ボブ・ディランという男 その2

前回の続き。

ボブ・ディランという男

ボブ・ディランという男

 

カール・サンドバーグを訪ねる

[64年仲間たちと『オン・ザ・ロード』を再現する旅へ]

 ボブは、冒険をして、それまで自分が歌ってきた人々に会うつもりで旅を始めた。(略)世界は鉄道の制動手や追いはぎやカウボーイや流れ者や密造酒づくりでできているはずだった。しかし旅に出て、ボブはそのなかのたったひとりにしか出会っていなかった。

(略)

ディランたちは、シュガーローフマウンテンのふもとの二百四十五エイカーの土地に住むカール・サンドバーグを訪ねた。森の縁で山羊が草を食んでいた。ボブは車から降り、ひどく驚いているサンドバーグ夫人に自分は詩人であると自己紹介した。それで家に迎えてもらおうと考えていた。

(略)

ウールの格子のシャツに印刷屋がかぶる緑色のサンバイザーという姿で、前庭に立った髭づらのサンドバーグは、正真正銘のアメリカン・タイプというキャラクターをつくりあげていた。彼は人々に伝わる知恵に新しい形を与えて表現しただけでなく、八十三歳の肉体で自身の考えるヒーローを体現していた。

(略)

そこにいるのは、庶民のなかの庶民、山羊を飼う農夫のカール、素朴な口調で話す文学界のキンキンナトゥス、ポピュリストの一株の転がり草だった。本の世界のウディ・ガスリーのように、素朴な格言、ことわざ、そしてウィル・ロジャーズのような言いまわしが彼から溢れ出た。カールは詩人であり伝記作家でありバラッド歌いであり、民俗学者だったが、その前はペンキ屋だったこともホーボーだったことも皿洗いだったことも新聞記者だったことも石炭をシャベルで集める係だったことも無政府主義者だったこともあった。いま、その彼は山羊を飼う農夫であり、多方面においてくだけた虚言家だった。「やあ、おはよう、いったいまたどうして、こんな森の奥に来る気になったかね?」。ディランのなかに仲間の天分を認識しなかったとしても、サンドバーグはやさしいよい人間だった。

(略)

 ディランとおなじように、サンドバーグはいなか風の人間を模写する厚顔の大根役者だった。

(略)

サンドバーグは、強力で珍妙な民間伝承の発掘者、考古学者であり、詩の領域での人類学者であり、人を魅了する蒐集家であり、熱心にアメリカを語ろうとするほかの人々とおなじように、自分とアメリカをひとつのものと見ていた。

 ディランが知ったころには、サンドバーグの作品の評価は低下していた。

(略)

どちらにしても、サンドバーグが書くような真偽の嘘か怪しい話が大好きだった。自分の作品にも、そうしたものがたくさんあったのだ。しかし同時に、サンドバーグの気さくないなか者の演技を見て、考えるところがあったにちがいない。待てよ、いつまでもウディ・ガスリーの真似に執着していると、自分もこうなるのかもしれない、と思ったはずだ。いつまでもおなじ演出を続けた結果がそれだった。百八十歳を越えた偽物のいなか人。

(略)

ボブはサンドバーグに『時代は変る』のアルバムを贈呈したあと、ウディ・ガスリーがずっと応援してくれていることを話しはじめた。サンドバーグはそれを聞いて喜んだが、執筆をする書斎を見せてほしいというボブの頼みには応じなかった。会談は、それで終わった。

『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン

 一九六四年七月、ボブはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに二度目の出演をした。彼の「どうでもいい」という無関心な態度に、フォーク運動の指導者を自認する者たちは脅威を感じた。ボブはドラッグの歌として知られていた「ミスター・タンブリン・マン」を歌うことができないぐらいストーンしていた。はっきりとした離脱は始まっていなかったが、すでに背教者呼ばわりされていた。

(略)

 その夏の終わりごろ、ボブはウッドストックのカフェ・エスプレッソの上階に部屋を借りた。熱に浮かされるように『タランチュラ』を書きつづけ、恍惚が誘導するリリシズムに没頭をした。思いつくとすぐに書かないではいられない性分のディランは、封筒やナプキンやたばこのパックの裏に書いた。また絵葉書や雑誌から破り取った写真や絵画の複製やジャングルが燃えている写真や昔の物売りの写真などを壁に貼り、そうしたものをインスピレーションを得る材料とした。

 八月、『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』が発売された。ボブがどちらのサイドにいるのかをだれかが考えたとしても、彼はもうそこにはいなかった。

(略)

新アルバムは『時代は変る』とただちがうのではなく、その正反対だった。プロテストソングがひとつもないばかりか(略)

「マイ・バック・ペイジズ」では、プロテストソングの放棄が歌われていた。

「悲しきベイブ」で、ディランは政治性と個人性を融合してラヴバラッドの新しい形態をつくりだした。この歌はそれまでの多くの政治的な聖歌(アンセム)より急進的で、それまでのプロテストソングを一面的で卑小なものに思わせた。

(略)

彼のつぎの段階を示すものは、容赦のないヒップスターのスタンスだった。

(略)

 八月、ディランはニューヨークのアルモニコ・ホテルでビートルズに会った。(略)

彼らにマリファナを教え(略)ポールは、名前のもととなった新約聖書パウロとおなじように、予言的な幻覚を見た。「七層になっている。宇宙は……」

 ハロウィンの日はニューヨークのフィルハーモニックでコンサートがあった。このころになるとディランは大量にアンフェタミンを摂取するようになっていた(覚醒剤の使用でもとから持っている妄想症的傾向が強まっていた)。

(略)

 一九六四年の秋には、ディランのレコードが初めてミリオンセラーとなった。ジョージ・ハリスンは外へ出るのをやめてホテルにこもったほうがいいと助言した。ディランは「金持ちロックスターの怪物」になりたくないと抵抗したが、ほかに選択肢はなかった。

(略)

 ボブの新しい一面は、フォークの信奉者たちの気持ちを逆なでした。十一月、アーウィン・シルバーは(略)ディランが自己中心主義の創作活動をおこなっていると批判した。十二月、ポール・ウルフは『ブロードサイド』誌で、ディランをペテン師、偽善者と呼び、ファンを食い物にしていると攻撃した。

(略)

 一九六四年が終わるころ、新しいディランは新しい声で語るための新しい人物像、新しいキャラクターを必要とするようになった。

(略)

[ピーター・スタンフェル談。65年の大停電の時、ディランが言った]

『じつはね、もう曲はつくらないと決めたんだ。本を書きたくてね。だからアンフェタミンをやって、覚悟を決めて本を書こうとしたが、できたのは〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉だった』とね。

フォークの救済者からロックスターへ 

一九六五年の時点でディオンが何らかの形でディランのアイドルのひとりであるなどと考えた人はひとりもいなかった。当時はあきらかになっていなかったディランのポップミュージックへの愛着がわかる。ディオンはディランにとって、希望を象徴していた。

(略)

 ディランはつぎのように言う。「ディオンの声は、アレン・ギンズバーグが五〇年代に――しーんとした静かな時代だ――水素のジュークボックスと呼んだものから爆発するように飛びだしてきた。ばらばらのものを魔法のように――冷静に落ち着いて、大げさにリズムで騒ぎたてないで――、みごとにひとつにまとめ、秘密の言語のように思えることばでいまだ語られていなかった物語をその声で教えてくれた

(略)

 どのようにしてフォークの救済者からロックスターへの変身を果たしたのかについて、ディランは率直に説明する。「フォークをすこし」変えて、「それに新しいイメージと考え方を加え、キャッチフレーズと比喩を新しい決まりと組みあわせると、それがいままでとまったくちがう聞いたことのないものへと進化した……もうあと戻りする気はないし、なんと言われようと引き下がる気もない」

(略)

なぜプロテストを捨てたのかについては、公式化してしまったからだと主張する。「イギリス・ツアーのあと、つくるのをやめた。簡単になりすぎた……パターンになってしまったんだ」。

(略)

 一九六四年、エレクトリックのレコードをつくると決めたとき、どのようなレコーディングをすればいいのか、ディランにはまったくわかっていなかった。プロデューサーのトム・ウィルソンは、フォークのヴォーカルとアコースティック・ギターのバックに、エレクトリックのトラックを加えればよいと考えていた。ウィルソンは一九六五年九月に発売されたサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』で、本人たちに知らせることもないまま、この方法を使用している。彼の最初の考えは、ディランが「朝日のあたる家」を歌うアコースティック・トラックのバックに、ファッツ・ドミノ・タイプのロックンロールのトラックを付け加えるというものだった。

『わたしは別のだれかである』 

スージーに教えられてフランスの象徴派の詩人、アルチュール・ランボーの詩を読むようになった。これも大きなことだった。そして『わたしは別のだれかである』という題の彼の書簡を知った。このことばを見たとき、鐘が一気に鳴りはじめた。ぴったりのことばだった。(略)

そのことばは、ジョンソンの暗い夜の魂にも、ウディの熱っぽい組合集会の説法にも、海賊ジェニーで学んだ歌づくりの基本的概念にもうまくなじんだ」

 別の言い方をすれば、ディランの新しい言語は、神話、寓話、民話、聖書、競馬新聞、漫画本、闇社会の隠語などから成り立っている。そこはベートーヴェンクレオパトラやマ・レイニーやポール・リヴィアやコロンブスやエイハブ船長やアブラハムやイサク、かわいそうなハワードやジョージア・サムが住む世界だ。政治的な歌から寓意的な歌へ移行したディランの新しい手法は、「廃墟の街」「親指トムのブルースのように」「ボブ・ディランの115番目の夢」「追憶のハイウェイ」「トゥームストーン・ブルース」で、それまでとまったく異なる形で示される。なかでももっともみごとな例は、「ジョアンナのヴィジョン」だった。

ニューポート事件の真相

フォークの番犬たちは離れていくディランに襲いかかったが、ディランはそれに負けずに、エレクトリック演奏まで始めた。このことが、一九六五年七月二十五日、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルで起こった大騒ぎの原因だったと言われている。ファンがディランを非難したというあの事件だ。野次が飛び交ったと!それはあくまでお話だ。メディアが、そしてボブ自身が好んでひろめたお話だ。それにもかかわらず、ボブのニューポート事件は伝説となった(ポップ音楽史の聖堂にたいせつに保管されている)。頑固なフォーク純粋主義者の何人かがざわめいたかもしれないが、わたしがその日、実際に聞いたのは、ほとんどがお粗末なPAを怒る声だった。

 会場の大勢の若者は、ディランがエレクトリックに転向し、そして難解で複雑なこの歌をつくったからやって来たのだった。ニューポートは忠実な信者の集まりというより、春休みの雰囲気だった。来場者は主としてビールを飲んでいる大学生で、彼らはラジオで「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聞き、ディランがロックンロールを演奏するのを聞きにきていた。

(略)

[バンドと演奏しステージを降りたあと]

ディランはひとりでステージにもどり、アコースティックで「ミスター・タンブリン・マン」と「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を歌った。最後の歌がだれに向けたものであろうと、ニューポートのアンコールでそれを歌うことは、強い主張であり、フォークの仲間たちへのあからさまな別れの挨拶だった。嵐のような拍手と「もっと」と叫ぶ声があったが、ディランがもう一度出てくることはなかった。

(略)

 ステージにいたアル・クーパーは、ブーイングはディランのエレクトリック転向を非難するものではなかったとする。みんなが怒ったのはディランがひっこんだからで、怒りの矛先はディランのステージを切り上げさせた司会者のピーター・ヤーロウに向けられていた。「ブーイングの理由は(略)ディランが十五分しか演奏しなかったからだ。客は金を巻きあげられたと感じた。

(略)

 その夏のあいだに、ニューポートのブーイング事件が伝説となってひとり歩きをはじめた。

(略)

マスコミにそそのかされた一部の若者たちは嬉々としてそれを受け入れた。ディラン自身もそれを煽るようなことをした。

(略)

やがてディランは、この真偽の疑わしいできごとを自分の伝説の重要部分と見るようになった。

(略)

ボブが変わったことを示すのは、エレクトリック転向やサングラスやビートルズ・ブーツといったロックスターの恰好だけではなかった。ボブは自分のまわりに、高級なドラッグやヒップなひそひそ話や悪意に満ちたこきおろしを供給する冷笑的な取り巻きを集めた。こうした意地悪な連中の親玉が、冷酷なウィットを持つ画家、そして最先端を行く遊び人、ボビー・ニューワースだった。

(略)

[アル・アロノウィッツオ談]

刃物のように鋭い独創的なことばでけなして、相手を軽蔑するんだ。彼に徹底的にけなされたあとは、ドアの鍵穴しか出口がなくたって逃げたくなる。彼は、一滴の血も流さずに相手の首を切り裂くことができる男なんだ」

 アル・クーパーによれば、ディランがなりたいと思っていたのがニューワースであり、毎夜、恐るべきふたりのボビーは人格攻撃という邪悪な術を実行していた。

ドラッグ 

 ナット・ヘントフの質問に答えて、ボブは自分について話している。「ドラッグを使うことはすすめない。とくにハードドラッグはだめだ。ドラッグは薬品だ。でもオピアムとハシシとポットはちがうけどね。あれは薬品じゃなくて、すこし心をたわませるだけなんだ。みんなもときどき心をたわませたほうがいいと思う。LSDは使わずにそれをするんだ。LSDは薬品だ――別の種類の薬品だ。LSDはいわゆる宇宙を意識することができる。物体なんていかにばかばかしいかわかるよ。だけどLSDは、きまってる人たちのためのものじゃない。復讐を望む憎悪に満ちた狂った人間たちのものだ。いつも心臓発作を起こしている人用だよ。その使用を赤十字ジュネーヴ条約に追加するべきだね」

 いつものことながら、ボブが、言っていることを本気で考えているのか、ほんとうに考えていることを言っているのか、それはわからない。しかし、話のなかで自分が使っているドラッグの名を避けていることに少々の衝撃を覚える。

「ものすごい勢いのアンフェタミン摂取で、彼はすでに電気を帯びた存在、放射性のある存在になっていた」とアントニアは言う。

イメージは南北戦争復員兵

『地下室』の録音は(略)非常に変則的な形で始まった。ディランは(略)リチャード・マニュエルとリック・ダンコをウッドストックに呼んでいたが、それはふたりを写して『イート・ザ・ドキュメント』のいくつかのシーンに使いたいと考えたからだ。当時のふたりはそのままで、ドッジシティの酒場のカウンターに向かう南北戦争の復員兵に見えた。そしてふたりのその姿は、ディランのつぎの段階、時間旅行の段階にぴったりだった。

 ディランは『ボブ・ディラン自伝』で、南北戦争はすべてのものの中心だと書いている。(略)

やがてホークスのほかのメンバーもウッドストックに集まり、南北戦争にとりつかれたディランに合わせて、南北戦争復員兵の銀板写真を下敷きに意識的に自分たちのイメージをつくりあげた。彼らはのちにザ・バンドとして、ロック・ミュージックに大きな変革をもたらすことになる。

(略)

[ビッグ・ピンクと呼ばれる家での]

レコーディングは単純なきっかけから始まった。「振りこみの金」(印税)が底を尽きはじめ、グロスマンはディランに言った――ツアーをせずレコードも出さないなら、曲をつくってデモテープをつくり、それを売るのだと。ディランは一九六九年後半、『ローリング・ストーン』のインタヴューのなかで「いや、あれは自分用のデモテープじゃなかった。曲のデモだった。せっつかれていたんだ..…曲をつくれって。そういうことってよくあるじゃないか」と言っている。

 実際、グロスマンはそのときの曲を売った。主な売り先はイギリスで、ジュリー・ドリスコールは「火の車」をカヴァーし、マンフレッド・マンは「クイン・ザ・エスキモー」をヒットさせた。ディランのデモテープを聞いたマンフレッド・マンは「このへたくそな歌手はだれなんだ?」と訊いたという。史上初のブートレグ・アルバム『グレイト・ホワイト・ワンダー』に収められた曲のほとんどは、このときのデモテープからのものだった。

 (略)

ディランとザ・バンドたちは、「サイケデリックのたわごと」もロックもプロテストもフラワー・パワーも否定した。

(略)

民話や伝説や歴史といった時間を超えたもののなかにひきこもっていた。ロビー・ロバートソンは「ぼくたちは反抗に対して反抗していたのだ」と言う。

(略)

ディランは過去と現在の時間が放つ微細な周波数をとらえて、受信したものを増幅させる名人なのだ。言い伝えや警察の事件簿やコーヒーショップのカウンターやバス停留所で洩れきいた会話。かつては六〇年代の火花を散らすエネルギーを活力にした彼が、今度はアメリカのことばが積み上げられた土まんじゅうを創作の源とするようになった。

 民間に伝承されたもの(略)には新世界のさまざまな経験がこめられている。ディランは狂った夢の本から恨みや守られなかった約束や盗まれた馬をとりだし、さらにタイニー・モンゴメリーというように地名の擬人化をおこなった

(略)

 音楽を通して仲間とエネルギーを交換しあう。だれもが意識的に聞いているのではなく、ただ自身の歓喜のために演奏する。(略)

[ディラン談]

「あれが、本来のレコーディングのあるべき形だ。だれかの家の地下室で、落ち着いたなごやかな雰囲気に包まれて演奏する。明かりとりの窓から気持ちのいい風が入ってきて、犬がかたわらで寝そべっている」

『ジョン・ウェズリー・ハーディング』 

最重要曲は「見張り塔からずっと」で、ほかの曲はこの曲を中心に回っている。聖書に関連する表現、終末の日の戦慄によって、この曲は、最後の審判の日が切迫しているというティーネイジャーたちの独我論的幻想のテーマ曲となった。

(略)

ジミ・ヘンドリックスはディランの凶兆の感覚をみごとにとらえ、それを増幅させ、冒頭の吠えるようなコードはことばに電気を帯びさせ、恐怖を導き出す。ディランは不吉な警告にあわせて威嚇のリズムをつくるうちに、意図せずして初めてのヘヴィ・メタルを創出していた。

(略)

 ディランはつぎつぎとカメレオンのように変身し、わたしたちにはもはや、どのディランがほんとうのディランなのかわからない。やがてディランは、高く張った綱の上で保護ネットもなしで、このいくつものディランをお手玉のように投げてはつかむを繰り返す。(略)わたしたちが知らなかったのは、彼がジャグルしているのはわたしたちだったということだ。

次回に続く。