コンピューターは人のように話せるか?

 なぜ人の聴覚は会話に必要のない高域までカバーしているのか、といった話から、テープレコーダーに出資したビング・クロスビーの話まで。

 高周波の聴覚

数百万年前、哺乳類は恐竜から逃れようとやぶを走り回る小動物だった。互いの鳴き声を聞き取るには、高周波の聴覚が必要だった。(略)

[大型化してヒトとなっても聴覚の範囲が狭まらなかったのは、音の出どころを特定するの高周波が必要だったから]

 チンパンジーと現生人類の発声

話す能力の進化をもっとよく理解するために、ヒトを他の現存する種と比べてみるといろいろなことがわかる。チンパンジーと現生人類の発声の仕組みには重大な違いが二つある。

 

現生人類の喉頭のほうがチンパンジーよりかなり低い位置にあり、チンパンジーの喉のわきには喉頭嚢と呼ばれる袋状の器官がある。喉頭の位置が下降したのはいつごろか、多くの研究者がその時期を特定しようとしてきた。というのは、これはヒトが話し始めた時期を示す唯一の指標となるからだ。

 ほとんどの哺乳類は喉頭の位置が高く、鼻で呼吸をしながら同時に口で飲食物を飲み込めるようになっている。ヒトの場合も、赤ん坊のうちは乳を吸いながら同時に呼吸もしなくてはならないので、この仕組みが不可欠である。しかし生後三カ月から四歳までのあいだに、ヒトの喉頭は下降する。男性の場合は思春期になるとさらに低い位置へ下がる。

 このように喉頭が低い位置にあるおかげで、舌はある大事な役目を果たせる。喉頭がこの位置になかったら、「beet」や「boot」という語に含まれる母音を発することができないのだ。喉頭が低い位置にあれば、丸まった舌の可動性が高まり、言葉を発する際に上咽喉と口腔をすばやく変形させることにより、フォルマントをすばやく明確に変化させることができる。喉頭の位置が低いので、舌根が下方へ引っ張られ、それによって口腔の変形とは別に咽頭腔(喉の上部)を変形させることができる。これができなければ、私たちの話し方はもっとゆっくりで不明瞭になっただろう。

 なぜサルは話さないのか

 現生人類の発生学的研究により、ハイデルベルク人の発声器官の構造なら言葉を発することができたはずだという見方が裏づけられている。

(略)

 最近の画期的な研究はさらに先へ進み、サルの発声器官でも言葉を発するのになんら問題がないことを証明している。それなのに、なぜサルは話さないのか。その答えは、調音器官をコントロールする認知能力がないからだ。

(略)

 以上の実験によって、喉頭の下降は話す能力の進化を解明するうえで有益な指標だという仮説は崩れると思われる。しかし、それならばこの解剖学的変化を押し進めた要因は何なのか

(略)

喉頭が常に低い位置にある動物はヒトだけではない。コアラやモウコガゼルもこの特徴を備えている。ほかに犬などは、鳴き声を上げるときに一時的に喉頭が下降する。犬の喉頭はふだんは高い位置にあるが、吠えるときには発声器官がヒトとよく似た配置に変化するのだ。

(略)

 ゴリラ、チンパンジーボノボ喉頭嚢をもつが、ヒトは進化の過程でこれを失った。この喉頭嚢により低周波のフォルマントが声に加わり、喉の壁から外側へ効率的に広がって、実際よりも体が大きく立派だという印象を与える。

 ベルヌーイ効果

 人は生まれた瞬間から声をもつ。この世に生まれ出てくるまで、肺はしぼんで羊水で満たされている。子宮内の胎児には妊娠七カ月目から聴覚があるが、話すことはできない。

(略)

 生まれたとき、赤ん坊の声は聴覚と比べてはるかに成熟が遅れている。喉頭が十分に発達していないので、仮に話せるだけの知的能力があったとしても、言葉を正確に発するのに必要な解剖学的構造と神経が十分にできあがっていない。声道の形状は成人よりもチンパンジーに近く、喉頭が喉の高い位置にある。生後三カ月から四歳までに喉頭が下降し、それによって舌を精密にコントロールして明瞭に話せるようになる。

(略)

声帯の動きを支配するのはベルヌーイ効果だ。これは一八世紀のスイス人数学者、ダニエル・ベルヌーイにちなんで名づけられたもので、空気の速度と圧力の相互作用を明らかにする。空気が肺から出ていくときには、声門の細い隙間を通るために速度を上げる必要がある。ベルヌーイ効果から予測されるとおり、この空気の流れによって圧力が下がり、声帯を閉じることができる。そしてまた肺からの空気が声帯を押し開き、続いてベルヌーイ効果によって声帯が再び閉じる。これが繰り返されていく。赤ん坊は泣き声を上げている最中にはほかのときよりも空気を強く送り出すのがふつうだ。そのため、ふだんよりもすばやく声帯が開閉し、その結果として声の高さと音量が上がる。

カストラート

彼らは思春期にテストステロンの作用で声帯が厚みを増すのを防ぐために、八歳か九歳のころに去勢され、10代の時期に集中的な発声訓練を受けた。カストラートボーイソプラノと同じ高さで歌うことができるが、肺気量、持久力、声量は成人並みだ。彼らの得意技の一つは、一分間も息継ぎなしで歌い続けることだった。

(略)

 カストラートが増えたのは、ローマ教皇インノケンティウス一一世が一七世紀終盤に女性が舞台に上がるのを禁じたことに端を発していた。(略)

[そうなると]少年かファルセットを出す男性が歌うしかない。しかしその一方で、ファルセットの声は力強さを欠く。ふつうの歌い方をするときには、声帯全体がしっかりと動し、開閉することによって肺からの空気の流れを分断して音を発生させる。ファルセットで歌うときには、喉頭の筋肉の一部が弛緩し、声帯が伸びてかなり長くなる。これによって声帯の厚みが薄くなり、動くのは端だけになる。振動する部分が少なくなれば、声はおのずと高くなる。なぜなら、軽い物体のほうが高い周波数で振動するからだ。

(略)

声帯は真珠のような光沢のある白色で、一対のカーテンの合わせ目がはためいているように見える。ふつうの歌い方をするときには、左右の白いカーテン全体が大きく動いているように見えるのに対し、ファルセットのときには端だけが小さく波打つように見える。ファルセットで歌っているときに声量を上げようとして肺からの空気圧を強めると、ある一定の声量に達したところで、おだやかに波打っていた声帯がぱっくりと開き、それ以上の大きな声は出せなくなる。最高音部を歌わせるのにカストラートが使われたのはこのためだ。

(略)

教会が禁止していたので、手術は田舎のもぐりの医師によってひそかに行なわれた。麻酔などなく、感染症にかかって命を落とす危険も小さくなかった。それでもなお、カストラートが教会の聖歌隊で歌う慣習は続いた。子どもの精索や精巣全体を切除したあとで、たとえばイノシシの牙で突かれたなど、知恵を絞った釈明がなされた。

 最後期のカストラートの一人、アレッサンドロ・モレスキ(一八五八~一九二二年)はシスティーナ礼拝堂聖歌隊で歌っていた。しかし一九一二年、ローマ教皇ピウス一〇世が実態に気づき、野蛮な慣習に対する禁止令を厳格に施行すると、モレスキは引退した。彼の活躍した時期は、蓄音機の発明と重なっていた。そのおかげで、一九〇二年と一九〇四年の歌唱を雑音混じりで録音した蝋管がいくつか残っている。(略)

モレスキの声の音域は女性と同じだが、私たちの耳には異様に響く。ときおり女性のソプラノのようにも聞こえるが、そうかと思うと声を張り上げるボーイソプラノに変わったりする。バロック時代の聴衆はこの天使のような歌声をあがめたのかもしれないが、現代の感覚で聞いた私はまっさきに嫌悪を覚えた。

 舞台演劇と音響効果

ブロードウェイでは会話劇でも俳優の声を大きくしてほしいと観客が望むので、マイクを使って音量を増幅している。しかしイギリスでは、電子機器のあからさまな使用については賛否両論がある。

 特に注目を集めた一例が、一九九九年にナショナルシアターで起きた騒動だった。シェイクスピア劇で電子機器を使って声を増幅していることが明らかになったのだ。バービカンシアターの芸術監督を務めていたグレアム・シェフィールドは「特殊な音響効果のためにマイクを使うのと、怠惰な役者を助ける仕組みとしてマイクを使うのでは、まるで別の話だ」とコメントし、さらに「そんなことをしたら、役者と観客とのあいだに存在する親密さと自然さがぶち壊されてしまう。どれほど巧みにやったとしても、必ずいくらか人工的に聞こえるものだ」と語った。

(略)

劇場の音響を手がけるギャレス・フライ(略)の説明によると、ナショナルシアターの音響問題は、上演様式が変わってきたことに伴う偶然の副産物だそうだ。劇場ができたころにはほとんどの演目で重量のある大がかりなセットが使われていた。(略)

細部まで美しく塗装された壮大な邸宅の図書室といった、きわめてリアルな舞台装置(略)は簡単には移動できないので、プロットはすべてこの一部屋の中で展開させる必要がある。脚本家は登場人物がこの部屋にやって来る理由をひねり出さねばならず(略)

固定されたセットは脚本家にとっては難題かもしれないが、音響に関しては大きなメリットがあった。重厚な大道具で音が反射して観客のもとへ届くので、出演者の声が増幅されるのだ。

 しかし、二〇世紀の終盤までにセットの流行は変わった。テレビ番組や映画の美意識にならって、脚本家は舞台でも場面を変えられるようにしたいと考えだした。そのためには、大道具をもっとシンプルで軽く融通の利くものにする必要がある。(略)このため、大道具が音を反射しなくなった。(略)

電子機器による補助が必要とされるのは、音響の不足を補うためであって、一部のジャーナリストが批判しているように最近の俳優がよく通る声を出せないからではない。最近では、効果音や音楽が劇に加えられて、俳優の声がさらに多くの「ノイズ」と競い合うようになったので、この技術はさらに重要性を増している。しかし観客に気づかれぬように、ひそかにやらなくてはいけない。ギャレスはこの技術を「距離を半分にすること、つまり役者との距離が実際の距離の半分に感じられるようにすることを目指す」と説明する。しかしテクノロジーの利用は音量を上げる以外にも

(略)

声の高さを変えるといった単純な処理によって、登場人物を男性から女性に変えることができる。残響を加えれば、俳優のいる場所をバスルームから教会に変えたりもできる。

 オペラ歌手

 オペラ歌手は、人間の耳にとって特に聞き取りやすい周波数域の音域を狙って歌う。耳介から鼓膜に至る外耳道には、外耳道内の空気が効率的に振動する共鳴周波数が存在する。この共鳴があることから、歌手が三〇〇〇ヘルツ付近の声を出せば、耳の解剖学的構造のおかげでおのずと大きく聞こえる。しかし男性と女性の歌うメロディーは周波数域が異なるので、その帯域に達するには、それぞれ別の歌い方をする必要がある。

 男性のバリトン歌手が一〇〇ヘルツという低音を歌っているとしよう。これは最も効率的に共鳴する帯域よりはるかに低い。しかしこの音には、その周波数を整数倍した二〇〇ヘルツ、三〇〇ヘルツ、四〇〇ヘルツなどの倍音がある。バリトン歌手は声を増幅するために声道の共鳴を調節し、聞き手の最も聞き取りやすい周波数域の範囲内に高めの倍音の一つが入るようにする。これによって、歌い手のフォルマントと呼ばれるものが生じる。バリトン歌手は喉頭の位置を下げて、声門のすぐ上で声通を狭めることによってこれを達成する。俳優も、声を遠くまで届かせるために同じような調節をする。

テープレコーダーに出資したビング・クロスビー

 ビング・クロスビーアメリカ国内で異なるタイムゾーンに向けて放送するために、ラジオで同じ生放送の番組を何度もやらされるのが不満だった。そんなことに時間を費やすより、ゴルフコースに行きたかったのだ。一九四六年、開局したばかりのABCラジオネットワークがクロスビーの番組『フィルコ・ラジオタイム』をレコード盤にあらかじめ録音し、このスーパースターを楽にしてやった。しかし音質が劣悪だったので、生放送でないことがリスナーにすぐさま気づかれ、聴取率が下がってしまった。解決策をもたらしたのは、敗戦直後のナチス・ドイツだった。ドイツではテープ録音が第二次世界大戦中に発明され、ラジオ放送で使われていた。実際、番組が事前に録音されたものだと連合国側が初めて気づいたのは、演奏家が寝ているはずの真夜中にオーケストラの音楽が流れていたときだった。シリンダーやレコード盤につきものの表面を引っかく音やひび割れ音がなかったことから、ドイツではもっとすぐれた機材を使っているらしいということもわかった。戦後、ドイツで「マグネトフォン」と呼ばれるオープンリール式のテープレコーダーが発見されると、すぐにアメリカへ送られた。この新しい技術に関して詳細な調査が行なわれ、模倣と改善がなされた。クロスビーは磁気テープが自分の日々を楽にしてくれる可能性に気づき、この技術の開発に出資したのだった。レコード盤を使った録音では小さな音は表面雑音にかき消されてしまうが、磁気テープを番組で使い始めるとその問題がなくなったので、クロスビーはささやくような声でマイクに向かって話すことができた。リスナーは彼が生放送を再開したと思い、番組の聴取率は回復した。

 ソノボックス

一九四〇年代、キャピトル・レコードは言葉を話す機関車の登場する子ども向けの物語[『スパーキーとお話し列車』]のレコードを作った。

(略)

 この物語の録音で、機関車がしゃべる汽笛のようなゼーゼーした声には、ソノボックスというエフェクト装置が使われている。声優は自分の喉にスピーカーを押し当ててセリフを言う。汽笛の音をスピーカーから流すと、その音が声優の喉を振動させ、声道の中へ入っていく。この振動が、声優の声帯の発する通常の喉頭原音の代わりとなり、汽笛のような声が出る。同様の方法が、病気で声帯を失った人にも利用できる。人工喉頭を喉に設置して、ソノボックスのスピーカーと同様の役割を果たさせるのだ。この場合、装置から喉頭原音に代わる音が出る。漫画のキャラクターの声を作るのではなく、話すための代用音声として使うのである。

 二〇世紀が過ぎていくにつれて、変な声やロボットボイスを作り出せるもっと複雑な装置が続々と開発された。なかでも最も注目すべき成果は「ボコーダー」という、もともとは電話回線の音声を暗号化する目的で開発された装置である。ボコーダーの仕組みは多くの点でソノボックスと似ているが、声帯から生じる音波の代わりにシンセサイザーの音を使う。  

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