スタン・ゲッツ 音楽を生きる その2

前回の続き。

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

スタン・ゲッツ :音楽を生きる

 

ベニー・グッドマンフレッチャー・ヘンダーソン

ベニー・グッドマン楽団からオファー(略)

スタンはすぐに、自分が混乱を極めている楽団と契約を結んでしまったことに気づいた。

 グッドマンは、アメリカのポップ音楽のトップ・スターとして十年近く君臨したあと、一九四四年三月に突然バンドを解散してファンを驚かせた。それは彼のブッキング・エージェンシーであるMCAとの葛藤を原因とするものだった。しかし彼はすぐに自分が第一線から外れたことを淋しく思うようになり、いざこざがまだ片付いていないにもかかわらず、一九四五年三月に新しいバンドを立ち上げた。

 かつてのバンドの楽団員たちの全員近くが、軍隊にとられているか、あるいはよそのバンドで気持ち良く仕事をしているか、どちらかだった。だから新しいグループはおおむねあまり経験のない顔ぶれで(略)

思うような成功を収めることはできなかった。

(略)
 演奏仲間であったテリー・ギブスが語る。

 

 彼は人の名前を覚えることができなかった。(略)

[妻からメンバーにトーストでも出そうかと訊かれたベニーは言った]

「いや、今はいいよ、パップス」。自分の奥さんの名前が思い出せなかったのさ。最後には、彼にとってはすべての人が『パップス』になった。女も子供も犬も消火栓も、何もかもが『パップス』なんだ。

 

(略)

一人の男がベニーの成功に決定的な役割を果たしたアレンジメントを提供してくれた。フレッチャー・ヘンダーソンだ。ヘンダーソンデューク・エリントンと肩を並べ、一九二〇年代の黒人音楽の覚醒の中から、今日に至るまで機能を発揮しているビッグバンドの基本的手法を創造した。それは先行する脆弱なダンス・バンドにとって代った。ヘンダーソンのアレンジメントは、それぞれに力強くハーモナイズする木管楽器金管楽器の音塊と、即興演奏をおこなうソロイストと、バンド全体とのあいだに展開する見事なインタープレイ、そして緊密に連携する四人のリズム・セクションによって送り出されるドライブ感のあるビートを中心としていた。

 ヘンダーソン自身のバンドは、ルイ・アームストロングコールマン・ホーキンズベン・ウェブスターといったソロイストたちに脚光を浴びせながらも、十二年間にわたる革新的でエキサイティングな活動の末に、一九三四年には挫折の憂き目を見た。グッドマンは番組「レッツ・ダンス」で演奏を開始した当初、ヘンダーソンの既存のアレンジメントを使用したが、そのあとはヘンダーソンをせき立てて、放送の続く六ヶ月のあいだ、毎週三つの新しいアレンジメントを用意させた。ロス・ファイアストーンは彼らの関係の重要性を認識していた。

 

 (略)(ヘンダーソンによる)十二年にわたる実験と、進歩と、ビッグバンド編曲方法の段階的完成を、ベニーひとりが手柄とするところとなった。(略)

 

 ベニーのために言い添えておくなら、彼はヘンダーソンへの賛辞を決して惜しまなかった。それから半世紀以上を経た後、ベニーは自分の最後のテレビ・ショーをフレッチャーに捧げている。そしてこう言っている。「彼のアレンジメントに対する感嘆の念は決して色褪せない。彼こそはまさに天才だった」と。

(略)

[スポンサーのナビスコの工場がストで封鎖され番組は打ち切り、ツアーに出たが]

多くのボールルームはベニーに「スウィートな」アレンジメントを強調するように要求し、おかげでツアーは惨めな失敗に終わった。デンヴァーでほとんど解散寸前まで追い詰められた。

(略)

 バンドは相変わらず死に向かっていた。(略)

サイドマンの一人――バニー・ベリガンだったかジーン・クルーパだったか――がベニーに言った。どうせ命尽きるのなら、いちかばちか、好きなだけスウィングして駄目になりましょうや、と。

(略)

ベニーはこのように回想している、「まったくたまげたことに、人々の半分は踊るのをやめて、ステージを取り囲んだ……私の前に道が開けたのはまさにそのときだった。三千マイルの旅をしてきたあとで、我々はようやく巡り会ったのだ。我々のやろうとしていることをちゃんと理解してくれる人々に。このように演奏したいと我々が望んでいる音楽を、そっくり受け入れてくれる人々に。最初のわああっという聴衆の怒号は、私が人生で耳にした最もスウィートなサウンドだった。そしてそのときを境に、夜はどんどんビッグになっていった…」

 

(略)

一世代あとのエルヴィス・プレスリーと同じく、彼は堅苦しい白人の中産階級の子供たちに、ホットで祝祭的な黒人音楽を送り届け、彼らをワイルドな気分にしたのだ。ただしエルヴィスとは違って、彼はアメリカのポップ・アイコンになりそうなタイプではまったくなかった。内向的で、常に放心状態の、眼鏡をかけたユダヤ人の音楽的完璧主義者だった。しかし彼はホットな音楽を愛し、それを完璧に演奏することができた。大事なのはそのことだけだった。ベニーが発火させた狂熱は、一九三六年の終わりから一九三七年の初めにかけて、大きなはずみをつけていた。 

ビバップ革命

ビバップ革命は、彼らが感じていたフラストレーションに根ざしていた。一九四〇年代初めに入手可能だったリズムとハーモニーのマテリアルでは、これらの人々は、自分の感じているものを十分に表現することができなかったのだ。だから彼らはそれらのマテリアルに大胆な変更を加えていった。

 もっとも主要な変更はリズムだった。ビバッパーたちはみんなレスター・ヤングを聴いており、彼の導くところに従い、音楽のリズムの配置換えを自分たちの音楽にとって不可欠な部分とした。そして彼らはドラマーの基本的役割をただのタイム・キーパーから、アンサンブルのひとつのヴォイスとして、ホーン奏者と同等の役割を持つものに変えた。彼らは終始同じタイムを刻み続けるバスドラムのビートを、ドラマーによって打ち出されるちらちらと瞬く、流動的なシンバルの脈動に変更した。この軽い脈動の上で、即興演奏家たちはこの上ないリズム的自由さを満喫することができた。彼らは様々な長さを持つごつごつした、非対称的なフレーズを創り出し、自分たちが楽しいと思うところに、あるいは人があっと驚きそうなところに、自由気ままにアクセントを置いた。そしてドラマーたちは自由な手と両足とをつかって、ソロイストの演奏するラインと絡み合う、ポリリズム的効果を生み出していった。

 ビバップ以前にはハーモニーは(デューク・エリントンアート・テイタムという特筆すべき例を別にして)、十九世紀中葉のクラシック音楽と同じレベルにあった。それがビバッパーたちの不満の種だった。彼らは西洋音楽において入手可能なすべての音のコンビネーションを使ってやろうと決意した。そして彼らは和声の水門を開けてしまった。彼らは自分たちをクラシック音楽の作曲家になぞらえたわけではなかったが、彼らの音楽はストラヴィンスキーの不協和音を、ドビュッシーの神秘的な和音を、そしてその中間にあるすべてを取り込んでいる。四年間にわたる実験の末に、彼らはジャズのハーモニーをブラームスからバルトークにまで移動させてしまったのだ。

 自分たちの和声的「資源」を拡大するために、彼らはコードの構造に重きを置かざるを得なくなった。不協和音を加えてコードを半音拡大し、指定されたコードをより複雑な新しいコードに置き替え、曲のハーモニックな速度を上げるべくより頻繁にコード・チェンジすることで、その効果の多くを得ることができた。彼らはコードに深く関与したが、その一方でレスター・ヤングの教えも忘れてはいなかった。ヤングのリズムの捉え方に対しても、ハーモニーを横切って自由にメロディーを紡ぐそのやり方に対しても、彼らはしっかり門戸を開いていた。

 ビバッパーたちの主要な達成は、ジャズ即興演奏家が手にすることができる「資源」を大胆に拡大したことにある。そしてスタンのような若いミュージシャンがいちばんの受益者になった。スウィング・ジャズのパレットの純粋な原色の代わりに、彼らは今では音楽的色彩の総合的な虹の中から自由に色を選べるようになったのだ。 

バードランド開店

 階段を半分ほど降りたところにある切符売り場で、観客はまず九十八セントを払って店に入り、それから懐具合と相談して、三つに分かれたセクションのどこに行くかを決める。左手の壁に沿ったバーに行くなら、少なくとも一杯の飲み物を注文しなくてはならない。部屋の反対側にはテーブルとブース席が並び、そこに座ればカバー・チャージが付いて、飲み物のほかに南部の田舎風に調理された、上等とは言いがたい料理を注文することができる。リブとかチキンとか、その手のものだ。真ん中にステージがあり、ステージとバーとの間は「ブリーチャーズ(簡易観覧スタンド席)」になっており、そこでは最初に払った九十八セントだけで、一晩中音楽を聴いていられる。しかしその数少ない席を確保するには、早いうちにやって来る必要がある。たいていの「ブリーチャー客」は立って音楽を聴いている。店の壁はジャズの巨人たちの、人目を引く等身大の白黒写真で覆われている。パーカーやガレスピーや、そんな人々だ。そしてオープニングの夜には、いくつものかごに入れられたカナリアたちがバーの背後にいた。立ち込める煙草の煙のせいで、鳥たちは数週間しか生き延びられなかったが。

(略)

[司会の]ピィー・ウィーは心付けをくれない演奏者の名前を、よく言い間違えたものだった。あるときレスター・ヤングは彼のしつこいせびりに頭にきて、「half a mother fucker」と呼んだことがあった。

ノーマン・グランツ

ルーストとの契約が切れた十二月十日に、彼とクレフ・レーベルとの間の専属契約を結んだ。

 スタンはグランツの傘下に入ることに興奮を覚えた。クレフ・レーベルはルーストよりも遥かに広い販売経路を持っていたし、プロモーションのためにより潤沢な資金を使えたからだ。それに加えて、グランツにくっついていれば、彼が主宰する豪勢なツアーに、超一流のミュージシャンたちと共に参加することを約束されたようなものだった。たとえば一九五一年の秋のツアーには、エラ・フィッツジェラルドジーン・クルーパ、レスター・ヤング、ロイ・エルドリッジ、フリップ・フィリップス、ビル・ハリス、イリノイ・ジャッケー、レイ・ブラウンオスカー・ピーターソンハンク・ジョーンズが参加していた。

 

 ノーマン・グランツはひょろりとした、どこまでもエネルギッシュな人物であり、骨の髄までリベラルでありながら、同時に容赦を知らぬ功利的な資本家だった。そもそもの最初から、彼の第一のモチベーションは人種的公正の達成だった。(略)

 

私の目指すものごとはこのような順番になっている。第一は社会的なものだ。人種的差別をより寛容なものにし、消滅させること。第二は純粋にビジネス的なもの。あっさり砕いていえば、金儲けだ。そして第三には――いいかね、これが最後にくるわけだが――ジャズを売り込むことだ。

 

 グランツとジャズの関わりは一九四三年に遡る。当時まだ二十四歳で、MGMのフィルム編集者として働いていた。彼はロサンジェルスのジャズ・クラブが白人の客しか入れないことに猛烈に腹を立てていた。そして仕事のない夜にクラブを借り切り、人種混合の聴衆のためのジャム・セッションを催した。その信念は(略)

スリーピー・ラグーン弁護基金のための慈善コンサートを開催し、それが成功裏に終わったとき、より確固としたものになった。その基金はいわゆる「ズート・スーツ」暴動で誰かが殺害されたあと、サン・クエンティン刑務所に送られた若いメキシコ人たちのグループの弁護費用を捻出するために設けられたものだった。

(略)

[四週間後にカウント・ベイシー楽団等でコンサートを開き成功]

毎月定期的にそのコンサートを催すようになり、それに「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」という名を冠した。略してJATPだ。

(略)
グランツは記者にこう語っている。

 

私のコンサートはまず何よりエモーショナルな音楽なんだ……もしお望みなら、もっと内省的なコンサートを催すこともできる。でも私はどちらかといえば、エモーショナルな方を選びたい。そして、いいかい、大衆の好みも私のそれと一致している。私が生涯で最も大きくこけたのは、デイブ・ブルーベックジェリー・マリガンといった内省的なミュージシャンを、何人かツアーに加えたときだった。

 ジャズはとても生き生きしたものであり、それは人を生き生きさせる……人を幸福にしなくちゃならないと私は思っている。そいつはエネルギーを、たくさんのエネルギーを持っていなくてはならない。オスカー・ピーターソンやロイ・エルドリッジやディジーやベニー・カーターを聴くとき、私はエネルギーやグッド・フィーリングの見事な噴出に身を包まれる。

 ロイ(エルドリッジ)はすべてにおいて熱烈な男で、彼にとっては安全な演奏をするより、たとえ失敗に終わったとしても、何かしらの頂点に達するべく、敢えて挑戦することの方が大事なんだ。それこそがジャズだよ。

 

 グランツはミュージシャンたちに高額のギャラを払った。そして社会的問題については痛烈な姿勢をとった。

 

ステージに立っているときのミュージシャンを、曲がりなりにも敬意と尊厳をもって扱い、でもステージを終えたら裏口にまわってくれみたいなことは、許されるべきじゃない。我々は黒人に対する差別と闘うだけではなく、すべてのジャズ・ミュージシャンに対する差別と闘っているんだ。私は主張する。私のミュージシャンたちは、レナード・バーンスタインハイフェッツと同じ扱いを受けてしかるべきだと。なぜなら彼らは同じくらい優れているからだ。人間としても、音楽家としてもね……

 あちこちにはびこる偏見に対して、我々はまだいくらかの譲歩をしなくてはならない。しかしながらそのような譲歩は、徐々に少なくなりつつある。ゆくゆくは我々はみんな一緒に、アトランタの最高級ホテルに部屋をとれるようになるだろう。そしてそのことについて、誰もなんとも思わなくなるだろう。

 

 そしてミュージシャンたちは彼を愛した。ディジー・ガレスピーが述べるように。

 

ATPの大事なところは、それがジャズ・ミュージシャンを最初に「ファースト・クラス」扱いしてくれたことだ。ノーマンと一緒だと、ファースト・クラスで旅行し、ファースト・クラスのホテルに泊まれるんだ。そして座席が人種別になっている場所では何があろうと演奏しなかった。グランツは一刻も早くスタンを録音スタジオ入りさせたかった。

 

(略)

ノーマン・グランツはスタンをジャズ界のエリートたちと組ませて、次々にレコーディングした。条件の良い出演契約もどんどん入ってきた。二人は共に麻薬中毒である夫婦としては、最高に満ち足りた暮らしをしていた。二人の年収は、一九九六年の水準に換算すれば、十六万ドルにも達していた。確かなヘロイン・コネクションを確保し、一日中ハイな状態で暮らすことができた。

コールド・ターキー、強盗

 スタンは刑務所の中でコールド・ターキーを迎えたくなかったので、ツアーのあいだにその習慣を断つことにした。禁断症状の苦しみはバルビツール剤によって緩和されると彼は信じており(略)[ツアー三日目に]ヘロインをこの薬品に切り替えた。

 (略)

 麻薬を断ってから三日目の水曜日、身体症状がまるで鍛冶屋の大槌のように激しく彼を打った。(略)肌が焼けるように熱くなり、すべての骨と筋肉が痛みに脈打った。

(略)

[ヤク切れの苛立ちをトゥーツ・シールマンスに向ける]

スタンは叫んだ、「ミュージシャンにとってのいちばんの侮蔑的なことは、おまえは鈍感だと言われることだ。それでだな、おまえは実に鈍感なやつだよ、トゥーツ」。ズート・シムズがすぐに割って入り、スタンを彼の席に戻した。(略)「おまえだってそうだぜ、ズート。おまえだって鈍感そのものだ」。ズートはスタンを保護する兄貴分のような存在になっており、ツアーの最後までそのような立場を維持した。

(略)

[チェックイン後、耐えきれず、ドラッグ・ストアへ]

彼は右手をウィンドブレーカーのポケットに入れ、人差し指を銃口のように見せかけて、彼女に言った。「モルヒネのカプセルを一つくれ。叫んだりするな。もし騒いだら、脳味噌を吹き飛ばすからな」。(略)

「あなたの銃を見せてちょうだい」。そう言われて彼はすっかり怖じ気づいてしまい、店を出て行った。彼が通りを横切ってホテルに入っていくのを、メアリは見届けた。

 ホテルの部屋に戻ると、スタンはメアリに電話をかけて謝った。このときにはパトロール警官アール・フィッシャーは、「武装強盗が発生」という無線の緊急連絡を受け、乗っていたパトカーからそれに応答し、ドラッグ・ストアの店内に既に入っていた。彼は内線電話をとって、その会話を聞いていた。

 スタンはメアリに言った。「馬鹿な真似をして申し訳なかった。こんなことをするのは初めてなんだ。ぼくは強盗なんかじゃない。ぼくはきちんとした家庭の出だ。水曜日になったら出頭するよ」

「どうして出頭するのが今日じゃ駄目なの?」とメアリは尋ねた。

(略)

 警察署の留置場に腰を下ろし、静かな声で質問に答えているあいだ、スタンの脚はゼリーのようにふにゃふにゃしていた。麻薬の習慣にはまったのは六ヶ月前からだと彼が言うと、刑事たちは笑った。両腕に残った深い注射針の傷あとは、彼が長年にわたる中毒者であることを示していたからだ。しかし彼はもごもごと言い訳を続けた。

(略)

 看守が三十分後に定時の点検にまわってきたとき、スタンは簡易寝台の上に丸まって意識を失っていた。留置場の医師は、その呼吸と脈拍が危険なほど浅くなっていることを見てとり、彼を即刻ハーバービュー郡立病院の緊急治療室に移送した。

 最後に飲んだ一握りのバルビツール剤が、彼の呼吸システムを遮断状態に近いところまで追い込んだのだ。言い換えれば喉を詰まらせて死にかけていたわけだ。医師たちは緊急の気管切開手術をおこなった。スタンの喉に穴を開け、そこから気管にチューブを差し込み、肺に酸素を送り込み、そこから唾液や痰を取り除いた。それらの処置によってスタンは死を免れた。短い縦の傷跡が彼の喉ぼとけの下に残った。その騒動の消えることのない記念品として。

次回に続く。