戦前日本のポピュリズム 筒井清忠

日比谷焼き打ち事件

 内務大臣官邸に向かった一団は、午後二時ごろ小村全権らの曝し首が描かれ「天誅」と題する「喝采を博し」た張り紙を警官が剥がそうとしたのに激怒、警官に暴行を加えた後、官邸に逃げ込んだ警官を追って邸内に石を投げ込み、乱入・放火した。

(略)

 社会主義者吉川守圀は、人力車夫らしい老人が「お茶の水の交番は日頃戸籍の事で八釜しく云ってうるさいから是非焼いて貰い度い」と群衆に頼みカンテラ道具を持ち出して来た、と記録しており
(略)
 日比谷焼き打ち事件の考察にあたってそのポイントとしてまず第一に、戦争中にたびたび開かれていた戦勝祝捷会が群衆形成の重要な要因となっているということを指摘しておきたい。

 日露戦争の当初、国民の戦争支持はそれほど熱心でなかった面があったと言われている。政友会の幹部であった原敬は「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり」と記しており、既述のように『国民新聞』の徳富蘇峰は、国民の戦争に対する熱心さは日清戦争当時の半分もない、とロンドンの深井英五に書いている。

 しかし、戦闘の勝利につれて、やはりそれは盛り上がっていったと見るべきであろう。その際、その気運に大きく寄与したのが戦勝祝捷会の開催であった。

(略)

 次に重要な論点として新聞と事件との関連という問題がある。何よりも河野広中小川平吉ら事件関係者が、暴動の波及が急速となった原因として警察への憤懣が浸透していたこととともに「新聞が是を煽動的に報道せることを挙げて居る」のであるが、取り締まる側もこれを「傾聴に値すると思う」と著していることは見逃せない。

 この点について松尾尊兌は次のような重要な指摘を行っている。

「(略)まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報ずることで運動の気勢を高めただけではなく、運動そのものの組織にあたったのである」

(略)

 こうした新聞の激しい反対運動が日比谷焼き打ち事件を誘発した有力な原因であることは間違いないが、それがのちの憲政擁護運動(護憲運動)・普通選挙要求運動(普選運動)につながったことも否定できない。

(略)

 講和条約に反対した陸羯南の『日本』が展開した「兵役を負担する国民、豈戦争を議するの権なしと謂わんや」という論理──兵役の負担と講和すなわち政治について議論する権利をイコールで結ぶ論理──が普選運動に直結するものであることは見やすい道理であろう。

 こうして新聞に支えられた講和条約反対運動が日比谷焼き打ち事件のような暴力的大衆を登場させ、またのちの護憲運動・普選運動をも準備したのである。両者は最初からぴったりと結びついており、切り離すのは難しいものなのであった。

(略)

 日比谷公園での「国民大会」の模様について、『君が代』が演奏され、天皇・陸海軍の万歳が唱えられて大会が終了したことをすでに見た。また、午後一時半すぎに起きた最初の衝突は、「億兆一心」「赤誠撼天地」などと書いた大旗を持ち宮城前広場に移動した群衆を警官隊が取り締まったとき、楽隊が『君が代』を演奏しようとしていたので群衆が激昂したのが原因と見られている。

(略)

「東京で多くの行列の目指した場所は皇居であり、日比谷公園に集合して解散するという形もパターン化しつつあった。神聖な「皇居」を目標としつつ、集合と解散の身近な場所としては日比谷公園を設定するという形が成立しつつあったのである。「皇居」と「日比谷公園」はこの時代日本の群衆の統合点であり、沸騰点であった」。
 読者の労をいとわずに繰り返し書いたのは、日本に最初に登場した大衆は天皇ナショナリズム(それも「英霊」的なものによって裏打ちされたもの)によって支えられたそれであったことが、明白に理解されると思われるからである。

 さらに、新聞論調に多いのは次のような内容である。(略)

「鳴呼、国民は閣臣元老に売られたり」「呆れ返った重臣連」

「元老、内閣の官爵、位勲を号奪せよ」

(略)

戒厳令施行後に見られた張り紙も同じように「小村全権は日本を売る国賊なり、誰か之に誅せよ」「詔勅に背きたる逆臣は宜しく誅すべし」といったものがきわめて多い

(略)

 天皇のおかげで国家は発展しつつあり国民も頑張っているのに、天皇周辺の愚かな大臣らのため国民は悲惨な目にあいつつある、天皇の親政・聖断を行い君側の奸を打倒し国民を救済する政治を行ってもらいたい、という主張である。これに最も類似した文章は「謹んで惟るに我神州たる所以は」で始まり、「万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ」ている「君側の奸」の「斬除」による「国体の擁護開顕」を、と説いた二・二六事件の「蹶起趣意書」であろう。(略)

それはニュアンスの違いはあっても、幕末の尊攘倒幕派から二・二六事件につながる「一君万民」「尊皇討奸」的意識を強く持ったものであった。

(略)

 なお群衆が警官とは戦っても軍隊と戦おうとはしなかったことは、鎮圧が速やかになった一つの原因と見られており、軍隊は武力によって群衆を抑えたのではなく、威光によって治めたのであった。

(略)

 こうした軍隊崇拝意識は、軍隊が「天皇の軍隊」であり「国民の軍隊」である限り、天皇ナショナリズムへの渇仰意識から当然のように現れるものであり、そのコロラリー(当然の帰結)と言えよう。

対中強硬政策運動

 一九一一年に起きた辛亥革命は、袁世凱の大総統就任によっていわば簒奪された形になったが、これに対し革命派が二年後の一九一三年に起こしたのが第二革命であった。しかし孫文、黄興ら南方の革命派は敗れ、日本に亡命することになる。このとき参謀本部や出先軍人は南方の革命派を支援しており、このことが以下のような日中の対立となる暴力事件を誘発したのだった。(略)

(1)漢口事件(一九一三年八月)。日本陸軍の西村彦馬少尉ら二名が漢口の停車場で暴行・監禁を受けた事件である。日本側は厳しい処分・陳謝を要求、それに対し中国が謝罪し責任者を処分している。

(2)兗州事件(一九一三年八月)。日本陸軍の川崎亨一大尉が兗州から山東省の済南に向かう列車内で逮捕され、兗州の兵営内に四日間監禁された事件である。これも中国は謝罪し、責任者を処分している。

(3)第一次南京事件(一九一三年九月)。南京内に入城した政府軍(北軍)兵士が、国旗を掲げて領事館に避難中の日本人を襲撃した事件である。日本人三名が死亡し、三四軒の商品・家財が一切掠奪され、国旗が攻撃されている。これも最終的には中国が謝罪し責任者を処分しており、六四万ドルの賠償を支払っている。

 これらは日本が革命軍(南軍)側と見られていたことが原因で起きたと見られているが、この一連の事件に対する新聞・雑誌報道は誇大なところもあったので、世論は激昂した。

(略)

「九月一日正午南京陥落し北軍城内に闖入してより、公許されたる奪掠三日の一言は不幸にして箴を為し、九十里の城垣は故なくして阿鼻叫喚の巷となり放火、奪掠、姦淫、虐殺等、有らゆる罪悪は凡ての北軍に依りて犯されたり。

(略)

 この年は四月から五月にかけてアメリカで日本人移民の排斥が問題になっており、演説会が開かれるなどしていたから、すでに国民の被害者意識は相当高まっていた。そこにこのような報道がなされたのである。

 そもそも辛亥革命勃発後から対外強硬世論は起きており、一九一三年七月二十七日、神田青年館では一二団体の集った対支同志会が結成されていた。(略)そこでは東蒙南満の要地占領、揚子江一帯の要地への出兵という強硬な意見が決議されている。

 そして、翌九月五日には阿部守太郎外務省政務局長が三人の対中強硬派に襲われ刺殺されるという事件が起きる。犯人の二人は逮捕されたが、一人は知人の家で中国地図を敷いて、その上で切腹自殺した。

(略)

 刺殺の原因は、犯人の一人によれば、南京事件で日本国旗が侮辱されたのに対し、阿部が「要するに国旗は一つの器具に過ぎぬ」と言ったからであるという。(略)

中国の暴行に対する“弱腰”は、国民の犠牲を払って得た満蒙を失う危険性につながると見られていたことがわかる。(略)

事件後、強硬政策を求める声はさらに強まり、ついに九月七日、対支同志会主催の国民大会が日比谷公園で開かれ、対中強硬政策を主唱する群衆が外務省や牧野伸顕外相宅に押しかける事態となった。

 世論が「願る高潮に達し居る」と見た牧野外相は、袁世凱政府の漢口地域の責任者張勲の辞職を要求するなど強硬外交を展開した。(略)張勲が南京日本領事館で陳謝し、事態は収拾に向かう。このとき牧野外相は、関東州租借地と満鉄の租借期限の九九か年延長なども要求しようとしたが、山座円次郎公使に反対され、思いとどまっている。この要求は対華二十一か条要求に含まれることにつながるものであった。

 山座公使は「支那人を侮る結果」の「威圧的言動」に憤慨しており、また原敬内相も牧野外相のポピュリズム的傾向に批判的で(略)政府・外交の中枢はポピュリズムに揺らぐばかりではなかったのである

(略)

 ともあれ、この事件は日比谷焼き打ち事件以来現れた「群衆」「大衆」を前に、外交がこうした「民論を無視」できない状況となっていたことを如実に示す事件であった。これ以後の対華二十一か条要求など、日本の世論の中国に対する厳しさのなかには、事件への被害者意識・報復意識と、それが国民の犠牲を払った満蒙を失うことにつながるとする危機意識とがあったことが見てとれるのである。

排日移民法排撃運動

六月十四日には横浜駐在米領事への暴行事件が起きる。七月一日、対米国民大会が芝増上寺で開催され、一万余人が参加、「対米宣戦」などがなされ、米大使館の国旗盗難事件が生起した。その後全国で集会・デモが頻発する。

 横浜沖仲仕組合の米貨積み下ろし拒否、米映画上映ボイコット運動、米系大学の補助金拒否運動などが起き、反米の歌まで作られ、親米家として知られた新渡戸稲造は今後は米国を訪問しないと宣言せざるをえなかった。在日米人は本国に日本の様子を伝え、移民法の撤廃と身辺保護を要請した。

(略)

『東京日日』『大阪朝日』のような有力紙には米英に追随する外交路線の改変、中国との関係改善のための公使館昇格、二十一か条要求改定などの主張が行われている。

憲法学者美濃部達吉は次のように書いている。

「事の茲に至ったのは、政府の罪でもなければ、外交官が悪いのでもない。詰りは国力の相違である。……情ないかな、日本は国力に於て、少くとも経済力に於て、絶対にアメリカの敵ではない。如何に侮蔑せられても、如何に無礼を加えられても、黙して隠忍するの外、対策あるを知らぬ。……国家百年の大策としては、所詮は亜細亜民族の協力一致を図るの外はない」

 こうして事件は以後の反米・アジア主義の重大な動因となった。

(略)

 大正期のポピュリズム的運動はナショナリズムと平等主義の二つに方向づけられたが、それは日比谷焼き打ち事件の延長線上に現れただけに、当然のことであった。このうちナショナリズムの方向性は中国に向かい、またアメリカに向かった。アメリカに対する排日移民法排撃運動が激化すると親中国的なアジア主義の高揚が見られるのだから、こうしたポピュリズム的運動が元来、無方向的な性格のものであることがよくうかがえよう。

 平等主義は普通選挙要求運動において最大の高揚を見せたが、なかでもそれが非暴力的性格を勝ち得たことは画期的成果であった。排日移民法排撃運動でそれは一時破られるが、結局終戦まで大きな爆発的混乱は起きなかったわけである。

天皇シンボルの肥大化

田中内閣は、一般に言われるように張作霖爆殺事件だけが原因で崩壊したのではない。

(略)

田中内閣の倒壊とは、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒したということである。しかし、「腐敗した」内閣であっても政党内閣は野党によって倒されるのが健全な議会政治の道なのであり、これは不健全な事態である。「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という内閣打倒の枠組みがいったんできると

(略)

「軍部」「官僚」「近衛文麿」などと形を変えてそれは再生されていき、政党政治は破壊されることになるのである。

(略)

 こうした天皇の政治シンボルとしての肥大化が、以後の時代に天皇シンボルのいっそうの政治的利用や「天皇親政論」的発想、すなわち天皇ポピュリズムを導き出すことになるのだが、政党人にその自覚は乏しかった。

(略)

知識人も、吉野作造が典型であるが、大衆デモクラシー時代に十分に対応することができなかった。

(略)

 当時、多くの知識人は、既成政党=ブルジョワ政党への失望と批判ばかりを語り、同時に新興の第三極としての「無産政党」の発展に期待していたのだった。二大政党制の意義と理念を語ることができなかった彼らは、「無産政党」が内訌を続けて国民多数の支持を得られず夢が破れると、今度は「軍部」や「近衛文麿」「新体制」などに期待することになる。

 勝負は、マスメディアの既成政党政治批判と天皇シンボル型ポピュリズムが結合し始めたこの時期につきはじめていたとも言えよう 。

二大政党に分極化した地域社会

政党による官僚支配の問題は当時「党弊」と言われ、ある意味では時代の趨勢をはかる最も大きな問題だったのである。

(略)

 内務省を掌握すると選挙に勝つことができるということで、内務官僚の政党による掌握が極端に進んでいったのである。この反省から(略)

斎藤実挙国一致内閣では、警視総監、内務省警保局長、衆参両院書記官長などは試験任用にするということで、官吏の身分保障が強化されることになったのであった。(略)

[だが事態はそう簡単には治まらず、1935年に大分県警察部長になった内務官僚村田五郎の場合は] 

赴任してみると、大分県には警察の駐在所が政友会系・民政党系と二つあった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。(略)土木工事・道路などの公共事業も知事が政友会系・民政党系と変わるたびにそれぞれ二つ行われていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(略)

党員の団結は非常に強固で、隅々まで連絡網が張りめぐらされていた。このような強力な組織をもって、双方の政党は、野党時代には政権党の内閣の知事の下での県職員の行動を厳重に監視し、いったん政変により政権党になると、そのたびごとに反対党の知事はじめ職員を一斉に退職させた。(略)

村田以外に(略)政友会系・民政党系それぞれの「本部長」がおり、「本部長」が三人いる状態であった。各警察官は自派の「本部長」の意向を確かめてから動くのである。村田は警察官の公平・中立化を目指した人事異動を行おうとしたが、政党からの妨害は激しかった。しかし実現していき、警察と暴力団の癒着も摘発、是正し、県民から感謝された。折から開かれた全国警察部長会議で、内務省警保局長は「天皇陛下の警察官」という言葉を使って、政党に従属する警官ではなく、天皇陛下の政府に仕える警察官であるから、今後は真に政府の警察という本来の姿に立ち戻って出直すべきだということを強調した。過去、政党に使われ嫌な思いをしてきた全国の警察官の士気は大いに上がったという──。

 もちろんこれは政争が非常に激しい県の例なので、すべての地方がこのようであったというわけではない

次回に続く。

蛭子の論語 自由に生きるためのヒント 蛭子能収

編集部訳の論語をネタに蛭子さんが語る。

「新しさ」を理解する感覚

もちろん、一方でインパクトだけの人はすぐに消えてしまうのが芸能界という世界です。だけど、一瞬でも時代に合った人っていうのは、きっと“何かを持っている”んですよね。時代に合った、「何か」を。(略)

うまく言葉で言い表せないけれど、「新しさ」を理解する感覚を持ち合わせることって、すごく大事なんじゃないかな。
 僕は、そういう「感覚」だけは結構持ち合わせているほうだとひそかに思っているんです。多少の浮き沈みはあっても、もう30年以上、テレビに出続けています。言い方を変えれば、僕はどんな時代にもついていけるんですよね。いや、それは言い過ぎかな……。正確には、「どうにか合わせられる」ということかもしれない。
 たとえば僕は、テレビで自分らしいことを言おうとか、自分らしく振る舞おうとか、そういうことはまるで考えていません。その時代、その時代で流行っているものを取り入れながら、自分なりに適応していくだけです。僕は意外とそういうことができる人間なんです。だから、どんな時代でも、自分が何歳になっても、時流に合わせられる気がするんです。

(略)

ただ、時代についていったり合わせていったりしても、しがみつこうと思わないことはとっても重要かもしれない。しがみつく感じが垣間見えたら……それは単に惨めだから。

“蛭子の基本方針” 

【編集部訳】徳のある人のまわりには、必ず人が集まってくるものだ。

 

 この「論語」には納得しますね。(略)僕の知っているところで言うならば、ビートたけしさんがそうかもしれない。(略)

たけしさんの性格はもちろん詳しくわかりません。でも、むしろ弟子なんてとらないタイプの人だと僕は思うんですよ。たけしさんに憧れる人たちが、勝手にどんどん集まってきた。もともとは、そんな感じだったはずなんです。(略)

単純に「たけしさんのことが好きでたまらない」という一点で強く結束しているような、そんな関係性に見受けられるのです。

 だから、たけし軍団は他のグループとはちょっと違う印象を受けるのかもしれませんね。基本的に群れることが大嫌いな僕ですら、ときどき、「あの軍団に入ってみたいなあ」なんて思ってしまうような、不思議な吸引力や居心地の良さがあるんです。

 そんなたけしさんを見ていても感じますが、自然と人が寄ってきてしまうようなタイプの人は、けっして人を差別するようなことはしません。誰であろうと、平等に扱うんですよね。それに、自ら好んで人の上に立とうとしないという特性があるように思います。

 

みんなの上に立って、支配したり威張り散らしたりするような真似はせず、自分もその集団の一員であるように振る舞うことができる。

 

 単に自分の意見を押し付けるだけではなく、「あなたは、どうしたいの?」って、一人ひとりの意見を、その人たちと同じ目線できっちりと聞いてくれるんです。それはつまり、その人の意志や自由を、ちゃんと尊重してくれるということでもありますよね。

 

 言うまでもなく僕自身は、たけしさんのように器の大きい人間ではありません。それこそ、“徳”だってまったくないでしょう。だけど、不思議と小さい頃から「人に嫌われている」と思ったことはないんです。むしろ、「人から好かれるタイプだろう」って、自分では感じているくらい。なぜかというと、僕は他人の悪口を言わないし、他人を傷つけるようなこともしないから。もちろん、会話の流れのなかで冗談っぽく冷やかしたりすることはありますよ。だけど、自分がされて嫌なことは、絶対他人にもしない──それが“蛭子の基本方針”なんです。

 だから、僕のまわりになんとなく人が集まってきてしまうことって、意外とあるんですよ。ヘラヘラ笑っているから、とりあえず危害を加えなさそうで、安全な感じがするのかな?

ローカル路線バス乗り継ぎの旅」 

【編集部訳】3人で行動するときには、必ず自分にとって師となる人がいるものである。

(略)

[『路線バス』での序列は、太川、マドンナ、僕]

3人がいたら、必ず僕がいちばん下っ端になるんです。

 といっても、むしろ、自分のほうから積極的にそうしているきらいがあります。

(略)

[太川とマドンナの意見が一致するようならば、僕は何も言わずそれに従います。両者の間で意見が分かれたり、両者とも迷っていて僕に意見を求めるようだったら自分の意見を言いますが、基本的にはふたりにお任せ。

 

極力、「自己主張をしない」というのが、僕の基本方針のひとつです。

 

 そこで、もうひとつ常に気を付けていることがあります。それは、リーダーのネガティブな発言に同調しないということ。「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」であれば、旅が進むにつれてみんなの疲労度が増してきます。すると、本当にときどきですが太川さんが僕にこっそり、「蛭子さん、今回のマドンナはなかなか手が焼けるねえ」なんて、軽く愚痴ってきたりすることがあるんですよ(太川さんバラしてごめんね)。(略)

でもそういうとき、僕は黙ってその話を聞きつつも、「本当にダメですよね」とは絶対に口にしません。ヘラヘラと笑いながら、「ああ、そうですねえ。大変ですねえ」と言うぐらいに留めて、なるべくその会話がそこで終わるように仕向けるんです。というのも、そこで僕が太川さんの意見に同調したら、太川さんと僕、そしてマドンナといったように2対1の構図が生まれてしまうから。そうなると、本人たちが意識しようがしまいが、いつの間にかそのひとりをふたりで攻撃したり、排除したりする構図になってしまう恐れがあるんです。

 

 僕は、ことあるごとに「群れるべきではない」「グループに属するべきではない」と言ってきました。主張が少ない僕にしては、よほど自分で強く思っていることなんだと思います。

 グループ内では、必ず多数派と少数派が生まれて、その一方が一方を差別するような構図になりがちです。3人というのは、僕ひとりでその状況を防ぐことができるギリギリのラインなんですよ。僕を含めた2対1の構図にならないよう、常に1対1対1の関係になるように調整する。そのためには、僕、つまり残されたひとりが一歩引いた立場から全体のバランスを見ていたほうがいいと考えているんです。

 もちろん、ただ「ハイハイ」とふたりの言うことを聞いているだけではなく、ときにはふたりが対立してしまわないように冗談を言うことだってあります。そういう配慮がすごく大切だと僕は考えているんです。

協調性 

【編集部訳】 真の教養人たるもの、和合はするが、雷同はしない。

(略)

 巷では、「蛭子は人のことなどお構いなしで自由気ままな奴」みたいに誤解されているような気がするのですが、こう見えても、それなりの協調性はあるんですよ。テレビの仕事でも、「蛭子さん、これをやってください!」って言われたら、命の危険がない限り、基本的に何でもやってしまいます。そこで、「いや、それはちょっと無理だよ……」と言って断るようなことはまずありません。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』だってそう。あれこそまさに、協調性が必要とされる仕事。本当に行き当たりばったりの収録なので、3人で助け合って旅を進めないとロケの時間内にゴールまで辿りつけないんですから。

(略)

みなさんがどんなふうに見ているかはわかりませんが、一応は20回も続いている人気シリーズを大きな問題もなくやってきたんです。さすがに協調性はあると認めてくれてもいいんじゃないかなあ、と淡い期待を抱いています。

 自分にウソをつき続けたら自滅する

 長いこと芸能界に身を置いていると、たくさんの芸能人の方に遭遇します。カメラが回っているとあんなに明るいのに、普段は物静かな芸人さん。テレビに映っているときは、コワモテなのに実際話すとものすごく腰が低くてていねいな役者さん。本当にさまざまです。ただ、これは僕の持論なのですが、あまりにも無理をしている人、無理をして自分を作っている人は、いつの間にかこの世界から消えてしまうんですね。

 それはきっと、どこか自分を偽っていたというか、自分にウソをついていたんだと思うんです。

 

自分にウソをつくことの何が怖いかって、自分につくウソは、いつの間にか真実になってしまうんですよ。

 

 そうやって内面的な葛藤によって、自分自身がやがて壊れていく。そういう人って、みなさんのまわりにもいませんか? 過剰に自分を作り過ぎた結果、その自分を受け止められなくなってしまってやがて自滅してしまう人。人間は、できるだけ自然体で、自分自身に正直なのがいちばんです。

ギャンブルがある限り

[駄菓子屋のクジ、メンコ遊び]近所のスマートボール……という具合に、僕は幼少時代に、何かを賭けて勝ち負けを競うことの楽しさを知ってしまったようなんです。その楽しさは、自分の生活環境に多少の変化があろうとも、いっさい変わらないんです。

(略)

僕は幼少時代から貧乏時代、そして今に至るまで、それを楽しみ続けています。人生におけるかなり早い段階で、自分にとって「楽しいこと」を見つけることができて、それを細く長く楽しめているのは最高に幸せなこと。

 だから、こう言えると思うんです。

 

ギャンブルがある限り、僕はけっして身を持ち崩さないだろう、と。なぜなら、好きなギャンブルをずっと楽しむために、きちんとお金を稼いで、贅沢もせず、質素な暮らしを続けていくからです。

 

 これからの人生、どんなことがあるかわかりません。だけど、たとえまた貧乏になろうとも、僕はギャンブルをやり続けることだけは断言できます。なぜならそれが、僕にとってのいちばんの楽しみなのだから。

 少しの想像力があれば生きていける

 たしかに、若い頃は凄まじい才能発揮したのに、年をとるにつれてどんどんしぼんでいく人ってどの世界にもいますよね。だけど僕は、「かつてすごかったのに今は凄くない人」よりも、「一向に芽を出す気配すらない人」の方が気になるかな。

 

 何をするにしてもどこか漫然としていて、ただ言われたことをダラダラやってるだけの人って、どこの職場にもいませんか?(略)

 そういう人って何かの才能があるとかないとか、適性があるとかないとか言う以前に、「見る目」がないんだと僕は考えているんです。「自分がこうしたら、こうなる」と常に思いを巡らせることができない。言い換えれば、“先を見通す目”がないんですよね。

(略)

 正直、向上心みたいなものは、僕には欠けているのかもしれません。だけど、自分がやったことに対して「相手はどう思うかな?」ということは、意外と現実的に考えているほうなんです。漫画についてもそうでした。たとえば漫画に対する向上心──とりわけ“絵”に関する向上心は、かなり早い段階で捨てました。「これはもう、どうやってもうまくならないな」と、自分で早々に結論を出したんです。絵のうまい人は、この世にいくらでもいます。それこそ、“才能”と言っていいでしょう。最初に『ガロ』に原稿を持っていったとき、編集者に「ちょっと絵がねえ……」と言われた時点で、そこで勝負することはあきらめたんです。

 では、どうするか。考えた結果、僕はストーリーで勝負する方向に自ら舵を切りました。画力よりも発想力ということです。絵はうまくなくてもいいから、「他の人が思いつかないようなストーリーを考えてやろう!」と決心したんです。そこで必要となってくるのが、先ほど述べた「ちょっと先を見通す想像力」なんですよね。

 この漫画を読んだら、この人は次にどんな展開を予想するだろう。それを想像しながら、敢えてそこから外れるようなストーリーを考える。やがて、僕の漫画は「シュール」と言われて、ある程度の評価を得るようになりました。絵のヘタさと物語のシュールさを組み合わせることによって、独自性を出すことに成功したんです。

 遠い未来のことなんて、いくら考えてもわかりません。だけど、ちょっと先のことだったら、自分で想像がつくじゃないですか。現状に甘んじることなく、ほんの少し先を見とおす力。孔子さんの言う「不断の努力」というのは、じつはそういう小さな想像力の積み重ねを意味しているのかもしれませんよ。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し

【編集部訳】多いことも少ないことも、同じくよろしくない。何事にもちょうど良い「按配」というものがあるのだ。

 

 最初に絵を描き始めた頃、僕は画面いっぱいに細かく絵を描いて、自分が一生懸命努力した爪痕を残そうとしていました。だけど、それをあとから眺めてみると、ただ頑張って描いただけで、全然良くないんですよね。びっしり描いてあれば良い絵というわけではないんです。絵を描き込んでしまうと、逆に見づらくなることがあるんですよ。「この人、えらい細かく描いたな」とは思われるかもしれないけど、別にうまいとは思われない。

 それよりも、きちんとレイアウトを考えたうえで、画面の要所要所にポツンと絵を描いたほうが、よっぽどうまく見えたりする。僕の場合は、完全にそのやり方ですね。そのほうが描くのも楽だし……見栄えもいい。

 その原理で描くので、僕の漫画はスカスカです。だけど、それが当時のヘタウマ・ブームに乗って、意外と評価されるようになった。つまり何が言いたいかというと、やっぱりそれも按配というか、「何事もやり過ぎはよくないですよ」ということです。

蛭子の気遣い

 謝って済むならば、僕はいくらでも謝ることができるんです。

 

 先日、息子の嫁にひどく怒られました。孫の名前を覚えていないという話を、僕があちこちでしていたものですから、「お義父さん、それはちょっとあり得ないですよね」って咎められまして。たしかに、それは怒りますよね。なので、僕も嫁に素直に謝った。ただし、謝ったからといって、すぐに孫の名前を覚えられるわけではないんですよ。いまだにちょっと、うろ覚えなところがありますから。再婚した今の女房の娘が産んだ子どもは、すごく可愛いなと思って名前もちゃんと覚えているんですけど、息子夫婦はちょっと離れた場所に住んでいるから...…こういうことを言うから、怒られるんだろうな。

 この『論語』で思い出したのだけど、自分では失敗と思っていないことを、他人から失敗のように扱われる場合はちょっと困ってしまいますよね。

 たとえば先日、『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の特別番組に出演したときのこと。(略)スタジオには一緒に旅をしてきた歴代マドンナたちが、大勢ゲストで来てくれていたんです。その収録が終わる間際、司会の人が「蛭子さん、もう一度旅をするなら、誰と一緒に行きたいですか?」って聞いてきたんですよ。それはさすがに僕でも気を遣いますよね。何しろ、歴代マドンナたちが、ズラリその場にいるわけですから。そこで正直に、「○○さんと行きたいです」とは、やっぱり言えないじゃないですか。そこで僕は考えました。なるべくそこにいるみんなが頭にこない返答は何だろうって。その結果、僕の口から出た言葉が、「なるべく若い人がいいです」だったんですよ。そしたら、歴代マドンナたちはもちろん、スタジオにいた全員から批難ごうごうで。もう完全に人でなしの扱いをされてしまいました。

 でも、そこにいたマドンナたちは、みんなそれなりの年齢の人ばかりだったから、僕としてはきっと笑って済ませてくれるって判断したんですよね。全員に気を配った結果の答えがそれだったんです。そのあたりの気遣いは、誰にも気づいてもらえませんでした。もちろん、そこで僕はすぐに謝罪するわけです。

私のイラストレーション史 南伸坊

私のイラストレーション史

私のイラストレーション史

 

話の特集和田誠

話の特集』 で和田誠さんのした[『暮しの手帖』の]パロディ、『殺しの手帳』には、めちゃくちゃ反応した。

(略)

私にとっては『話の特集』の創刊自体が、まるで夢のようだった。(略)何から何までが「新しい雑誌」だったのだ。

 まず雑誌にアートディレクターがいた。そして、それは和田誠さんなのだ。表紙が横尾さん、イラストレーターは宇野亜喜良さんをはじめほとんど広告畑のデザイナー。そして篠山紀信さん、立木義浩さん、高梨豊さんと後にビッグネームとなるカメラマンが勢揃いだ。こんな、こんな雑誌を待っていたんだ!と私は思った。
 「『NIPPON』が創刊された時の驚きは今でも忘れることができない。」
 と書いたのは、亀倉雄策である。(略)当時の水準をめちゃくちゃに超えたデザインは、いま見ても、とても昔の雑誌のレイアウトに見えない。

 私は、亀倉さんの驚きを、自分の『話の特集』体験に重ねている。同等のショックと喜びだったと思う。
 『話の特集』は、業界誌や専門誌の才能と水準を、いきなり一般雑誌に一挙に持ち込んだ。このことで、その後の日本の雑誌文化が、大きく舵をきったことを、私はもっと世間は知っているべきだと思う。

(略)

 『話の特集』創刊の四年後、一九七〇年、『少年マガジン』の表紙をなんと、横尾さんが担当するようになっていた。少年漫画誌の編集部員の、おそらく全員が『話の特集』の影響下にあった、と私は睨んでいる。

(略)
 その活動があまりにも多彩で華麗であるために、忘れられてしまいそうな、出版文化の歴史を動かした人としての和田誠像を、正しく伝えてほしい。

美学校

 「美学校」は「現代思潮社」という出版社が、いままでの美術大学とはまったく違う新しい美術学校をということではじまったのだった。

 この「現代思潮社」というのがそもそも「良俗や進歩派に逆行する『悪い本』を出す」というのが“モットー”という会社で、吉本隆明埴谷雄高澁澤龍彦種村季弘といった著者の本を出版していた。

(略)

 術中に貼られていた、[赤瀬川原平デザインの奇怪なロゴタイプの]この異様なポスターを私は何度も凝視していたので、いまでもその人名をいくつか思い返すことができる。(花文字)赤瀬川原平、(漫画)井上洋介、(硬筆画)山川惣治、(図案)木村恒久、(油彩)中村宏、(素描)中西夏之
 そして講師陣には澁澤龍彦瀧口修造種村季弘埴谷雄高土方巽唐十郎とある。(略)この講師の面子だけでも、めちゃくちゃインパクトである。
 それに無試験だ。私は生徒になると即決した。

木村恒久先生

 当時のデザイナーの中で、もっとも深いところまでデザインについて理詰めに考えていたのは木村さんだろう。

(略)

 木村さんの授業は、そういう木村さんの日々考える中での一人言のようだった。

(略)

 「水彩画、描いてる時に筆洗で筆、洗いますね、横に紙が置いてあって、余分な筆の先の絵具を、そこになすりつけてから筆洗で洗う。水彩画一枚描き終わった時に、こっちの紙に意識してない絵が描けてる」
 「電話で話してる時に、メモの用意に持ってるエンペツでくるくるくるっと、無意識にイタズラ書きしてますね。あれ、何ですか?」と質問形だ。

「最近ボクがやってるパターンはアレです」

「デザイナーとしての義理があるから、くるくるに厚みつけて影つけてますけどね」

と、いきなり実作例の秘密が開示される、おもしろい。(略)

[赤瀬川先生の話によると、中平卓馬が頼んだ写真集のデザインを]取りに行くと、いきなり「情報論」とかムズカシイ話題をふっかけてきて、ちっとも上がったはずのデザインが出てこない。[ようやく座ブトンの下から出してきたのが]

(略)

 丸と四角だけのなんとも言えないデザインなのだ。
 「なにしろその情報論ヴワァーの後だからねえ、そのまんまもらって帰ってきたらしいよ、注文つけるスキがない(笑)」

(略)

「カラーテレビ、あの素人に触らせないようにしてあるツマミ、あれ勝手に動かすとおもしろいネェ。色メチャクチャになりますよ」と授業の時にも言っていた。(略)

「情報、変わりますよ」

というのは、木村さんの口まねをする時のコツなんだけど、あきらかに「情報」変わる。

唐十郎の講義

 その日は、はじめて見る、怪しい風体の男がさっきから教室のはしにある流しで、蛇口から直接水を飲んでいた。いや、飲んでいただけならなんともないが、ずっと飲み続けているのだ。
 その異様さに、だんだん気のついた頃、「客の入り」を確認してた唐先生が入ってきた。
 「なんだ!?キミは?」
 って、まるで志村けんのコントみたいだが、ほんとにコントがはじまったのだ。
 水飲む男は、大久保鷹だった。状況劇場の看板俳優である。先生は男に次々に難題をふっかけた。三階の窓から、ちょっと跳び降りてみろ、なぜ跳び降りないんだ!?と怒鳴ったと思うと、今度は「こんにちは、さようなら」と、何度もアイサツを繰り返させたりする。ほうほうの体で男が怪しいままに退場すると、世阿弥の『風姿花伝』の講義がはじまった。

土方巽の講義

 その人は、怪僧ラスプーチンのような、東北のお婆さんのような人で、いつの間にか教壇に座っていた。長髪を後ろに束ねて、猫背で小さく座っているが、異様に鋭い顔をしている。生徒がしんとして固唾を呑んでいると、
 「ビューウ、ビューウ」
 とその人が突然発声をした。その人が土方巽さんであることは、もちろん知っているのだったが、怖いではないか、とても正気の人には見えない。
 「私は東北の秋田の生まれですがね、秋田では外が吹雪いて寒い晩に、客になって他家を訪ねる時は、戸が開いたらもう風になって入っていくのだよ。ビューウ、ビューウと言うて、お晩ですも、外は吹雪だのも、何も言うこどはない、ビューウ、ビューウとそれだけ言うて入っていぐのです」
 と言って先生は講義に入ったのである。二時間の講義は、おそろしく具体的で抽象語のまったくない話なのだが、まるで雲をつかむような難解さである。が、ただわからないというのとも違う、東北弁でボソボソと語られる話がまるで知らない世界をいきなりのぞかされたような気がして、雲はつかめないが、そこらじゅうにたなびいているのが見えている。かと思うと、

 「この世で一番、こわいものは何だ!風邪ですよ風邪!ゴホンゴホンの風邪!?」とか

(略)
 東北の赤ん坊は自分の体の中におりていって、自分の体で遊ぶのだ。一日中ぐるぐる巻きにされてツグラの中にいれられて、動けないから自分の体をおもちゃにして遊んでいるしかないのだと言う。これが「舞踏論」だった。何がわかったのかはわからないけれども、何かがわかったようなおもしろい講義だった。 

土方巽全集 1 『病める舞姫』『美貌の青空』 - 本と奇妙な煙

 

墨池亭黒坊と「伸坊」

 たとえば、このピカソキュビスムみたいな美人像は、『滑稽新聞』一七三号の表紙の模写だ。墨池亭黒坊っていう浮世絵師の描いたものだが、これが描かれたのは明治四一年。

 実はピカソのあの「キュビスム顔」は、まだ発明されていない。

(略)

 黒坊の絵は端正でありながら、必ず洒落たアイデアとグラフィックイメージの驚きがあって、赤瀬川教室での一番人気だった。赤瀬川さんは、その頃「赤坊」ってサインを自作のイラストレーションに入れるようになっていた。我々もマネしてそれぞれ名前の下に坊の字をつけて名乗り出した。私のペンネームが「伸坊」になったのはこの時からだ(本名は伸宏)。

和田誠の功績

 私が言いたかったのは、和田さん(たち)がイラストレーションとかイラストレーターという言葉の使用にこめた意味は、当時ももちろんあった「挿絵」とか「挿絵画家」とは違う表現をしはじめたジャンルに、新たな名称を与えて、その違いをあきらかにしたかったということじゃないかということでした。

 そうして、それは具体的には、非専門家に開かれた『話の特集』という雑誌で、イラストレーターやイラストレーションを使うことで、一目瞭然に、その意味内容を伝えていたのだと、思います。

(略)

レイアウト、デザイン、アートディレクション、という考え方、テキストとヴィジュアルのウェイトの置かれ方、イラストレーターの扱われ方。つまり、「編集者の考え方」がガラッと変わった。変わったなり、それはすぐさま、「当り前」のことになっていく。
 そして、「雑誌はヴィジュアルなもの」になった。その、そもそもの源流のところにいたのが和田誠と『話の特集』だったのだ。このことはクッキリ記憶されるべきだ。『新青年』のことをさんざん話題にしたくらいにはすくなくとも。
 イラストレーションというコトバが輝いていた時代、それが日本の「イラストレーション史」だ。輝かせた和田誠さんの名前は、もちろんいまもよく知られてはいる。が、もっと!年表にクッキリ記されなくちゃと私は思っている。

(略)

 そして、実はつげ義春さんもまた同じような波及力を持った人だったのではないか?と最近、気がついたんです。

(略)

[『ねじ式』で]おだやかなマンガらしい画風だった表現から、突然ガラリと変わってしまったんです。一九六八年のことです。

(略)

難解で、それなのになんだかぐいぐい魅きつける魅力がある。それは、つげさんが『ねじ式』用に新しい絵を発明したからでした。

(略)

 特に一九七八年~一九七九年にかけての、「稚拙なタッチの絵」の、圧倒的な効果というのは、おそるべきものだったと思います。
 この、ナイーブアートのような絵をマンガに持ち込む、という革命的手法は、実はつげ義春が元祖だった。
 ということに、私は『ねじ式』を話題にした時、いまさらのように気がついたんでした。実は「へたうま」イラストレーションの元祖は、つげ義春さんだったのではないのか!?
 実際には「へたうま」イラストレーションということを言い出したのは湯村輝彦さんであって。それはまちがいのないところです。(略)
そして余談ですが、湯村さんのイラストレーションに対して「へたうま」とはじめに指摘したのは、つまりその魅力を明言したのは、またしても和田誠さんだったわけです。

 青林堂

 私が青林堂の社員になって長井さんに教わったこと。それは「優れた作品に対する感謝」の気持ちだ。「楽しませてくれた人を尊敬する」気持ちである。

 長井さんは、その気持がとってもピュアで、それがハッキリ顔に表れる人だったと思う。

(略)

[どこの出版社でも門前払いの白土が、これで駄目なら廃業と、最後に持ち込んだのが]

長井さんのやっていた三洋社だった。

 作品を見るなり長井さんは、
 「あ、『こがらし剣士』の白土三平さんですね」
 と言ったそうだ。いままで回った出版社とは、まるで対応が違う。(略)
この対応ができたのは、長井さんが持っていた「尊敬力」だったと私は思う。

(略)

 『ガロ』の編集を主導したのは、実際には白土三平さんであったろう。若い読者や、マンガ家たらんとする人々に、三平さん自身がコラムで呼びかけていたし、水木しげるさんや滝田ゆうさんに声をかけて『ガロ』の主軸を作ったのも三平さんだ。

(略)

 『ガロ』はまず、作者同士のつながりなのである。が、それも長井さんの「尊敬力」があったればこそなのだ。と私は思っている。

 資金に余裕のあった時も、原稿料がタダの赤貧の時も、さまざまな才能が集まってきたのは『ガロ』に載ったそれまでの「作品」の力と長井さんの「尊敬力」のなせる業である。
 たとえば「入選作」を選ぶ時に、それは現れる。つまり「出版界の常識」にも「資本の論理(金儲け主義)」にも、とらわれない判断ができるのは、この稀有なキャラクターに限られるのだから。
 たとえば、川崎ゆきおの入選作『うらぶれ夜風』である。私が入社した直後だったと思う。これが入選して「アッ」と驚いたのは私だけではなかったろう。
 「長井さん、スゴイねえ」
 と赤瀬川さんも言った。アレを入選させるって。普通できない。でも、おもしろいんだよね、読んだらおもしろい。
 佐々木マキさんはすでに、川崎ゆきおのファンになっていた。コマの細部やセリフのおもしろいのを話題にしていた。
 「あれを入選させる勇気はどこからくるんですか?」

 と私は直に聞いてみた。長井さんの答えは、

 「おもしろいから」

(略)

斬新すぎる画風は、どうして生まれてしまうのか?それは描き手のモチベーションが少年マンガや少女マンガの外側からやってくるからである。川崎ゆきおのモチーフは、おそらく江戸川乱歩の戦前の挿絵だろう。ジャンル違いからの引用だ。

 花輪和一伊藤彦造のキャラをモロに引用した。しかし、文脈がまるで違っている。異常に妖艶な美男がナンセンスなセリフを吐く。
 蛭子能収は、横尾忠則ゴダールのファンである。モロに横尾さんの描法をとり入れているのだが、本人の個性がムキ出しで、それと気づけない。
 オリジナルに似ないのは、ヘタだから、でもあるけれども、それより自分に描きたいものがあり、描きたいようにしか描けないからでもある。
 結果、それぞれの絵は、引用したオリジナルとは似て非なる「魅力」を持つことになる。その部分を「尊敬」し「支持」してくれる人があるからだ。
 常識ある編集者は、これを理解できない。なんでいま、わざわざ戦前の古くさい絵を持ってくる?なんでいま、猟奇なの?なんでエログロナンセンスなの?とわからないでいるうちに、世の中のほうが変わってしまうのだ。

(略)
 長井さんに、時代の先が見えていた。と考えるより、モノを作る人というのは「自分の好きに作るのだ」ということをわかっていたということだろう。

(略)

 私の仕事の仕方にも、長井さんはなんでもOKだったわけじゃないハズだ。(略)

 でも、編集に関して任されてからは一度も口をはさまれたことはない。

「ミナミはミナミなりにやりたいことをやってるのだ」

と、わかってくれていたに違いない。

まわりが見えなくなっている私に

「ミナミ、あんまり凝らんでいいぞ」

というのと、連日遅刻していた私に一年一度の忘年会の時にだけ

「チコクはな……なるべくな」

と一言いわれたきりだ。

編集者のころ

同僚の石川文子さんが、マキさんの奥さんだったのだ。マキさんは文子さんを迎えに来たのだったか。ニコニコしながら部屋に入ってきた。私はつられてニコニコした。ニコニコしているマキさんと同じ場所でニコニコしていると、友達にしてもらえたようでうれしかった。

(略)

 佐々木マキさんは「少年のような」という形容がまだなかった頃にそのような人だったけれども、それでももう、その頃は二〇歳をすぎていたはずだ。

(略)

 林静一さんとは、毎月イラストの原稿を受けとりに渋谷の喫茶店でおちあって、ムズかしい話や、ホモやヘンタイの話を一時間も二時間もねばってしていた。冗談やスケベ話とムズかしい芸術論を林さんは区別なしに話した。

(略)

 つげさんの前では私はたいがい迷惑な客だった。やりたくないっていう信号をさんざん送っているのに無視をして、タダの仕事をしつこくさせようとする図々しい編集者だったからだ。
 忠男さんにも、それは同じことが言えるので。本当に迷惑だったろうと思うが、甘えるだけ甘えていたと思う。千葉のお宅まで行って、ワク線を引いたり、ベタを塗ったり、時にはスミ入れをしたりしたのは私にはとても楽しい思い出だったが。
 決定的に嫌われたな、と思ったのは花輪和一さんだった。花輪さんの部屋で見つけた、ハ割方出来上がったまま、打ちすてられた作品を、完成してほしいと無理にせがんで、無理矢理、描かざるを得ない具合に追い込んでしまった。描きたくないから、そうなっていたのにちがいないのを、とにかくファン心理で完成してほしいと無理強いしたのだ。以後、まともに口を利いてもらえなくなった。 

佐々木マキ、ガロ、村上春樹 - 本と奇妙な煙

モンガイカンの美術館 南伸坊 - 本と奇妙な煙

赤瀬川原平: 現代赤瀬川考 - 本と奇妙な煙