ゲイリー・バートン自伝

ゲイリー・バートンに興味がない人にも勧められる点。

著者が好きだったり交流があったりしたジャズ・ミュージシャンについてのコラムが面白いのでジャズ・エッセイが好きな人にいいかも。

ゲイを自覚する1943年生まれの米国人がカミングアウトに至るまでどんな経緯を辿るかが興味深い。10代でゲイを自覚しているのに、説明もなく二回女性と結婚するので「???」となるのですが、最後の方で徴兵検査での恐ろしい体験が語られて納得。 

ゲイリー・バートン自伝

ゲイリー・バートン自伝

 

《コラム》ライオネル・ハンプトン

ヴィブラフォンってなんです?」とけげんな顔で訊かれるたび、僕はこう答えてきた。「ライオネル・ハンプトンが演奏している楽器ですよ」ハンプトンこそがヴィブラフォンの名を広く知らしめたミュージシャンである。(略)
一九〇八年生まれのハンプトンはドラムを叩きながらシカゴで育ち、十代になるとサックスのレッスンも受けている。(略)
一九三〇年にロサンゼルスで共演したルイ・アームストロングはこう語っている。「ハンプはときどきドラムの横でベルのような楽器を演奏するんだ。それがスウィング感に溢れているのさ」
(略)
 一九三六年から四〇年にかけてグッドマンと活動したことで、ハンプの名は全国に広まった。七〇年代のなかごろ、ハンプは僕との会話のなかで、グッドマン・バンドと活動したのはたった五年間なのに、何十年も共演したかのように語られるので困る、と愚痴をこぼしたことがある。バンドリーダーとしての努力が認められていないのでは、と考えたのだ
(略)
ヴィブラフォン、ドラム、果てはスモールピアノまで演奏するのが普通だったし、そのうえ歌もうたうなど、ショービジネスの要素をステージ活動に加え続けたのである。テーマ曲〈フライング・ホーム〉の演奏中、パラシュートをつけて劇場のバルコニーから地面に飛び降りるようメンバーの一人に賄賂を贈って説得するなど、ハンプはいつも奇抜なスタントをメンバーに押しつけていた(略)
 いつまで経ってもショーが終わらないので、ハンプをステージから引きずり下ろそうとしたプロデューサーの話は数多く伝わっている。(略)ジャズライターのゲイリー・ギディンスはこう記す。「ハンプがおとなしく引き下がることはなかった」
 ハンプはいつだってまわりの出来事に執着しなかった。そうした無関心こそ、マネージャーでもあった妻グレイディースとの関係を物語っているのではないかと思う。彼女はハンプの人生を事実上すべてマネージしていた――金の管理、ミュージシャンとの契約、そしてツアーのアレンジ。さらに、ハンプを含む誰に対しても暴君だった。金の大半を自分のために使っているのは有名な話で、高価な宝石を多数持ち、毛皮のコートも巨大なコレクションができるほど。その一方で、ハンプには週二十五ドルの小遣いしか与えなかったのだ!(略)
 ステージでは掛け値なしのスターだったハンプトンが、結婚生活では奴隷同然だった事実は奇異な感じがする。だが本人は心底妻に惚れていた。
(略)
 ハンプのプライベートで僕の目にもっとも奇異に映ったのは、終生続いた共和党への支持である。(略)
[ニクソン、ブッシュ]といった共和党の大物と親しい関係を続けたのである。一九七三年にテレビ放送されたウォーターゲート事件公聴会において、ニクソン政権[の秘密資金の出費内容]が延々と読み上げられるなか、「ライオネル・ハンプトン・オーケストラに一万五千ドル」という言葉が僕の耳に飛び込んだ。つまり何かのキャンペーンで演奏し、秘密資金からギャラが支払われたのだ(略)
 世界的名声と大衆の人気を何十年にもわたって享受したハンプだが、グレイディースが世を去った時点で事実上破産状態だったのは皮肉としか言いようがない。新しいマネージャーはハンプトンのキャリアと経済状況を立て直すことを自分の使命とし、殺人的スケジュールを彼に押しつけたが、ハンプにとっては好都合だった。
(略)
 自身のキャリアがジャズから離れるにつれ、ハンプはさらなる名声を勝ちとってゆく。フランスではジェリー・ルイスが映画界の巨人として認識されているが、それ同様ハンプも神のように崇められた。ニース市街の公園を散歩すれば、ハンプの実物大の銅像に出くわすだろう。

ゲイの自覚

子どものころから同性愛を自覚していたというゲイの男性は数多い。僕が性のことで最初に混乱を感じたのも高校生のころだった。思春期の誰もがそうなるように、僕も性の目覚めを認識したけれど、自分がなぜか他の少年と違っているとはっきり信じていた。ただ、それについてどうすればいいのか、そもそもできることが何かあるのかまではわからなかった。その方面で何が起きているのか見当もつかず、相談できる人間もいない。当時はまだ五〇年代、しかもそこはインディアナの片田舎だったけれど、ぼくはできる限りこの混乱と向かい合った。
(略)
 そして当時はまだ気づいていなかったけれど、インディアナを離れてジャズの世界に加わるという、一九五九年に僕が下した決断は、自身の性的混乱にどう向き合っていくかも決めることになった――ジャズ界で身を立てるなら異性愛者でなくてはならない。
 ジャズの世界に入ったばかりの僕も、『ダウンビート』誌でミュージシャンの記事を読んだり彼らのレコードを集めたりすることで、砂だらけの薄汚いジャズ界がひどく男権的な厳しい世界であることを薄々知っていた。ジャズにおける成功とは、まず何より仲間のプレイヤーとして受け入れられることであり、僕も十六歳にして、そうならなくては成功もおぼつかないと認識していた。
(略)
ガールフレンドは常にいた。それどころか、他人と違ってはいけないと僕は必死だった。他と“違っている”ことを許されず、人々に愛され尊敬されるちびっ子ミュージシャン、ゲイリー・バートンでいなくてはならなかったのだ。
 もちろん、自分の感情を完全に捨て去ったわけじゃない。同級生の一人に性を教わり、卒業するまで二人でときどき外泊して、いろんなことを試してみた。だけどそれも、二人ともストレートであることを確信させたに過ぎない。僕の知る限り彼は本物のストレートであり、僕も別の方向へ引き寄せられてはいたものの、ストレートでいようと心に決めた。

ヴィブラフォン

僕がヴィブラフォンを始めた一九四九年の時点でこの楽器の歴史はまだ――二十年ほどとごく浅く、演奏技法や音楽的可能性といったものもようやく見え始めたころだった。つまり、僕はこの楽器とともに成長するという稀な機会に恵まれたのである。そのことは、僕が技術面・音楽面でいくつかの革新(四本マレット奏法もその一つ)を成し遂げることを可能にした。(略)これらはすべて、僕に恵まれた幸運だと思う。僕がいなくてもいつか誰かがこうした可能性を開拓していたことだろう。
 僕はヴィブラフォンを学ぶ生徒に話しかけるとき、あらゆる楽器のなかでヴィブラフォンが一番習得しやすい理由から始める。これは冗談なんかじゃなく、吹奏楽器や弦楽器でちゃんとした音を出そうと思ったら数年はかかるし、正しい音程で演奏するにも同じくらいかかる。ところがヴィブラフォンなら、初めて音板を叩いた瞬間からプロと同じ音を出せるし、音程だって常に正確だ。またほとんどの楽器の場合、なんらかの運指を学ぶ必要がある。(略)
[ヴィブラフォンは]すべての音程は目の前にある。二本あるいは四本の棒を使って、あとは基本的なスキルさえあれば楽節を奏でられるわけだ。ほとんどの人は簡単な曲ならすぐ演奏できるようになるので、初心者にとって大いに励みになる。他の楽器からヴィブラフォンに転向したプレイヤーが争いのは、すぐにマスターできる特性があるからだ。

ジム・ホールの助言

[63年『サムシングス・カミング』で]僕はギタリストとして再びジム・ホール――未発表に終わった最初のアルバム収録にも参加してくれた――を起用(略)
[数ヶ月後]完成した各トラックを聞いてもらおうと自宅に招いた。いま考えると、彼が実際来てくれたのには驚くよりほかない。ジムは外出嫌いだし、何より彼のキャリアのなかで僕が重要な位置を占めているはずがないからだ。
 けれど今日に至るまで、僕はジムの好意に深く感謝している。彼は貴重なアドバイスをいくつかしてくれた。僕はそのころ、リスナーに馴染みの薄いヴィブラフォンという楽器を演奏することに疑問を感じていた。つまり、ときどき起きる内省の時期にいたのである。それまでに築き上げた成果にもかかわらず、ピアノとか他の楽器を選んだほうがよかったんじゃないか、などと葛藤していたわけだ。そこで、そうした不安をジムにぶつけてみた。「もしヴィブラフォンが、そう、アコーディオンと同じくらい人気がなければどうしますか?」するとジムは賢明にもこう答えた。楽器そのものは重要じゃなくて、肝心なのは自分がそれで何をするかだ、と。そしてアストル・ピアソラという、僕がそれまで名前すら聞いたことのないミュージシャンについて話しだした。ジムによると、彼は“アコーディオンらしき楽器のプレイヤー”にして“超人的ミュージシャン”らしい。最近、僕はこの会話のことをジムに話してみたが、向こうはまったく憶えていなかった――それどころか、そんな昔からピアソラを知っていたなんてと自分で驚いたくらいである。しかし、ジムの言葉は僕にとてつもない衝撃を与えた。ヴィブラフォンヘの疑いを捨ててひたすら音楽に集中しようと決心したのはこのときである。
(略)
[65年]のはじめごろ、ジム・ホールが僕を脇に呼んでこう言った。「スティーヴ・スワローは君にふさわしいベーシストだ」それは正しかった。『サウンド・オブ・ミュージック』をジャズに仕上げる試みが不調に終わったにもかかわらず、スティーヴと僕は続く二十年、大半の期間をともに活動した 

サムシングス・カミング(期間生産限定盤)

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スタン・ゲッツ

僕はジョージ・シアリングの自宅――ロサンゼルスの高級住宅地に建つ美しい装飾の大邸宅――を何度も訪れていたから、成功したジャズミュージシャンがどのような暮らしをしているか、わかっているつもりでいた。しかしゲッツの自宅は僕の予想を超え、昔で言う“城館”という言葉がふさわしい建物だった。数エーカーもの敷地の中央に建つその邸宅は町を一望のもとに見下ろし、曲がりくねる私道も四分の一マイルはあるに違いない。
(略)
 スタンは今日なら躁鬱病と診断されていただろう。“躁”の状態と、極端なパラノイア状態とのあいだを絶えず揺れ動いていたのだ。サックスのリードヘの執着でわかるように、彼は強迫観念にとらわれている。数週間に一度、楽屋に引きこもって何時間もかけてリードを選び、一つまた一つと試してから、テーブルに隙間がなくなるまでそれらを並べてゆく。いいリードはもう存在しない、どれも役立たずだ、などと文句を言いながら、一度に十箱ものリードを確かめるのだ。
 そうした“リードの夜”になると、スタンはショーのあいだもずっとそれらをテストする。ときには僕のヴィブラフォンの端に何十個ものリードを並べ、僕らのソロ演奏中に何度か試し吹きすることもあった。こちらは気が散るし、何より僕らへの敬意が感じられない。しかしいったんリードに熱中してしまうと、他のすべてを忘れてしまうのだ。
(略)
 またスタンは、不穏当なコメントを会話に昇華させる術を身につけていた。なかでも多かったのが、反ユダヤ主義や反同性愛に関するものである(彼はユダヤ人であることを恥じる一方、自分の男らしさを証明しようと必死なように思われた)。さらに相手が誰であっても、性についてあけすけな言葉をぶつけるのが常だった。ハンサムな男性を見かけるといやらしい声色で「食べたくなるほどいい男」などと言うのはまだしも、相手が女性だとなお一層ひどくなる。ヨーロッパで行なわれたコンサートの打ち上げで、スタン、妻モニカ、そして僕はある著名人夫妻と会話していた。するとスタンは、その女性の胸の谷間を意味ありげに見つめるではないか。そして数分後、低い声でうめくようにこう言った。「その乳首、舐めてもいいですか?」

 《コラム》スタン・ゲッツ

スタン・ゲッツは生き延びるために戦いながら成長した。(略)
性格面の欠陥がどうあれ、スタン・ゲッツは音楽の天才だった。(略)
ジャック・ティーガーデンは当時十五歳だったスタンの演奏を聴き、すぐさまバンドメンバーとして雇ったほどである。
(略)
ティーガーデンは牧歌的な人物だったという。夫妻ともに穏やかで思いやりがあり、スタンを息子のように扱ってくれたらしい。バンドの他のメンバーが別々に移動する一方、ティーガーデン夫妻はクライスラーステーションワゴンにスタンを乗せた。またジャックは大の釣り好きで、素晴らしい湖を見つけるたびに釣り道具を引っ張り出し、束の間の休息を楽しんでいたという。(略)
[十代でヘロイン中毒に]

十年間にわたる彼の薬物中毒は、シアトルのドラッグストアヘの強盗末遂により逮捕されたことで幕を下ろす。短期間の懲役を経て、彼は国外に去ることが一番の方法と判断する。また内国歳入庁にも追われていた。無責任な麻薬中毒ミュージシャンだったスタンは、人生で一度も所得申告をしたことがなかったのだ。(略)
二番目の妻モニカはスウェーデンのさる良家の出身で、ゲッツ夫妻は十年近くにわたってデンマークに居住した。そのあいだ、スタンはヨーロッパじゅうで演奏し、人生を立て直す。(略)
[アメリカに戻ったが、歳入庁からの取り立てで貯金が底をつきた時、ヴァーヴから“ボサノヴァ”レコードの制作の声がかかる]
スタンはどうしても金を必要としていたので、レコーディングヘの参加を承諾した。
 『ジャズ・サンバ』は大ヒット(略)
皮肉なことに、スタンはそのレコードの印税を一度も手にしていない。税金の督促状を片付けるのに必要な額とほぼ等しかったのだ。しかし印税が政府の懐に入る一方、コンサートやクラブの出演料も相当上がり、最終的には有名ジャズスターと同水準の生活を手にするのだった。
 スタンは矛盾に満ちた人物だが、自分の演奏に対する自信のなさもその一つである。彼は成功したミュージシャンであるにもかかわらず、正式な音楽教育を受けたことがない。そのため、いつ偽者扱いされるかわからないと常に恐れていた。それなのに、高度な教育を受けたミュージシャンを好んでバンドメンバーに雇うのである。彼らの存在はスタンにとって脅威だが、同時にスマートかつ教養豊かなプレイヤーたちに囲まれることによって、自分も彼らの一員だと自身を安心させていたのではないかと思う。スタンは初見演奏もできなかったし、音楽理論の知識――一曲のなかで和音がどういった理由でどのように続いてゆくかの知識――も限られていた。(略)スタンは“聴き憶えのプレイヤー”だったのだ(略)楽譜を読めないことに気づいた者はほとんどいなかった(略)しかし毎晩のように彼と演奏していた僕は、すぐさまそれに気づいた。
 スタンもこの欠点を自覚していたらしく、難しい新曲にひたすら取り組み続けることで対処した。

アストラッド・ジルベルト

僕らがカナダからニューヨークに戻った時点で、ジョアンのグループ脱退は既定路線になっていた。(略)トロントでもまったく不機嫌さを隠さない。ほとんどホテルの部屋に閉じこもりきり(略)
カナダツアー以来、ジョアンがこのバンドで歌うことを望んでいなかったので(略)[レコード会社はジョアンの妻アストラッドを加えることで]スタンとブラジル人歌手との共演を続けさせようとしたのである。しかし、バンドのレパートリーにアストラッドの知っているものはなかった。(略)
[そこで覚えた二曲のうちの]一曲こそ、大ヒットを記録した〈イパネマの娘〉だった。ラジオ放送向けに編集された際、ジョアンのヴォーカル(ポルトガル語)が除かれアストラッドの声(英語)だけが残った。それが彼女のキャリアを切り拓くことになる。(略)
 アストラッド・ジルベルトは絶世の美女と言われているけれど、僕にはそうは思えず、いささか地味に見えた。しかし彼女自身は、他人が抗えない魅力を持っていると思い込んでいたらしい。彼女は男とあれば言い寄り(僕もその一人)、毎回のように何かを求めた。自分ほどの美女であればそうした扱いを受けるのは当然だ、とでも言うように。
(略)
あとで知ったけれど、彼女は僕のことでスタンに文句をつけ、あいつはゲイに違いないとまで言ったそうだ。私に関心を寄せなかったのはあいつだけ、ということらしい。
(略)
 しかし僕がアストラッドを嫌いな本当の理由は、歌が下手なことにあった。彼女は音楽の訓練を一度も受けておらず、僕らとツアーする前は人前で歌った経験もない。そんな人間をグループに加えたことが、僕のプライドを傷つけたのだ。

MJQ

スタンとのツアー中でないとき、僕は作曲家兼指揮者のガンサー・シュラーが組織したオーケストラで、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)とときどき共演した。(略)
クラシックの演奏や複雑なアレンジヘの評価とは裏腹に、MJQのミュージシャンは初見演奏を苦手としていた。みな反復と聴き憶えを頼りに自分のパートをゆっくり覚え、すべて記憶するまで何度も何度も練習していたのである。オーケストラのリハーサルが進行するなか、カルテットのメンバーがどうしても曲を演奏できず、シュラーの指図で楽譜を読む能力がより高いミュージシャンと交代することもたびたびあった。
 新曲の演奏で最初に脱落するのは、たいていの場合ヴィブラフオン奏者のミルト・ジャクソンだった。初めての曲に取り組まねばならないと見て取るや、彼はシュラーに交代要員(つまり僕)を用意するよう申し出る。

 《コラム》ミルト・ジャクソン

ミルト・ジャクソンほどヴィブラフォンに貢献した人間はいない、というのが僕の変わらぬ考えだ。ライオネル・ハンフトンやレッド・ノーヴォなどジャズ界におけるマレット奏者の第一世代はフレージングや強弱法といったものにほとんど頼らず、硬いマレットと素早いヴィブラートを使ってヴィブラフォンをあたかもパーカッション――一種の金属シロフォン――のように扱った(これは無理もない。ハンプはドラマーとして、レッドはシロフォン奏者としてキャリアの第一歩を踏み出したのだから)。
 しかしミルトのルーツはまったく違う。デトロイトの高校でスクールバンドの顧問からヴィブラフォンを紹介された当時、彼はギターとピアノを弾き、ヴォーカルグループで歌うこともあった。(略)
ミルトは、ヴィブラフォンでギターの音を出すと同時に、ヴォーカルの要素もそこに加えたいと思っていた。そこで、それを成し遂げるべく柔らかめのマレットを使い(略)暖かで柔らかい音が出るようにした。またヴィブラートに関しても、以前の慌ただしい使い方とは対照的に共鳴管内部のファンを緩やかに動かすことで、とても物憂げな感じを醸し出したのである。
(略)
[あるインタビューで]軽率にも「いまのところ、ヴァイブ奏者は砂場で遊んでいるようなものだね」などと言ってしまったのである。
 僕が自身の過ちに気づいたのはそれから数ヶ月後、シカゴで行なわれたジャズフェスティバルにおいてだった。(略)
ステージを降りたミルトは僕に目をやり、「自分は何ができるんだ、このくそったれ!」と言い放ったのである。
 その瞬間、僕はミルトを怒らせたのだと悟った。
 それから数十年のあいだ、ミルトは僕の傲慢さに腹を立てていたに違いない。僕はMJQの他のメンバーとは仲良くなったけれど、ミルトとはジャズフェスティバルの楽屋などで―緒になるたび、顔を背け合う間柄になってしまった。
(略)
この関係は、カリブ海ジャズクルーズの一環として催される“ヴィブラフォン・サミット”の出演契約に僕ら二人がサインするまで続く。(略)
[1日目の夜、旧友の]シダー・ウォルトンに声をかけられたので仕方なく立ち止まり、こちらを睨みつけるミルトの顔を視界の隅で捉えながら、数分間ほど立ち話をした。それが終わってテーブルから離れると、ミルトを非難するシダーの声が背後で聞こえた。(略)シダーがミルトの態度にクレームをつけたのだろう、と言うのも翌日、プロムナードデッキにいた僕のもとにミルトが近づき、あたかも昔からの友人のように話しかけてきたからだ。

 次回に続く。