ノー・ディレクション・ホーム その2 ボブ・ディラン

前日の続き。 

 デイヴ・ヴァン・ロンク 

 頑なに個人主義的な左派を貫いてきたヴァン・ロンクだが、政治的で時事的な曲を歌うことはなかった。「曲で人が変わるとは思っていないんだ。フィル・オクスの曲で抗議活動が持続したり、ピケが張られ続けたり、ストライキ公民権運動をする人びとの士気が高まったなんて思えない。彼の曲は個人的な良心について語るものだ、徴兵カードを燃やしたり、自分自身を燃やしたりね。何の役にも立たないんだ、世界のあらゆる悪から自分や聴衆を切り離すということ以外はね。世界中の悪と無関係でいられるわけないのに」。ヴァン・ロンクはプロテスト・ソングを空想的な無政府主義だと考えているのだろうか? 「いや。あれはポピュリズムだ。ああいう曲のなかには社会の愛国心が流れているものなんだが、ディランの曲にはその要素がすごく少ない。プロテスト・ソングには嫌気がさすよ、おれ自身は国際主義者だからね。アメリカ人だけが特別に善や義務を抱えているとは思わないし、アメリカ人だけが特別に悪を抱えているとも思っていない。黒人を激励するような歌には耐えられないね。むしろこういう歌を聞きたいよ。『なあ、何もしないなら父親以上に幸せになれないぞ』っていうね」

 ヴァン・ロンクがディランに与えた影響は多岐にわたった。

(略)

デイヴのレパートリーのなかでディランが定期的に歌っていたのは「ディンクの歌」「朝日のあたる家」「ポ・ラザルス」「僕の墓をきれいにして」の四曲だけだった。ボブはデイヴのスタイル、物の見方、解釈を取り入れた。ヴァン・ロンクのスキャットや唸りは巧みで、南部の田舎の言葉を熱心に取り込んでもいた。ディランはデイヴのギター奏法をいくつか習得したが、それ以上に大きく影響されたのは彼の格別のショーマンシップ、音と沈黙で空間を満たして観客の注意を引きつける能力だった。

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ファーストアルバム 

大半の曲を五テイク以内で録り終えた。何曲かは驚くべきことに二回で録り終えた。シナトラでさえもウォームアップのためだけに十数回は歌ったことだろう。

(略)

翌日彼が私に語ったのは「死を見つめて」を録っているときに、廊下の掃除をしていた年配の黒人清掃員が歌を聞くためにスタジオに入ってきたことだった。ボブはそのときに自分の歌は多くの人に聞いてもらえるだろうと思ったという。悲劇的な古い哀歌に足を止めたその清掃員は、ほうきに寄りかかり、目を向け耳を傾けていた。ボブがそのことをずっと忘れなかったのは、ハモンドやリーバーソンのどんな言葉よりも、その光景が心に残っていたからだった。シンプルに「ボブ・ディラン」と名づけられたファーストアルバムは、一九六一年十一月に行われた三回のセッションで収録されたが、一九六二年三月十九日まで発売されることはなかった。

(略)

一九六一年の後半、自分が勢いよく突き進んでいると思っていた彼にとって、五か月間レコードが宙づり状態に置かれることは残酷なまでに期待外れの結果だった。このアルバムがリリースされる頃には、この作品が引き出しの底に残された昔の曲のように思え、気恥ずかしさを感じていた。ディランの失望は、エンシニアリングと編集が終わった後の十二月からもう始まっていた。

アルバートグロスマン登場

別名「ザ・ベア」は、そのあだ名の通りの体型と態度で、顔は明かりのなかに引きずり出されたフクロウのようだ。

(略)

 ディランがアルバートに会ったとき、ディランは用心深かった。

(略)

それぞれがすぐに相手の最も悪い特徴を身につけた。最も顕著な違いはボブが人への大きな思いやりを持つ比較的オープンな人間であったのに対し、アルバートはいつも駆け引きをするチェスプレーヤーだった点だ。最悪の状態のとき、グロスマンは人を見下し、最高のとき、商業的な言葉や安っぽさを最小限に控えて仕事する眼識を備えたマネージャーだった。最悪の状態のとき、関心の中心は金となり、最高のとき、クオリティとスタイルを持つアーティストからのみ金を生み出した。

 ディランがコロンビアと契約するとすぐに、音楽ビジネスの強欲なサメたちが血を嗅ぎつけた。ボブは待機戦術に出た。ハモンドはシーガーやジュディ・コリンズやウィーヴァーズ、そしてなかでもガスリーを担当したハロルド・レヴンソールをマネージャー役に勧めた。ディランとレヴンソールの関係は上手くいかなかった。ボブは、影響力あるミュージシャンのボブ・ギブソンと大学のタレントブッキング・グループ「キャンパス・コンセプツ」を立ち上げたロイ・シルヴァーと親しくし始めていた。シルヴァー――のちにコメディアンのビル・コスビーのマネージャーとなる――は、最初期のディランフリークのひとりで、自身最初の結婚を犠牲にしてしまったほどだとのちに私に語った。「夜家に帰る代わりに、ボビーを聴けるヴィレッジの場所を探しまわったり、彼とつるんだりしていた」。一九六一年の終わりに、シルヴァーとギブソンはカナダでディランを一週間二五〇ドルでブッキングした。「彼をシラキュースの週末に一五〇ドルでブッキングできると、これで大金持ちになれると声を上げた」。シルヴァーは当時グロスマンと仕事をしていたが、一九六二年にグロスマンへ、一万ドルでディランらの契約を譲った。

(略)

ボブのLPが発売される頃、数か月をかけてディランの信頼を築いたグロスマンは、直接的な申し出を行った。当時ボブは、アルバートが年に五万ドルを生み出せないアーティストとは仕事をする気がないと語ったと言い、ボブはその数字に驚いたという。ディランは、アルバートが自分を単なるコーヒーハウスのパフォーマーではなく、コンサートをしたりレコーディングをするアーティストだと考えているようだと語った。アルバートはボブがディンキータウン時代から敬愛していたオデッタのマネージャーを務めて評価を得ていた。彼が手がけるピーター・ポール&マリーの高まる名声もディランに好印象を与えていた。

グロスマンに父親像を見いだす 

 長年グロスマンと親交のあった私は、彼のことをやりたいことが上手くいかない男だと考えていた。グロスマンは才能がありながらも決して上手くいかなかったイスラエルのデュオ「デュダイム」に入れ込んでいた。ジョーン・バエズから断られ、グロスマンは黒髪のソプラノ歌手リン・ゴールドを発掘して宣伝したが、無名のままで終わった。駆け出しの頃、グロスマンは遥かにオープンで、スターたちへの様々な発言を残している。その後はかなり厳しくなり、距離をとり、神経が図太くなっていく。担当するスターたちは「彼の人民」となり、誰も、もちろんライターも、彼らについての質問をすることは歓迎されなかった。一九六五年に私がグロスマンに対して、あるディランの発言の真意は何だったと思うか尋ねると、アルバートは笑って言った。「私はただのユダヤ人ビジネスマンさ」

 そういうディランとグロスマンが互いを見いだしたことに驚きはなかった。しばらくのあいだ、彼らの気性は驚くほど似ていた。グロスマンの方が十数歳上ではあったものの、他のどんなアーティストもグロスマンにこれほどの影響を与えたことはなかった。ディランの嗜好はグロスマンがポール・バターフィールドや、ジョン・リー・フッカーや、クウェスキン・ジャグ・バンドや、ザ・バンドと契約することにつながった。ピーター・ヤーロウは、ディランがグロスマンのなかに自分が求めていた父親像を見いだしていて、関係が崩れていく一九六五年から七一年にかけて、ボブは恩義のあった権威的存在たる父親を象徴的に打ちのめしていったのだと語った。グロスマンもボブのなかに反抗的な息子を見ていたのかもしれない。ボブはその家族という器の亀裂について語ることはほとんどなく、アルバートはそんな亀裂などないかのように振る舞っていた。

アーティ・モーグル

 グロスマンと密に仕事をしていたのは、トミー・ドーシー・バンドの元ロードマネージャーで、聡明かつ活動的な重役であるアーティ・モーグルだった。(略)

一九六二年の初夏、グロスマンとシルヴァーはディランをモーグルと引き合わせた。

(略)

モーグルはディランにリーズとの契約を解除させ、その後一九六二年七月十三日にウィットマーク社と三年間の契約を結んだ。「ディランに一〇〇〇ドルでウィットマーク社との契約を提案した」とモーグルは私に語った。

(略)

「ウィットマークでの三年間で、ディランは二三七の著作権をもたらした。聞いたこともない数だ! 彼は驚くほどに多作なんだ。普通だったら、三年で二五曲くらいだろう」

[ジョン・ハモンド談]

(略)

「世界最高のタレントスカウト」を自称するモーグルは、グロスマンの経済的成功に一役買ったのかもしれない。ピーター・ポール&マリーとの契約に際して、ワーナー・ブラザースは三万ドルの前払金を支払い、グロスマンはそこから数百万ドルを増やした。

 ビッグ・ジョー・ウィリアムス

 ディランは六十歳のブルースマン、ビッグ・ジョー・ウィリアムスとも親しくしていた。

(略)

エセル・ウォーターズのミンストレル・ショーがオクティベハ郡にやってきたとき、彼はその集団についていき街を去った。一九三〇年代はメンフィスでヴォカリオン・レコード用に録音を行った。一九三五年以降の十年は、ブルーバード、コロンビア、その他様々なレーベルで数々の収録を行った。

 一九六二年の初頭にマイク・ポルコがフォーク・シティへのビッグ・ジョーのブッキングを検討していたとき、ディランは大々的な賛辞を送った。「彼は最も優れたブルースマンだ。ここに呼ぶべきだよ」。マイクはそれに従い、二月に三週間招待した。ディランはほとんど毎晩顔を出し、何度かビッグ・ジョーとステージで演奏もした。路上で仕事をしてきたジョーにとって、このニューヨークでの初仕事は刺激的なものだった。昔のブルースの復興を促進することにも一役買い、ジョーはやがていくつかのレーベルからLPを発売することにもなった。

(略)

 数年後、ビッグ・ジョーは昔を懐かしむ父親のように私のインタヴューに答えてくれ、ディランとは彼が六歳(!)のときにシカゴで会ったことがあると語った(ボブはおそらく、一九六〇年に東へ向かう途中にシカゴでジョーと会ったのだろう)。ディランは一九六二年に、十歳の頃シカゴへと逃げ出したことがあると発言し、真相はさらに分かりにくくなっている。「黒人のミュージシャンが街頭でギターを弾いているのを見て、彼のところへ行き、スプーンで一緒に演奏を始めた。ぼくは小さい頃スプーンを弾いてたんだ」。ディランの話を補完するかのように、ビッグ・ジョーもその旅について語っている。「初めてボブに会ったのは一九四六年か四七年のシカゴだ。正確な年は覚えてないが、彼はものすごく幼くて、いっても六歳くらいだったんじゃないかな。見た目はいまと変わらなかった。彼は生まれたときから才能があったのだと思う。うきうきしてやって来て、いまと同じように冗談を言っていた。まあ、俺は当時シカゴの街頭で演奏していたんだ、一九二七年以来ずっとそうだったようにね。どうしてか彼は『ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー』や『ハイウェイ?』なんかの俺が収録した曲を知っていた。

(略)

それから六年か七年後、ミネアポリスで彼を見かけた。トニー・グローヴァーと演奏していた。俺が知ってるミシシッピ川の、対岸でね」 

 ディランに投資したPP&M 

グロスマンはロイ・シルヴァーのパートナーシップの一部をOPM――投資用に他人からあつめた資金――で買い取った。(略)

一万ドルのうちの半分は、sが負担した。取引が内密に行われたのは、主にディランがすべてを自分の力でやっているという気分になってもらうためだった。

(略)

彼らが自分たちの考えにしたがって融資したとディランが知ったのは、「風に吹かれて」がピーター・ポール&マリーのヒット曲になってしばらくしてからだった。

(略)

グロスマンとモーグルはディランの曲を広め始めた。

(略)

アルバートは、ヤーロウとミルト・オクンに近づいた。ミルト・オクンは音楽ディレクターとして、ピーター・ポール&マリーのほかに、チャド・ミッチェル・トリオやブラザーズ・フォアを手がけていた。オクンはベラフォンテと仕事をした経験があり、のちにジョン・デンヴァーのパブリッシャー兼プロデューサーになった。

(略)

アルバートは特別、『風に吹かれて』をピーター・ポール&マリーのためにとは言わなかった。まず思ったのはミッチェル・トリオが気に入るんじゃないかということだった」

 ジョーン・バエズ

 ディランの直感は、ジョーンの誘いを受け入れてカーメルで彼女と秋を過ごすべきだと告げていた。彼はおそらくまだスージーを愛していたが、彼女はすでにその夏、西四丁目から出て行くことに決めていた。それは別れではあったが終わりではなかった。ボブはまだバランスを取れると思っていた。

(略)

 ジョーンは新しい家がカーメルヴァレーに建つのを待つあいだ、質素で、モダンで、木造の梁が渡されたコテージに住んでいた。そこは低木に覆われた渓谷に隔てられ、太平洋岸から一マイルも離れていなかった。ガラス張りの壁が、広々とした居間に田園の風景を運び込み、モダンな彫刻や、ベンチや、カジュアルな椅子が点々と置かれていた。私はディランがそこで見いだすことになる静穏を事前に見たことになる。ニューヨークのストレスから一〇〇万マイル隔たった静けさだった。カーメルとビッグサーは岩だらけの海岸と風に揺れる糸杉の地だった

(略)

一九六三年の秋、ディランはその平穏な国であるジョーンの住まいに初めて滞在し、自身初の隠遁的な曲「レイ・ダウン・ユア・ウィアリー・チューン」を書いた。

(略)

 カーメルは、彼が夢にまで見た『怒りの葡萄』の地ベーカーズフィールドだった。北部のそう遠くないモンタレーにはスタインベックが描いたキャナリー・ロウがあり、サリナスのレタス畑があった。そこはディランにとって「エデンの門」の向こうの「エデンの東」だった。注意の行き届いたジョーンのもとで、彼は厳格なスケジュールで行動した。かつては混沌と切迫感が彼の創造性を刺激していたが、今やそれは平穏に代わっていた。

(略)

コテージの近くには人気のない砂浜の入り江があり、そこへは彼女のスポーツカーで十分か、歩いても三十分程度で行くことができた。彼はそこで泳いだり太平洋に思いを馳せたりするのが好きだった。朝、彼女の家でタイプライターを置いて仕事をするあいだ、ジョーンは邪魔になるのをおそれて、彼をひとりにしておいた。彼が初めて味わう平穏だった。

(略)

一九六六年、当時のあなたにとってディランはどんな存在だったか問われると、彼女は顔を曇らせて思いに沈んだ。おそらくまだ彼女には、あのときのことを客観的に振り返る準備ができていなかったのだろう。慎重に選ばれた言葉には、わずかに辛辣さが込められていた。「彼はややこしくて、問題を抱えた、難しい人。ボビーは、頭のなかにかすかに傷ついたダイヤモンドを抱えている人だと思う。普通の人よりもろいのよ。彼が歌うのを座って見ていると、ちょっとした言葉や何かが通り過ぎただけでも簡単に気を散らしてしまった。でも彼がそういうことを自覚しているのかどうかは誰にも分からない。ごまかすのがとても上手だから。わたしの意見では、何らかの理由から、彼はすべての責任から解放されたがっているように見える。どんな責任からも、どんな人からもね。わたしはそう感じる。差し出すものは最低限にして何とか切り抜けようとしているみたいに。もし自分自身のことをまったくかまわなければ、他の誰のこともかまわないでいい。彼はあまりに、あまりに輝いていて、彼の内にあるおかしな磁石が人を引き寄せる。つまり、わたしはボビーが好きで、彼のためなら何でもできるの、何でもね。わたしたちのあいだでどこが間違ったのか、わたしには全然分からない。ボビーがわたしのことをどう思っているのかも分からない。わたしをどう思うかなんて、大事なことじゃない」

(略)

「ただ、彼もわたしも社会を批判してきて、彼は最後には社会に対してできることは何一つないから放っておけと言い、わたしは反対のことを言っていた。一九六五年から一九六六年にかけてのディランのメッセージは次のようなものだったと思う。みんな家に帰ってマリファナを吸おう、他にすることなんてないんだから。みんなで吸っていた方がまだましだ。そこでわたしたちの道は分かれた」

(略)

どうして、彼は一九六四年に変わったのだろうか? 変化を強いられたのだろうか。「そうじゃない。彼は自分自身を含めて、誰の責任も背負いたくなかったんだと思う。ボビーは免除されたがっていたんじゃないかしら。それだけ。当時問題になっていたあらゆることからの免除ね。彼はよく、すべては大した問題じゃないと言いたがる。ボビーとわたしはまさに正反対。それに気づくのにすごく時間がかかった。

(略)

 長く、不安定な、そして公私にわたったボブとジョーンの関係は、まれにみるほど複雑だった。彼ら自身も何が起きているか分かっていなかったほどだ。ディランは彼女の気遣いと「保護」に浮かれていたように見えた。(略)

ジョーンは少なくとも彼を「受け入れて」、その混沌からの束の間の避難所を確保した。

(略)

 一九六七年の末までに、ジョーンは反戦活動に「踏み出した」ため二度も刑務所で過ごし、ほどなく徴兵制反対運動のリーダーと結婚した。

(略)

 ディランのジョーンに対する態度が大きく変わったのは一九六三年の末だ。彼女は移り気だったが、それは彼も同様だった。バエズも言っていたように、彼が結婚を考えていて、彼女がそれを退けたことが核心にあったのではないだろうか。きっと過剰な自己疑念とエゴとナルシシズムが、カーメルのひとつ屋根の下には入りきらなかったのだろう。情熱的な愛が終わると、職業的な敬意だけが生き残った。時が経つにつれて、その敬意にも亀裂が入り始めた。

(略)

 あるときにディランは、自分についてのいかなる本でもバエズは言及されるに値しないと言った。同様に信じがたいことだが、ジョーンの本『夜明け』が原稿になったとき、そこにはディランへの言及は一切なかった。

(略)

[68年『エニィ・デイ・ナウ』発売]

 その頃、ジョーンはディランと二年は言葉を交わしていなかった。彼女の「全曲ディラン」のアルバムは、かつての恋人への手紙であり、彼と彼の曲をまだ愛していることを伝えていた。(略)

彼らの最も深刻な決別は一九六五年春のイギリスで起こった。その断絶は数年にわたり、『エニィ・デイ・ナウ』のリリースを経ても続いていた。それでも両者はどのようにしてか、一九八〇年代過ぎまでに交流を復活させていた。

(略)

彼女は『レナルド&クララ』の映画製作にも付き合った。映画のなかでの自分の姿に当惑しながらもだ。ジョーンが私にディランのことを語るときはいつも、彼のジェスチャーを、スラングを、タバコの吸い方を、言い回しを、あますところなく真似た。笑えるものだったが、どこか悲しくもあった。まるでそうすることだけが彼女にとって、あの手に負えない、捉えどころのない男を把握する唯一の方法であるかのようだった。

次回に続く。