどだ。ディランは彼女の気遣いと「保護」に浮かれていたように見えた。(略)

ジョーンは少なくとも彼を「受け入れて」、その混沌からの束の間の避難所を確保した。

(略)

 一九六七年の末までに、ジョーンは反戦活動に「踏み出した」ため二度も刑務所で過ごし、ほどなく徴兵制反対運動のリーダーと結婚した。

(略)

 ディランのジョーンに対する態度が大きく変わったのは一九六三年の末だ。彼女は移り気だったが、それは彼も同様だった。バエズも言っていたように、彼が結婚を考えていて、彼女がそれを退けたことが核心にあったのではないだろうか。きっと過剰な自己疑念とエゴとナルシシズムが、カーメルのひとつ屋根の下には入りきらなかったのだろう。情熱的な愛が終わると、職業的な敬意だけが生き残った。時が経つにつれて、その敬意にも亀裂が入り始めた。

(略)

 あるときにディランは、自分についてのいかなる本でもバエズは言及されるに値しないと言った。同様に信じがたいことだが、ジョーンの本『夜明け』が原稿になったとき、そこにはディランへの言及は一切なかった。

(略)

[68年『エニィ・デイ・ナウ』発売]

 その頃、ジョーンはディランと二年は言葉を交わしていなかった。彼女の「全曲ディラン」のアルバムは、かつての恋人への手紙であり、彼と彼の曲をまだ愛していることを伝えていた。(略)

彼らの最も深刻な決別は一九六五年春のイギリスで起こった。その断絶は数年にわたり、『エニィ・デイ・ナウ』のリリースを経ても続いていた。それでも両者はどのようにしてか、一九八〇年代過ぎまでに交流を復活させていた。

(略)

彼女は『レナルド&クララ』の映画製作にも付き合った。映画のなかでの自分の姿に当惑しながらもだ。ジョーンが私にディランのことを語るときはいつも、彼のジェスチャーを、スラングを、タバコの吸い方を、言い回しを、あますところなく真似た。笑えるものだったが、どこか悲しくもあった。まるでそうすることだけが彼女にとって、あの手に負えない、捉えどころのない男を把握する唯一の方法であるかのようだった。

次回に続く。

ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽

ボビー・アレン誕生

十ポンド(約四・五キロ)の大きな男の子が産まれた。安産でなかったのは、赤ん坊の頭がとても大きかったからである。

(略)

 近隣の住人たちでさえ、ボビー・アレンが可愛らしい子供であることを認めずにはいられなかった。金色の頭髪の彼に[母の]ビーティーはよくこう言った。「女の子だったらよかったのに。こんなに美しくて」。彼女は鮮やかなリボンを息子の髪につけて、カメラの前でポーズをとらせた。

(略)

十五か月のときに撮られた写真に写る彼は、まさに天使のような子供で、りんごのようなほっぺたと笑顔を見せ、金色の髪をなびかせていた。

(略)

 [父のエイブ]が二歳の息子を会社に連れて行くと、秘書や事務員たちが集まってきた。三歳のときにボビー・アレンは初めて人前でパフォーマンスを行った。父のデスクの上に座り、ディクタフォンに向かって語りかけ、歌ったのだ。幼い少年は自分自身の録音された声に驚いた。

(略)

一九四六年、ダルースで行われた母の日の祝祭(略)

「ダルースで話題になったのよ。実際、今でも話題になるわ」とボブの母は振り返った。

(略)

ステージに呼ばれたの。四歳の小さな変わり者さんは立ち上がると、くしゃくしゃのカールした髪でステージに向かったわ。あの子は足を踏み鳴らして注目を集めようとした。ボビーは言った。「もしみんなが静かにしてくれたら、おばあちゃんのために『サム・サンデー・モーニング』を歌います」って。そうしてあの子は歌って、みんな騒然としていたわ。あまりに拍手がすごいから、あの子はもう一つの自慢の曲『アクセンチュエイト・ザ・ポジティヴ』を披露した。(略)祝福の声を伝える人たちからの電話が鳴りやまなかった。

(略)

 それから二週間も経たないうちに、ボブはさらにもう一つコンサートを開いた。ビーティーの妹のアイリーンがコヴェナント・クラブで豪華な結婚パーティを開催したのだ。(略)

「私は言ったよ」と父は言う。「歌うべきだ、みんなお前の歌を聞きに来たんだからってね。

(略)

その声はいわゆる少年のソプラノというよりは、か細い、魅惑的な声で、全員がボブの二つのレパートリー曲が終わるまで静かにしていた。そしてまたしても喝采が起き、ボビーはおじのもとへ歩いていって二五ドルを受け取った。彼は初めてもらった報酬を手にして母に近寄った。「お母さん」と彼は言った。「お金は返そうと思う」。彼はおじのもとに戻り金を渡した。彼はその日の英雄となり、花嫁と花婿をしのぐほどの注目を浴びた。父親は振り返る。「息子の歌を聞いた人は大喜びして笑顔になる。愛らしくて、普通の子供とは全然違っていた。みんな息子に触れたり話しかけようとして、わざわざやって来るんだよ。息子がいつの日かとても有名になるだろうなんてことを信じようとしなかったのは私たち両親だけだったと思う。誰もがこう言うんだ。この子は天才になるとか、あれになるだとか、これになるだとか。みんなが言うんだよ、家族だけじゃなくてね。

初めてのギター

 ヒビング・ジュニア・ハイスクールでは、一目置かれる人物は誰しも学校の楽団に入っていた。ボブは頻繁にハワード・ストリートの楽器店を訪れるようになり、そこでは十ドルで三か月の楽器レンタルや購入ができた。ボブは初めトランペットを持ち帰り(略)澄みきった音を連続して出すことが一度もなかったようだ。サックスを試すべくトランペットが返却され、家族はホッとした。サックスも二日後、打ちひしがれて返却した。彼は別の金管楽器に挑戦して、その後はリード楽器に挑戦した。どちらも思い通りにはいかなかった。最終的に、音楽への喜びが萎えかけていた不安のさなかに、ボブは安いギターを借り、スペイン王家の家宝であるかのように扱った。指示書に従って手を動かし、優しく六本の弦を鳴らし、指でフレットを押さえた。それは音楽らしきものに聞こえた。何時間も彼はギターを手に抱きかかえて座りながら、実験し研究した。指はヒリヒリと痛んだ。(略)

彼の耳と指がすぐに主導権を握るようになった。彼は押さえ方を次々とマスターしていった。音階と調を見つけたのだ。

(略)

 ギターは、彼にとっての杖、武器、地位の象徴、ライナスの毛布、権威者が持つ短いステッキとなった。ヒビング周辺では、レザーストラップをつけたギターを肩にかけて道を行ったり来たりしている彼の姿を覚えている人もいた。チェット・クリッパは、どんなに寒い日もボブはギターを持っていたと振り返る。ディランは成長するにつれ、自身の内側へと向かっていき、家族ぐるみの友人やクラスメートたちと会話をすることが少なくなった。

ぼく初めてのアイドルはハンク・ウィリアムスだった

 ハイラム・「ハンク」・ウィリアムスは、多くの農民、トラックドライヴァー、工場労働者たちにとっての「ヒルビリーシェイクスピア」だった。アラバマの丸太小屋で生まれた彼唯一の音楽的指導者は、ティートットという黒人の路上シンガーだった。 ウィリアムスは一二五の曲を書き、非常に簡素な歌詞から数々の哀愁を絞り出した。(略)ハンク・ウィリアムスは悲しい曲をさらに悲しくするようにして、一九五三年の元旦に二九歳で亡くなった。公式発表では、心臓発作で亡くなったとされている。だが非公式には、あまりに生き急ぎ、過剰なまでのアルコールとドラッグの摂取で亡くなったと言われている。

 ハンク・ウィリアムスが詩人であるなら、リトル・リチャードは衝動の男で、R&B界のジョン・ヘンリーだった。リチャード・ペニマンは、一九三五年にジョージア州で生まれ、十歳のときに教会や街角で歌い始めた。(略)

取りつかれたように、悪魔のように叫んで飛び跳ね、ジョン・レノンは感情を解放した「原初の叫び」の第一人者だと表現した。彼はブラック・ゴスペルとモダンソウルの架け橋となった。プレスリーはリトル・リチャードの曲を出し、ローリング・ストーンズヤードバーズは彼のスタイルに同化し、ポール・マッカートニーは彼の信奉者となった。五十年代半ばのディランは、ラジオ大学でリトル・リチャードの生徒となり、彼の猥雑な説教へ熱心に耳を傾けた。「おれの音楽はヒーリングミュージックだ。口のきけないやつらや耳の聞こえないやつらも、話したり聞こえたりするようになる」。リトル・リチャードは神学生になることを目指して少しのあいだ一線を退いていたが、一九六二年にショービジネスの世界に戻った。彼はリヴァプールのキャヴァーン・クラブでビートルズとともに活動し「イェー、イェー、イェー」の高いファルセットの出し方を指導した。ディランはリトル・リチャードに会ったことはなかったが、ビートルズより七年も前から彼のスタイルを取り入れていた。一九五九年の高校の学校年鑑に、ボブは自らの野望をこう書いた。「リトル・リチャードのバンドに参加すること」

エルヴィス

一九七八年のワールドツアーでディランは私にエルヴィスが亡くなったときの心境を語った。「とても悲しかった。あのときはまいったよ!完全にまいってしまった……そんなこと本当にめったにないけどね。自分のこれまでの人生について考えこんだ。子供時代のことも全部ひっくるめて。一週間誰とも口をきかなかったよ。 エルヴィスやハンク・ウィリアムスがいなかったら、ぼくは今やっているようなことをできていないと思う」

(略)

 一九六八年、シャイで華奢な電気技師であるリロイ・ホイッカラが私にこう語ってくれた。「あるとき、ぼくとボブは街なかで会って音楽の話をしたんだ。ぼくたちは八年生で、ぼくはドラムの演奏に熱中していた。モンテ・エドワードソンはギターを弾いていて、ぼくらは一九五五年頃、ボブの家のガレージに集まってはセッションをしていた。モンテがリードで、ボブはリズムと歌が担当だった。ぼくらはバンドのようなことをしていると気がついて、ゴールデン・コーズと名乗ることに決めたんだ。リーダーはいなかったよ。ボブは当時、心からリトル・リチャードを崇拝していた。彼はピアノでもコードを上手く弾けた。ロックはちょうどその頃に始まったんだ。ヘイリーやエルヴィスがまさに有名になり始めていた」

 「ぼくらはよそでも演奏をするようになって、ムース・ロッジでの集会のときやPTAの集まりなんかで演奏をしていた。タレント・コンテストがあるときには必ず出場した。

(略)

リロイはすでに一九五五年の時点から、ボブの曲作りの速さに感心していた。「彼はピアノの前で、あっという間に曲を作るんだ。コードを鳴らして、即興で演奏する。電車についての曲をR&Bスタイルでさっと歌ったのを覚えているよ。彼は一瞬で曲にまとめることができたんだ」。

リトル・リチャード 

 およそ一年後、ボブと名もなきバンドは、ヒビング・ハイスクールのジャケット・ジャンボリー・タレント・フェスティヴァルに出演した。

(略)

 ボブは額の上で髪を盛り、リトル・リチャードスタイルにしていた。バンドメンバーたちはアンプを調整して大音量にした。そしてボブがハスキーで、力強い、叫ぶような声で歌い始めた

(略)

「曲はリトル・リチャードとビッグ・エルヴィスのレパートリーから選曲したもので、なかでもみんなの記憶に鮮明に残っている曲は『ロックンロール・イズ・ヒア・トゥー・ステイ』だった」

(略)

会場のマイクとバンドのアンプが出す音量は相当なもので、校長は走ってステージ裏に行くとマイクのスイッチを切った。

(略)

「アフリカ人のような甲高い叫び声だった」と述べたのは驚愕した教師だった。学生のジェリー・エリクソンは(略)「ボブは少し先を行き過ぎていた。やつはいかれてるって、あの日のぼくたちは思っていたんじゃないかな。普段はいいやつだって知っていたけどね」。(略)

[ギターのラリー・ファブロ談]

「ボブの歌い方はすごく独特だったんだ、あの時代の、あの町にとっては」

エコ・ヘルストロム・シヴァーズ 

 ヘルストロム家の住まいはタール紙を張った箱のような掘っ立て小屋で、ヒビングから三マイル南西のハイウェイ73にあった。たびたび、ボブは学校帰りにヒッチハイクをしてそこに行った。ボブが小さな青のフォードを買ったときには、車を南に走らせてメープル・ヒルの頂上まで行った。そこからは三十マイル一帯のアイアン・レンジが見渡せた。彼らはファイヤー・タワー・ロードのシラカバの木が散在するわだちの道を頂上へ向かって車を走らせたりヒッチハイクをしたりした。夜の空気はひんやりとして気分を高揚させ、空には星が輝いていた。

(略)

 午後に、マット・ヘルストロム氏が不在のときは、エコとボブは掘っ立て小屋の前でのんびりと過ごしていた。ボブはギターを膝に抱いて木の階段にしゃがみ、金髪の少女は小さな木のブランコに腰かけ、穏やかな振り子運動で拍子をとっていた。ボブは即興で歌詞をつくった。「彼が歌ってくれた曲は」とエコは振り返る。「ほとんどがリズム・アンド・ブルースかトーキング・ブルースだった。他のアーティストのように歌詞を繰り返すことはなかった。フレーズはいつも違ったし、いつだって物語があった」

(略)

 「ジョンとボブはしょっちゅうトーキング・ブルースをやっていた。ときには「虹の彼方に」のような曲をヒルビリー・スタイルで歌うこともあった。お互いに教えたり学んだりしようとしていた。私は彼を信じてた、誰も信じていなかったときに。私だけのために歌ってくれたときの彼を見れば、その才能も分かったかもしれないけれど、外で演奏するときにはアンプの音量を大きくするから、声が聞こえなくなってた」。エコはボブの演奏する場所にどこでもついていった。

ディロン、ディリオン

ボブの新たな名前にはおそらく二つの由来があった。マット・ディロン(Matt Dillon)は[ドラマ「ガンスモーク」の架空の人物](略)

ディランの故郷の辺境地帯の近くには、ディリオンという名前のヒビングの開拓者一家がいた。

(略)

ボブは、一九六五年十一月、『シカゴ・デイリー・ニュース』紙の記者から名前のことを聞かれ、ディリオンについて語って受け流した。

 

CDNの記者 ボブ・ジママンからボブ・ディランに名前を変えたのは、詩人のディラン・トマスを尊敬していたからというのは本当ですか?

ディラン 違うよ、まったく違う。ディリオンという名のおじがいるからディランにしたんだ。スペルは変えたけど、その方が見栄えがいいってだけだ。ディラン・トマスも読んだけど、ぼくとはちょっと違うね。

 

 ディランはこの有名な誤解を私に繰り返し話した。「ぼくがディラン・トマスから名前をとったんじゃないってことをあんたの本できちんと書いてくれ。ディラン・トマスの詩は夜の営みに満足できない人や、男らしいロマンを求めている人のためのものだ」。彼はロバート・ジママンとしてミネソタ大学に入学したが、学生たちも友人たちも彼のことをディロンと認識していた。何人かの友人にはディロンは母の旧姓だと言っていた。

ジュディ・コリンズ、ジェシー・フラー

[59年デンヴァー近郊でフォークが盛り上がっていると聞き]

彼はそこでの運にかけることにした。一人でコーヒーハウスでのフォーク・シーンに飛び込んだのだった。(略)

「ジ・エクソダス・ギャラリー・バー」は地元のビート族、芸術家、詩人が集まる場所で(略)

流行に敏感な者たちはエクソダスに引き寄せられ、美術展や詩の朗読会やフォークセッションに集まった。

(略)

 デンヴァーのミュージシャン二人がディランに影響を与えた。エクソダスで人気だったのはデンヴァー出身の十九歳ジュディ・コリンズだった。(略)

当時ジュディが歌っていた二曲は、のちにディランのファーストアルバムに収められることになった。それが「朝日のあたる家」と「いつも悲しむ男」だ。

(略)

それからボブは、陽気な賭博師で、エクソダスでよく演奏をしていたジェシー・フラーとも出会っている。ジョージア州ジョーンズボロで一八九六年に生まれたフラーは、伝統的な曲、ブルース、自作の曲、地方のラグタイム、そして単にとても「心地よい」音を融合させていた。ワンマンバンドミュージシャンで、十二弦のギターと、シンバルと、ハーモニカを演奏していた。彼の興味深い発明品「フォトデラ」は、足でペダルを踏んでドラムを叩き、同時にベースも即興でかき鳴らすパーカッション装置だった。彼は自らを「孤独な猫」と名乗り、元気がよくウィットがあった。ディランは、金属のネックホルダーで固定された口元のハーモニカやカズーを活用して歌とハーモニカのリフを交互に行うフラーのスタイルを観察した。ディランは一九七六年に亡くなったフラーに熱心に質問を投げかけ、ハーモニカの演奏方法をその異色の使い手から学んだのである。

ウディ・ガスリー 

ウディのギター演奏と新しい詩を取り入れた楽曲は(略)カーター・ファミリーのレコードから受け継がれたものだった。

(略)

一九三九年、ウディは週二〇〇ドルもの大金をタバコ会社「モデル・タバコ」が提供するラジオ番組で稼いでいた。その後、あるエージェントがロックフェラーセンターの六五階にある華やかなレストラン「レインボー・ルーム」でのアルマナックの出演を取りつけた。[初期の自伝]『ギターをとって弦をはれ』には、あかぬけないヒルビリーの衣装を着せられることに抵抗して、彼らが会場を去ったことが記されている。彼は妥協しようとはせず、フォーク・ミュージシャンたちのライフスタイルの土台を作り、それがディランに大きな影響を与えることになる。

 ウディは進歩的な組織や左派の仲間のなかにいる偽善者を嗅ぎだすこともできた。人の心につけこむようなことを嫌い、「大衆が望むものを提供する」 ショービジネスを軽蔑していた。彼は「フォーク・ミュージック」という言葉を拒絶していた。なぜならそれは「上流階級のバラッド歌手」と一緒にされることでもあったからだ。ディランが頻繁にフォーク・シンガーやプロテスト・シンガーと呼ばれることを拒否している理由も、ガスリーのこのスタンスにあったと言える。同様にディランが詩人であることを否定するのは、ウディの「ぼくは作家じゃない。そのことを分かってほしい。ぼくはエンジンシリンダーひとつのささやかなギター弾きさ」という主張に通じるところがあった。

 ウディに『ギターをとって弦をはれ』の執筆を勧めたのはピート・シーガーだった。

(略)

一九五四年から発症したハンチントン病は彼を、十三年ものあいだ病院で苦しめた。

次回に続く。

コンピューターは人のように話せるか?

 なぜ人の聴覚は会話に必要のない高域までカバーしているのか、といった話から、テープレコーダーに出資したビング・クロスビーの話まで。

 高周波の聴覚

数百万年前、哺乳類は恐竜から逃れようとやぶを走り回る小動物だった。互いの鳴き声を聞き取るには、高周波の聴覚が必要だった。(略)

[大型化してヒトとなっても聴覚の範囲が狭まらなかったのは、音の出どころを特定するの高周波が必要だったから]

 チンパンジーと現生人類の発声

話す能力の進化をもっとよく理解するために、ヒトを他の現存する種と比べてみるといろいろなことがわかる。チンパンジーと現生人類の発声の仕組みには重大な違いが二つある。

 

現生人類の喉頭のほうがチンパンジーよりかなり低い位置にあり、チンパンジーの喉のわきには喉頭嚢と呼ばれる袋状の器官がある。喉頭の位置が下降したのはいつごろか、多くの研究者がその時期を特定しようとしてきた。というのは、これはヒトが話し始めた時期を示す唯一の指標となるからだ。

 ほとんどの哺乳類は喉頭の位置が高く、鼻で呼吸をしながら同時に口で飲食物を飲み込めるようになっている。ヒトの場合も、赤ん坊のうちは乳を吸いながら同時に呼吸もしなくてはならないので、この仕組みが不可欠である。しかし生後三カ月から四歳までのあいだに、ヒトの喉頭は下降する。男性の場合は思春期になるとさらに低い位置へ下がる。

 このように喉頭が低い位置にあるおかげで、舌はある大事な役目を果たせる。喉頭がこの位置になかったら、「beet」や「boot」という語に含まれる母音を発することができないのだ。喉頭が低い位置にあれば、丸まった舌の可動性が高まり、言葉を発する際に上咽喉と口腔をすばやく変形させることにより、フォルマントをすばやく明確に変化させることができる。喉頭の位置が低いので、舌根が下方へ引っ張られ、それによって口腔の変形とは別に咽頭腔(喉の上部)を変形させることができる。これができなければ、私たちの話し方はもっとゆっくりで不明瞭になっただろう。

 なぜサルは話さないのか

 現生人類の発生学的研究により、ハイデルベルク人の発声器官の構造なら言葉を発することができたはずだという見方が裏づけられている。

(略)

 最近の画期的な研究はさらに先へ進み、サルの発声器官でも言葉を発するのになんら問題がないことを証明している。それなのに、なぜサルは話さないのか。その答えは、調音器官をコントロールする認知能力がないからだ。

(略)

 以上の実験によって、喉頭の下降は話す能力の進化を解明するうえで有益な指標だという仮説は崩れると思われる。しかし、それならばこの解剖学的変化を押し進めた要因は何なのか

(略)

喉頭が常に低い位置にある動物はヒトだけではない。コアラやモウコガゼルもこの特徴を備えている。ほかに犬などは、鳴き声を上げるときに一時的に喉頭が下降する。犬の喉頭はふだんは高い位置にあるが、吠えるときには発声器官がヒトとよく似た配置に変化するのだ。

(略)

 ゴリラ、チンパンジーボノボ喉頭嚢をもつが、ヒトは進化の過程でこれを失った。この喉頭嚢により低周波のフォルマントが声に加わり、喉の壁から外側へ効率的に広がって、実際よりも体が大きく立派だという印象を与える。

 ベルヌーイ効果

 人は生まれた瞬間から声をもつ。この世に生まれ出てくるまで、肺はしぼんで羊水で満たされている。子宮内の胎児には妊娠七カ月目から聴覚があるが、話すことはできない。

(略)

 生まれたとき、赤ん坊の声は聴覚と比べてはるかに成熟が遅れている。喉頭が十分に発達していないので、仮に話せるだけの知的能力があったとしても、言葉を正確に発するのに必要な解剖学的構造と神経が十分にできあがっていない。声道の形状は成人よりもチンパンジーに近く、喉頭が喉の高い位置にある。生後三カ月から四歳までに喉頭が下降し、それによって舌を精密にコントロールして明瞭に話せるようになる。

(略)

声帯の動きを支配するのはベルヌーイ効果だ。これは一八世紀のスイス人数学者、ダニエル・ベルヌーイにちなんで名づけられたもので、空気の速度と圧力の相互作用を明らかにする。空気が肺から出ていくときには、声門の細い隙間を通るために速度を上げる必要がある。ベルヌーイ効果から予測されるとおり、この空気の流れによって圧力が下がり、声帯を閉じることができる。そしてまた肺からの空気が声帯を押し開き、続いてベルヌーイ効果によって声帯が再び閉じる。これが繰り返されていく。赤ん坊は泣き声を上げている最中にはほかのときよりも空気を強く送り出すのがふつうだ。そのため、ふだんよりもすばやく声帯が開閉し、その結果として声の高さと音量が上がる。

カストラート

彼らは思春期にテストステロンの作用で声帯が厚みを増すのを防ぐために、八歳か九歳のころに去勢され、10代の時期に集中的な発声訓練を受けた。カストラートボーイソプラノと同じ高さで歌うことができるが、肺気量、持久力、声量は成人並みだ。彼らの得意技の一つは、一分間も息継ぎなしで歌い続けることだった。

(略)

 カストラートが増えたのは、ローマ教皇インノケンティウス一一世が一七世紀終盤に女性が舞台に上がるのを禁じたことに端を発していた。(略)

[そうなると]少年かファルセットを出す男性が歌うしかない。しかしその一方で、ファルセットの声は力強さを欠く。ふつうの歌い方をするときには、声帯全体がしっかりと動し、開閉することによって肺からの空気の流れを分断して音を発生させる。ファルセットで歌うときには、喉頭の筋肉の一部が弛緩し、声帯が伸びてかなり長くなる。これによって声帯の厚みが薄くなり、動くのは端だけになる。振動する部分が少なくなれば、声はおのずと高くなる。なぜなら、軽い物体のほうが高い周波数で振動するからだ。

(略)

声帯は真珠のような光沢のある白色で、一対のカーテンの合わせ目がはためいているように見える。ふつうの歌い方をするときには、左右の白いカーテン全体が大きく動いているように見えるのに対し、ファルセットのときには端だけが小さく波打つように見える。ファルセットで歌っているときに声量を上げようとして肺からの空気圧を強めると、ある一定の声量に達したところで、おだやかに波打っていた声帯がぱっくりと開き、それ以上の大きな声は出せなくなる。最高音部を歌わせるのにカストラートが使われたのはこのためだ。

(略)

教会が禁止していたので、手術は田舎のもぐりの医師によってひそかに行なわれた。麻酔などなく、感染症にかかって命を落とす危険も小さくなかった。それでもなお、カストラートが教会の聖歌隊で歌う慣習は続いた。子どもの精索や精巣全体を切除したあとで、たとえばイノシシの牙で突かれたなど、知恵を絞った釈明がなされた。

 最後期のカストラートの一人、アレッサンドロ・モレスキ(一八五八~一九二二年)はシスティーナ礼拝堂聖歌隊で歌っていた。しかし一九一二年、ローマ教皇ピウス一〇世が実態に気づき、野蛮な慣習に対する禁止令を厳格に施行すると、モレスキは引退した。彼の活躍した時期は、蓄音機の発明と重なっていた。そのおかげで、一九〇二年と一九〇四年の歌唱を雑音混じりで録音した蝋管がいくつか残っている。(略)

モレスキの声の音域は女性と同じだが、私たちの耳には異様に響く。ときおり女性のソプラノのようにも聞こえるが、そうかと思うと声を張り上げるボーイソプラノに変わったりする。バロック時代の聴衆はこの天使のような歌声をあがめたのかもしれないが、現代の感覚で聞いた私はまっさきに嫌悪を覚えた。

 舞台演劇と音響効果

ブロードウェイでは会話劇でも俳優の声を大きくしてほしいと観客が望むので、マイクを使って音量を増幅している。しかしイギリスでは、電子機器のあからさまな使用については賛否両論がある。

 特に注目を集めた一例が、一九九九年にナショナルシアターで起きた騒動だった。シェイクスピア劇で電子機器を使って声を増幅していることが明らかになったのだ。バービカンシアターの芸術監督を務めていたグレアム・シェフィールドは「特殊な音響効果のためにマイクを使うのと、怠惰な役者を助ける仕組みとしてマイクを使うのでは、まるで別の話だ」とコメントし、さらに「そんなことをしたら、役者と観客とのあいだに存在する親密さと自然さがぶち壊されてしまう。どれほど巧みにやったとしても、必ずいくらか人工的に聞こえるものだ」と語った。

(略)

劇場の音響を手がけるギャレス・フライ(略)の説明によると、ナショナルシアターの音響問題は、上演様式が変わってきたことに伴う偶然の副産物だそうだ。劇場ができたころにはほとんどの演目で重量のある大がかりなセットが使われていた。(略)

細部まで美しく塗装された壮大な邸宅の図書室といった、きわめてリアルな舞台装置(略)は簡単には移動できないので、プロットはすべてこの一部屋の中で展開させる必要がある。脚本家は登場人物がこの部屋にやって来る理由をひねり出さねばならず(略)

固定されたセットは脚本家にとっては難題かもしれないが、音響に関しては大きなメリットがあった。重厚な大道具で音が反射して観客のもとへ届くので、出演者の声が増幅されるのだ。

 しかし、二〇世紀の終盤までにセットの流行は変わった。テレビ番組や映画の美意識にならって、脚本家は舞台でも場面を変えられるようにしたいと考えだした。そのためには、大道具をもっとシンプルで軽く融通の利くものにする必要がある。(略)このため、大道具が音を反射しなくなった。(略)

電子機器による補助が必要とされるのは、音響の不足を補うためであって、一部のジャーナリストが批判しているように最近の俳優がよく通る声を出せないからではない。最近では、効果音や音楽が劇に加えられて、俳優の声がさらに多くの「ノイズ」と競い合うようになったので、この技術はさらに重要性を増している。しかし観客に気づかれぬように、ひそかにやらなくてはいけない。ギャレスはこの技術を「距離を半分にすること、つまり役者との距離が実際の距離の半分に感じられるようにすることを目指す」と説明する。しかしテクノロジーの利用は音量を上げる以外にも

(略)

声の高さを変えるといった単純な処理によって、登場人物を男性から女性に変えることができる。残響を加えれば、俳優のいる場所をバスルームから教会に変えたりもできる。

 オペラ歌手

 オペラ歌手は、人間の耳にとって特に聞き取りやすい周波数域の音域を狙って歌う。耳介から鼓膜に至る外耳道には、外耳道内の空気が効率的に振動する共鳴周波数が存在する。この共鳴があることから、歌手が三〇〇〇ヘルツ付近の声を出せば、耳の解剖学的構造のおかげでおのずと大きく聞こえる。しかし男性と女性の歌うメロディーは周波数域が異なるので、その帯域に達するには、それぞれ別の歌い方をする必要がある。

 男性のバリトン歌手が一〇〇ヘルツという低音を歌っているとしよう。これは最も効率的に共鳴する帯域よりはるかに低い。しかしこの音には、その周波数を整数倍した二〇〇ヘルツ、三〇〇ヘルツ、四〇〇ヘルツなどの倍音がある。バリトン歌手は声を増幅するために声道の共鳴を調節し、聞き手の最も聞き取りやすい周波数域の範囲内に高めの倍音の一つが入るようにする。これによって、歌い手のフォルマントと呼ばれるものが生じる。バリトン歌手は喉頭の位置を下げて、声門のすぐ上で声通を狭めることによってこれを達成する。俳優も、声を遠くまで届かせるために同じような調節をする。

テープレコーダーに出資したビング・クロスビー

 ビング・クロスビーアメリカ国内で異なるタイムゾーンに向けて放送するために、ラジオで同じ生放送の番組を何度もやらされるのが不満だった。そんなことに時間を費やすより、ゴルフコースに行きたかったのだ。一九四六年、開局したばかりのABCラジオネットワークがクロスビーの番組『フィルコ・ラジオタイム』をレコード盤にあらかじめ録音し、このスーパースターを楽にしてやった。しかし音質が劣悪だったので、生放送でないことがリスナーにすぐさま気づかれ、聴取率が下がってしまった。解決策をもたらしたのは、敗戦直後のナチス・ドイツだった。ドイツではテープ録音が第二次世界大戦中に発明され、ラジオ放送で使われていた。実際、番組が事前に録音されたものだと連合国側が初めて気づいたのは、演奏家が寝ているはずの真夜中にオーケストラの音楽が流れていたときだった。シリンダーやレコード盤につきものの表面を引っかく音やひび割れ音がなかったことから、ドイツではもっとすぐれた機材を使っているらしいということもわかった。戦後、ドイツで「マグネトフォン」と呼ばれるオープンリール式のテープレコーダーが発見されると、すぐにアメリカへ送られた。この新しい技術に関して詳細な調査が行なわれ、模倣と改善がなされた。クロスビーは磁気テープが自分の日々を楽にしてくれる可能性に気づき、この技術の開発に出資したのだった。レコード盤を使った録音では小さな音は表面雑音にかき消されてしまうが、磁気テープを番組で使い始めるとその問題がなくなったので、クロスビーはささやくような声でマイクに向かって話すことができた。リスナーは彼が生放送を再開したと思い、番組の聴取率は回復した。

 ソノボックス

一九四〇年代、キャピトル・レコードは言葉を話す機関車の登場する子ども向けの物語[『スパーキーとお話し列車』]のレコードを作った。

(略)

 この物語の録音で、機関車がしゃべる汽笛のようなゼーゼーした声には、ソノボックスというエフェクト装置が使われている。声優は自分の喉にスピーカーを押し当ててセリフを言う。汽笛の音をスピーカーから流すと、その音が声優の喉を振動させ、声道の中へ入っていく。この振動が、声優の声帯の発する通常の喉頭原音の代わりとなり、汽笛のような声が出る。同様の方法が、病気で声帯を失った人にも利用できる。人工喉頭を喉に設置して、ソノボックスのスピーカーと同様の役割を果たさせるのだ。この場合、装置から喉頭原音に代わる音が出る。漫画のキャラクターの声を作るのではなく、話すための代用音声として使うのである。

 二〇世紀が過ぎていくにつれて、変な声やロボットボイスを作り出せるもっと複雑な装置が続々と開発された。なかでも最も注目すべき成果は「ボコーダー」という、もともとは電話回線の音声を暗号化する目的で開発された装置である。ボコーダーの仕組みは多くの点でソノボックスと似ているが、声帯から生じる音波の代わりにシンセサイザーの音を使う。  

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