ソーシャルメディアの生態系

 

ソーシャルメディアの生態系

ソーシャルメディアの生態系

 

フェイスブック

 フェイスブックのバラ色の化粧板はユーザーに、彼らが語りたい物語を語らせてくれる。ユーザーは自分自身についての理想化された物語を構築し、提示する。これが私です。シミも皺もない(ように修正した) 美しい肌と完璧な家族をもち、ハッピーで安全で、でも十分エキサイティングで変化に富んだ生活を送っています!と。

 フェイスブックのプラットフォームは、こうしたバラ色の表現形式に適合させられている。それはしばらくのあいだは、主流の市場に向けて、快適な空間を創造し続けるだろう。物議をかもしそうなコンテンツをさりげなく規制する彼らのやりかたもまた──その厳しい姿勢を、私は個人的に知っている。ごく個人的なメッセージの中でちょっとしたジョークを述べたあと、私のアカウントは停止されたのだ──同じ目標に焦点をあてている。つまり、ご清潔で快適なコミュニティをつくるということだ。

 だが私は自分の経験からこんなふうに感じている。時とともに、あちらとこちらの両方を立てることは難しくなり、最後には検閲がソーシャル・オーガニズムの成長を阻害することになる。そして、検閲を実践していたプロバイダたちは力を失い、もっと開かれたプラットフォームに負かされていくのではないか、と。

インスタグラムの「乳首解放運動」

インスタグラムには、どんな形態であれヌード写真を禁じるというポリシーがあり、その石頭ぶりと、とりわけ男性の乳首と女性の乳首に対する性的ダブルスタンダードの存在から、人々の冷笑を買ってきた。授乳の写真は許可されているとインスタグラム側は主張しているが、公衆の場での授乳を唱道している人々は、そうした写真はこの先もずっとブロックされ続けるだろうと言っている。インスタグラム側は、ヌード規制はアップルストアから課されたルールにもとづくものだと主張している。それは、アプリを17歳以下の人々にも使用可能にするためだという。

 だが、こうした規制はツイッターやその他の、ヌードを許容しているアプリには適用されていないようだ。さらに大きな問題は、そうした任意のルールの強制が、それぞれの社内の検閲制度の裁量に任されていることだ。そして社内の検閲制度はたやすく、愚かな方向に向かいやすい──たとえば、『ヴォーグ』のクリエイティブ・ディレクターであるグレース・コディントンは、自分のトップレス姿の線画イラストを投稿したのがもとで、一時的にインスタグラムから排除された。この馬鹿げた出来事がもとで「Free the Nipple Movement(乳首解放運動)」というフェミニズム的な運動が起きた。

(略)

 インスタグラムの淑女ぶりとは対照的に、ヤフー傘下の簡易ブログであるタンブラーは、もっと自由放任的なアプローチを選んだ。このサイトが、前衛的なアーチストやアニメーターたちが共同作業をするプラットフォームとしてたいへん活気があることや、境界にとらわれない創作活動が行われていることは、けっして偶然ではない──そして、ティーンたちがタンブラーを、おふざけミームでたがいを出し抜くために使っていることも単なる偶然ではないはずだ。いっぽうのインスタグラムは、エアーブラシで完全に整えた映像をファンに送りたいと願う、ビヨンセらのアーチストにとって都合のいいサイトでもあった。だが、文化を前へと推し進める芸術的アイデアを育てる重要な器になる可能性が高いのは、タンブラー的なアプローチのほうだ。

ヘイトスピーチ検閲の功罪

[憎悪に満ちた表現への]厳格な対応の副作用は普通、長い目で見れば利益よりもむしろ害悪を多くもたらす。だからこそ私は、2016年にヨーロッパ連合フェイスブックツイッターなどのソーシャルメディアのプラットフォームにヘイトスピーチへの検閲を強制しようとしていることに、危惧を抱いている。検閲のラインはたちまちあいまいになる可能性があるうえ、そうした禁止措置は乱用や無分別を招きやすいからだ。

 一つの大きな問題は、検閲制度が情報の門番──それは政府であるかもしれないし、伝統的なメディア企業であるかもしれないし、ソーシャルメディアのプラットフォームの会社の所有者かもしれない──に事実上のライセンスを与えてしまうと、彼らがそれをお墨付きとして利用して、自身の利益を追求したり守ったりするために言論を統制する危険があることと、そしてそれが前例として確立されてしまう心配があることだ。

(略)

この業界に何年も身を置く私には、鞭のタイプのアプローチがぜったいにうまくいかないことは、はっきりわかっている。鞭のアプローチでは人々はいつまでも愚鈍なままだ。

 もう一つの大きな問題は(略)たとえどんなに憎悪に満ちた言論であっても、それにふれる機会を完全に遮断すると、文化に良い影響を与える方向にソーシャル・オーガニズムが進化する能力が削がれてしまう可能性があることだ。

検閲と抗生物質

 反社会的な言説を削除したり検閲したりというルールを、ツイッターフェイスブックに配備すべきだという声がしばしばあがっているが、これはいわば、病気と戦うために抗生物質という傭兵を連れてくる戦略と似ている。そうしたやり方は、特定の病原体が出現するのを抑え込むかもしれないが、それらのDNAの根本を破壊するわけではなく、ソーシャル・オーガニズムはそうした病原体と独力でいかに戦うべきか、いつまでも学ぶことができなくなる。攻撃的な思想や思考の根幹にあるミーム──たとえば、#ゲーマーゲートの偏屈者たちの激しい女性蔑視──はそのまま生き続け、それが占拠している細胞(この例で言えば、そういう考えをもつ支持者たち)の助けを借りて、いつか外の世界に反撃に出ることになる。そうした支持者たちは、過去にいつもしてきたのと同じように、検閲を自由な言論への攻撃として受けとめるだろう。そして残念なことに、彼らの言い分は正しいのだ。

慣習のクラウドソース化

 現代において他者との関わり方が変化し、デジタル空間に即したものに移行するにつれて私たちはそれまでの規範の再評価を迫られている。そのさいに社会がすることは、いつも決まっている。社会は、新しく出てきた受け入れ不可能な行動に対して不同意を伝えたり、当事者を辱めたりすることで「取りしまり」を行うのだ。この反応は単に、ある個人の行動を変えることを目的にしているわけではなく、すべての人に新しい掟を知らしめることを目ざしている。私はこれを、新たに進化した免疫反応の一種と考える。この新しい抗体がそれまでの免疫系統の警察部隊に加われば、免疫系統が引き起こす影響力は格段に大きくなり、外部からの侵入者を追い散らしたり、さらなる侵入に備えて防護策をとったりする助けになるはずだ。

 この種の価値観の衝突が起こる可能性がソーシャルメディアによって過激なほど拡大された結果、文化的変化の過渡期は大きく短縮された。この新しいボーダーレスでグローバルなコミュニケーション構造の中で私たちは今、過去には不可能だった異文化間の爆発的相互作用を経験している。これらは、最初のころは争いを招く。そうした争いは、ある種の集合的文化の転換が起こり、受け入れ可能なものの線引きが再定義されなければ解決しない。同じほど重要なのが、ひとたびこうした新しい決まりが確立されると、ソーシャルメディアは巨大で開かれたプラットフォームを新たにつくり、そこで社会の免疫系統に取りしまりの仕事を行わせることだ。

思想警察「フェイスブック

[「リアル」な自分に近い人格で登録する]ことは、フェイスブックにすべてを包括する厄介な力を与えてしまった。(略)

[ユーザーの重要な情報源である]ニュースフィードをフェイスブックがいかに管理し、操縦しているかを考えてみてほしい。かつては投稿された情報を時系列的に並べただけのものだったのが、今は、拡散する可能性が高くて広告主の要求を満たせるコンテンツを優先するように、意図的に手が入れられるようになっている。そうしたすべてを調整するのは、所定のソフトウェアのアルゴリズムだ。

(略)

 フェイスブックはまた、フェイスブック上に埋め込まれたユーチューブや他の動画のオリジナルソースにユーザーがクリック一つではつながれないようにしている。その目的は、フェイスブックへの直接のアップロードを押し上げることにある。それはプラットフォーム間のやり取りを制限し、ソーシャル・オーガニズムの血流動態を制約する。そして、クリエイターが自分の作品から収益を得るのを妨げてしまう。

 何より気に入らないのは、フェイスブックがまるでゲシュタポのようなやり方で、目障りだと思われる素材に目を光らせていることだ。私がこれに気づいたのは、友人あてに送った個人的なメッセージの冗談がもとで、突然アカウントを停止されたときだ。フェイスブックの思想警察は私の個人的会話を監視し、47歳のアイスランドの友人(男性)に宛てたメッセージに添えた「ミクロ・ペニス」の絵を──私はそれを、グーグル出典の医学書から引っ張ってきたのだが──受け入れられないと言ってきたのだ。たしかに下品と言えば下品な冗談だが、誰に害を与えるわけでもないし、友人同士が日常的に交わしている無数のやり取りのほうがもっと行儀が悪かったりする。そして特筆すべきはもちろん、これが個人的な会話だということだ。

 だが、ともかく私は「国際児童ポルノ」抵触の咎めを受け、アカウントを即座にシャットダウンされた。私に届いた通知は、この件について私にできることは何もなく、誰にコンタクトをとることもできないという、ただそれだけだった。フェイスブックシングルサインオンの認証者としての強力な権限を通じて私のログインを監視していた。そして、フェイスブックにアカウントを削除されたことはそのままスポティファイの停止につながり、ウーバーを使うこともできなくなった。サウンドクラウドも止められ、私はそれぞれと直接パスワードの認証を再建しなければならなかった。事実上、私のアイデンティティは保留状態になった。しばらくのあいだ、透明人間になったようなものだった。

フェイスブックの検閲政策

今まで、「いいね」のほかに「ラブ」「あはは」「ワオ」「悲しい」「怒り」の絵文字が加えられたが、今もなお「嫌い」のボタンはない。フェイスブックは、不協和の存在するコミュニティであってはならないのだ。

(略)

そしてなんたることか、私たちはみごとに手玉にとられている。おおかたの人々はフェイスブックを、ハッピーなニュースやイメージのためだけの場所として使っている。人々はフェイスブック用に、理想化された別人格をつくる。完ぺきな生活。完ぺきな子どもたち。幸福な結婚生活。そして職業上の成功。フェイスブック・ランドはまるで、ディズニーランドだ。それは私たちが、従順に自分の手でつくりあげたディズニーランドまがいの世界だ。

 フェイスブックがめざすのは、可能なかぎり多くの瞳をプラットフォームに引きつけ、自身の法外な広告料を正当化することだ。それはいってみれば、「あなた」を広告主に売りつけるビジネスだ。アルゴリズムはあなたの本当のアイデンティティやあなたの表情、あなたの好きな人、あなたの個人的な会話、そしてあなたの欲望を把握しており、あなたを価値あるパッケージ化されたアイテムに仕立て上げる。同じアルゴリズムはまた、会社に有望なものとして売り込める「刺さる」コンテンツはどれかを見つけ出しもする。もちろん彼らは、「コミュニティ」が管理する検閲政策──たとえば、インスタグラムにヌードを載せないとか、フェイスブックのメッセージに下ネタ系のジョークを載せないとか──はあくまでユーザーの幸せのためだと主張するだろうが、その最大の目的はポジティブ性を売ることにあるのだ。

 コンテンツの制限を巡る議論はなかなか難しいものだ。ヘイトスピーチや直接的な脅しや、問題含みの画像や暴力的な映像がソーシャルメディアに含まれることに、世間が抗議の声をあげているのは十分理解できる。フェイスブックツイッターのような企業は、何らかの種類の秩序をコンテンツに課すべきだという非常に強い対外的義務を感じているはずだ。

(略)

 私たちはこの件についてフェイスブックにEメールでコメントを求めたが、何も回答は来ていない。反応がないとは、つまり、とりたてて言うべきことはないという意味だろう。公正を期するために言えば、フェイスブックのようなソーシャルメディア・プロバイダはいつも、複数の要求に迫られてジレンマの状態にある。攻撃的なコンテンツに辱められたように感じた人々はそれを削除するよう騒ぎ立て、いっぽう、やり玉に挙げられた相手は表現の自由を謳って強硬な行動に出る。プラットフォームはこれまで、どんなコンテンツを削除しどんなコンテンツは削除しないかについて、一貫した方針を編み出すことで(略)何とかそれに対応してきた。

(略)

各国政府からデータ開示の要求があればそれに従うことによって、フェイスブックはコンテンツの制限にまつわる決断にいくらかなりとも透明性をもたせようと明らかに努力をしている。それは賞賛すべきだろう。

 だが問題は、どんなルールやどんな「公正」な検閲の手続きでもかなわないほど、現実の世界がはるかに複雑化していることだ。特定の利害の存在はコンセンサスを得るためのプロセスを歪め、自分たちだけに有利なようにコンテンツを除外したり保護したりする力と誘因をもっている。そして、これまでにも明らかになっているように、そうした検閲的な措置はしばしば範囲を広げすぎることがある。また、主題が提示された特定のコンテクストに既存の基準が対応できなければ、コンテンツがあっさり削除されてしまうこともあるのだ。

現実とアルゴリズムの「ジレンマ」

元海軍兵のダニエル・レイ・ウルフの事例は、こうしたジレンマを浮き彫りにしている。ウルフはフェイスブックを自殺の過程を記録するのに用い、途中経過を写した一連の写真とコメントを投稿した。フェイスブックは最初、彼を悼む同僚の海軍兵たちからの「写真を削除してほしい」という要求に応じなかった。ウルフの投稿は、フェイスブックのコミュニティの基準が定める条文には抵触していなかったからだ。そのルールによれば、フェイスブックは「自傷行為摂食障害や強いドラッグの濫用を奨励したり後押ししたりするような」 コンテンツに加え、「サディスト的な作用や暴力の賞賛や美化のために共有される写真」を削除すると明言している。だがウルフの投稿は、厳密には自傷を「奨励」したり「後押し」したりするような内容ではなかった。そして彼は、自殺を決行するとたしかに約束していた。つまり、彼が生きているあいだは投稿の削除は、ある別の方針に違反することになったのだ。その方針とは、友人や家族が介入できるようにラインを開放しておくというものだ。いっぽう彼が亡くなってからは、別の方針が作動することになった。故人のアカウントを閉鎖するか、「記念品化」するかの選択は、近親者のみの責任になるというのがそれだ。近親者が正式な手続きを行わなかった場合、後者が自動的に採用される。つまり、故人のフィードはそのままの形で残され、フェイスブックアルゴリズムはそのままずっと自動的に誕生日やその他さまざまなリマインダを送り続けてしまうのだ。いちばん近い血縁からのアクションがなかったため、フェイスブックは方針通り、ウルフのアカウントをオープンなまま残した。そこにはもちろん、最期の数時間の痛ましい投稿も多数含まれていた──少なくとも、この問題にメディアの関心が集まり、フェイスブックの上層部が判断をひっくり返すまでは。

 ウルフの家族や友人に対しては同情の気持ちを禁じえない。いったい誰が、こんな恐ろしい図を見せつけられたいと思うだろう?だが、フェイスブックの検閲アルゴリズムやユーザー自身の自己検閲による「ハイライト映像」からつくられる清潔で完全そうなコンテンツは、この元海軍兵ウルフのような人々の不安をさらに募らせる原因になる。

「 コールドプレイ」削除事件

 もちろん私たちは、ヘイトスピーチや暴力的な映像を奨励することで社会が良くなると言っているわけではまったくない。むしろその逆だ。こうしたプラットフォームがその種の素材を制限すべきだと多くの人々が感じていることも、私たちは認識している。しかし前の章でも論じたように、ソーシャル・オーガニズムにとっての病原体であるヘイトや暴力を退けるためには、それと向き合うのが最善の方法であるはずだ。そうすることによって私たちは、病原体がまき散らす抗原を吸収することができ、その結果、私たちが共有する社会的免疫システムは愛と思いやりという解毒剤によって敵を粉砕することができる。思い出してほしい。#TakeltDown の運動が生まれるには、銃乱射事件と、南部連合国旗を携えた若造の映像が広く拡散されなければならなかった。もしフェイスブックがこの同じ映像を、例のごとくディズニーランド化していたら、一連の動きは果たして起きていただろうか?

 これはけっして無意味な問いではない。フェイスブックが「コミュニティ基準」によって私たちを私たち自身から守ろうとしているアプローチのきわめて心配な点は、それが不可避的に政治的検閲につながってしまうことだ。記録に残っている多くの例の一つが、イギリスのロックバンド「コールドプレイ」が自身のフェイスブックのページに、アーチストグループである「ワンワールド」の制作した「パレスチナに自由を」のビデオ動画のURLを貼っていたところ、フェイスブックがそれを削除したという事件だ。削除が行われたのは、親イスラエル派の団体がこの歌を「侮蔑的」としてフェイスブックの倫理警察にURLごと突き出したあとだった。

 フェイスブックの検閲とその判断については、これよりもっと議論を呼んだケースがいくつもあり

(略)

 たとえばフェイスブックは、インドの大臣の「家庭内レイプという概念はインド的文脈ではありえない」という発言を批判した漫画を削除した。個人的なグループに投稿されていた、生まれたばかりでまだへその緒も切れていない赤ん坊を女性が抱いている写真もブロックされた。ヌードを想起させるうえ、「露骨に性的なイメージがあるから」だという。

(略)

 私たちのおおかたは、合衆国憲法修正第一条(訳注:言論の自由を保障)が政府に対し、たとえ馬鹿げたものや有害なものであっても、人々が何かを発言する権利を制限してはいけないと定めている理由を、もっともなものだとして受け入れている。なぜその考えをソーシャルメディアのプラットフォームにまで拡大し、私たちの声をこれらの企業に聞かせてはいけないのだろうか?

政府からのブロック要請

私たち著者は、検閲制度はしないに越したことがないという明確な立場をとっている。ソーシャルメディアの新しい神となった企業が門番として巨大な力をふるうさいには、最大限の注意と透明性が必要なのだと、人々は要求をすべきだ。コンテンツの公開や配信をつかさどるアルゴリズムに、外部の人間が近づくことはできない。それが私たちの生活にどれほどの影響を及ぼしているかを考えれば、私たちは、フェイスブックがコンテンツをタイプやソースなどによってどのように秤にかけているか、知っていてしかるべきだろう。フェイスブックは古いメディア企業を、相手の得意の手で逆に打ち負かしてきた。フェイスブックは顧客や広告主との直接の結びつきを奪い取り、さらに、有料道路的なやりかたで「投稿を宣伝する」という試みもしてきた

(略)

 それならばフェイスブックをやめればよいと、あなたは言うかもしれない。だが問題は、私たち人間が社会的な生き物であり、社会的ネットワークが存在するところに引かれるということだ。同じほど重要なのは、先にも述べたように、私たちのデジタルな人格の多くがフェイスブックのプラットフォームで結びついていることだ。社会として、フェイスブックを無視することはもはや不可能であり、私たちが言ったり聞いたりすることをフェイスブックは過去に誰もできなかったほど強く統制できるようになっている。さらに悪いことに、フェイスブックはこうした力を自分自身の利益のために行使している。フェイスブックはあなたや私が作成したコンテンツを何も対価を支払わずに採用し(略)そしてそれを組織し、検閲し、再パッケージ化する。その目的は広告主にそれらを売ることであり、そうして得た収入をフェイスブックは自分の懐におさめている。(略)

「私たちはフェイスブックの顧客ではなく、フェイスブックの製品」なのだ。

(略)

[ゆるいアプローチをとっていた]ツイッターもまた、検閲に向けて舵を切りつつある。(略)

いちばん議論を呼んでいるのは、政府からのブロック要請にも応じてしまっていることだ。2016年 2月、ツイッターは10の非営利支援団体からなる「Trust &Safety協議会」という評議会を設立した。10の団体の中には「ユダヤ名誉毀損防止連盟」や、「中傷と闘うゲイ&レズビアン同盟」などがある。ツイッターは、「人々がツイッター上で安心して自己表現できるための戦略」づくりに役立てるため、この評議会を設立したのだと、高邁な目標を説明している。だが、この一見建設的な「自由だが安全」という謳い文句が、権力乱用へと扉を開くものであることは、容易に想像がつく。ことに危ないのは、評議会のメンバーがその立場を利用して、自身の利益のために言論をコントロールし始めたときだ。

クラブ・ペンギン 

フェイスブックその他がまだ自動翻訳機能を備える前、クラブ・ペンギンは世界各国の子どもを、すべての言語に通じるあらかじめ定められたフレーズを用いて円滑にコミュニケートさせていた(これは一種のデジタル・エスペラントとも言えるし、『銀河ヒッチハイク・ガイド』に登場する万能翻訳を可能にする魚「バベルフィッシュ」のリアル・ヴァージョンとも言える)。

 この話を聞いたとき私は、ぴんと来た。ソーシャルメディアはまさにこのようにして、コミュニケーションの経路を劇的に平たん化し、数十億の人々に自身の考えを、時空に縛られない情報の巨大なプールへと提供する機会をもたらした。それはおそらく、インターネットを土台にした他のいかなるテクノロジーよりも、創作的生産のプロセスに──そして私たちの急速な学習と革新の能力に──さらに大きな貢献をしてきた。

(略)

水平的構造をもち、生物学的な掟に従うこのコミュニケーション・システムは、情報を迅速に発信したり共有したり展開したりするまったく新しい方法を往々にして提供する。そしてそれは、クラウドベースのデータ貯蔵やビッグデータ分析、暗号法、機械学習のツール、オープンデータ・プロトコルブロックチェーン台帳など、その他の分散型テクノロジーと結びついたとき、さらに大きな力を発揮する。

(略)

 今、あらわれつつあるのは、巨大で、息づいていて、つねに進化している、全体がもつれあったようないわば超・有機体であり、その触手はツイッターフェイスブックのプラットフォームよりもさらに遠くまで広がっている。

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