ハービー・ハンコック自伝

ジャズは瞬間に生きる音楽 

 一九六〇年代半ば、スウェーデンストックホルム。私はマイルス・デイヴィスクインテットのピアニストとしてコンサート会場のステージにいた。(略)

天才児トニー・ウィリアムスは炎のように叩きまくり、ロン・カーターの指はベースのネックを目まぐるしく上下し、ウェイン・ショーターのサックスは高らかに咆哮している。五人が一体となり、音楽は淀みなく流れている。(略)〈ソー・ホワット〉を演奏しており(略)

ソロを構築していたマイルスが、これから楽想を自由に羽ばたかせようとする直前に一息ついた。そこで私はコードを弾いたが、それは不適切な音だった。(略)

私はとっさに「あっ、しまった」と思った。みんなで築いてきた素晴らしい音の楼閣を私が壊してしまったのだ。

 マイルスはほんの一瞬、間をおき、奇跡的にも私の弾いたコードが正しかったと思わせる音を吹いた。その瞬間、驚きのあまり私の口はあんぐりと開いてしまった。いったいどんな魔力が働いたのだろう?そしてマイルスは自らを解き放って奔放なソロを展開し、この曲に新しい生命を植え付けた。観客は熱狂していた。

(略)

 その夜ステージで何が起こったのかを完全に理解するには数年かかった。私はそのコードを弾いたとたん、間違った音だと判断した。だがマイルスは判断しなかった――彼はただ演奏された音を聴き、とっさにそれを挑戦だと受け取った。“どうやったらそのコードをおれたちがやっている音楽に溶け込ませることができるか”と考えたのだ。

(略)

ジャズは瞬間に生きる音楽なのだ。自分を信じて臨機応変に対応するのがジャズだ。それができなければ、音楽においても人生においても、道を切り拓くことはできないし発展することはできない。

強迫的な探求心

 ごく若いころから、私は自分がやっていることに完全に没頭するという才能――というよりも衝動があった。私はメカニカルなものに魅了されていた。何時間もかけて置時計や腕時計を分解し、内部を覗いていた。私には装置がどのように動いているのかを知りたいという抑えがたい欲求があった。(略)理解するまでひたすら調べなければ気が済まなかった。(略)両親からピアノを与えられると、私の強迫的な探求心の対象はピアノの弾き方を学ぶことに移った。

(略)

兄と私は同じ先生、ミセス・ジョーダンにレッスンを受けた。(略)私たちが学んでいたのはクラシック音楽だった。当時は黒人といえども、学ぶのはもっぱらクラシック・スタイルのピアノだった――ブルースやR&Bを教えるレッスンはなかった。

初めてのジャズ 

 初めてジャズに出会ったのはWGES局のDJアル・ベンソンがやっているラジオ・ショウを通じてだった。シカゴの黒人向けラジオのゴッドファーザーとして知られるベンソンは一日中、番組でレコードをかけていた。ほとんどはブルースやR&Bだったが、ときおりジャズを挟み込んでいた。初めて興味を惹かれたジャズ・パフォーマンスは、ギタリストのジョニー・スミスがスタン・ゲッツのテナー・サックスをフィーチャーして演奏した〈ヴァーモントの月〉だった。美しいバラードだった。とはいえ、とつぜんジャズに開眼したわけではない。一九五二年のそのころ、私は近所の子供たちと同じように、もっぱらR&Bを聴いていた。

 私たちは街角に立ち、オリオールズ、ミッドナイターズ、ファイヴ・スリルズ、レイヴンズなど、好きなグループの歌い方を真似て歌っていた。少しあとにはフォー・フレッシュメンを聴くようになった。

(略)

三〇年代に人気があったバーバーショップ・カルテットよりはるかに洗練されたハーモニーを駆使していた。彼らはメジャー・セヴンスや、ときにはナインス・コードまで使い、とてもジャズ風なハーモニーで歌った。私はその歌唱に魅了され、そんなふうに歌いたいと思った。もうひとつのコーラス・グループ、ハイ・ローズも好きだった。(略)

 このタイプの歌が大好きだった私はハイドパーク校でヴォーカル・グループを作った。

(略)

[同級生のドン・ゴールドバーグ]のプレイを聴いたことが、私の人生を変えた。(略)

ドンのトリオ(略)演奏が始まると、私はドンのピアノに聴き入った。彼のパフォーマンスは私を打ちのめした。彼はインプロヴァイズしていたのだ!私たちの年の子供がインプロヴィゼーションをやれるとは思いもしなかった。もっと年上でなければできないと思い込んでいた。

(略)

[自分は]楽譜を読むことにかなり長けていた。だがドンは(略)瞬間的に自分で音楽を創り出していた。(略)

「どうやってあんなふうに弾けるようになったの?」と私は訊いた。「君のやったことを全部は理解できないけど、とても良かったよ、ぼくもあんな弾き方を覚えたいんだ――ジャズの弾き方をね」

 ドンは笑って答えた。「ぼくように弾きたいのなら、真っ先にやらなきゃいけないのはジョージ・シアリングのレコードをくことだね」。

(略)

走って家に帰り、玄関を開けて叫んだ。「ママ、ジョージ・シアリングのレコードを買いたいんだ!」(略)

「ハービー、もうもってるじゃないの」(略)

あんたは『これは欲しかったやつじゃない』って怒ってたけど、あれがジョージ・シアリングのレコードよ。戸棚を探してごらん」(略)確かにあった。(略)私はそれらを一度聴いたことがなかった。ジャズは年上の人たちのための音楽であり、自分には関係ないものだと思い込んでいた。

(略)

〈四月の思い出〉のレコードに針を落とすと、シアリングの演奏が聴こえてきた。ドンと同じサウンドだった!私はこれだと思った。ドンにできるのなら私にだってできるはずだ。私の練習はその日の午後からスタートした。

(略)

好きなフレーズを見つけ、それを何度も聴いて音の流れを解明しようとしたのだ。右手によるシングル・ノートのインプロヴィゼーションだけを識別することまでやった。

(略)

 いったん正しい音を把握すると、今度はレコードに合わせてそれを演奏しようとした。だが最初のうちは同じように音を響かせることができなかった。そこで私はひとつのフレーズができるようになると次のフレーズへというぐあいに、練習して習得するフレーズをどんどん長くしていき、最終的にレコードと同じように演奏することができるようになった。

 私は好きなフレーズを見つける作業を続けた。そしてそれらを採譜し、譜面に起こした。そのときは考えもしなかったが、いまから思うと、あのころ私は耳の訓練をしていたことになる。フレーズを学びながら同時に相対音感を養っていたのだ。(略)

エロール・ガーナーオスカー・ピーターソンなど、他のピアニストのものまで広げていった。学べば学ぶほどもっと学びたくなった。

 このように練習したおかげで、私はパターンを認識できるようになった。

 バードに誘われニューヨークへ

[ライヴのあとドナルド・バードに相談]

「いつもアップ・テンポの曲には苦労するんだ。何かそれを克服するいいアイデアはないかな?」

「ずいぶんにバリー・ハリスがこんなことを教えてくれた(略)『速い曲ができないのは自分が速く演奏するのを聴いたことがないからだ』ってな」。

(略)

ある特定の曲を数コーラス練習する。(略)さらにその構造に沿ったソロを数コーラスに書く。それが終わったら、今度は譜面に書いたものを演奏する。その練習を何度も繰り返し、だんだんテンポを速くしていく。

(略)

「ハービー、バンドの連中ともしたんだが、おれたちはおまえのプレイが気に入ったよ。バンドに入ってもらいたいと思ってるんだ(略)

だけど、そうなればおまえはニューヨークに来なきゃならない。どうする?」

(略)

「ぜひ行きたい(略)だけど、まず母に話してもらいたいんだ」私はすでに二十歳になっていたが、家のなかですべてを決定するのはいぜんとして母親だった。(略)

[心配する母に]

二十八歳のドナルドは独特の明快な口調で言った。「心配ありません!ぼくがハービーの面倒を見て、元気にやれるよう気をつけます」

話は決まった。(略)

[こうしてシカゴからマンハッタンへ] 

 ニューヨークに着いて最初の数週間で厳しい現実を思い知った。(略)[成功しているドナルド]のクインテットのメンバーならかなりの金を稼げるだろうと思っていた。しかし(略)ライヴは思ったほど多くなかったし、受け取るギャラも期待していた額より少なかった。

(略)

[色々あってドナルドとルームシェアすることになったが]

寝室がひとつしかなかった。居間にソファ兼用のベッドがあり、そこが私の寝る場所だった。おまけにジャガーは[ガールフレンドのもので]ドナルドの車ではなかった

 〈ウォーターメロン・マン〉

「ハービー、そろそろ自分のレコードを作る頃合いだな」とドナルドは言った。「いや」と私は彼に言った。「まだ無理だよ」「もう大丈夫だ」と彼は言い張った。「おれがどんなふうにやればいいか教えてやろう」

(略)

若手アーティストの場合(略)ニワトリが先か、卵が先かという問題だった。自分がレコードを作って売れるということを証明しなければレコードを作ってもらえないのだ。

 だがドナルドには戦略があった。(略)「アルフレッド・ライオン(略)のところに行き『私は徴兵された』と言うんだ(略)そして兵役に就く前にレコードを作りたいと彼に言え」(略)「それから、おまえはレコードの半分を自分のために作り、あとの半分をブルーノートのために作らなきゃならない」(略)

半分は自分のオリジナル作品でもいいが、残りの半分は(略)みんなが知っている曲をやらなくちゃならない(略)それによってレコードが売れるんだよ。これはビジネスなんだ、ハービー」

 二、三日かけて、ドナルドの忠告について[熟考し](略)

“なぜオリジナル曲だとレコードが売れないのだろう?”と自問した。(略)

私はアフリカ系アメリカ人としての体験に根ざすものを書きたかった(略)私は黒人だが、北部の都会で育った――綿畑や鎖につながれて働く囚人については何も知らなかった。(略)自分の曲は自分自身の人生に忠実なものにしたかった。そこで“シカゴ出身の黒人としての私自身の経験を物語る曲を書いてみたらどうだろう”と考えた。そのとき頭に浮かんだのが、子供のころによく見かけたスイカ売り(watemelon man)の姿だった。(略)

私は荷馬車が通るときのガタンゴトン、ガタンゴトンという音を聞いて育った。そのリズミックな音は何度となく耳にしたので、それを曲のパターンに取り入れるのは簡単だった。だけどメロディはどうしたらいいだろう?

 私はスイカ売りが叫ぶ歌のような呼び声を覚えていた。「ス~イ~カ~、赤くて、熟れた、ス~イ~カ~!」。彼は窓辺の人々に向かってそう叫び(略)三角形の小片を試食させるのだ。(略)その呼び声はあまりメロディックではなかった。私は路地に面したベランダに座っていた女性のことを思い浮かべた。スイカ売りがやって来ると、彼女たちは「お~い、スイカ屋さん!」と叫んだ。これだこれが私の曲のメロディだ。

(略)

 ドナルドの忠告どおり、まず私はフランク・ウルフとアルフレッド・ライオンにもうすぐ徴兵されると話した。そして、すでにオリジナルを三曲書き上げており、それに二曲のスタンダードと一曲のブルースのカヴァーを加えてレコーディングしたいと説明した。(略)

[所望されオリジナル曲を聴かせると]

ルフレッドが「あと三曲オリジナルを作れるかい、ハービー?」と訊いた。これには驚いた。プルーノートが全曲オリジナルで固めた新人若手アーティストのアルバムを作ることなど、ほとんどなかったからだ。

(略)

 しかしその時点で、話し合いはまだ終わっていなかった。ミーティングに出かける前、ドナルドは私にもうひとつの件について助言してくれた。「おまえが自分の出版社を立ち上げるのを手伝ってやろう。彼らはおまえの作った曲を自分たちの出版社に預けろと主張するだろう」と彼は言った。「でも、おまえはノーと言うんだ」。私はドナルドにそれは怖くてできないと言った。そんなことを言ったらブルーノートがレコード契約を止めると言い出すのではないかと恐れたのだ。「いや、心配無用だ」とドナルドは請け合った。「彼らはおまえのレコーディングをやるよ」

(略)

ルフレッドが「もちろん、きみの曲は私たちの出版社に預けるだろう?」と切り出したとき(略)

「もう自分の出版社に登録してしまったんで」[と嘘をついて言い訳](略)

「そういうことなら」とフランクに目をやりながらアルフレッドは言った。「きみのレコーディングはできないな」。そのとたん、体からすべての空気が抜け出たように感じた。落胆のあまり言葉も出なかった。(略)

[悄然と]ドアノブに手をかけたとき、とつぜんアルフレッドが言った。「ハービー、ちょっと待ってくれ」。二人で話し合ったあと、アルフレッドが言った。「オーケー、きみは自分の曲の出版権をもったままでいいよ」

(略)

翌日、自分の音楽出版社、ハンコック・ミュージックを設立した。(略)〈ウォーターメロン・マン〉がヒットし、私は多額の金を得た――もしかしたらブルーノートに払い込まれていたかもしれない金だ。ドナルド・バードのおかげで、私は再度、ジャズのキャリアのなかで大きな飛躍を遂げることができた。

ルディ・ヴァン・ゲルダ

ルディのスタジオは聖堂のような螺旋状の天井になっていた。音響が秀逸なだけでなく、内部のスペースも、ミュージシャンが個別に部屋に入ったり、高いバッフルでメンバー同士が遮断されたりすることなく、半円形に並んで演奏できるようデザインされていた。このユニークなデザインにより、ミュージシャンはお互いのプレイを聴くことができたし、全員がひとつの部屋で演奏しても、ルディはミックスによって各ミュージシャンの音をコントロールすることができた。

 ルディは自分の録音機材の扱いに関し、細心の注意を払っていた。彼はスタジオで何かに触るときはいつも白い手をはめた。ミュージシャンは機材に自分で触らないほうがいいことを知っていた。何かを動かしたいときは、たとえマイク・スタンドでも、彼に頼んで動かしてもらわなければならなかった。自分でそれをやったら、彼はセッションを中断させ、文句を言いながらコントロール・ルームから出てきた。ルディはそれほど大柄ではなかったが、怒ったときの彼は人を震え上がらせた。誰かが何かに触ったら、彼はその人間を殺しかねないような目でにらみつけた。

 私はその後もルディと一緒にたくさんのレコードを作った。彼と私は家族のような間柄になった。最初のレコーディング・セッションから何年も経ったあとのことだ。スタジオにいた私はヘッドフォンの端子を別のジャックに差し込まなければいけなくなった。「ルディ」と私は言った。「ヘッドフォンを動かさなきゃならなくなった。おれの側にあるジャックに差し込みたいんだ」。彼が「いいよ、動かしてくれ」と答えたとき、部屋にいた周りのミュージシャンは驚いた顔で私を見た。私は自分はすでに死んで天国にいるのかとさえ思った――あのルディがヘッドフォンを自分で動かしていいと私に言ったのだ!彼を見ると、小さな笑みを浮かべている。そのとき私はルディとの関係が、ある種の地点に到達したことを悟った。

 エリック・ドルフィー

深く影響を受けた(略)エリック・ドルフィはアヴァンギャルド・ジャズのリーダーだった。(略)

私は彼のサウンドを聴いて、その音楽に敬服していた(略)

私はエリックから一九六二年秋に行なう短いツアーへの参加をオファーされた。(略)

「演奏するための曲はあるの?(略)それとも素材なしにいきなり演奏するのかい?」

 エリックは笑って「ああ、曲はあるよ」と言った。「それにコード・チェンジだってある」

 その言葉は私を驚かせた。彼の音楽はそんなふうには聴こえなかったからだ。

(略)

 エリックは偉大なミュージシャンだった。思いやりのある穏やかな男で、いつも他のミュージシャンを励まし、新しいアイデアを進んで取り入れた。彼はジャズの伝統とアヴァンギャルドのあいだを綱渡りで歩き、他に類を見ない個性的な音楽を生み出した。

(略)

 一九六二年から六三年にかけての冬、エリック・ドルフィと過ごした数週間は、私の音楽的発展のなかで決定的に重要なステップになった。私は初めて、緩い構造の音楽にいかにして自分を適応させるかという課題に取り組んだ。エリックから学んだことは、のちのマイルス・デイヴィス・グループでの演奏に影響を及ぼしたし、さらにはエムワンディシ・バンドの結成と進化にもインスピレーションを与えた。エリックとの共演はジャズで何が可能かということについての視野を広めてくれた。

次回に続く。