ボブ・ディランという男 その3

前回の続き。

ボブ・ディランという男

ボブ・ディランという男

 

カントリーミュージック

小さなころからディランは、ハンク・ウィリアムズを魔法の力を持つお守りのように見てきた。「十代でロックンロールを始める前から、ハンクの歌をよく歌っていた」。(略)ディランが最初に好きになったのは、そういう音楽だったということだ

(略)

しかし『ナッシュヴィルスカイライン』は、ハンク・ウィリアムズへのトリビュート・アルバムとは言いにくい。(略)このアルバムはカントリーポップそのものでしかない。

 ナッシュヴィルでレコーディングをしたことで、ディランのなかにあったカントリーへの思いが復活したのだろうか? ディランは一九六六年から二年間、『ブロンド・オン・ブロンド』と『ジョン・ウェズリー・ハーデイング』で、ふたりのナッシュヴィルのミュージシャン、ケニー・バトレイ(ベース)、チャーリー・マッコイ(ギターほか)と共演している。ディランは彼らに「現代的な哲学」という流行り病をうつし、かわりにホンキートンクという熱病をもらったようだ。

(略)

このとき彼が出会ったカントリーとは、田舎の白人たちが代々歌ってきたブルースではなく、カクテルを片手に聞くイージーリスニングに近いナッシュヴィルの音楽だった。ワクチン接種を怠ったままナッシュヴィルに行ったディランは、その種の音楽に感染し、ペダル・スティール・ブルースを取り入れた。七〇年代、ロックの分野でペダル・スティールが多用されたが、それにはディランの影響も大きかった。その後ウッドストックに帰ったディランが、バフィー・セント=メリーだかバルトークだかを聞いているうちに、突然、頭のなかでナッシュヴィルメトロノームが動きだした。まるで魔法にかかったようだった。そして気がつくと、以前のようなワイルドな作品が書けなくなっていた。

(略)

 一世紀前の南北戦争が生んだ南部と北部の軋みは、現代も続いていた。北部人はカントリーミュージックを軽蔑していた。ヴィレッジのフォークシンガーはアパラチアの山間部の住人たちを偶像視したが、らば追いや密造酒づくりの子孫がつくる現代の都市化した音楽、つまりカントリーを認めていなかった。逆に、南部の子孫たちは、左翼や同性愛者や黒人と仲良しのやつら、つまりサンダルを履いたグリニッチヴィレッジ人種を毛嫌いしていた。

 この時期、カントリーミュージックにロックの要素をとりこもうというカントリーのナッシュヴィル化がさかんにおこなわれていた。カントリーはロックンロールの源泉のひとつであるにもかかわらず、価値の低いものとして扱われてきた。しかし派手な衣装をまとったヒッピー、グラム・パーソンズの登場で大きく変わった。バーズがディランの曲を美しいハーモニーのカントリーに仕立てて歌うということも起こった。この時代にカントリーは、ロックの別荘のような存在、派手好みのいなかの親戚のような存在となり、同時にブーツ、帽子、マント、ヌーディがデザインするきらきらカウボーイ服という衣装が定着した。これがやがて、イーグルスや彼らの永遠のベストセラー・アルバムにつながる。

(略)

 このころのディランは渇水期を迎えていた。聖書由来の終末論的色彩が強い前作『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の最後に、不似合いなカントリー曲がふたつも入っているという事実をとっても、彼が新しいアイデアを生み出せずにいるのはあきらかなように思えた。コロンビア・レコードの社長だったクライヴ・デイヴィスは、初めカントリーへの移行に反対だったが、ディランの制作活動が停滞していたため、新しいものが助けになると考えたようだ。それに何よりも彼はアルバムという商品を欲していた。

(略)

[しかし、ジョニー・キャッシュとの共同作業]をもってしても、ディランの創作活動が勢いをとりもどすことはなかった。

(略)

ナッシュヴィルスカイライン』は、わたしたちをからかうためのものなのか?(略)

恐ろしいのは、悪ふざけでなく本気でやっていることかもしれないという思いだった。(略)

ただ絵に描いたような幸せの嘘っぽさ、彼ののどかな家庭生活が『トゥルーマン・ショー』のようなつくりものに思えるうさんくささだけがあった。

(略)

 『ジョン・ウェズリー・ハーディング』の教訓を説教する賢人はまだよかったが、快活ないなか神士、愛想のいい隣人のイメージはどうにも受け入れにくかった。ジョニー・キャッシュのテレビ番組や『ナッシュヴィルスカイライン』で披露された新しいディランは、大いに問題だった。

(略)

しかし『ナッシュヴィルスカイライン』はディランのアルバムのなかでもよく売れた一枚となり、カントリーロック・アルバム最高の売上を記録し、

(略)

そのまま七〇年代のカントリーロック・ブームにつながった。

『セルフ・ポートレイト』

整理されないままのぶざまな断片が集まり(略)

ほとんどの人に理解されることなく嫌われた。さまざまなことが言われたが、いちばんの問題はアルバムのなかに、ディランがいないことだった。まもなくしてファンは群れをなしてディランから離れていった。

(略)

『セルフ・ポートレイト』は、真の意味でファンの心をディランから遠ざけた初めてのアルバムだった。パロディだと思ってしまうほどの、受け入れがたいアルバムだった。

(略)

収められた曲はどれも、歌い方が粗雑で、プロデュースも悪く、声も疲れて感情がこもっていないことが多かった。

(略)

諸説のなかで、もっとも魅力的なのは、ディランは『地下室』の曲を録音したときのような魔法の再現をスタジオで試みたという説だった。つまり、結実はしなかったものの、そこには何らかのアイデアがあったということだ――しかし、どういうアイデアだったのか?

(略)

 それが何であったにしろ、ディランが目指したものは実現せず、アルバムが発売されると、評論家連中は大激怒した。(略)

彼らは『セルフ・ポートレイト』をぶった切って抹殺した。ディランの血を吸う吸血鬼の親玉が、グリール・マーカスだった。彼は『ローリング・ストーン』誌のアルバム評を「このクソは何だ?」で始め、そのことばがアルバム自体より有名になった。

(略)

[なぜ評論家たちは感情的になったか]

ディランとは、一九六五年に世界をヒップな者とヒップでない者に二分した人間だった。(略)

「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞いて、マーカスやヤン・ウェナーを含む大勢の人間がその後の人生を変えたのだ。そのもっとも先進的であるはずの人が、とんでもなくくだらないものをすすめている。このアルバムは侮辱的だ。ディランは彼らを裏切った。ディランはもう終わりだ。ディランはもういない。

駄作を作った10の理由

理由#1:これまでもっとも広くいきわたっているのは、ディランは自分の神話を打ち壊したかったという説だ。

(略)

理由#4:一九七〇年の夏、わたしはロビー・ロバートソンに、ディランはどういうつもりで『セルフ・ポートレイト』をつくったのだろうと訊いたことがある。ロバートソンは「ビール好きの一般大衆を対象にした」ようだと答えた。

(略)

理由#5:バーズがその特徴である液体水素のようなサウンドを加えるはずだったが、行き違いがあった。連絡が徹底せず、バーズは帰ってしまった。

(略)

理由#8:一九六九年の『ザ・グレイト・ホワイト・ワンダー』への反応だという説。(略)「あのころぼくのブートレグが出回り、ブートレグにはあれよりひどいものがたくさんあった。だから、いっそ自分のブートレグをつくってやろうと考えた。あれがほんとうのブートレグだったら、大勢が人目を忍んで買いに行き、こっそり聞いただろう。(略)

ディランらしいひねりのあるおもしろい答えだが、残念なことに『セルフ・ポートレイト』の曲の多くが、ブートレグの『ザ・グレイト・ホワイト・ワンダー』より程度が悪く

(略)

『セルフ・ポートレイト』発売の四か月後の一九七〇年十月、さらに聞く者を動揺させる『新しい夜明け』が発売された。

(略)

ディランは新しい歌をつくるときはいつも、それを歌う人物像をつくりあげてきた。つまり新しいディランが必要だった。そして『新しい夜明け』で披露された新しい分身は、「幸せな家庭人」――ディランにはもっとも不似合いなイメージ、ファンにとっては悪夢――だった。(略)

このアルバムを聞くと、ディランがヒビングを出なかったらどんな人生を送っているかを見せられている気がした。パパの家庭用品店を継ぎ、小さなころからのガールフレンド、エコ・ヘルストームかボニー・ビーチャーと結婚し、子供をもうけて腰を落ち着ける。「ワン・モア・ウィークエンド」のディランはひどくおめでたくて、ある朝、眼を覚ましたらドリス・デイと結婚していたとでも言いたげだ。

ローリング・サンダー・レヴュー 

 ツアーのさなか、フィル・オクスが首つり自殺をした。ローリング・サンダー・レヴューに呼ばれなかったことが最後の止めを刺す役を果たしたのかもしれないが、原因はそれではなかった。オクスは昔から不安定で激しい性格の持ち主で、ビター・エンドに手斧を持って現れたこともあった。しかしディランのソングライターとしての成長と成功がオクスに決定的な打撃を与えた。ディランのせいで、オクスが書いたものすべてが無価値になった。そして一九七五年には、アルコール依存症で太りすぎの亡霊と化していた。

 ツアーのあいだにさまざまな場面が撮影された。

(略)

 一行はプリマスロックを見物に行き、落胆した。記念の岩は屋根の下で鉄格子に囲まれていた。まるで肉の色をした死骸――からだの半分を食べられ、打ち上げられて砂に埋まった海獣の死骸――のようだった。おまけに地元の人たちは岩が縮みつづけていると言う――ピルグリム・ファーザーズが抱いた夢が年を追うごとに縮んでいくかのようにだ。

 ローリング・サンダー・レヴューは、アメリカ建国二百周年の熱狂のなかでおこなわれた。サム・シェパードによれば、「現在の社会の狂気を過去の亡霊が癒してくれる」という感覚が蔓延していた。昔の衣装や複製や模型――歴史の大売り出しだった。歴史がのしかかるように現代に入り込んでいた。人々は意地悪な時間旅行者のように、自分たちの歴史を低俗で安っぽい飾り物に変えていた。

 「ディランは、ぼくたちのまわりの地面から神秘的空気を創造する」とサム・シェパードは書いている。ディランはエンタテイナーであるだけでなく、古い蝋人形に生命をもたらす蘇生者だった。

(略)

 ツアーが進むにつれて、当初の可能性の光と批判の精神は失われた。

(略)

ディランは、アメリカ合衆国の集団的無意識という精神的な結合体に焦点を合わせた。

(略)

アメリカ自体に肉体を与えようと試みた。ディランは失われてしまったアメリカを探求したが、最初からわたしたちのほうが見失っていたのだ。

(略)

 だれもが、ディランがつぎのすばらしい作品をつくるのを待っていた。しかし彼はどん底にいた。

(略)

そこに、物語を歌にする方法を知っているというジャック・レヴィが登場した。レヴィは『オー!カルカッタ』を演出し、演劇の舞台デザインを多数手掛けていた。そしてディランのつぎのアルバム、『欲望』のなかの多数の曲をディランと共作することになる。

(略)

 レヴィの映画的な物語の手法は、ディランの歌詞づくりに――たとえディランの歌詞が堂々巡りでまとまりが悪いとしても――、よくない影響を与えた。まるで一九七五年にロジャー・マッギンがディランに、類義語辞典押韻辞典を与えたかのようだった。短篇小説のような歌を書きたいなら、ジョセフ・コンラッドチェーホフなどの巨匠の作品を知る必要がある。『欲望』の曲をつくっているとき、レヴィもディランにそれを薦めた。

 一九七六年に発表された『欲望』は、ディランのアルバムのなかでももっとも売れた一枚だった。

(略)

アルバムのジャケットの裏には、一風変わったそっけない文体の作家、コンラッドの写真が載っている。このころのディランは物語に興味を持ち、「ブラック・ダイアモンド湾」「リリー、ローズマリーとハートのジャック」というふたつのすばらしい短篇小説のミニチュアを書いた。

(略)

「ブラック・ダイアモンド湾」は大きな転換があって終わる(略)歌で、ディランが新たに開発した着想の力を表すものと言われているが、ジャック・レヴィは『アイシス』誌のインタヴューで、彼がほとんどすべてをひとりで書いたと主張している。  『欲望』には二曲のプロテストソング、「ハリケーン」と「ジョーイ」――プロテストソングと呼べるかどうか議論は分かれる――が収められている。しかしこのふたりの主人公、ボクサーのルービン・ハリケーン・カーターとギャングのジョーイ・ガッロを、迫害を受けた者とまつりあげるのには無理がある。ハリケーンはたしかに警察に仕組まれて罪を着せられたが、聖者にはほど遠かった。(略)

[抗争で]射殺されたガッロは、精神的にも問題がある悪人だった(略)

のちにガッロの残虐な犯罪歴を知って、ディランはずるいことに、すべてをすでに故人となっていた共作者、ジャック・レヴィのせいにした。

(略)

 レヴィは、ディランは筋の通った物語をつくるのが苦手で、とくに話をAからBへ、そしてCへと進めることができなかったと批判した。しかし、その点こそ、わたしたちがディランの六〇年代の作品を愛する理由だった。いっぽうレヴィはオフブロードウェイで演劇を手掛け、歌の演劇的要素を高める技術を持っていた。たとえば「ハリケーン」の冒頭の「銃声が鳴り響いた」などの表現だ。レヴィがディランと共作した曲には、オペレッタのような感触がある――舞台の背景幕に描かれた風の空、国境の南から送られてきた絵葉書にはホット・チリ・ペパーの絵、小道具部が用意した悪魔。レヴィは曲のひとつひとつを一幕劇に仕立てた。まぶしい光と悲しさがいっぱいの短編映画に

 『ウィー・アー・ザ・ワールド』、トラヴェリング・ウィルベリーズ

青ざめて疲れ果てたように見えるディランは、『ウィー・アー・ザ・ワールド』のヴィデオ撮影[に参加](略)

収録中、ディランはためらいがちにマイクの前に進み、小さな声で歌いだした。プロデューサーのクインシー・ジョーンズはテープを止めさせた。一体どうしたんだ?スティーヴィー・ワンダーがボブのそばに行き、今の歌い方では「ディランらしく」ないと教えた。さらにどのように歌ったらいいか教えた。スティーヴィーはディランを真似て歌った。ディランは自分自身を見失っているように見えた。何十億人もの人がこのヴィデオを見る。その全員がディランの声を聞きたがっている。しかし、ディランは自分らしく歌う方法を忘れていた。クインシーがディランをなだめるように説得し、転調させて歌えばいいと見本を聞かせた。気を取り直したディランは、もう一度挑戦した。「こんな感じでよかったのかな?」。歌い終わったディランはためらいながら訊いた。

 一九八五年七月十三日、フィラデルフィアで開催されたライヴ・エイド・コンサートで事態はさらに悪化した。

(略)

主催者側はボブに、最近再結成したピーター・ポール&マリーといっしょに「風に吹かれて」を歌ってほしいと望んでいた。しかしボブには断る正当な理由があった。

(略)

 午後のあいだ中、楽屋で飲み続け、薄汚れたように見えるボブがよろけるようにしてマイクの前に現れた。

(略)

ボブは「バラッド・オブ・ホリス・ブラウン」をまとまりなく歌った。中西部の農民が餓死するよりも家族を殺し自殺する道を選んだという恐ろしい歌である。

(略)

彼の最悪の低迷期に(略)ある運命的な出来事が彼を悲惨さから救い出した。

[『クラウド・ナイン』制作中のジョージ・ハリスン]のプロデューサー、ジェフ・リンはボブがポイントデュームの自宅のガレージにスタジオを持っているとジョージに教えた。ただ、その前にジョージは、たまたまトム・ペティの家に置いてある彼のギターを取りに行かなくてはならなかった。結果、トム・ペティも仲間に加わった。こうして出来上がったグループ――ジョージ、ペティ、リン、ボブ(さらにドラマーのジム・ケルトナー) ――は、即興で楽しい音楽を生み出した。(略)リンはロイ・オービソンのプロデュースもしていた。(略)

オービソンが加わり、トラヴェリング・ウィルベリーズが誕生した。

(略)

 世間から離れ、非難にさらされていたディランにとって、このグループは理想的な環境だった。彼はウィルベリーの一員として匿名で自分を隠すことができた。ボブはラッキー・ウィルベリーを名乗った。トラヴェリング・ウィルベリーズは、気難しい陰気な性格になっていたディランを更生し、元気付け、孤独な恐怖心から抜け出させ、ふたたび重要なアーティストに戻した――もはや彼はかかってこない電話を待つ必要もなくなった――さらに巨額の金を彼にもたらした(アルバムは三〇〇万枚を売り上げた)。

 しばらくしてネヴァー・エンディング・ツアーが始まった。(略)ディランの個人的な不満や不安、曲作りの危機を解決するものではなかったが、生き統けていく理由を与えてくれた。

『オー・マーシー

みんなに愛されるトラヴェリング・ウィルベリーズのメンバーであったが、長く待たれているディランのニューアルバムはどうしたのか?一九八九年といえば、『血の轍』から十五年、『インフィデルズ』から七年、ディランはインスピレーションを求めて雨乞いをしていた。そして彼はネヴィル・ブラザースのブードゥー教のような『イエロー・ムーン』を耳にした(このアルバムには、彼らが歌った不気味な「ホリス・ブラウンのバラッド」が収められている)。プロデューサーはダニエル・ラノワで(略)U2のボノがボブにラノワを紹介し、ようやく長い水不足が解消された――結果、ディランの一九八九年の傑作『オー・マーシー』が出来上がった。

(略)

 ラノワは、移動式録音機材を利用して舞台セットのような録音環境をつくった。ルイジアナのスワンプサウンドを生み出すために、ラノワはニューオリンズのソニアットストリート1305番地に一軒家を借りたのだ。

(略)

ディランに南部のブードゥー霊感を感じられるようにと、動物やワニの剥製、苔などを持ち込み、その家をハウス・オブ・ザ・ライジング・サン、つまり娼婦の館のように飾って架空の舞台セットのような奇妙な環境をつくりだした。

最悪のパフォーマンス 

 ツアーを続けるうちに、ディランはプライヴァシーに執着するあまり、しだいに不機嫌で被害妄想になり酒に溺れるようになった。「彼はまるで――あちこちうろつき回り、ビルの裏にある非常階段からこっそり忍び込むような男になった」と、八〇年代末にバンドのベースプレイヤーだったケニー・アーロングは指摘する。

(略) 

一九八九年五月のヨーロッパ・ツアーでは、ディランはスウェットのフードをかぶったままステージに立った。

(略)

ぼさぼさの髪、着替えずにそのまま寝た服、ボブは乱れたままのベッドのように見えた。バックステージでのボブは、だれとも会わなかったし、いろいろな面でますます変人になっていった。

(略)

 ボクシングトレーナーのボブ・ザ・マウス・ストラウスを真似て、修道士のようなフードをかぶり始めた。

(略)

彼は過去に有名だった男を見せるフリークショーのような存在になっていた。評論家たちも彼のショーは最悪だ、と不満や哀れみを込めて文句を言う。いつも酔っぱらっていて、コントロールできない。おまけにひどいリードギターを弾く。

(略)

 いまや彼のショーは、しばしば列車事故のようだと言われるようになった。彼は不幸だ。自分の役割を見いだせず、家庭もなく、レコードも売れない。ビニールレザーのソファの上に横たわり、赤ワインかブランデーを直接ボトルから飲んでいる。

(略)

 最悪のパフォーマンスは一九九一年二月まで続いた。

(略)

『アンダー・ザ・レッド・スカイ』をプロデュースしたデイヴィッド・ウォズは(略)苦労を次のように語っている。「彼との仕事は疲れた……彼はディレンマに取り憑かれていたようだった。『ボブ・ディラン』であることが絶えず重荷になっていると、おれは思った」

『アンダー・ザ・レッド・スカイ』 

ツアー移動もひとりで専用のバスを使う。彼はホームレスのような格好で通りをうろつく霊のようだった。疑い深く、こっそりとディランは逃亡者のように暮らし、大音量のバックバンドやゴスペルコーラスに自分のヴォーカルを隠してきた。八〇年代の大半、彼はまるでろう城するかのように、ミツバチの巣箱――クイーン・オブ・リズムと呼ぶ黒人女性バックコーラスでレジーナ・マックラリー、キャロリン・デニス、彼女の母親マデリン・ケベック、元ローレッツのクライディ・キングの四人――に囲まれてステージに立った(しばしばステージを離れてもいっしょだった)。秘密だったが、バックコーラスの女性とも関係を持った。ボブの女性関係は複雑だ。彼女たちはボブのバックコーラスであり、取り巻きの女たちであり、保護者でもあった。その中のひとりキャロリン・デニスは、二度目の正妻となり、ボブの子を産んだ。

(略)

[マリア・マルダー談]

「彼が黒人女性とつきあったのは、彼女たちが彼を偶像視しなかったからだと思う。(略)ばかなことをしないで!ときっぱり言うことができる女性だった」

 一九八六年一月三十一日、キャロリン・デニスはボブの第六子となる女児ガブリエル・デニス・ディランを産んだ。もともと『アンダー・ザ・レッド・スカイ』はこの女の子のために書いた子供向けのアルバムだった。しかしガビー (ガブリエル)の誕生は極秘とされ、四か月後に正式に結婚した。(略)

[ロスの新居は]理想の家をつくるのにふさわしいと思われたが(略)

一九九〇年八月、キャロリン・デニスは離婚の申請をした。明らかに新居は家庭とは呼べなかった。ボブが家にいることはほとんどなく、いつもほかのバックコーラスの女性やレコード会社の女性A&Rと遊んでいた。

(略)

ボブは、さらに悪い方向に落ちていったが、突然いくつもの栄誉を受けることになった。この瞬間、悪いことに終止符が打たれた。一九八八年一月二十日、ディランはロックンロール・ホール・オブ・フェイムの殿堂入りをはたした。

ツアー名称 

ネヴァー・エンディング・ツアー(終わりのないツアー:八八年五月から九一年、ギタリストのG・E・スミスが抜けるまで)、マネー・ネヴァー・ランズ・アウト・ツアー(金は尽きないツアー:九一年秋)、サザン・シンパサイズ・ツアー(南部支持者ツアー:九二年初頭)、ホワイ・ドゥ・ユー・ルック・アット・ミー・ソー・ストレンジリー・ツアー(なぜそんなに奇妙な目で見るのかツアー:九二年ヨーロッパ)、ワン・サッド・クライ・オブ・ピティ・ツアー(哀れみのひと叫びツアー:九二年オーストライア&アメリカ西海岸)、プリンシプルズ・オブ・アクション・ツアー(行動主義ツアー:九二年メキシコ&南アメリカ)、アウトバースト・オブ・コンシャスネス・ツアー(意識の噴出ツアー:九二年)、ドント・レット・ユア・ディール・ゴー・ダウン・ツアー(約束を破るなツアー:九三年)

『変なおじさん』 

ある日の午後、ボブは(略)フードをすっぽりとかぶった姿で、どこかの家の前の芝生に立っていた。ブルース・スプリングスティーンが『明日なき暴走』の曲をつくったとされている家を探していたらしい(略)。不審な浮浪者と疑った近所の人が警察に通報

(略) 

「バブル巡査は二十二歳で、ボブ・ディランを知らなかったのです。(略)身元証明書類を調べるためホテルまで同行し、その間に署と連絡をとり、ボブ・ディランがいかなる人物であるかを知ったんです。(略)」

 このほかにも、時折『変なおじさん』の目撃例が報告されている。

 

 ロサンジェルス郊外の高級住宅地、カラバサスの幼稚園児は両親に、「変なおじさん」のことを話していた。何度も幼稚園にやって来て、ギターを弾きながら「怖い」歌を歌うのだと。「変なおじさん」はボブ・ディランであり、その孫(ジェイコブ・ディランの息子)が幼稚園に通っていたのがわかった。ディランは楽しませようと歌っていたが、子供たちは伝説の人物が歌ってくれているとは知らなかった。子供たちにとってディランは、ただの「ギターを弾く変なおじさん」でしかなかった。

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