フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔

ノイマンとウィグナー

 ある日曜日の午後、一一歳のノイマンと一緒に散歩をしていた一二歳のウィグナーは、ノイマンから「群論」を教えてもらったという。ウィグナーは、後にノーベル物理学賞を受賞することから推測できるように、幼少期から数学も抜群に優秀だったが、群論はまったく未知の概念だった。その当時、ノイマンの数学はすでに大学院レベルに達していた。この頃、ウィグナーが「おもしろい定理があるんだけど、証明できるかな?」とノイマンに尋ねたことがあった。それはウィグナーには証明できない「数論」の難解な定理だった。彼は、いくらノイマンでも、容易に証明できるはずがないと思って尋ねたのである。

 するとノイマンは、「この定理を知っている? 知らないか……。あの定理はどうかな?」と、さまざまな数論の基本的な定理を挙げて、ウィグナーがすでに知っている定理をリストアップした。そして、それらの定理だけを補助定理として用いて、遠回りしながらではあるが、結果的にその難解な定理を証明してみせたのである。さらにノイマンは、ウィグナーの知らなかった別の適切な補助定理を用いれば、もっと簡潔に証明できることも説明してみせた。

 自分が難解だと思っていた証明をノイマンがいとも簡単に導いたのを目のあたりにしたばかりか、自分の知識からだけでも証明できたことを思い知らされたウィグナーは、大変なショックを受けた。この日以来、彼はノイマンに「劣等感」を抱くようになったと述べている。

ハイゼンベルクシュレーディンガー

 数学科ではノイマンが「天才少年」と騒がれたが、物理学科で「そばかすの神童」と呼ばれていたのが、ノイマンよりも二歳年上の私講師ヴェルナー・ハイゼンベルクである。

(略)

[1925年]

 一一月、ハイゼンベルクは「行列力学」を発表し、「原子物理学を隅から隅まであらゆる角度から説明できる統一的数学的枠組み」を完成したと主張した。

 一九二六年の秋から冬にかけて、二四歳のハイゼンベルクセミナーに出席した六四歳のヒルベルトは、彼の新しい数学をまったく理解できなかった。助手のロタール・ノルトハイムが、ハイゼンベルクの論文を見ながら詳しく説明したが、それでも不十分だった。

 そのセミナーにいた二二歳のノイマンが、ハイゼンベルクの「行列」をヒルベルト空間の「ベクトル」に置き換えて簡潔な公理系で説明してみせたところ、ヒルベルトはようやく理解できて、大いに喜んだという。この方法は、ヒルベルトノイマン・ノルトハイムの共著論文として発表された。

 このセミナーにいた大学院生で、後にノーベル物理学賞を受賞するマリア・ゲッパート= メイヤーは、ノイマンハイゼンベルクの講義に強い刺激を受けて、非常に興奮した様子だったと証言している。ノイマンは、おそらく生まれて初めて、過去に類を見ない新しい理論を創造する「同世代の天才」と出会ったのである。

 とはいえ、「行列力学」に対する物理学界の当初の反応は、どちらかというと冷やかだった。もともと量子論に批判的なベルリン大学アルベルト・アインシュタインは、ハイゼンベルクの論文を読んで、「ゲッチンゲンの研究者は、こんな理論を本気で信じているのか」と書き残している。

 ハイゼンベルクの若さを皮肉って「子どもの物理学」と揶揄するような物理学者もいた。とくに彼の「行列力学」を「直観的イメージを欠く奇怪な模型に過ぎない」と徹底的に批判したのが、チューリッヒ大学のエルヴィン・シュレーディンガーだった。

 当時三九歳のシュレーディンガーは、一九二六年一月から六月にかけて立て続けに六編の論文を発表し、原子物理学は彼の発見した波動方程式で十分説明できると「波動力学」を主張した。波動方程式は、物理学者が使い慣れている偏微分方程式なので、その意味では難解な「行列力学」よりも物理学界での受けがよかった。

 この状況にハイゼンベルクは憤慨し、「シュレーディンガーの理論は、考えれば考えるはど胸が悪くなる。彼の『直観的』という言葉は、ほとんどナンセンスで、デタラメに過ぎないじゃないか!」とパウリに手紙を書いている。

 一九二六年七月二一日、ミュンヘン大学シュレーディンガーが、完成したばかりの「波動力学」について講演した。質疑応答の際、ハイゼンベルクが立ち上がって、「光電効果黒体輻射は、波動力学の連続体模型で説明できるのか、その可能性はあるのでしょうか?」と質問した。

 シュレーディンガーが答えようとすると、ミュンヘン大学のウィルヘルム・ヴィーン教授が割って入り、「この若造!そんな問題は、いずれシュレーディンガー教授が解決することだ!」と大声で怒鳴りつけたという。

 ヴィーン教授は、まさに「黒体輻射」の研究で一九一一年にノーベル物理学賞を受賞したミュンヘン大学物理学科の大御所である。彼は、ハイゼンベルクの質問が痛いところを突いていたため、それ以上の議論にならないように、招待講師のシュレーディンガーを擁護したのかもしれない。

 いずれにしても、「量子力学」が誕生した時点で、その基礎を表現する数学が二種類に分かれたわけである。この論争は、世界中の数学者と物理学者を巻き込んで、その後数年続いた。

 原子の量子効果に関する実験結果が出ると、シュレーディンガー波動方程式と合致することがわかり、その翌日には、ハイゼンベルクの行列方程式にも合致することがわかる。ある種の問題は「行列力学」で解きやすく、別の問題は「波動力学」を用いる方が解きやすい。

 「神は、月・水・金曜日には『波動』、火・木・土曜日には『行列』を用いて原子を動かすらしい(日曜日は休息する)」というジョークが囁かれるほどだった。

 ノイマンは、ハイゼンベルクセミナーに出席した段階から、波動方程式も行列方程式も、無限次元のヒルベルト空間におけるベクトルの幾何学で表現できることに気付いていた。ただし、それを立証するためには、次元が連続的に変化する公理系を構成する必要があった。

 そこで彼は、有理数の1/2次元や無理数のπ次元も含めた実数次元が連続的に変化するヒルベルト空間の公理系を生み出し、一九二七年五月、その成果を「量子力学の数学的基魔」という論文にまとめた。

 この論文は、数学的に見ると、射影幾何学における部分空間の束の性質を無限次元の場合に拡張したことになる。ここでノイマンが独創的に開発した幾何学は、現代では「連続幾何学」という数学の一分野に発展している。

 ノイマンが導いた方程式群は、「ノイマン環」と呼ばれる。これによって彼は、量子力学的状態をヒルベルト空間上に表現することに成功し、結果的に、「行列力学」と「波動力学」の同等性を示したのである。

 ノイマンは、続けて「量子力学的集合の熱力学」と「量子力学の確率構造」を発表して量子論三部作を完成。一転して、より純粋数学的な「対称関数作用素の一般固有値理論」を書き上げ、ベルリン大学に教授資格論文として提出した。

 一九二七年九月、二三歳のノイマンは、ベルリン大学の私講師となった。一八一〇年設立の由緒あるベルリン大学において、史上最年少の私講師である。

 ベルリン大学数学科では、博士学位の口頭試問の際に、その大学院生の専門分野の「未解決問題」を見せて試すという慣習があった。もし院生が考え始めたら「不可」で、考える間もなく「この問題は解けません」と答えたら「優」だというわけである。ところが、口頭試問を見ていたノイマンは、専門外の未解決問題を解いてしまったという。

ゲーデル不完全性定理

 最終日には、数学基礎論に関する討論会が、ウィーン大学の数学者ハンス・ハーンの司会で開かれた。

 セッション の終了間近、ゲーデルが立ち上がり、「いかなる形式体系においても、その内容すべてが表現可能であるとは限りません」と述べた。それに対して、ノイマンが、「直観主義的にも許容できる推論規則を形式化できるかどうかは、まだ結論付けられていないでしょう」と発言した。

 ゲーデルが「不完全性定理」を公表したのは、この瞬間である。彼は、「古典数学の無矛盾性を前提とすると、その形式体系において、内容的には真であるにもかかわらず、証明不可能な命題の例を与えることができます」と言った。

 つまり、ヒルベルトが会議初日の記念講演で述べた「決定不可能な問題そのものが存在しない」という主張が、古典数学の公理系では成立しない ことを宣言したわけである。

 この歴史的発言に対して、すでにゲーデルから内容を聞かされていたカルナップも、ゲーデルの研究を知っていたはずの彼の指導教官ハーンも、他の出席者も、何の反応も示していない。後に出版されたセッションの議事録には、ゲーデルの重要発言に対するコメントが何もないため、特別にゲーデルの証明の概要が付け加えられたほどである。

 この場で即座にゲーデルの発言の重要性に気付いたのは、ノイマンだけだった。彼は、セッション終了後にゲーデルに「非常に興味深い発見について詳しく知りたい」と言って、連絡を取り合う約束をした。

 ウィーンに戻ったゲーデルは、第一不完全性定理の決定不可能命題を多項方程式に書き換え、さらに衝撃的な「数学の無矛盾性は、その体系内で証明不可能である」ことを示す第二不完全性定理の概要を加えた。一〇月二三日、ゲーデルは、その概要をウィーン科学アカデミーに提出した。

 ゲーデルの完成論文「プリンキピア・マテマティカおよび関連体系における形式的に決定不可能な命題について」を学会誌『数理物理学月報』が正式に受理したのは、一一月一七日である。

 その三日後、一一月二〇日付でノイマンゲーデルに送った手紙には、彼自身が独自に「注目に値する」第二不完全性定理の主旨を発見したという内容が記されている。その手紙を送付した直後に、ノイマンは、ゲーデルの完成論文のコピーを受け取った。

 ノイマンが一一月二九日付でゲーデルに送った手紙は、すでにゲーデルが第二不完全性定理を証明していることが明白であり、「もちろん私は、この結果を発表するつもりはありません」と記されている。が、その行間からは、ノイマンの大きな「失望」を読み取ることができる。

 当時「ヒルベルト学派の旗手」と呼ばれていたノイマンは、「ヒルベルト・プログラム」に基づいて「数論の完全性」を導くためのセミナーをベルリン大学で担当していたが、そのセミナーも打ち切られることになった。

(略)

 ノイマンのように生まれてから一度も人に先を越されたことがない天才にとって、自分が推進しようとしていた「ヒルベルト・プログラム」が「達成不可能」だと論理的に証明されたこと、しかもその事実に自分が先に気付かなかったことは、二重のショックだったに違いない。

『社会的無責任感』

 ロスアラモスの科学者は、自分たちが「大量殺戮兵器」の製造に加担していることを認識し、内心に強い罪悪感を抱いている者も少なくなかった。しかし、ノイマンと散歩をしながら会話を交わしたリチャード・ファインマンは、楽になったという。

フォン・ノイマンは、我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない、という興味深い考え方を教えてくれた。このフォン・ノイマンの忠告のおかげで、僕は強固な『社会的無責任感』を持つようになった。それ以来、僕はとても幸福な男になった」

ストレンジラブ博士

[朝鮮戦争が勃発した時期のインタビューで]ノイマンは、ラッセルとまったく同じ論法で、「一刻も早く世界政府を樹立すべきですが、ソ連共産主義が世界の半分を支配している限り、それは不可能です。したがって、予防戦争することは理にかなっているのです」と冷静に答えている。

 さらにノイマンは、「ソ連を攻撃すべきか否かは、もはや問題ではありません。問題は、いつ攻撃するか、ということです」と主張し、「明日爆撃すると言うなら、なぜ今日ではないのかと私は言いたい!今日の五時に攻撃すると言うなら、なぜ一時にしないのかと私は言いたい!」と述べたという。

 このインタビュー記事によって、ノイマンは「マッド・サイエンティスト」の代表とみなされるようになった。

[ノイマンをモデルにして「ストレンジラブ博士」が誕生]