スタン・ゲッツ その3 ボサノヴァ

前回の続き。

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 

ローゼン伯爵の孫モニカ

モニカは貴族の出だった。エリック・フォン・ローゼン伯爵の孫にあたり(略)

母親のメアリはフォン・ローゼンの領地で育った。数千エーカーの農地と森林といくつかの湖がロッケルシュタッドを囲んでいた。ロッケルシュタッドは一六四〇年頃に建てられた、数十の部屋を持つ城だ。城は中世の外見を残していた。

(略)

[父親は]活動的な共産主義者であり、祖父のエリックはナチ政権下のドイツに旅行をしたとき、スワスティカ(逆)を掲げていたことで名を馳せた。それは一九二〇年二月のある雪の日に、伯爵がロッケルシュタッドまで飛行機をチャーターしたことに端を発している。その飛行機を操縦していたのは、第一次世界大戦の空の勇士として数多くの勲章を受けた若者、今では民間のパイロットをしているヘルマン・ゲーリングだった。この未来のナチ指導者の伝記を書いたデイヴィッド・アーヴィングは、そのときの情景をこのように描写している。激しく揺れる、胃の締め付けられるような飛行の後、ゲーリングは城の隣にある凍った湖の上にこともなく着陸し、一晩そこに泊まっていかないかという伯爵の誘いを受けた。(略)

[その夜ゲーリングはエリック伯爵の妻の妹、フォン・フォックス伯爵夫人カーリンと出会う]

 二人はほどなく恋愛関係を結び、それは一九二〇年代初期の、堅苦しいスウェーデンの上流社会にスキャンダルを巻き起こした。

(略)

[22年]二人はヒトラーにすっかり魅せられ、熱烈なナチ党員になった。(略)

[カーリンは離婚を勝ち取り、ゲーリングと結婚]

(略)

 麻薬中毒の妻に比べれば、スタンにとってモニカはまるで信じられない贈り物だった。(略)

彼女は知的で、理想主義的で、洗練されており、若いエネルギーに満ちていた。おまけに禁酒主義者だ。彼の頭はぼうっとしてしまった。

破産、モーズ・アリソン

 スタンはそれまで一風変わったやり方で財務処理をおこなっていた。彼はすべての請求書を父親のところに送りつけ、父親はそれらを鞄の中にそのまま放り込んでおいた。債権者がうるさく請求してくると、スタンはアルに電話をし、父親はその請求書を鞄の中から見つけ出し、小切手を書いて先方に送った。しかしながらスタンがほとんど完全に無視していたきわめて重要な債権者が存在した。国税局だ。スタンは自分のグループのミュージシャンたちから源泉徴収を集めておきながら、それを国税局に一度も納めてこなかったのだ。また自らの税金も滞納していた。モニカはナイーブに、それはそんなに大した金額ではないだろうと考えていた。容易に解決のつく問題だろうと。そして滞納ぶんを解消しようと、軽い気持ちで国税局に乗り込んでいった。しかし請求総額が二万一千ドルだと判明したとき、彼女は青ざめた。一九九六年の物価に換算すると、約七万ドルに相当する。

 彼女はドナ・リードに助けを求め、ドナは彼女とスタンのために超一流の法律事務所を見つけてきてくれた。弁護士たちは国税局の滞納金を調査し、スタンのその他の借金を調べ上げ、それ以外にも二万一千ドルの債務が存在することを発見した。ニューヨークで破産申告を専門とする弁護士を探した方がいいと、彼らは言った。(略)

スタンは一九五七年三月七日に破産申告をおこなった。

(略)

借金はすべて帳消しにされたが、税金の滞納分だけは残った。そして国税局はその二万一千ドルを、無慈悲にスタンから取り立てていった。彼らは給与を差し押さえ、支払日にあわせてクラブに定期的に顔を出し、経営者からじかにその収入の大半を取り立てていった。

 スタンは支出を抑えるために、才能はあるが無名のミュージシャンたちを自分のカルテットのメンバーに雇った。そのような次第で、彼はユニークな才能を持つ歌手兼ピアニスト、モーズ・アリソンを見つけてきた。アリソンはミシシッピ・デルタのフォーク・ブルーズとビバップ・ジャズを合体させることで、風変わりだが説得力のあるスタイルを造りあげていた。彼は一九五七年の冬にスタンのバンドに加わり(略)

彼の作曲した二十部構成の『バック・カントリー組曲』の中から何曲かを演奏した。その夏の終わりまで彼はスタンと一緒に演奏したが、三月に録音した彼自身の『バック・カントリー組曲』のレコードがヒットすると、その成功に乗るためにバンドを離れた。

スカンジナヴィアの夏

[モニカとの間に]パメラが生まれたあと、ゲッツ一家はロッケルシュタッドに四、五週間滞在した。真夜中になっても日の沈まない夏の夜を、スタンはのんびりあてもなく過ごした。何時間も続けて泳いだり、日光浴をしたりした。松林を抜けて散策し、スティーヴやデイヴィッドと共に釣りをし、小さな娘たちと遊んだ。五年にわたる混乱の後に彼は、ようやく静寂を見いだすことができた。そして自分たちはスカンジナヴィアに居を構えるべきだという、徐々に固まりつつあるモニカの確信に同意するようにもなってきた。そのような彼の気持ちは、演奏に出かけるたびに強いものになった。彼はヨーロッパの聴衆が好きだった。人々は敬愛に近い念を持って、彼を温かくもてなしてくれた。そして毎週のようにやってきて、ギャラを掠め取っていく国税局の役人たちと顔を合わせなくてよくなったことに、ほっとしていた。合衆国の税金は収めなくてはならなかったが、もう少し穏やかなやり方でそうできた。彼は収入を郵便でニューヨークに送った。そしてまた角を曲がるごとに麻薬の密売人と顔を合わせなくていいことで、安らかな気持ちになれた。一九五八年のスカンジナヴィアは麻薬とはまったく無縁の場所だった。

(略)

[モニカの母は]コペンハーゲンの郊外にある町に、ゲッツ一家のために美しいヴィラを見つけてやった。もともとそれは王室の住居の別館だったのだが、静かな公園の中にあり、白鳥の群れの泳ぐ池が目の前にあった。

(略)

[スタンが]白鳥たちに向かってサキソフォンでロマンティックな曲を吹くと、彼らはいつもすぐに大人しくなった。

〈クラブ・モンマルトル〉、オスカー・ペティフォード

スタンは他のヨーロッパの都市で演奏することで、収入の不足を埋めた。

(略)

[59年パリのギグ、レスター・ヤングは]

スタンが舞台から降りてくると、大きな笑みを浮かべて彼を迎えた。そして言った。「あんたは俺のシンガーだよ」と。スタンはそのあともずっと、自分はこれまでそれに勝る賛辞をもらったことはないと言い続けていた。それがプレスに会った最後になった。長年にわたる深酒が彼を疲弊させていた。その二ヶ月後にニューヨークで亡くなったとき、まだ四十九歳だった。スタンがレスターに会って間もなくモニカは、コペンハーゲンの一流ホテルでアナス・デュルップと会って昼食を共にする約束をとった。スタンが彼の傘下で演奏する可能性について話し合うためだ。デュルップは建築家であり、裕福な塗料製造業者の息子であり、まだ三十歳になったばかりだったが、十年間にわたってリサーチャーとして、レコード・プロデューサーとして、マネージャーとして、ジャズ・クラブのオーナーとしてジャズ界で意欲的に活動していた。彼は数年間ルイジアナに滞在し、研究者であるウィリアム・ラッセルに協力して、ニューオーリンズやデルタ地帯の、老齢を迎えたジャズの草分けともいうべきミュージシャンたちの録音をおこなった。ジョージ・ルイス、ジム・ロビンソン、スヌークス・イーグリンといった人々だ。また彼はニューオーリンズの演奏会場〈プリザヴェーション・ホール〉の設立者、三人のうちの一人でもあった。そのホールは今日においてもなお、正統的なディキシーランド音楽の本拠地として盛んに活動を続けている。デュルップの音楽的な情熱はトラディショナル・ジャズのみに留まらなかった。彼は二つのレコード・レーベルを所有しており、ディキシーランド・ジャズを〈ストーリーヴィル〉レーベルで、モダン・ジャズを〈ソネット〉レーベルでプロデュースしていた。一九五四年にアメリカからデンマークに戻ると彼は、〈クラブ・モンマルトル〉という名の非営利のジャズ協会を立ち上げる広告を出したが、それに対して一万人もの反応が返ってきたことに驚き、また喜びを覚えた。協会はコンサートやその他のイヴェントを主催し、会誌を発行した。

 コペンハーゲンのあちこちで、四年にわたって成功裏に活動をおこなったあと、彼は思いきって〈モンマルトル〉の名を用いて、市の中心近くに購入した小さく魅力的なスペースで、営利目的のビジネスを始めることにした。新しい場所に近づいていくと、ビルディングの壁から、巨大なカウント・ベイシーの写真がじっとこちらを見下ろしているのが見える。そのアイコンの他には、デュルップは店の存在を示すものを何ひとつ出さなかった。

(略)

 ほどなくスタンは〈モンマルトル〉で月曜日から木曜日までのギグをこなし、ヨーロッパの他の都市で公演するために週末をあけておくようになった。生まれて初めて、彼は定職というものを持った。そして生活のために忙しく走り回る必要がなくなった。スタンは記者に語った。この心地よい日常生活を自分は満喫しているのだと。

 

ぼくは競争することに疲れた……ここでは家族とともにいる時間をゆっくりとれる。アメリカにいるときほど高い収入は得られないが、こちらの生活費は安いからね。またあくせくする必要もない。ヨーロッパでのリラックスした生活を楽しんでいるよ。

(略)

 ぼくの意見ではこちらの人々はより啓かれているし、人種的問題みたいなものは存在しない。(略)ぼくは人種差別が大嫌いなんだ。

 

(略)

スタンの〈モンマルトル〉における喫緊の課題は、優秀なバックアップ・ミュージシャンを見つけることだった。だから超一流のアメリカ人ベーシスト、オスカー・ペティフォードが最近ヨーロッパに逃れてきて、落ち着き先を探していることを知って、スタンは驚喜した。

(略)

ペティフォードがアメリカを離れたいちばんの理由は、自分の子供たちのためにより寛容な人種的環境を求めたからだった。(略)彼は一九二二年にオクラホマのインディアン居留地に生まれた。母親は純粋なチョクトウ族であり、父親はチェロキーと黒人の混血だった。そのために彼は合衆国にあっては二重の差別を受けた。そしてまた白人の女性と結婚したことで、先住民の偏狭な人々の怒りをも買うことになった。

 ペティフォードは一九四〇年代の初め、その少し前に亡くなったジャズ・ベースの草分けともいうべきジミー・ブラントンのやりかけていた仕事を引き継ぎ、それを完成させた。つまり、以前はただのタイムキープの役しか果たしていなかったベースを、即興演奏のできる旋律楽器に変えることだ。彼はビバップ革命における先駆者となり、〈ミントンズ〉でセロニアス・モンクと演奏し、一九四四年にディジー・ガレスピーと共同で、五十二丁目通りにおける最初のビバップ・バンドのリーダーとなった。

(略)

 スタンにとってペティフォードはまさに天の恵みだった。彼はすべてを具えていた。驚異的なテクニック、完璧なイントネーション、非の打ち所のないタイム感覚、そして幅広いメロディックな想像力。

新しいラテン音楽ボサノヴァ」 

一九六一年度の〈ダウンビート〉人気投票では、彼はジョン・コルトレーンに二対一以上の大差をつけられ、首位を奪われた。

(略)

 十二月のある夜、ワシントンDCのクラブで演奏していると、その近所に住んでいたギタリストのチャーリー・バードと、奥さんのジニーが彼のところにやってきた。「新しいラテン音楽を見つけたんだが、君にも聴いてもらいたいんだ」と彼は言った。

(略)

 バードは一九四〇年代終わり頃にジャズ・ミュージシャンとしての活動を始めたのだが、一九五〇年から五六年にかけては、クラシック音楽をほとんど専門に演奏し、一九五四年には巨匠アンドレス・セゴビアに学んだ。

(略)

 一九六一年の三月から六月にかけて、バードとジニーと彼のトリオは、十二週間にわたる国務省主宰の南米ツアーに参加した。音楽的好奇心の旺盛なバードは、ベネズエラ、ブラジル、チリ、パラグアイ、ペルー、アルゼンチンで、それぞれ固有の音楽のテープやレコードや楽譜を収集した。そしてとりわけ、最近になってブラジルで人気が高まっている「ボサノヴァ」という、ジャズとサンバの混合音楽に心を惹かれた。

 (略)

 合衆国に戻ると、彼はいくつかのボサノヴァ曲をアレンジし、実際にステージで演奏したが、そのブラジル音楽をレコード化するようにレコード会社を――彼の所属レーベルのリヴァーサイドをも含めて――説得することができなかった。バードはテープに録音したボサノヴァ音楽を、スタンに一刻も早く聴かせたくてたまらなかった。というのはその温かくメロディックな音楽は、彼の叙情的なスタイルに実にぴったりだと確信できたし、また自分よりはスタンの方がレコード会社に対してずっと大きな影響力を持っていると知っていたからだ。

 昼食のあとでバードは自分のギターで何曲かのブラジル音楽を演奏し、それから二人のボサノヴァ音楽の立役者の音楽を録音したテープを聴かせた。ギタリストのジョアン・ジルベルトは自分の曲と、アントニオ・カルロス・ジョビンの曲を歌っていた。スタンは即座にその音楽に参ってしまった。アレンジメントの単純さにもかかわらず、澄み切った曲調と、リラックスはしているが、揺るぎなく強固なリズムに魅せられた。それは彼の血液に危ういまでに容易く入ってきた。この音楽にかぶせて即興演奏をするのは楽しいかもしれない。そのリズムの脈動は、まるで優しい波のように、抗しがたく彼を前に推し進めた。

 スタンはクリード・テイラーボサノヴァの素晴らしさを説いた。そしてバードと一緒にレコードを作らせてくれと頼んだ。そういう企画には商業的な価値はあまりないとテイラーは思ったが、それでも了承した。しかし最初から彼らは音楽的困難さに直面させられた。ニューヨークのミュージシャンたちとのセッションは不毛に終わった。彼らはブラジルのリズムをマスターできなかったからだ。バードは、彼がブラジルから連れてきた人々を使って、あらためて録音しなおすことにした。バードは彼らを徹底的に仕込み、二月の初めまでには録音できる態勢に持って行った。

 一九六二年二月十三日、スタンとクリードシャトル便に乗って、ニューヨークからワシントンに飛び、音響の素晴らしさの故にバードが選択した場所に向かった。市の北西にある〈全霊ユニタリアン教会 ピアース・ホール〉だ。スタンは楽譜をうまく摑めなかったが、あっという間に曲を覚え、二時間のうちにバードと、二人のベーシストと、二人のドラマーと共に七曲の録音を終えた。それはカジュアルなセッションだった。

(略)

 ジョビンが説明しているように、ボサノヴァとは彼の母国語で「新しい感覚」のことだ。

 

 ポルトガル語ではボサ(bossa)というのは突起物のことだ。つまり、こぶ・でっぱりのことだ。そして人の頭脳というのはそういう突起物を持っているものなんだ。(略)だからもし誰かが何かにボサを感じたなら、それは実際に頭脳にどすんと来ているということなんだ――つまり何かに対する才能があるということだ。「彼はギターのボサを持っている」と言えば、それは「彼にはギターの才能がある」ということになる。それは何かに対する「天性の感覚」を意味している。だからボサノヴァとはつまり、新しい感覚のことなんだ。

 

 ジョビンとジョアン・ジルベルトと彼らの仲間たちは、激しいストリート・ダンス音楽であるサンバを取り上げ、それを二つの異なった方向に変形させることによって、彼らの「新しい感覚」を創出した。彼らは洗練されたジャズのハーモニーをそこに加え、シンプルで対称的なリズムを、精妙で非対称的なものに、うっとりする流れを持つものに、再編成した。そうした彼らの作業は、デューク・エリントンがフォーク・ブルーズを取り上げ、複雑にしてリリカルな作品を作り上げていった作業に比べられよう。彼らが影響を受けたジャズは主に「クール・スクール」だった。一九五〇年代のブラジルのポピュラー音楽の大半は、彼らの耳にはうるさく、いかにも見え透いたものとして響いた。そして一九五〇年代初期のマイルズ・デイヴィスの「クールの誕生」九重奏団の和声や、スタンのカルテットや、ジェリー・マリガンのピアノレス・グループなどの和声が、彼らが既存のブラジル音楽のスタイルに対抗する、精妙で刺激的な新しい様式を創出する作業の手助けをした。

(略)

 ジョビンはそのリズムの革新をジルベルトの功績としている。

 

 我々にそのビートをもたらしてくれたのはジョアン・ジルベルトだ。ボサノヴァには数多くの人々が関わっているが、ジョアン・ジルベルトは天与の明かりとして、天空の巨大な星として登場した。彼が中心人物となった。彼はギターをこっちの方向に引っ張り、歌唱をあっちの方向に引っ張った。そしてそこに三つ目の深いものが産み出された……ボサノヴァというのはサンバから抽出されたものだと僕は思っている。サンバの洗練された派生物であると。

 

 ジルベルトがリズム面での革新者であるとすれば、メロディー・メイカーとしての素晴らしい才能を持ち合わせたジョビンは、その形式を他の誰よりも見事に定型化し、大衆化した。

(略)

ジルベルトとジョビンはカウンター・カルチャーの英雄となり、伝統主義者たちがその新しい音楽に腹を立てるのを見て、若者たちは快哉を叫んだ。ジョビンは回想する。

 

 当然のことながら、純粋主義者たちは僕らに対して怒り狂った。彼らにとってサンバとは一種の信仰だったんだ。彼らは言った。「これはサンバじゃない。これはジャズだ」って。連中は頭から受け付けなかったね。

(略)

 ゲッツ= バードのアルバムに「ジャズ・サンバ」というタイトルをつけたとき、クリード・テイラーはブラジルにおける、そのような名称に関する論議に注意を払ったわけではなかった。彼はこう語る。

 

 営業の連中は発売を少しばかり遅らせようとした。アルバムのタイトルを変更させたかったからだ。私は断った。実にぴったりそのままのタイトルだったからね。ジャズ・サンバ、それはジャズとサンバの結婚なんだ。アメリカのオーディエンスは、ボサノヴァが何かなんて知るまい。しかしこのような字義通りの説明なら理解するはずだ。

イパネマの娘」、アストラッド・ジルベルト 

アストラッド・ジルベルトはあっという間にポップ・アイコンとなり、プロ歌手として活動を始めた(略)

ジョビンが目にした、浜辺を歩いて行く一人の十代の娘が発するセックスとロマンスの若々しいオーラを、アストラッドは数百万の人々のために具現化していたのだ。

 

 僕のパートナーであるヴィニシウス・ヂ・モライスが、その曲のためにポルトガル語の歌詞を書いてくれたんだが、僕と彼はリオのバーでよく一緒に飲んでいた。フランス風のバーで、歩道に椅子を出していた。そしてそこはビーチから一ブロックしか離れていなかった。

 彼女は緑の瞳で、とても美しかった。僕らは彼女に声をかけたりしなかった。彼女は学校に行くか、ビーチに行くかするところだったんだろうし、僕らはただじっと彼女を眺めていた。彼女は金髪で、肌が浅黒く、その組み合わせが見事に美しかった。神が創り出した美の権化だった……

 その娘は何かの――愛とか安逸とかの――象徴だったんだ。まるで夢のようだった。

 

 現実のそのイパネマ出身の娘はエロイーザ・エネイダ・ピニェイロといって、ジョビンとモラエスはやがて彼女と友だちになり、結婚式にも列席した。彼女は今ではテレビのトークショーの司会者であり、女優であり、四人の子供の母となっている。

 アストラッドは大衆にとってだけではなく、スタンにとってもまた、セックスとロマンスを体現する存在になった。そしてサラリーやレコードの印税のことでしょっちゅう口論をしていたにもかかわらず、一九六四年のツアーのあいだに二人は関係を持つようになった。そのようにして、モニカと結婚して以来もっとも悪名高い不倫関係が始まった。二人の関係については何も知らなかったとモニカは主張している。

鬱、妻への暴力、自殺未遂

 鬱はスタンの人生における絶え間のない、苦痛に満ちた宿痾だった。成功していようが挫折していようが、それとは無関係に。精神の苦痛はきわめてしばしば彼を襲い、それを紛らわせるための、彼の知る唯一の手段は飲酒だった。グラミー賞受賞の少しあとのある夜、家族と何人かのゲストと共に夕食をとっているとき、彼は思わず跳び上がりたくなるほどの激しい苦痛に襲われた。スコッチを立て続けに五、六杯あおり、それで苦痛は和らいだが、かわりに激しい怒りが解き放たれた。

 更に酒が入るにつれて、怒りはますます強まり、彼はモニカに摑みかかり、罵りの言葉を叫びながら、彼女の髪を持って引きずり回した。それから彼女を放し、いろんなものを投げつけ始めた。電気スタンドを投げ、窓を割った。モニカはみんなを連れて二階に逃れ、そこで全員が固まって震えていた。

 スタンは半時間ばかりものを壊しまくり、さんざん毒づいたあとで、ようやく腰を下ろした。彼には自分がどこまでも情けなく感じられた。妻や子供たちを傷つけることがやめられず、家の中を破壊することがやめられないのだ。しばし彼はすべての感情を抜き取られたような状態になったが、そのうちにまた苦痛が戻ってきた。みぞおちから吐き気がじわじわと広がり、やがてはすべての細胞が苦悶に脈打つのだ。これほどひどい苦しみはないと彼は思った。終わりなくそれが続くのだ。出口はどこにも見当たらない。こんなことにはもう耐えられない。

 彼はガス・レンジのところに行って、ガス栓をひねり、ひざまずいて頭をオーヴンの中に突っ込んだ。息を吸い込むと、その臭いが鼻腔を満たした。そしてゆっくりと、深い平穏な眠りの中へと引き込まれていった。階下が静まりかえると、モニカは十六歳になっていたスティーヴに言った。「下に行ってお父さんの様子を見てきてちょうだい。お願い。あなたはいちばん年上なんだから」

 スティーヴが台所のドアを開けると、ガスの臭いがした。そして父親が意識を失い、ぐったりとそこに横たわっているのが見えた。少しのあいだ彼の気持ちは二つの方向に引き裂かれた。一方で彼はとても腹を立てており、こんなやつはそのまま死なせてしまえばいいと思った。でももう一方の気持ちが彼をオーヴンに向けて走らせた。そしてオーヴンから父親を引きずり出して、床に仰向けに寝かせた。ガス栓を閉め、父親の脈を測り、窓をいくつか開け、それから二階に駆け戻った。モニカは一家の主治医であるジョン・フォスター医師を呼んだ。医師はスタンを診察して、もう心配はないと宣告し、彼をベッドまで運ぶのを手伝った。

(略)

 スタンの創造力がどんどん開花していく一方で、彼の鬱、彼の飲酒、彼の怒りはますます激しさを増していった。一九六〇年代後半は、彼の家庭にとって「戦争の年月」であったとスティーヴは表現する。

 

(略)その時期、父は毎日一クォートは飲んでいた。そして手のつけられない状態になっていた。家庭内には暴力がはびこり、彼は正気を失っていた。僕らはよくあの時代を乗り切ったものだよ。

 

(略)

[タイム誌は]一九六五年の彼の収入は二十五万ドルに及ぶだろうと書いた。「ゲッツ/ジルベルト」の印税があり、『ミッキー・ワン』の報酬があり、全席完売の合衆国内における演奏契約があり、大成功に終わった日本と南米とヨーロッパのツアーがあった。

 一九六五年十二月十八日のスタンの家において、家庭内の平穏も板ガラスのドアも、どちらも見事に砕け散った。彼は酔っ払って、自動車のキーを巡ってモニカと争いになり、右足でドアを突き破ってしまったのだ。何本かの腱が損なわれ、動脈が切れて、血があたり一面に飛び散った。近隣にある病院の外科医たちが全力で傷の治療にあたり、片足とくるぶしにギプスをあてた。しかし彼は右足の親指以外の四指の動きを、永久に失うことになった。〈ダウンビート〉は慎重に言葉を選び、スタンは「家の中をうろついているあいだに」怪我をしたと記事に書いた。

 病院から戻ってくると、スタンはまた乱暴な真似を始めた。松葉杖で鏡と家具を叩き壊し、モニカと五人の子供たちは難を避けてモーテルに逃げた。

アンタビューズ

 スタンは自らの常軌を逸した破壊的乱行に驚愕し(略)アルコール中毒の治療を専門にする精神科医、ルース・フォックス医師のもとを訪れた。

(略)

 フォックス医師はアンタビューズの信奉者だった。(略)

 スタンが毎日アンタビューズを服用することが必須であると、フォックス医師は言った。そしてもしスタンがそれを怠るようなことがあれば、モニカは錠剤を砕いて、オレンジジュースに入れなくてはならないと、彼女は二人に言った。

(略)

 チック・コリアはファルカーク病院でのどたばた騒ぎにうんざりして、スタンの元を離れ、ゲイリー・バートンのカルテットに加わった。

(略)

 こっそりアンタビューズを飲ませるのは、ひとつの方便ではあるものの、危険性をも含んでいる。(略)何故ならそれは体内でアルコールと一緒になると、強力な毒素を発生させかねず、服用者に危険をもたらし、死に至らしめることもあるからだ。

(略)

モニカはベヴァリーに白いアンタビューズの錠剤を砕いて粉にし、いろんな食品に混ぜ込む方法を教えた。そして言った。「お父さんに言ってはだめよ。そんなことをしたら、みんな殺されちゃうから」。

(略)

 ロニー・スコットのクラブに出演しているあいだ、モニカはパメラとスタンを二人で残して、週末を過ごすためにロンドンからスウェーデンに飛んだ。パメラはスタンが怒りっぽく、いらいらしていることに気づいて、不安を感じた。というのは、そういうときには酒を飲んで荒れることが多かったからだ。彼女はキッチン・キャビネットに隠してあったアンタビューズを取り出して細かく砕き、自分でつくったパンケーキの上に振りかけ、その上をバターと砂糖で覆った。スタンはそれを食べ、そのあとでアルコールをいくらか口にして、少しばかり気分が悪くなった。彼はモニカに電話をかけて言った。「素晴らしいことが起こった。本当にアルコールに対するアレルギーが出てきたかもしれない」

 モニカは大喜びした。というのは彼女はそれを聞いて、適量のアンタビューズを注意深く、こっそり与えることで、今ではスタンの飲酒をコントロールできるようになったと考えたから。それまで彼女は、どちらかといえば場当たり的にその薬を彼に与えていた。これからは規則的に与えるようにしようと彼女は決心した。最初のうち、アンタビューズの投与に関していえば、ベヴァリーとパメラだけが彼女の協力者だった。最終的に彼女はスティーヴとデイヴィッドをも引き込んで、二人を協力的な同志とした。全員が秘密を守ることを誓った。その結果はモニカを喜ばせた。彼女は一九七〇年代初期を黄金の時代として振り返る。彼女は後日こう語っている。「彼は初めて、お酒を飲まなくても暮らしていけることを示したのです。その期間は次第により長いものになっていきました」

 一九七〇年代に躁鬱症の治療の標準的な薬として用いられたリチウムが、ロンドンの医師によってスタンのために処方され、それもあってその時期、彼が酒を飲まないでいる期間はより長くなった。鬱がスタンに酒を飲ませる主要な原因であり、アルコールが彼の躁的な怒りを解き放つのだが、リチウムは、彼のそのような破壊的感情の状態の深刻さを、双方共に軽減する働きをした。その薬はスタンの鬱を全面的に抑えることはできなかったが、一九七〇年代の半ばにエラヴィルという新しい薬が登場した。

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