音楽が降りてくる 湯浅学 細野晴臣

音楽が降りてくる

音楽が降りてくる

ニューロック

 以前ミッキー・カーチスにインタヴューしたとき、サムライで欧州を彷徨っていたころについて「あのころのロックっていうと、どうしてもヴェトナム戦争なんだよ。それなしには考えられねえんだ」と氏は語っておられた。欧州においても、だ。ヴェトナムからの帰還兵、脱走兵、負傷して病院から脱出しヒッピー化した者、それぞれが戦場体験を引きずったまま、ロック・コミュニティに流入する。(略)
 脱出。脱却。とりあえずここではないどこか。そのための加速剤のひとつにロックがあった。旧式のロックンロールではなく。そこでは誰が誰のためにどのように奏でるかが問われる。現状打破の戦争反対の反権力闘争を感得させる音と言葉がそこで求められる。ならばその音と言葉は自主管理されていなければならない、はずだ。
 そのための“ニュー”志向。つまり音楽性も聴取システムも、ともに現状をなんらかの形で脱却しているもの、あるいは、そう感じさせるもの。それが“ニューロックの大ワク”だった。少なくともそう考えさせる事象や音が同時多発的に67年以降それまでには考えられぬ連鎖で世界中に出現し、“ニュー”の理想の種が蒔かれたことは確かだ。

洋楽好きだからこそなしえた発想と実践 はっぴいえんど

 エイプリル・フール時代は、インプロヴィゼーション・パートも長く取った、アイアン・バタフライやクリーム、ドアーズやヴァニラ・ファッジのようなハードなプレイを日ごと繰りひろげていた。そもそも、アート・ロックをやろう、というのもめずらしかったわけだが。エイプリル・フールはGSのフローラルが発展したものということになっているが、実際にはエイプリル・フールは英語のロック派の人たちからも浮いた存在の英語のロックだった。
 細野晴臣エイプリル・フール時代にバッファロー・スプリングフィールドと出会ったことが、はっぴいえんど結成の基礎となっている。バッファローは日本では、シングルは出ていたものの、フォーク・ロックの新星というような扱われ方だった。バッファローを理解する者は、いわば普通ではなかったわけだ。
 『定本はっぴいえんど』の中で、バンド結成のキーワードがバッファローだった、と細野晴臣はこう述べている。
 その頃のバッファロー・スプリングフィールドのえたいの知れないよさが、わかるかわからないっていう、それがひとつのキーワードですよね。
 さらにバッファローについて、「バッファローのようなことをやろうというのは、音楽の構造でもない、演奏技術でもないもっとちがった何か、第三の謎がね、そこに隠されているんですよ」とも述べている。
 細野晴臣は非常に音楽的興味の範囲の広い人である。(略)
[アメリカン・ポップス、フォークを経て]
エイプリル・フールの前あたりからサイケデリック・ロックに惹かれるようになり、モビー・グレープを中心に、ストロベリー・アラーム・クロック、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ごく初期のピンク・フロイドあたり。マザーズ・オブ・インヴェンションの「トラブル・カミン・エヴリデイ」を、ダンス・パーティで時間かせぎに、ソロ・パートを増やしてやったりもしていた。(略)
 ギタリストの鈴木茂は、そうした細野のサイケデリック時代のバンド仲間でもあり(略)
[一方、アメリカン・ポップスを探究してきた大滝詠一はサイケに若干戸惑っていた]
 『定本はっぴいえんど』収録の大滝の発言をみると、「ビートルズも『ラバーソウル』から『リボルバー』になった時はわからなくなっちゃったんだよね。(略)で(バーズは)〈ターン・ターン・ターン〉まではわかっていたんだけど〈エイト・マイルズ・ハイ〉からわからなくなっちゃって、どこがちがうんだって言われると、あれなんだけどさ、だから(ジェファーソン・エアプレインの)〈サムバディ・トゥ・ラヴ〉っていうのがポップスの流れの中から出てきたヒット曲とは思えなかったんだよね。(ドアーズの)〈ライト・マイ・ファイアー〉とか。
 サイケデリックをやっていた者と、ポップスを追っているうちにサイケデリックに困惑させられた者との接点が、バッファロー・スプリングフィールドであった。
(略)
 細野は自らの歌唱に疑問を抱き、やや悩んだという。ファースト・アルバムでは二ール・ヤングのファースト・アルバムのように歌うつもりだったが、自分では満足のいくものではなかった。
(略)
ヴォーカリスト細野晴臣の悩みを解いたのが、ジェイムズ・テイラーだった。低い声でフラットだが個性を生かした歌い方、という点で、細野の、歌うことの不満を解消してくれたものだという。
 前掲書で細野はこういっている。
 自分で歌う曲っていうのは、自分の歌の表現がないと、いい曲ができないんです。ですから、まず、歌を歌える事になると曲ができるんです。

内なる響きを求める旅人 細野晴臣

 83年の松田聖子の「天国のキッス」について『The Endless Talking』の中で細野はこう述べている。
 転調に次ぐ転調でできている曲なので、非常に技巧的だと(ユーミンに)言われたんですよ。たしかにね、その当時僕は、そうやって技巧的な作り方をしていたんですね。要するに短調長調かわからないような曲を作っていて、最初は短調なんですけれども、四小節聴かないうちに長調になっちゃう曲があって、それも結構ヒットしたりして。〈風の谷のナウシカ〉という曲なんですが、わりと実験はしているんです。
 “わりと”などというものではない。歌謡界への提供作だからこそ“実験する甲斐”があると思っているのであろう。「天国のキッス」のB面「わがままな片想い」は、『フィルハーモニー』制作時にマイケル・ナイマンの影響を受けて作っていた曲で、あのアルバムの空気感の中で松田聖子が歌ってしまえている作品だ。前掲書でこの曲について細野はこう述べている。
 わりと現代音楽的な方法論でやってるわけです。B面にそういうのをやっちゃうというのは最初から決めていたんです。子供たちがA面聴いて、A面でさえちょっと難しいかもしれないけれども、全部ひっくり返してB面聴くわけですよ。当時まだレコード盤だったから。そうすると、みんな聴いちゃうんだなあと思うし、ワクワクするんです(笑)。
 確信を持って、不思議の種を植えつけようとしていたわけだ。
(略)
 一方、松本は、「歌謡曲の世界に細野さんを引っぱり込んだのは、ぼくの計画的な犯行かな(笑)。ずっと一匹狼だったから、仲間が欲しくて(笑)。昔の仲間と音楽業界を変えたかったんだ」(『風街図鑑』)と述べている。

日本におけるソウル/ファンク聴取史

 洋楽の一ジャンルの呼称としてソウル・ミュージックという言葉が日本国内で、レコード店の棚に定着したのがいつごろのことだったのか。(略)
第一人者たる鈴木啓志氏はこのように記している。
 67年のソウル・シーンを一言で要約すれば、“国際化”ということになるだろう。[スタックス欧ツアー、オーティスのモンタレー出演](略)日本でもようやくR&B熱が高まり、「マイ・ガール」が二年近く遅れてヒットするなんていう珍しい現象も起きた。(略)
 もうひとつ鈴木氏の指摘を。
 あれほどガール・グループが受けた日本で、モータウンはシュプリームスでさえほとんどダメだったという事実がある。モータウンが日本で受け入れられるようになったのは、R&Bに対する抵抗がようやく薄れてきた67年くらいになってからのことなのだ。
[日本ではビートルズストーンズの“お手本”“お気に入り”としてR&Bは認知された。GSを通して親しむようになった者も]
[ニュー・ソウル登場]
 60年代からR&B/ソウルを聴き込んできた人々にとっては、そうした新しいソウルの中には即座に納得のいかない作品も多かったことも事実で(略)[73年5月号で]中村とうよう氏はこう書いている。
 ブラック・イズ・ビューティフルも、パワー・トゥ・ザ・ピープルも、すべて風俗と化してしまうのが、黒人のバイタリティなのだろうか。同じように、ソウル・ミュージックも、ソウルという結構な名前だけ残して、中味はすっかりコマーシャリズムに侵されてしまっているように思えてならない。
(略)
[クロス・レヴューで]ダニー・ハサウェイに対して、
 桜井ユタカ氏《ジャズ・ボーカリストも目標にしているタイプの黒人シンガーで音楽的才能はかなりありそうだ。(略)ソウル・シンガーとして見た場合の評価は低い》
 鈴木啓志氏《いいシンガーだと思う。声も結構いい。が、その良さは、何かとってつけたみたいな感じで、どうも心から好きになれない。新しい黒人音楽という人もいるけど、むしろ新しいアメリカ音楽だな》
 中村とうよう氏《ソウルを知らない人が聞くとソウル・シンガーに聞こえ、ジャズを知らない人が聞くと、ジャズ・シンガーに聞こえる人。ぼくが聞くと、要するに頭がよくて、ソツがなくて、器用な人と聞こえます》
 いずれも厳しいコメントが寄せられている。
(略)
[細野晴臣のGCS『魂の解放』ライナー・ノーツ]
 たしかに黒人の持つエネルギッシュな一面はとても我々には手が届かない。特にGCS(グレアム・セントラル・ステイション)やスライ等は、人種とか音楽の種類をつき破る程の革新的なエネルギーを持っていて、もし僕が評論家なら、現代音楽の頂点であるとでもいいきってしまいたい位のものである。(略)いつの時代でもリズムの主導権は黒人が握っていて、リズムが進化する要には常に有能な黒人音楽家が存在していた。丁度現在は、その要にあたる時期ではないかと思う。
(略)
[松本隆は『微熱少年』で]時代を象徴しうる音、新しい音を聴いてきた中でウエスト・コースト系の白人によるロックが自分にとって終わったと感じたころ、マーヴィン・ゲイの『愛のゆくえ』が《眼前に新鮮な驚きを与えながら未知の光条を放っていた》と告白している。それが大きなきっかけとなり、ソウルを聴き込むようになったという。自分のソウルヘの接し方は《殆どのソウル・ファンとは違うかもしれぬ》と断ったうえで、松本氏は《もはや薄汚れた泥臭さや体臭だけをとって、黒人の本質を語ることはできない》とも、そこでは書き記している。
 いわゆる“ニュー・ソウル”は、あらためてソウル/ファンクについて、日本の新旧の聴き手、マニアやディスコ・フリークにも、様々な再考を促すものだった。
 メインストリームの新しい動きの一方で、オーソドックスなソウル・シンガーたちが着実に優れた作品を残していたことを伝える、という作業も70年代に入って加速していった。(略)数多くの日本編集のオムニバス盤が作られた。主にサザン・ソウル、ディープ・ソウル、60年代以前のR&B等に独自の視点を持った秀作が登場した。
(略)
 深く永い探求による日本のソウル・マニアたちの苦労が音楽となって実を結び、世界のソウル愛好家をうならせる。そうしたことが70年代後半に活発化し、77年にはインディペンデント・レーベルのヴィヴィド・サウンドが、ゴールドワックス、サウンド・ステージ・セヴン等の音源を続々とリリースするに至る。(略)

歪んだ世界をギターで殴り書け!ガレージ・ロックに近しいブルース

 歪みを求めていったら、いつしかブルースに行き着いた。あるいはブルースを求めていったら、いつしか音を歪まさずにはいられなくなった。
(略)
 ビーフハートの歌唱の素の大代表が、ハウリン・ウルフであることはすぐにわかるが、少年時代にブルース、R&BのSPやシングル盤をザッパとともに収集し聴き親しんできたビーフハートにとって、ブルースは精神の偉大なる加速剤だったのであろう。ブルースによって仕込まれた種を吐き出し撒き散らしたように思えるビーフハート作品の数々には、自分自身を煮つめていくことで激しくこすれて赤むけになった心情がへばりついている。
(略)
バディ・ガイが暴れまわるのをジミ・ヘンドリクスが見ていたおかげで、エレキ・ギターの未来は予想外の展開を示したのではなかったか。プログレッシヴ・ブルース・ギタリストのジミと、ギター・スリムには相通じるものがある、といっていたのはアール・キングだったが、そのアールだって、激しくもったりしたワイルド・ギタリストのひとりだが。
(略)
 ブルース・ギターのはてしないダイナミズムや、人によってはその官能性や大胆でありながら技巧探求においてはきわめて貪欲な繊細さに、ロック寄りの図々しく乱雑な拡大解釈を加えることで新たな快感と覚醒感を生み出そうと試みたのが、ブルース・ロックである。そのブルース・ロックの流儀で反転するように、ブルースマンをブルース・ロックの仕様によって聴かせ直してみせたのが、マディ・ウォーターズの『Electric Mud』とハウリン・ウルフの『This Is Howlin' Wolf's New Album』だ。
(略)
以前エアロスミスジョー・ペリーとトム・ハミルトンはこんなことをいっていた。[MM94年7月号]
ジョー 俺が期待してるのは『エレクトリック・マッド』のCD化なんだけどなあ。
トム ブルース好きの奴らからは好かれてないんだよなあ。でも俺たちは大好きなんだ。ちょっと質的にはクズっぽいかもしれないけど、俺にはそれがクールに聞こえるのさ。
(略)
ジョーはこの発言の前に、60年代末から70年代初頭にボストンで、イギリスのバンド勢がそれぞれ自己流のブルースをやっているのを見て感銘を受け、同時期に本家のブルースマンたちが復活しロック・バンドのサーキットに出演するようになったのもしばしば見て感動し、それらどちらもが自分たちにとってのブルースの基礎になっている、という話をしていた。さらにジョーはこういっている。
 俺たちみたいなエネルギーがありあまってるような野郎どもにとっては、どでかい音でブルースを弾くっていうのが、すごく魅力的だったんだよ。
(略)
ジョン・スペンサーのライヴにシビレて、自分でもギターのシールドをアンプにぶち込んでいきなりヴォリューム10にしてガナリ立てている奴ら
(略)
 ブルースというスタイルにまず伝統芸能としての耐久性や滋養を発見するのではなく、むしろファンクに近似した、とりとめのなさによる快感、タフなえげつなさに魅了されるのだ。(略)

エレクトリック・マッド

エレクトリック・マッド

日本におけるエルヴィス・プレスリー受容史

 60年代、映画界に幽閉されたエルヴィスを積極的に評価していた日本人はほんの一握りだった。(略)
 67年7月号の『音楽専科』誌に深沢七郎(エルヴィスの大ファンとして有名)はこう記している。
 エルが本物の若者か、ニセ者の若者の代表者だったか、おそらくこれからの唄で決るだろう。それまで私は沈黙して彼の歌をきくことにしよう。
(略)
深沢七郎は71年にこう記している。
 不満は、ケ ツがちょっとでかくなったね、ダブダブしてきたことだね。唄も前と同じぐらいうまいよ。プレスリーの唄って浪花節なんだから日本でいうと。(略)プレスリーの歌っている唄ってのは、ほとんどがアメリカの歌謡だね。(略)それが、彼の独特のうまさと味で“ベイビ・ベイビ”ってやるわけ、ま浪花節のロックってわけよ、アメリカの。
(略)
ロック講談歌謡化してカヴァーした田辺一鶴の「ポークサラダ兄ィ」(71年12月発表・アレンジは元ジャックスの木田高介)には驚いた。
(略)
[日本語ロック論争が一段落した72年『ヤング・ギター』7月号、内田裕也vs大滝詠一対談]
大滝の「自分はビートルズのまえはプレスリーで育った。レコードは全部持ってる」との発言に裕也さんはたいそう驚いた御様子。この対談で大滝はすでに「フィル・スペクターサウンドの継承をすごくやってみたい」と発言している。裕也さんは、その年の正月に京都のステージでエルヴィス・スタイルで「ホワイト・クリスマス」を歌ったがまったくうけず、客は“あいつ、バカじゃねえかみたいな顔して”いた、と発言。それにつづく二人の発言はこうである。
大滝「いま、プレスリーうけないんですよ。というのは、いま来ている観客層ってのはプレスリーで育った世代じゃないわけですよ。全然知らないんですよ。それで『エルヴィス・オン・ステージ』のプレスリーしか知らない。『エルヴィス・オン・ステージ』のプレスリーなんてプレスリーじゃないでしょう」
内田「おれも全然好きじゃねえなあ」
 エルヴィスの衝撃をまともに喰らったというのは、30年代〜40年代、せいぜい40年代なかばぐらいまでに生まれた人々である。裕也さんは42年、大滝は48年の生まれだ。日本で最初にエルヴィスのカヴァーをレコード化した小坂一也は35年の生まれで、他の和製ロカビリアンたちより歳上だ(略)もともとカントリーの歌手だった小坂は、エルヴィスを“カントリーの新手”として取り上げたのであろう。(略)小坂はエルヴィスの唱法はまったく真似ていない。あくまでも“作品”としてエルヴィスをとらえていたところも、いわゆるロカビリー・ブーマーだちとは一線を画した大人の対応であった。
 小坂に続く“和製プレスリーたち”のレコードが続々リリースされるようになるのは、58年からである。小坂の「ハートブレイク・ホテル」から2年もあいだがある。レコード会社の“おエライさんたち”がエルヴィスを米国ポピュラーの“泡沫”にすぎない、と高を括っていた結果かもしれない。日本のロカビリー・ブームとは“歌謡曲のエルヴィス型不良化ムーヴメント”であった。それはあくまで歌手主体である。
(略)
 坂本九は昭和30年代の最も成功した日本のエルヴィスだった。カントリーやジャズからエルヴィスに至ったのではなく、坂本九はエルヴィスによって歌手を志した人である(41年生まれ)。「ハウンド・ドッグ」や「テディ・ベア」などをシャウトした時にはギターを叩き壊すこともあったというほど坂本は、エルヴィスに確実に“自己変革”を見ていた。がルックス的にそうした破壊的キャラクターとシンクロしていなかったことから、プロ・デビューに際して音楽的方向を転換した。(略)坂本はエルヴィスをアイドルとして消化するのではなく、エルヴィスの唱法、歌への姿勢を自分の内に秘め消化することでアメリカのヒット・チャートを制した。

次回に続く。


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