「いいね! 」戦争 その2

前回の続き。

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

 

フェイクニュース・ビジネス 

金儲けしたりしたのは右派だけではなかった。その一例はジェスティン・コーラー、四十代前半の自称マイホームパパだ。政治学の学位を持ち、プロパガンダに興味津々のコーラーは、フェイクニュース・ビジネスに手を染めたきっかけについて、右派の陰謀論者のだまされやすさを試そうとしたのだと主張した。「最初から、オルタナ右翼のエコーチェンバーに潜入し、露骨なコメントや作り話を書き込んで後からおおっぴらに非難し、嘘でしたと指摘するのが狙いだった」。ところが大金が入り始め、一カ月だけで何万ドルも稼ぐこともあった。崇高な目的は忘れ去られた。

 コーラーは事業を本格的な帝国に拡大した。ウェブサイトが二四、それぞれにフリーランス・ライター二〇人が常駐し、利益の一部を手にした。大胆な見出しほどクリックされる回数が多く、各自の稼ぎも多かった。彼の記事でとくに人気があったのは、FBI捜査官とその妻が、ヒラリー・クリントンのことを捜査中に自殺に見せかけた不審な死を遂げたという悲劇、と言ってもまったくの作り話だった。(略)フェイスブックでは、この断罪記事は一五〇〇万回以上閲覧された。

目的は情報伝達ではなく承認 

左派のソーシャルメディアの世界の牽引役は、ニューヨーク・タイムズのような古い主流派メディアやハフポストのようなリベラルを自任する報道機関を含む複数のハブに分かれていた。それとは対照的に、右派の世界の分かれ方は違っていた。中央に非常に党派色の強いプラットフォームのブライトバートを軸にした中心部分が一つあるだけだった。

(略)

 二〇一二年にブライトバートが死去すると、組織の運営は投資銀行家からハリウッドの映画プロデューサーに転身したスティーブン・バノンが引き継いだ。(略)

バノンは「オルタナ右翼」に関する好ましい記事を大量に送り出した。(略)

ポリティカル・コレクトネス」に対抗すべく、ウェブ通のネオナチからビデオゲーマーの集団まで、一見異質な集団をネットの中傷合戦を利用してまとめあげた。(略)

小さい、何千もの極右プラットフォームがブライトバートを軸に、しがみつくようにして周囲を回っていた。それらのプラットフォームは満足げにハイパーリンクと広告収入をやりとりしていた

(略)

 同類性によって動かされるソーシャルネットワーク上では、目的は情報伝達ではなく承認だということがこの戦略によって暴露された。

(略)

二〇一六年、ソーシャルメディア上のリンク全体の五九パーセントが、それを共有した人に一度もクリックされなかったことがわかり、研究者たちは衝撃を受けた。

 まともとは思えない、いかがわしい話をとにかく共有することは政治的積極行動主義の一種になった。

 ISISでさえ偽情報に悩まされた

[誤った情報は]世界で最も同情されにくい集団にとってさえ問題になっている。(略)

[エルサルバドルの]ギャング集団が、髪を金色に染めてレギンスをはいている女性を無差別に殺しているという虚偽報道が広まったために予想外の危機に直面した。(略)

蛮行を繰り返すISISでさえ、偽情報に悩まされた。ISISがモスル制圧後に抑圧的な原理主義政府を樹立すると、イラクの女性と少女四〇〇万人に性器切除を強要するという報道が出回った。続報は何万回もシェアされた。ISISのプロパガンダ担当者と支持者は頭を抱えた。罰として平気で公の場で斬首したり、磔刑を復活させたりはしても、女性器切除は彼らのポリシーとは違っていた。

世論をハッキング 

 往々にして、ボットネットはさまざまな“大義”を次から次へ支持して、政治的傭兵の役割を果たしかねない。

(略)

何と言っても二〇一六年のアメリカ大統領選挙に匹敵するものはない。調査の結果、ツイッターだけで、約四〇万のボット・アカウントが選挙の結果を左右しようと戦ったことがわかった。その三分の二がドナルド・トランプを支持していた。

(略)

クリントンボットネットクリントン支持のハッシュタグを積極的に探し出して「植民地化」し、敵意に満ちた政治的攻撃を大量に送りつけた。投票日が近づくにつれ、トランプ支持のボットは激しさを増し、量も膨れ上がり、クリントン支持派の声を(ブレグジットと同じ)五対一で上回った。

 トランプ派のボットは、素人の目では見分けがつかないほど実在の支持者たちに溶け込んだ。トランプ自身も例外ではなかった。二〇一六年の最初の三カ月だけで、未来の大統領は自身のツイッター・アカウントを使って、彼の大義を売り込んでいる一五〇のボットの言葉を引用したが、その習慣はホワイトハウスでも続くことになった。

(略)

 ハッキングにロシアが果たした役割が暴かれてからは、これらのアカウントは守勢に転じた。ロシアのボット軍団は、ロシアの関与を否定するアメリカ人の集団を装った。あるボットネットは次のような典型的で皮肉なメッセージを放った。「報道機関は、ロシアが今回の選挙に影響をおよぼそうとしていると非難している。報道機関が裏で糸を引くのがわからないやつはよほどのバカだ」

 この現象を研究したオックスフォード大学の研究者サミュエル・ウーリーが書いたとおり、「狙いは、コンピュータシステムをハッキングすることではなく言論の自由をハッキングし、世論をハッキングすることだ」。

(略)

[保守系でもコミュニティが違えば話題は同じでも使われる言葉や構文はちがったが、2016年ボット軍団が一斉に三つのプラットフォームでトランプ支持の移民排斥を推進]

(略)

 分析によってさらに不穏な傾向が浮かび上がった。二〇一六年四月には、反ユダヤの言葉も三つのプラットフォーム全体で顕著な増加を示した。たとえば、「ユダヤの」という単語は使用頻度が増しただけでなく、「メディア」などの単語と関連付けるなど、罵りや陰謀論だと簡単に見分けられるような形で使われた。

(略)

ソックパペットとボットは民意らしきものを作り出し、それに他者が順応し始めて、どんな考えなら表明していいと見なされるかが変わりつつあった。反復される単語と語句はすぐに最初にそれらをまいた偽アカウントの外まで広がり、各プラットフォームの人間のユーザーが使う頻度も増した。憎悪に満ちたフェイクは実際の人間を装ったが、逆に憎悪に満ちたフェイクを生身の人間たちがまねるようになった。

ジュネイド・フセイン 

がっしりした体格のパキスタン人少年としてイギリスで育ったジュネイド・フセインは、いわゆるオタクだった。だが、ハッカーたちの闇社会では一目置かれる存在だった。(略)

二〇一二年、十八歳だったフセインはイギリスのトニー・ブレア元首相の側近のメール・アカウントに侵入し、刑務所送りになったのだ。

 刑務所でフセインはジハーディストに変貌を遂げた。過激思想に染まり、刑期を終えるとシリアに飛んで、のちにISISになるイスラム過激派組織の初期の志願兵になった。(略)

貴重な兵器となったのは、フセインの流暢な英語、影響力、それにインターネットに精通していることだった。彼はISISの新生「サイバーカリフ制国家」のハッカー部門の組織化に協力し、ツイッター上でISISの新兵候補を探した。-(略)

アルカイダが兵力を増強した方法とは驚くほど対照的だった。アルカイダの初期メンバーは、ビンラディンと彼の副官たちが知っている人間を吟味して集めたものだった。(略)

一方、ジュネイド・フセインらが勧誘した新兵候補は、世界中からやってきて直接会ったこともない人びとの集団に加わったのだった。

(略)

テロウイルスのスーパースプレッダーと化したフセインは、すっかりセレブになり、妻まで手に入れた。ネットで出会ったイギリスの四十代前半のパンクロック歌手だ。しかし知名度が増すにつれて、アメリカ軍関係者の間で悪評が高まった。二〇一五年には、二十一歳になったフセインは米国防総省の「ISIS幹部暗殺リスト」に載り、自称カリフと最高戦闘司令官に次ぐ三番目の重要人物として名前があがっていた。

(略)

かつてハッカーとして「トリック」の名で知られていたフセインは逆にトリックに引っかかり、イギリスの情報機関が網を張っていたリンクをクリックしたらしい。フセインのネット履歴から位置を割り出し、ドローンから短距離空対地ミサイルのヘルファイアが発射された。そのときフセインは深夜のネットカフェで作業中だった。いつもはたいてい義理の息子を連れ歩いて人間の盾にしていたのだが、その夜は油断して自宅に残してきていた。

「今じゃ誰もがリアリティ番組のスターだ」

[大学一年の]スペンサー・プラットを魅了したのは、斬新なリアリティテレビの新世界だった。(略)

これなら自分だって作れる、って思ったんだ」

 そしてプラットは実行した。プラットは〈ザ・プリンスズ・オブ・マリブー〉のクリエイター兼プロデューサーとなった。セレブな父親ブルース(現在はケイトリン)・ジェンナーの七光りだけが取り柄のリッチな兄弟二人を追った、FOXテレビの初期のリアリティ番組だ。番組は数話で打ち切りになったが、その前に義理の家族となったカーダシアン一家を世に送り出している。

 大学に戻ることも考えたが、プラットはもっといいことを思いついた。彼はテレビ映りがよく魅力的で大胆だった。大学へは戻らずに、自分があの手の番組に出たっていいじゃないか。(略)

プラットは〈ザ・ヒルズ〉のロケが行われている場所を調べ(略)プレイメイトたちをはべらせて待った。この絵になる光景が〈ザ・ヒルズ〉の共演者でブロンド美女のハイディ・モンタグの目にとまった。ハイディはプラットをプレイメイトたちから奪ってダンスに誘った。二人は意気投合し、スペンサー・プラットとハイディ・モンタグはまもなく「スパイディ」と呼ばれるようになった。(略)

[その座を維持するためプラットは]「リアリティ」番組に欠けているものを与えた。つまり悪党だ。たちまち〈ザ・ヒルズ〉のストーリー展開はヤバそうな男と、最後には彼のもとに戻ってしまう女、という設定に変わった。毎回視聴者に新たな衝撃と憂鬱をもたらした。プラットはモンタグの目の前でほかの女たちといちゃつき、彼女の家族をばかにして喜んでいた。ある共演者との性行為の録音テープについての噂をわざと立てると、エンターテインメント系のメディアからは遠回しに非難されたが、友人同士が恋の火花を散らす様子はシーズン中ずっと視聴者を釘付けにするだけの価値があった。

 いうまでもなく、ほとんどの「リアリティ」番組の演出と同様に、その大部分はフェイクだった。それでも効果はあり、視聴率は急上昇した。だが、プラットはさらなる名声と富を求め、この程度では足りないと気づいた。「メディア操作に手を染めたんだ」と、彼はわれわれに言った。

(略)

当時ほとんどのセレブがパパラッチを避けていたのとは対照的に、〈ザ・ヒルズ〉の悪党は進んでパパラッチを利用した。「(略)普通は向こうがでっち上げなきゃならない、うまみのあるゴシップのネタを、こっちから提供してやればいいって思ったんだ」とプラットは言った。「作るのを手伝ってやって、その見返りをもらえばいいじゃないか、ってね」

(略)

[スパイディは]報酬でも露出度でもトップクラスのスターになった。と同時に最も軽蔑される存在にもなった。

(略)

プラットはモンタグから(嘘の) 妊娠をちらつかされたシーンを撮影したときの話をした。(カメラの前では)彼女を車から放り出して猛スピードで走り去るところで終わるシーンだ。「一二回撮影したんだ」とプラットは言った。

(略)

二人は無数の人びとをとりこにし、さらに有名になった。だが同時に、彼らも自分たちが作り出したイメージから逃れられなくなった。プラットが言うには、「ぼくはとんでもないろくでなしになることで大金を稼いでた。(略)そうなると演じ続けなきゃならない。気にしなけりゃ大金が入ってくるんだ、何でもやる。みたいな。だけど、忘れてしまう。“待て。だめだ。アメリカの中間層はこれが全部フェイクだとは思わないぞ”ってね」。

(略)

 現在、プラットとモンタグは当時よりは賢くなり、年を取り、裕福でもなくなった。(略)二人は現代のソーシャルメディアの発展を興味津々で見守ってきた。(略)

モンタグは驚嘆していた。「今じゃ誰もがリアリティ番組のスターだ」とプラットが付け加えた。「そして、みんながフェイクなんだ。昔のぼくら並みにね」

 そんな状況では、セレブ志願者がごまんといる世界で有効な「物語」をどうやって構築するかが問題になる。第一の鉄則はシンプルであることだ。(略)

 だからこそ、ジュネイド・フセインのシンプルで直接的なヒップホップダンスの言葉のほうが、ISIS以前のイスラム過激派の新兵勧誘員たちの冗長で退屈なメッセージよりも効果的にミレニアル世代の若者たちに響いたのだろう。

トローリング 

[「トローリング」は]ベトナム戦争に由来している。当時アメリカのF4ファントム戦闘機は北ベトナム軍の拠点付近の上空で敵を挑発していた。敵の熱心だが未熟なパイロットがそれに乗って攻撃してきたら、米軍機のより高性能なエンジンがたちまち作動し、エースパイロットが敵を撃墜しにかかるのだった。米軍パイロットたちはこの策略を北ベトナムが使っていた(ソ連製)ジェット機にちなんで「ミグのトローリング」と呼んだ。

 初期のオンライン・プラットフォームはこの言葉とテクニックの両方をまねて、「初心者トローリング」がはやった。ベテランユーザーがわざと大胆で挑発的な質問をして(そうとは知らない)新入りユーザーを怒らせる。怒った新参者は、とにかく彼らを引きずり込むのが狙いの議論に時間を浪費するはめになるのだ。

(略)

 初期のトローリングがひじで突っついて目配せするようなユーモアを特徴としていたのに対し、ますます多くの人(と現実の問題)がデジタルの聖域に入り込むにつれて、悪気のないユーモアはまもなく消えてなくなった。今ではトローリングと言えば、情報をシェアするより怒りを広めるための“荒らし”行為を行う連中を指す。彼らの目的は怒りに満ちた反応を引き出すことだ。(略)

政敵に関する扇情的な嘘をばらまくことから、がん患者のふりまで、あらゆることをする。(略)

このトローリングの精神を最もよくとらえているのは、いみじくも、一九四六年にフランスの哲学者ジャン = ポール・サルトル反ユダヤ主義者の戦術を表現するのに使った言葉だった。

 

彼らは自分たちの意見が軽薄で議論を呼ぶものだと承知している。しかし、それを自ら面白がっているのだ。それというのも、責任を持って言葉を使うべきなのは彼らの敵のほうで、その敵は言葉を信頼しているからだ。彼らは誠意のない行動をして喜ぶ。その狙いは確固とした議論で相手を説得することではなく、脅し、動揺させることだからだ。

 

[有名なトロールによれば]

「いいトロールになるカギは、究極の目標はネット上でみんなを怒らせることだと忘れずに、嘘っぽくならない程度にばかになることだ」

次回に続く。

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

「いいね! 」戦争 兵器化するソーシャルメディア

 

トランプ、ツイッターではじける

 トランプも岐路に立っていた。六十三歳の不動産王は四度めの破産を経験したばかりだった。(略)彼はリアリティTV〈アプレンティス〉の司会者に転身を果たしたが、輝きは失せ始めていた。同番組は放映開始当初こそプライムタイムのトップを飾ったものの、やがて視聴率ランキングで七五位に転落して打ち切りになった。その後、セレブ版スピンオフとして復活し、同じくトランプが司会を務めていた〈セレブリティ・アプレンティス〉はまだ放映中だったとはいえ、視聴率は急降下していた。視聴率の低下を食い止めるべく、トランプはデイビッド・レターマンのトークショーに出演したのだが、効果はなかった。トランプの初ツイートからわずか六日後にシーズン終了を迎えるころには、〈セレブリティ・アプレンティス〉の視聴率は〈デスパレートな妻たち〉や〈コールドケース 迷宮事件簿〉を下回っていた。(略)

当初トランプのツイートは散発的で、数日に一回のペース(略)

[スタッフによる投稿で、内容はテレビ出演告知、トランプ・ブランドの宣伝、名言格言など]

しかし二〇一一年、何かが変わった。トランプのツイートは五倍に増え、翌年にはさらに五倍に膨れ上がった。一人称のツイートが増え、何より調子が変わった。(略)

非常に好戦的にもなり、しょっちゅうけんかを吹っかけ──とくにコメディアンのロージー・オドネルを目の敵にした──そうやって磨き上げた言葉がやがてトランプのツイートの定番になった。「残念だ!」「負け犬!」「弱虫!」「ばか!」などを、たちまち何百回も使うようになった。著名な実業家が悩み多きティーンエイジャーみたいにネットのいさかいに突っ込んでいくなど、当時はまだ珍しく、少し見苦しくもあった。だが、トランプの「炎上戦争」は最も重要な点で成功した。つまり、注意を引くことだ。

 トランプのアカウントはより私的なものになるにつれて政治色が増した。トランプは貿易、中国、イラン、さらにクワンザ(アフリカ系アメリカ人の祝祭)についてまで長々と書き連ねた。それから矛先をバラク・オバマ大統領に向け、ほんの数年前には「チャンピオン」と賞賛した相手を、有名人のなかでいちばんの標的に変えて、無数の猛攻撃を開始した。不動産王からプレイボーイを経てリアリティTVの司会者に転身した男は、やがてもう一度、今度は右派の政治勢力に変貌を遂げた。

(略)

[即座に反応がわかるので]

とくに反響を呼んだツイートに磨きをかけて強化することもできた。トランプはインターネット上でくすぶり続けていた古い陰謀説を蒸し返し、オバマの政策ばかりか大統領資格についてまで攻撃(出生証明書をよく見てみようじゃないか)。その結果、ネットの反応は急増した。トランプとツイッターの組み合わせは、政治を未知の領域に向かわせていた。

(略)

他人から反応があれば、脳から少量のドーパミンが分泌され、投稿や「いいね!」、リツイート、「シェア」を繰り返したくなる。大勢の人間と同じように、ドナルド・トランプソーシャルメディアに夢中になった。

ISISはネットワークをハックしたのではない

ネット上の情報をハックしたのだ

[ISIS支持者やボット軍団は黒ずくめの武装集団の自撮り写真や]戦車車両団の画像をインスタグラムに投稿した。[拡散のための]スマホ用アプリまで開発された。(略)

ISISの動画は、勇敢にも抵抗した人びとを残酷な方法で拷問したり処刑したりする様子も映し出した。そして現実の世界での目的を達成した。#AllEyesOnISISは実際の部隊に先駆けて無数のメッセージを拡散し、目に見えない爆撃としての威力を発揮したのである。猛烈な勢いで広がるメッセージは、恐怖と分裂と背信の種をまくことになった。

(略)

ISISの重要な標的は、三〇〇〇年の歴史を持つ人口一八〇万の多文化都市、モスルだった。ISISの先陣が迫り、#AllEyesOnISISが情報を拡散するなか、モスルは恐怖に覆われた。スンニ派シーア派、周辺のクルド人勢力が互いに疑心暗鬼になった。自分たちが目にしている斬首や処刑の高画質動画は現実のものなのか。同じことがここでも起きるのだろうか。スンニ派の若者たちは、画面に映し出される不屈の黒い群れに触発されて、テロ行為に身を投じ、侵略者の代わりを務めた。イラク軍は、この小規模ながら恐ろしい軍勢からモスルの街を守る態勢を整えていた。少なくとも理屈上では、そのはずだった。だが現実には、モスルの二万五〇〇〇人強の守備隊は名目上の存在でしかなく、兵士たちがとうに任務を放棄したか、そもそも私腹を肥やすことに余念のない腐敗した高官らによってでっち上げられたかだった。さらに悪いことに、実在した約一万人の兵士たちは、喧伝される侵攻部隊の前進と残虐行為を各自のスマホで追うことができた。#AllEyesOnISISをチェックして、戦うべきか逃げるべきか、兵士同士で相談するようになった。敵が来てもいないうちから、恐怖が兵士たちを支配していた。守る側のイラク軍兵士はこそこそと逃げ始め、最初は少しずつだった流れがやがて洪水と化した。無数の兵士たちが、その多くは武器も車両も置き去りにしてモスルから遁走し、警官の大半も後に続いた。モスル市民も侵攻部隊の噂にパニック状態になり、五〇万人近くが街から逃げ出した。ISISの侵攻部隊一五〇〇人は、ようやくモスル郊外にたどり着いたとき、自分たちの運のよさに驚愕した。市内に残っていたのはひと握りの勇敢な(あるいは混乱した)兵士と警官だけだったのだ。彼らを制圧するのは容易だった。それは戦闘ではなく虐殺であり、その様子は逐一撮影・編集されて、またもやすぐにネット配信された。

(略)

[1940年]ドイツの電撃戦の真価はそのスピードにあった。(略)フランス軍は不安にさいなまれ、たちまちパニックに陥った。すべてを可能にした「兵器」はただの無線だった。

(略)

 ドイツ側がラジオと装甲車を駆使したのに対し、ISISは新たな電撃戦の兵器としていち早くインターネット使った。

(略)

ISISは、現実にはこれといったサイバー戦の能力を備えていたわけではなく、とにかくバイラルマーケティングのような軍事攻勢をかけて、あり得ないはずだった勝利を収めたのだ。ISISはネットワークをハックしたのではない。ネット上の情報をハックしたのだった。

(略)
 ソーシャルメディアは戦争のメッセージだけでなく力学も変えた。情報がいかにアクセスされ、操作され、拡散されるかが、新たな影響を持つようになっていった。戦いに関与しているのは誰か、どこにいるのか、いかにして勝利を収めたかまで、事実が歪曲され、変質させられていた。

ネット紛争が招く「現実」

 外交官だけではない。史上初めて、世界のどこに住んでいようと誰とでも直接やりとりできるようになった結果、往々にして一触即発の状況になっている。インド人とパキスタン人はそれぞれ「フェイスブック義勇軍」を結成して暴力を扇動し、自国に対する誇りをかき立てる。(略)

中国のネットユーザーの間では、中国の力を見くびっているように思える周辺国に対するネット「遠征」が習慣化している。何より、こうしたネット市民は自国政府の対応が弱腰だと思えばことごとく抗議し、武力行使するよう指導者たちに絶えず強要もする。

(略)

 オンラインの紛争のこうした変化にはもう一つ、厄介で逃れられない一貫したテーマがある。ときとして、こうしたインターネットの戦闘が招くひどい結果だけが唯一の「現実」かもしれないのだ。

 ISISがイラクで暴走する様子を私たちが見つめていたときでさえ、アメリカでは別の紛争が起きていた。それは一目瞭然だったのに、当時はあまりにも見すごされがちだった。ロシアの諜報員たちが、それまでのオンライン攻勢がかすんでしまうほどの大規模な攻勢を組織していたのだ。2016年のアメリカ大統領選挙では終始、何千人もの「荒らし」が、何万という自動作成されたアカウントを後ろ盾にして、アメリカの政治的対応の隅々にまで潜入していた。彼らは議論を誘導し、疑念を植え付け、真実をわかりにくくし、史上最も政治的に重大な情報攻撃を仕掛けた。そして、その作戦は現在まで続いている。

(略)

インターネットの楽天的な考案者と最も熱烈な支持者たちにとっては耐えがたい状況だ。彼らはインターネットが平和と理解をもたらし得ると確信していた。「以前は、誰もが自由に発言し、情報や考えを交換できたら、世界は自然とより良い場所になるはずだと思っていた」と、ツイッターの共同創業者エヴァン・ウィリアムズは打ち明けている。「それは私の思い違いだった」

 マケドニアの「クリックベイト」セレブ

マケドニアの錆びついた街ヴェレスで、彼らは戴冠したばかりの王様だった。(略)
失業率二五パーセント、年間所得が五〇〇〇ドルを下回る町で、これらの少年たちは暇な時間をカネに変え、そこそこ英語も身につく方法を見つけたのだ。彼らは受けそうなウェブサイトを立ち上げ、流行のダイエット法や風変わりな健康情報を売り込み、フェイスブックの「シェア」を頼りにアクセスを増やした。ユーザーがクリックするたび、オンライン広告の広告料のごくささやかな分け前が彼らのものになった。じきにいちばん人気のあるサイトは一カ月に何万ドルも稼ぐようになっていた。

(略)

ぞんざいで明らかに流用とわかる文章と広告でも何十万もの「シェア」を得られた。ヴェレスで生まれたアメリカ政治絡みのウェブサイトの数は数百に膨れ上がった。米ドルが地元経済に大量に流れ込み、グーグルの広告収入支払日に合わせて特別なイベントを行うナイトクラブまで現れた。(略)「ドミトリ」(仮名)は五〇のウェブサイトからなるネットワークを運営しており(略)[閲覧回数が六カ月間で約四〇〇〇万回]その収入は約六万ドルに上った。十八歳のドミトリは自身のメディア帝国を拡大し、記事の執筆を一人日給一〇ドルで十五歳の少年三人に委託した。だが上には上がいる。数人は百万長者になった。そのうちの一人は「クリックベイト(扇情的なタイトルをつけて閲覧者数を増やす手法) コーチ」と名を変えて、どうしたら自分のように成功できるかを数十人に伝授する学校経営に乗り出した。

 アメリカの有権者たちから約八〇〇〇キロ離れた、このマケドニアの小さな町は、マーク・ザッカーバーグが一〇年前に始めたことを、完全ではないものの再現した。町の起業家たちが開拓した新たな産業は途方もない額の現金を生み出し、若きコンピュータオタク・グループをロックスター並みのセレブに変えた。ナイトクラブで浮かれ騒ぐ大物ティーンエイジャーたちを眺めながら、十七歳の少女は次のように説明した。「フェイクニュースが始まってから、女子はマッチョな男よりテックマニアに引かれる」

 こうした荒稼ぎしているマケドニアの若者たちが送り出すバイラル性のあるニュース(略)には、オバマケニア生まれだという待望の「証拠」がようやく見つかったとか、オバマが軍事クーデターを計画していることが露見したなどという話題も登場する。(略)

そうした記事は(略)真実を伝える報道をはるかに上回る規模で読まれた。

(略)

 少年たちは流行のダイエット法を売り込む場合と同じく、自分たちのターゲットが欲しがりそうだという理由だけで政治に関する嘘を書き込んだ。「水が好きだとわかったら水を与える」とドミトリは言った。「ワインが好きならワインを与える」。だがこのビジネスには一つ鉄則があった。トランプの熱烈な支持者を狙え、というものだ。ティーンエイジャーたちはトランプの政治的メッセージをとくに気にしていたわけではないが、ドミトリによれば、彼らの作り話をクリックすることにかけてはトランプ支持者は「無敵だった」そうだ。

(略)

「無理矢理カネを払わせたわけじゃない」とドミトリは言った。「たばこを売る。アルコールを売る。それは違法じゃない。なのになぜおれのビジネスは違法なんだ?たばこを売れば、たばこは人を殺す。おれは誰も殺しちゃいない」。むしろ、悪いのは既成ニュースメディアのほうで、簡単に稼げる金づるを放置していたと話す。「連中は嘘をついちゃいけないからな」。ドミトリは嘲るように言った。

(略)

 マケドニアのメディア王たちの仕事が脚光を浴びていたころ、当のオバマ大統領は顧問たちと大統領専用機の中で身を寄せ合っていた。世界で最も影響力を持つ男が、状況の愚かしさと反撃できない自身の無力さについて思案していた。彼は海軍特殊部隊SEALsを派遣してウサマ・ビンラディンを殺害することはできても、この新たな「何もかもが真実で何一つ真実ではない」情報環境を変えることはできなかった。

(略)

[二世紀近く前、トクヴィル]も同じ思案にふけった。そしてこう結論付けた。「アメリカにおける政治学の原理は、新聞の影響力を無効化する唯一の方法はその数を増やすことである、というものだ」。新聞の数が多いほど、一連の事実について世論は一致しにくくなるだろうと、トクヴィルは推論した。

(略)

[現在ソーシャルメディアにより]一定の事実というものは存在しない。視点によって「事実」が違ってくるのだ。誰もが見たいものを見る。そして、その仕組を学べば、自分自身が生み出したこの現実にさらに引き込まれ、出口が見つけにくくなるだろう。

「ピザゲート」

[ピザ店コメット・ピンポンが小児性愛者の秘密組織だと信じ込んだ]

ウェルチは店の奥に向かった。そこに子どもたちが囚われているはずの広大な洞窟のような地下室への入り口があるはずだった。だが実際には、彼が目にしたのはピザ生地を手にした従業員一人だった。それからの四五分間、ウェルチは家具をひっくり返し、壁を探って、淫らな行為が行われているはずの秘密の部屋を探した。(略)

秘密の地下室に通じる階段はなかった。そもそも地下室がなかった。落胆し混乱したウェルチは銃を捨てて警察に投降した。

(略)

検察側の記録によれば、ウェルチは「意識は明瞭で、きわめて真剣で、十分な自覚があった」という。彼は囚われている子どもたちを解放し、命を捨てる覚悟で帰ることのない任務に赴くのだと本気で考えていた。

(略)

もとをたどれば、「ピザゲート」と呼ばれるバイラルな陰謀論に端を発していた。二〇一六年のアメリカ大統領選挙の終盤に登場したデマで、ヒラリー・クリントンと側近らが首都ワシントンのピザ店で行われている悪魔崇拝と未成年者の売買に関与しているという内容だった。

(略)

 ピザゲートはソーシャルメディアで炎上し、ツイッターだけで一四〇万回言及された。(略)

陰謀論者のアレックス・ジョーンズは登録ユーザー二〇〇万人に向かって次のように語った。「隠蔽が行われている。たぶん、神に誓って、私たちは悪の権化に牛耳られているのだ」。サンクトペテルブルクのロシア人ソックパペットたちも、チャンスを嗅ぎつけてピザゲート現象に乗じて投稿し、火に油を注いだ。ピザゲートは極右のオンラインでのやりとりを何週間も支配しただけでなく、クリントンの敗北を受けて影響力を増した。選挙後の世論調査では、トランプに投票した人の半数近くが、クリントン陣営は小児性愛、人身売買、悪魔崇拝儀礼での虐待に関与していたと信じていた。

(略)

ピザゲートの主要な投稿者に、米海軍予備役の若き情報部員ジャック・ポソビエックがいた。(略)

ポソビエックは一〇万人を超える自分のフォロワーにピザゲートを容赦なく押しつけた。(略)

「やつらはこちらの考えることや行動を管理したがる」とポソビエックはうそぶいた。「でも今なら独自のプラットフォームとチャンネルを使って、真実を語ることができる」

(略)

ウェルチの暴力的で無駄に終わった探索でも、ポソビエックの主張は覆されることはなく、かえって彼を新たな陰謀論に駆り立てただけだった。(略)

「コメット・ピンポンのガンマンはやらせで、企業の所有でない独立系報道機関に対する検閲推進に利用されるはずだ」。それから話題を変え、フォロワーたちに、ワシントン警察署長が「コメット・ピンポンに銃を持って押し入った男とピザゲートに関係がある証拠はない」と結論したと告げた。

(略)

それでもポソビエックは報いをほとんど受けなかった。それどころか、オンラインでの彼の名声と影響力は増した。見返りはほかにもあった。トロールによってピザ店を悲劇寸前に追いやってからわずか数カ月後、ポソビエックはホワイトハウスの記者会見室から特別招待客としてライブ配信していた。そして究極のお墨付きを得た。ポソビエックと彼のメッセージは、全世界で最も影響力を持つソーシャルメディア・プラットフォーム、すなわちドナルド・トランプ大統領のプラットフォームによって何度もリツイートされたのだ。

次回に続く。

 

[関連記事]

IS(イスラム国)はアメリカがつくった - 本と奇妙な煙

閉じこもるインターネット・その2 - 本と奇妙な煙

デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義 - 本と奇妙な煙

戦前日本のポピュリズム・その2

 前回の続き。

 空前の近衛人気

[内閣書記官長に風見章]

近衛好みのサプライズ人事であり、またそれは人気という点で成功するのであった。風見は、「見物席から舞台へ 型破りの大番頭 生れて初めてお役人」「微塵の政治臭もないこの無冠の野人の革新イデオロギーがここに青年宰相の胸奥にピリリッと感応」「窓にドタ靴のせて 寝そべる野人翰長」「虫喰いモーニングで 野人翰長の晴れ姿 撒き散らすナフタリン臭」などと新聞に書かれて持ち上げられ、「公家」の近衛と好一対のコンビとして内閣を支えることとなるのである。

(略)

この風見の件も含めて近衛内閣は空前の人気内閣であった。(略)

「一般の人気は湧く様であった。五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が、総理大臣になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。殊にそれが林銃十郎のような憂鬱内閣の後だったので、一層フレッシュな感じを近衛に対して抱かせた。……近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、「近衛さんが演説する」といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった」

「近衛首相は、日本中に人気を湧かし、……日本一の家柄、西園寺元老のホープ、革新思想に富む新人、軍部中堅層に支持者を持つ人、颯爽たる美丈夫、まさに時局待望の首相としてジャーナリズムがもてはやし、国民が随喜した。

(略)

(1)スターとしての近衛ファミリー・長男文隆(略)

第二世プリンス文隆が(略)「ウィルソンが総長をやっていたプリンストン大学に入りますよ」(略)

「チョット北米の旅 豪勢な! 近衛公一家総動員 (略)しゃちこ張った社交は御免だ」(略)ロッキー山脈の山の中の町パンフに「逃れ」、「文隆君を呼寄せて一家水入らず(略)

近衛公は(略)一家のことに関しては一切平等の発言権を許して完全な家庭デモクラシーを布いていられるのだ」

(略)

大臣といえば苦学力行、修身の見本のような人物ばかりと思われていたのに、近衛は昼寝をするなど役人の型を破り、「大分若いサラリーマンなどに受けがよかった」が、「今度は又、夫人が日曜には自由に遊びに出かけて(略)貞女型を破って見せ、若い細君や娘さん達の中に人気の出そうな所を見せている。

(略)

 近衛人気は近衛ファミリーの「個人的自由をもつ近代的ブルジョアジーの趣味や家庭を代表したような感」に大きく依拠したものなのであった。それが「女学生」「若いサラリーマン」「若い細君や娘さん達」に好まれるというのである。

(略)

近衛が首相になると、プリンストン大学に留学中の文隆はNBCのラジオインタビューに出演、それはただちに日本に「“我が父”を放送 全米の感激  ニューヨークの近衛首相令息」と報道されるのだった。「文隆君は流暢な英語で」言った。父はいかなるときでも子供をそのときには叱らず、後から適当な人を通じて「柔かに諭して呉れます」。また、関東大震災のとき、貨物列車に乗って軽井沢にやって来てくれた「父首相の家族に対する優しい思いやり」について話し、「全米国民に多大の感銘を与えた」。

(略)

 そして、文隆が帰国し、近衛が彼を秘書として使うと、以下のように新聞に載るのだった。

「と、その後から近衛さんに負けないくらい背の高い青年が車を降りて来た。グレイの地に幅広い縞のある流行のダブル・ブレスト、ピタリと着こなして近衛家自慢の長男、アメリカから帰ったばかりの文隆(二二)君である。

 政治学をやっている令息に官邸見学をかねてきょうの歴史的閣議の匂をかがせようとする近衛さんの親ごころである……長身を左右にふって歩きぶりまで首相にそっくりだ……アメリカ仕込みの颯爽たる身ぶりで自動車にのりこんだ」

(略)

[大学を中退して入営すると]

「陸軍歩兵二等兵近衛文隆君の入営.…御曹子出陣の朝は日本晴れ!……長身を包んだ文隆君の頭はまだオールバック……(略)珍らしや親子三人晴れの旅立ちの描景である」

 文隆は満洲で結婚、中尉昇進後にソ連軍の捕虜となり、七年間生死が定かでなかった。[イワノヴォ収容所で病死]

(略)

(1)女性人気(略)

「漆黒の髪に秀麗な眉、ゴルフで鍛えた五尺八寸のあの長身、春畝伊藤博文公についで歴代三十四代のうち二番目の若さを謳われる“青年日本のホープ”三十五代の公達宰相近衛文麿」(略)

「空は日本晴れ! 近衛さんの“青春組閣街道”

…午前十一時ネズミのソフトに鉄無地の単衣という瀟洒な貴公子を乗せたクライスラーは組閣本部の裏門をすべり込む……空は蒼ぞら宰相は若い、と新聞社のテント村から谺する……一時──付近のサラリーマンが昼の休みに組閣本部を遠巻きにする、若き宰相の顔が見たい──洋装の女の子まで犇めいている、すぐそばの裁判所から検事さんまでが、口をあいて、……組閣室の窓を仰いで「近衛さーン、顔を出せーイ」(略)

とくに「女学生」からの人気の指摘は多い。「薄陽の射した明治神宮参道に……青年宰相がその長身をモーニングに包んで現われた……丁度参拝に来合せた女学生の一団が二列に並んで先生の「礼!」という号令で丁寧に敬礼する、近衛さんは一寸はにかみながらこれも丁寧な礼を返す……大した人気である」

(略)

近衛以前にこのような形で評価された首相はいない。

(略)

(2)インテリ人気(略)

大正初期に成立して強い影響力を持っていた教養主義は、大正後期からマルクス主義の登場で衰退したのだが、昭和十年代に河合栄治郎などによって再び復権してきたのであかった。近衛の背後にはそうした教養主義的インテリ層の支持があったのである。それは驚くほどの渇仰ぶりであった。

(略)

「その内閣の特質は……いい意味でのインテリ的洗練味をもつところにあるのではあるまいか」

(略)

菊池寛は言う。「近衛内閣の出現は、近来暗鬱な気持になっていた我々インテリ階級に、ある程度の明るさを与えてくれたことは、確かである。少くとも、日本に於ての最初のインテリ首相である。

(略)

平林たい子は言う。

「公の周囲には新進大学教授などを網羅したブレーン・トラストが組織されているという噂だから、きっと、教養のある合理的な人にちがいない」

(略)

近衛は原稿を『キング』『日の出』などの大衆雑誌に書くことが多く、これも近衛人気に非常に貢献していた。

(略)

こうして、最新のメディアを駆使しながら、本来持っている「復古性」に大きな「モダン性」が付加され時代の要請を統合的に活かし、女性・知識人・大衆とあらゆる層に受容されながら近衛人気は作られていったのだった。

戦争の拡大

[盧溝橋事件発生]

近衛内閣の最も初期の動きは決して拡大主義ではなかった。

 しかし、蒋介石が直系の中央軍を北上させるという知らせが入った十日には(略)不拡大論の中心人物石原莞爾参謀本部作戦部長も、不測の事態を考えるとこの派兵案を呑まざるをえなかった。派兵案は、七月十一日の臨時閣議で承認され、派兵声明が決められる。

(略)

 さらに、午後九時から首相官邸で言論機関代表、貴衆両院代表、財界代表と、協力要請のための会合が三〇分おきに開かれた。いきなりこのようなものを開催したのは、史上初めてのことであった。

 これは、風見章書記官長のアイデアであり、近衛がすぐに諒解して実現したことであった。それは「政府の態度強硬なりとの印象を内外に示す」ために行われたことであり、近衛が「対外交姿勢」によって内閣の人気浮揚を目指したことは否定できぬところであろう。そして発案者はもと新聞人の風見章なのであり、ここには典型的なマスメディア操作型のポピュリズムが見られると言ってよいであろう。

翌日の新聞は一斉に[挙国一致と書きたて](略)

「“一致の決意だ”全日本の心臓!

 日本の言論界、政界、財界を代表する首脳部の乗りすてた車が首相官邸の前庭を埋めつくした、新聞社、放送協会の幹部が階下の大食堂へ消える 貴衆両院を牛耳る顔触れが、財界浮沈のバランスを握るお歴々と踵を接して階上二室の客間へ隣り合せに額をあつめる(略)

首相は官邸へ集った日本の三つの心臓へ「挙国一致」の活をいれた、三つの室の静かな興奮がただ一つの焔となって燃あがった

(略)

 石射猪太郎外務省東亜局長は、この日の朝の閣議で杉山陸相から出される三個師団動員案を外相の力で否定してくれという陸軍省軍務局からの使者にあきれたが、広田外相に否定を進言、ところが賛同したはずの広田は閣議であっさりと動員案に同意して退出してきたので失望していた。その後、夜になり首相官邸に「行ってみると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投したのだ」。

「首相側近」が風見書記官長を指すことは間違いないところであろう。

(略)

 もちろん事態の展開はそれほど単純ではない。その後、この動員案はすぐに実施されたわけではなく、現地では解決の機運も見られたりしたのだが(略)

二十六日には北平広安門で日中両軍は衝突、結局支那駐屯軍最後通牒を発した上で二十八日から全面攻撃を始め、華北での戦争は引き返すことのできない局面へと広がっていった。

(略)

 しかし、現地で交渉をまとめていた今井武夫少佐は次のように言っている。

「私らにすれば現地で交渉が妥結するというときに、出兵を決定されたことは致命的だったのです。また私どもの協定ができたということは東京に報告もしたし新聞社の電報も届いているわけですけれども……風見書記官長……は新聞記者出身ですから、ジャーナリズムの利用が上手なんです。すぐ各界の代表を集めて、大いに日本はやるのだといった。それがすぐシナ側に反響して「いよいよ日本はやるそうだ、これはたいへんだ」というので硬化しちゃった」

(略)

不拡大論の石原作戦部長が九月に関東軍参謀副長に左遷される。

 その石原がきっかけを作っておいたのが、ドイツの駐華大使トラウトマンを通した和平交渉であった。(略)

 しかし、国民政府の首都南京陥落の結果、その和平条件は「賠償」「保障占領」などを加重した厳しいものになってしまっていた。それは「世論の圧力」によると広田外相が認めている。

 すなわち、十月一日の四相(近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相)による「支那事変対処要綱」では比較的穏やかなものであったのか、十二月十四日の大本営政府連絡会議での「和平条件」は、「国民の期待」「国内の要求」「かかる条件にて国民はこれを納得すべきか」と言わざるをえないようなものになった、というのである。

(略)

文相だった木戸幸一は次のように言っている。

 「「トラウトマン」和平交渉は、おそらく日支事変においての和平実現のチャンスのあった最終の重大な機会であったと思われるに不拘」「広田外相があの時どうしてあのように強気に交渉打切の態度に出たか一寸考えられないことで、もっと粘ってもよかったのではないかと思うが、その理由として一つ考えられることは、一月二十日から議会が再開されるので、議会では必らず論議に上るこの和平問題を議会対策としてその再開前に早く結論を出して置こうと考えたのではなかろうか」

 多田駿も同じ推測をしている。すでにこの工作のことがある程度新聞などに洩れつつあったので、和平工作をしたこと自体が議会で追及される恐れがあり(すでに想定問答集ができていた)、こうした批判・追及をかわすためにも、強硬な声明が必要となったわけである。

 また、これを中国側が暴露・発表することも警戒されていた。木戸によると、「近衛首相の最も心配し居られしは、支那が右の交渉を拒絶し而して其条件を議会開会中に逆宣伝に使用」することなのであった。

(略)

 議会・世論を考えたからこそ和平工作は潰れ、強硬な声明が出され、戦争は拡大していったのだった。(略)ここにポピュリズム的政治の危険性が明確に見て取れると言えよう。

ドイツのヨーロッパ制覇と新体制運動

「[ドイツの圧倒的勝利という]ヨーロッパ戦局の急速なる進展は、今や我が英米追従外交の革命的転換を要求している」「政府は速かに対外国策を根本的に転換し積極的攻勢外交を展開すべし」「世界及び東亜新秩序建設のため日独伊枢軸を強化すべし」とする社会大衆党中央執行委貝会の政府への要請書に典型的に見られるように、米内内閣の「英米追従外交」をどの政党も批判し、「対外国策」の「根本的」「転換」を迫ったのであった。

(略)

 こうしてみると、米内内閣の倒れたのも、近衛内閣の生れたのも、ヒトラーの戦運が物凄い勢で開けて行く時に際しては、日本は躊躇なく枢軸側につかねばならぬという外交理念に依ったのだ」

(略)

明日にも独軍の対英上陸ができそうだ、という欧州大戦の発展は、連日の新聞紙上、日本国内にまで、一大戦勝ムードを作り上げた。日本人の常として、忽ちこのムードに酔い、昂奮したり、熱狂して、「バスに乗りおくれるな」という叫びが、いたるところで、わめき立てられた。

(略)

こうした激動する状況の中で、西園寺が、いかにヒットラーが偉くとも、十五年つづくか、続かぬかの問題だ。……まだまだ前途は、わからぬ、といっていたことが、「原田日記」(六月十七日)にのっており、さすがは西園寺と、いまにして思うけれども(略)

[駐英大使からも]独軍の上陸作戦は、制空権をもっていないとか、チャーチル首相の強力な抗戦計画などを理由に、不可能に近いことを打電して来ていたのを、武藤が読んで、情勢は慎重に見るべきことを、語っていたのが思い出される。

 しかし、このような達見の士は、極く少数であり、沸き立っている大衆の耳からは遠く、かすかであった。

(略)

 この気運のなか、六月二十四日、近衛は「新体制確立運動」のため枢密院議長辞職を発表、事実上の出馬表明であった。

(略)

新党は「職能的国民組織」を基礎とし、そのなかから優秀な人材を集めて中核体を作り「挙国的な国民運動」を展開する、という方針にした。

(略)

 そして、この中身のない気運だけの新党運動にすべての政党が慌てて、それこそ「バスに乗りおくれるな」と合流し、解党していくことになる。

(略)

十月十二日、大政翼賛会が発足する。近衛が演説したが、綱領のようなものは何もなく、「綱領は大政翼賛、臣道実践という語に尽きる」「これ以外は実は綱領も宣言も不要」として関係者を唖然とさせた。

日米開戦への道

近衛はこれを排し、同時に打つように言ったが、松岡は聞かずアメリカへ拒否電訓を先に発してしまった。

 七月十六日、松岡外相を辞めさせるため第二次近衛内閣は総辞職し、十八日、第三次近衛内閣が成立する。(略)

もう南部仏印進駐に進みはじめていたこの時点では、日米関係はマクロに言えばほとんど戦争に向け後戻りできない状態になりつつあったと言わざるをえないであろう。

 その意味では近衛と松岡の関係が決定的なのであった。

(略)

松岡外相を支え続けた斎藤良衛は、このころの松岡のことを次のように書いている。

「彼のねらった後盾の一つは……民衆の世論の力だった(略)

彼は人気とりが上手で、当時の政治家中彼ほど世間に人気のある者はなかった。……彼の行くところ、沿道人垣を築くことは珍しくなかった」。(略)とくに一九四一年春、欧ソ歴訪の旅を終えて帰した後の日比谷公会堂での第一声は「近衛をはじめ当時の政治家ひどくこきおろし」、人気は高まった。

 そして、松岡はついには国民的人気を背景に近衛内閣に代わる「松岡内閣」まで構想するに至っていた。(略)

 松岡のアクロバティックな外交は国民の好むところだったのであり、それは指導者と大衆の合作によるポピュリズム外交の典型だった。だから近衛による松岡の更迭は、一人のポピュリストによる他のポピュリストの放逐なのであった。