モータウン・ミュージック 栄枯盛衰

スモーキーの提案

 ジャッキー・ウィルソンやマーヴ・ジョンソンで成功をおさめていたにもかかわらず(略)
[1959年のベリーの収入は週平均28ドル程。離婚で]
金が必要だったベリーは徐々に、たんなる作曲家、プロデューサーをやっていてもダメだと思いはじめた。彼は自分の仕事から生まれる利益が、実際には彼の作品を配給しているニューヨークやシカゴのレコード会社に渡ってしまっていることに気がついていた。彼らは時として、レコード以上のものを要求してくることさえあった。ベリーの抱えるタレントそのものを横取りしようと画策したのだ。(略)
ラクルズのレコードを扱っていたある白人所有の会社[の動きを知り、ベリーは有力黒人DJをデトロイトに招集し、白人社長に電話]
最初彼はミラクルズとの契約をあきらめるつもりはない、と話し合いを拒否した。そこでDJたちが、それならば自分たちは彼のレーベルのレコードをすべてボイコットする(「われわれはすべての黒人DJにたいして、あなたがブラザー・ベリーを脅迫していると通告するぞ、と言ったんだ」と、DJの一人はその時のことを語っている)と言うと、社長の態度は一変した。彼は笑いながら、あれは冗談だよと言いつくろったのだ。そして二日後の火曜には、ミラクルズは無事ベリーの下に落ちつくことがはっきりしたのだった。DJたちにとってこの一件は、自分たちがベリーの勇気ある態度に好意を抱いていることを示し、彼のこれからの可能性に一票を投じるチャンスだった。さらに当時R&Bの世界を牛耳っていた白人連中に、自分たちの力を思い知らせるまたとない機会でもあった。ベリーにしてみれば、これもまた音楽ビジネスの世界で力とは何か、それを持っているのは誰かを知る、よい経験であった。

 〈マネー〉は作品としては大成功をおさめたにもかかわらず、ベリーはあいかわらずの金欠のまま1950年代の終わりを迎えていた。(略)彼の努力にたいする報酬はどこへ行ってしまったのだろう? たしかに多くのヒット曲を生み出した。名前も売れた。音楽をめざす地元の若者たちにとって、彼は尊敬の的だった。人生の傍観者から一転して、次々と名曲を世に送り出す作曲家となった。これからどうするか――それを示したのはスモーキー・ロビンソンだった。1959年、忘れがたいドライヴの後、教え子ともいえる19歳のスモーキーが、師匠ともいえる30歳のベリーに、ある提案をしたのだった。
 1959年の冬。ベリー・ゴーディーはスモーキー・ロビンソンを横に乗せ、自分のキャデラックを走らせている。デトロイトから、フリントにあるレコード・プレス工場までマーヴ・ジョンソンの 〈カム・トゥ・ミー〉の見本盤を受け取りに行く途中だ。(略)
[雪で凍った道で]車は二度もスリップし、一度などは対向車線のトラックと正面衝突しかけた。それもこれも、自分たちの作った、たかだか2、300枚のレコードのためだったが、そのレコードも今はもう、ニューヨークにあるユナイテッド・アーチスツ社のものなのだ。
(略)
 スモーキーはレコード業界での自分たちの無力さかげんにいらいらしていた。本当に成功するためには他人にレコード・リースするのをやめ、製造、販売から宣伝まですべて自分たちの手でやるしかないと考えていた。つまり、[ゴーディーの姉]グエンとアンナのように、完璧な機能を持ったレコード会社を作ろうというわけだ。
 ベリーも最終的にはスモーキーの考えに同意するが、姉のエスターが後に語っているように、「彼は別に、レコード、映画、その他なんでも扱う一大芸能帝国を築きあげようとか、そんなことを考えていたわけじゃないわ。ただ売れっ子の作曲家になりたかっただけなのよ」

モータウンでは誰が帳簿に近づけるかという点がたいへんきびしい。アーティストが帳簿類に目を通せるのは年に二回だけである。(略)[アメリカ・レコード産業協会(RIAA)]のような業界内の調整機関でさえモータウンの帳簿類を監査することは許されなかった(この方針は70年代末まで変わらず、そのため60年代のモータウンのヒット曲がRIAAによってゴールド・レコードとして公認されることはなかった)。
 モータウンはまた、曲の印税に関して、相互担保という考えを導入した。つまり、たとえばある人間が演奏者兼ジョーベート所属の作曲家として契約したとすると、彼のレコードの制作費はすべて彼の作品の印税から差し引かれるというシステムだ。さらにベリーは、制作スタッフにたいする報酬は、とくに生産に関わっていない期間も含めて週給制とし、ヒット曲を出した場合に印税からその期間の給料を差し引くという制度も考案した。このような方法はけっして違法というわけではなく、新興の企業にとってはコストにたいして効率のよいやり方であった。

ハーヴェイ・フークアとマーヴィン・ゲイ

[ムーングロウズは全米ヒットを飛ばしたが]
1958年になると、彼らにとってはスターであることの快感も色褪せてきた。現実的な人間だったフークアは、ムーングロウズのハードな活動から利益を得ているのはグループの周囲の者ばかりであることに不満を抱いていた。ちょうどその頃、ワシントンDCから来たマーキーズと名のる四人のティーンエイジャーが彼のホテルを訪れ、オーディションをしてくれと頼みこんできた。フークアはムーングロウズのサウンドを再現した彼らの力量に感服したが、中でもメンバーのひとりマーヴィン・ゲイの歌声にはとくに強い印象を受けたのだった。
(略)
 マーヴィンは背の高い、きれいな肌の色男で、そのクールな物腰は女性たちのあこがれの的だった。
しかしじつのところ彼は自分に自信がなく、名の通ったキリスト教ペンテコステ派の牧師で高圧的な父親とも衝突が絶えなかった。ゲイ牧師はたしかに人目をひく説得力のある人物ではあったが、ワシントンDCの多くの人々は彼に、何か不気味なものを感じていた。その説教の激しい調子の中には中性的な、どこか裏のあるところがあり、そんなことからも地元では彼について良くない噂がたっていた(ゲイ牧師が服装倒錯者であることが露見したのは1984年になってからだった)。感受性が豊かで父ゆずりのカリスマ性を漂わせるだけでなく、ずば抜けた音楽的才能(歌、ピアノ、ドラムス)をも備えていた息子のマーヴィンは、教会の外に自分のアイデンティティーを求めた。最初は運動選手になりたいと思ったが、その希望は子供の頃に父の反対で打ち砕かれてしまう。十代になる頃には、反抗心を、より内向的なかたちで表現するようになっていた。“悪魔の音楽”を歌うことである。マーヴィンはフークアの中に、自分の才能を認めてくれ、励ましてくれる強靭でたくましく男らしい人間像を見出していた。二人はよく、何時間もピアノに向かい、フークアがマーヴィンにコードのことを教えていった。生徒であるマーヴィンは熱心にレッスンを受けたが、自分の考えと相容れないことがあったりすると彼の反骨精神が顔をのぞかせることもしばしばあった。セックス・アピールと精神的な崇高さ、従順さと頑固さといったマーヴィンの持つ二面性は、彼の歌声に静かな強烈さといったものを与えていた。(略)サム・クックの魅力にも通ずるものであった。
 この頃までには姓にeを加えてGayeとしていたマーヴィンは、不思議なことにアンナ・レコードに作品を残していない。だが彼は[17歳年上の]アンナ自身にはあきらかに好意を寄せ、彼女もまた彼のことを気に入ったようすだった。「アンナはすぐに彼をつかまえた」とフークアはアーロン・フュークスに語っている。「あっというまだった」
(略)
〈マネー〉のヒット後まもなく、フークアはアンナ・レコードに入り、マーヴィン同様、とりこまれるようにして“ゴーディー一家”の仲間入りをする。
(略)
アンナ・レコードの新曲プロモートのためにしょっちゅう地方へ出かけていたデイヴィスは次第にはみだし者のようなかっこうになっていった。ベリーがフークアに、自分のアーティストたちの仕事にも手を貸してくれないかと頼みはじめたのはその頃だった。
 しかしフークアは忙しすぎた。彼は、強烈なR&Bシンガーであり親友でもあったエタ・ジェイムズのシングルを何枚かチェスのために制作し、彼女のツアーにも同行していた。ツアーに出た時にはかならず、彼は地元のラジオDJのところに顔を出し、アンナ・レコードの最新盤を届けることを忘れなかった。そして自分のムーングロウズ時代の知名度を利用して、それをオンエアしてもらうようにするのだった。デトロイトにいる時にはレコーディング、自分のグループのリハーサル、そしてグエン・ゴーディーとのデートに大忙しだった。誰もが予想したことではあったが、デイヴィスは会社を去る時機がきたと感じた。彼はチェスの後援を受けてチェック=メイト・レコードを創設する。このレーベルは数年間続いたが、その後デイヴィスはレコード制作の仕事と縁をきり、ニューヨークのマッキャン=エリクソン広告会社に入社、今日にいたるまでCMの作曲などを手がけている。
 デイヴィスが去ったことによってアンナ・レコードはその歴史を閉じる。そのあとを埋めるように、フークアは1961年、トライ=ファイ、ハーヴェイという二つのレーベルをスタートさせた。同時にハーヴェイ・フークアとグエンは結婚。新郎の付き添いはマーヴィン・ゲイだった。そしてマーヴィンとアンナの結婚式では今度はハーヴェイが付き添いをつとめた。姓が変わったのは女性の方だったが、良くも悪くもこの二人の男性はいまやゴーディー家の一員であった。
 フークアは才能ある若者を発掘するのがうまかった。デトロイトにやってきて三年のあいだに彼はアンナ・レコードにはジョニー・ブリストルやラモン・アンソニー(別名ドジャー)の、そしてトライ=ファイとハーヴェイにはショーティー・ロング、ジュニア・ウォーカー、スピナーズなどのレコードを残した。(略)しかし不幸なことに、フークアはまたしてもチェスを辞めた時と同じようにレコード業界に対応しきれない弱さを見せはじめた。彼はラジオ局に顔が利くこともあって(略)
[オンエアさせるのは得意だったが、レコードの配給を取り仕切るのが苦手だった。ディストリビューターからの集金がうまくいっていないため、ヒットするほど、プレス業者からの請求に苦しむことに]
 フークアは結局、金の勘定に弱かったのだ。だから義理の弟ベリーから、モータウンに来てレコード・プロモーションの責任者としてラジオ局とのつきあいやステージ演出の仕事をしてくれないかと依頼された時、彼には断わる理由がなかった。スピナーズとジョニー・ブリストルを連れ、モータウンに参加した。

ホランド=ドジャー=ホランド誕生

 〈ジェイミー〉は、この顔だちのととのった、愛想のいい若者がスターダムにのしあがるきっかけとなってくれるはずであった。しかし不幸なことに、こうした長所にもかかわらず、エディー・ホランドにはたったひとつのどうしようもない欠点があった。彼は人前で歌うのが苦手だったのだ。スタジオでの彼は素晴らしかった。(略)
 アポロ・シアターにやってくる一筋縄ではいかない観客の前で耐えきれない思いを味わったエディーは、自分の音楽的将来はスタジオの中にあると決断を下した。(略)彼は徹底した秘密主義をつらぬき人前に出ることを避けながら、裏方の実力者としての地位を着々と築いた。いまや彼にとって一番の関心事は金だった。後にこう回想している。「弟が稼いでいる時に、私はレコーディング費用の請求書とにらめっこ。私が4000ドルの借金をかかえているというのに、弟は作曲の印税の小切手を数えている。私は考えた、“自分も曲を書かなくっちゃ”ってね」
(略)
話し好きなエディーとは対照的に、ブライアンはもの静かで控えめな、他人との共同作業に向いた性格の持ち主だった。
(略)
 マーヴェレッツの一連のレコードは、ブライアンの評判を決定的なものにした。(略)
 才能あふれるこの若い作曲家の忠誠心をあおろうと、ベリーはブライアンの印税をレコード一枚の売り上げにつき1.5セントに引き上げ、新しいキャデラックまで買い与えた。(略)
 ブライアンとベイトマンは不動作曲家チームとなってゆくように見えたが(略)マーヴェレッツの成功で大胆になった彼は、一旗あげようとニューヨークヘ移って行ったのだ。(略)
気がつくとブライアンのパートナーはラモン・ドジャー一人になっていた。ドジャーはシンガーから作曲家へ転向した無口な青年で、ほんの数年前、一緒に仕事をしないかというベリーの誘いを断わったばかりだった。ヴォーカル・グループ、ロミオズの一員だった頃、ヒッツヴィルの地下室にあるスタジオを訪れたがあまりよい印象を持たず、短期間ニューヨークに滞在した後、アンナ・レコードに何枚かのシングルを残している。
デトロイトに戻ってきた彼はベイトマンのすすめに従って、ブライアンとエディーとともに作曲活動を始める。1962年、ホランド=ドジャー=ホランド、略してH‐D‐Hと呼ばれる作曲チームが誕生しようとしていた。

次回に続く。