キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン

キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン
 

 リズム&ブルース

十三歳のときに私を熱く燃え上がらせた音楽は、クラシックとは似ても似つかないものだったのだ。退屈な男たちが支配する五〇年代に青春を過ごした私たち世代にとって、アラン・フリードの届ける音楽は、まさに天国からの贈り物だった。だが世間の親たちにとってこの音楽は、地獄から不安を撒き散らしながらやって来た邪悪そのものに見えていた。

(略)

実際に、アラン・フリードがかけるレコードは私たちの世代に性を目覚めさせ(略)自由を奨励するものだった。ただ、セックスを具体的に言及することはなく、歌詞でもさりげない表現に留めている。そもそも「ロックンロール」という言葉自体、黒人スラングで性行為を遠回しに意味しているのだ。「レット・ザ・グッド・タイムス・ロール」の歌詞の一節から「ロール・ミー・オール・ナイト・ロング」を分析してみると、いかがわしい単語は一つも出てこないが、全体の意味は間違いなく性行為を指している。そしてそこには「ビッグ・ビート」の要となる、ベースのうねりが響き渡っていた。

 思春期を迎えるまで私は性についてナイーブだったが、突如、うねるベースラインと脈打つドラムビートが今まで感じたことのない形で私の未体験ゾーンに押し寄せると、その音楽は私の本能に訴えてきた。思えば、ロックンロールとの出会いは自分の下半身に対する意識と同時に発展していたのだ。だから夜更かししてまでアラン・フリードの番組に耳を傾け、リズム&ブルースのレコードを聴くことにあれほど夢中になれたのだろう。

サラダ・デイズ

唯一、私のやましいことは、煙草で(略)煙草代、映画代、その他遊ぶ小遣いを貯めるため、私たちは親の手伝いのほかオフィスや店でのアルバイト、ベビーシッターなどをした。アルバイトがないときは、ブライトン・ビーチまでバスで行き、日焼けローションをお互いの肌に塗り合い、まだ成熟していない少女の体を日中の太陽にさらした。(略)

 コニー・アイランド・ボードウォークやシープスヘッド・ベイ・ロード、キングズ・ハイウェイといった街路を行き来するうちに、私たちのホルモンとフェロモンは炎天下で混ざり合っていく。(略)

男子たちが気取って歩き、女子たちはヒソヒソ話をしてクックッと笑い転げる。店のショーウィンドウに飾られた秋物の服を着た自分を想像しながら、実際はバナナ・スプリットを一つ買ってみんなで分けて、帰りのバス代をとっておくのがやっと。店で可愛い服を買えるお金は持っていなかったが、代わりにハンカチ・セットで我慢した。イニシャルのCが、それぞれピンク、青、黄色で刺繍されて箱に入っていた。

 一九五五年の夏はそんな思春期の私たちの思い出の日々、サラダ・デイズである。甘く、素朴で、平和な時間が、金色に光り輝く若さと新緑の無邪気さから生まれていた。毎日が熟したブドウのように甘く、夜はスイカズラの蜜のように淡い。もし、地球上の子供達全員がこんな夏を一度だけ験できるとしたら、世の中はより良くなっているかもしれない。

 だが、学校に通う子供なら誰でも教えられるとおり、夏は終わるのだった。

アル・パチーノ

 パフォーミング・アーツ高校での初日(略)

私が履修した演劇とダンスのクラスの担任は、ユタ・ヘーゲン先生とマーサ・グラハム先生。最初の点呼で覚えた名前は、アル・パチーノとラファエル・キャンポスだ。その他の名前は、親が映画や舞台で活躍している人たちで、スーザン・ストラスバーグは演技指導のリー・ストラスバーグ先生の娘、レティシア・フェラーはヘーゲン先生と俳優ホセ・フェラーの娘、そしてフランセス・シュワルツはユダヤ人舞台俳優モーリス・シュワルツの娘だった。

 新学期のスタート時に私はここで、ポピュラー・ミュージックへの情熱を満たしながら演劇を勉強し、ニューヨーク州の高校必修単位を取得できると思っていた。だが

[遠距離通学と演劇の授業に疲れ果て、二年の二学期、ジェイムズ・マディソン高校に編入]

 デートに誘われず

 マディソン高校での私の基本的な目標は、魅力的な女になり、みんなに好かれ、同級生から尊敬されることだった。だが、人気者になろうとすればするほど目標は遠のく。先祖の遺伝子によって背は低く、思春期の発達も一年遅れで、さらにほとんどの同級生より二歳年下という数字はごまかせない。競争の激しい高校時代において、私は同級生に比べておよそ三年も身体的発達が遅れていたのだ。

 男の子が私のことを“キュート”と表現するのを聞いた日、私は泣いてしまった。当時、それは人気者とか魅力的という意味ではなかった。キュートはデートしたい子に向ける表現ではなく、男子が女子を友達として見ているときに使う表現なのだ。男子から好きな子の相談を受ける女にはなりたくなかったが、実際に男子からかかってくる電話はすべてそれ。しかも私は友達が少なく、家に兄弟がいないため、多くの時間を一人で過ごすようになっていった。だが孤独は予期せぬ恩恵をもたらすもの。私は観察力を身につけたのだ。

(略)

 私が不良の仲間入りをする心配もなかった。そもそも私の高校に不良はたいしていない。(略)

 自分も含めて同級生の大半は労働者階級の家庭育ちで、常に親の監視下にあった。良い成績を収めることが期待され、私はその期待に応えていた。だが残念なことに、これこそがデートに誘われたいけど叶わない女の子の典型なのだ。どんなに自分の知的好奇心を低く見せても、男の子は相手にしてくれなかった。それはつまり、人気のある女子たちも私を相手にしていないことになる。少なくとも私は当時そう思っていた。

 三十年後、中年男女のグループが私のコンサート終了後、中年女性になった私に会いに楽屋へ訪ねて来てくれた。彼らはマディソン高校の同級生だと自己紹介した後、私が耳を疑うようなことを教えてくれた。当時、私のことをきれいで人気者でクラス一羨ましがられていた女の子だと思っていた、と言うのだ。私は反射的に「そのときそう言ってくれれば良かったのに」と答えた。だが本心は「そのときそう自分に言い聞かせれば良かったのに」だった。「あなたはきれいで、賢くて、面白い。そのままのあなたが一番。自信をもちなさい。自分のままでいい。自分を好きになりなさい。心配しなくていい。そのうちデートできるし、そうしたら別の問題が出てくる」と。マディソン時代にはそのことに気づかなかった。私は行動圏内で自分の居場所を探すのに精一杯だったのだ。

ジェームズ・ディーン、 ナタリー・ウッド

当時の良いルックスの持ち主とは、ポップ・アイドルなら健康的なフランキー・アヴァロンやフェビアン、映画俳優ならダークなイメージが“クール”以上の魅力を醸し出していたジェームズ・ディーンマーロン・ブランドだ。彼らの影響下、男の子たちは煙草ケースをTシャツの袖に巻き込み、ギャリソン・ベルトに親指を引っ掛けて、ワルぶっていた。(略)

一方で、ナタリー・ウッドが女の子たちの憧れをすべて背負っていた。彼女が演じるのは、若く美しく不良っぽさを忍ばせたティーンエイジャー。彼女の役はセクシーで、ロマンティックで、しばしば悲劇的だった。私もまた、親に内緒でグリニッチ・ヴィレッジでたむろし煙草を吸うなど禁じられた遊びに手を出しはしたが、私のことをクールだとか不良だと思っている人は一人もいなかった。私はあまりにもナタリー・ウッドとかけ離れていて、彼女のようになりたいと思ったことさえない。かすかな希望があったとしても、それが打ち砕かれたのはある日、階段下から聞こえてきた男の子の声だった。「キャロル・クライン? ああ、悪くないけどね、デートするなら背の高いブロンドの子だよ。あの大きい……」「ああそうだね!」とその友達が言葉をさえぎり、「ぼくも彼女だ」と低い声で言ったのだ。

 私は急いで階段を上りながら、三つのことを考えていた。恥ずかしさで顔が真っ赤になっていること、幸い誰も私に気づかなかったこと、そして血筋による不運を穴埋めするほど魅力的な女になるため、自分の長所を発達させよう、と勢いづいたこと。

ポール・サイモンとカズンズ

 一九五八年秋にニューヨーク市立クイーンズ・カレッジに入学したとき、同じく大学一年生だったアート・ガーファンクルポール・サイモンの存在は知らなかった。雑誌に写真入りでアートが「トム」、ポールが「ジェリー」として紹介されるのを見るまでは。一九五八年、ABCパラマウントから出た私のシングル失敗作に先立って、ビッグ・レコードという小さなレコード会社からトム&ジェリーの「ヘイ・スクールガール」が発売されていた。そのシングルはトップの圏内に入り、ヒットとみなされていた。

 同じ大学だったポールと私はすぐに友達になった。(略)

小遣い稼ぎを期待して私たち二人は、カズンズの名前でデモテープ制作をするようになった。ポールはベースとギターを弾き、私はピアノを、そして二人とも歌を。彼の曲や私の曲だけでなく、他人の曲のデモ制作も行った。収入はわずかだったが、まったく金にならなくてもやっていただろう。

(略)

 ポールと私が共作することはなかった。その理由を二〇〇六年にポールに尋ねたとき、彼は、自分が他人と曲作りができる人間だとは思えなかったこと、そして作詞の才能がないと思っていた、と教えてくれたが、一九六六年に「サウンド・オブ・サイレンス」が全米一位になった時点で彼は自分の作詞の才能に気づいたことだろう。

 一九五八年、私はまだ歌詞も書いていたが、一年前に比べたいした進歩はなく、自分より作詞技術をもった共作者を必要としていた。

ジェリー・ゴフィン登場

 高校二年、十五歳のとき、「トゥルー・ストーリー」という雑誌で黒髪と黒い瞳の若い男性のイラストを見つけた。あまりにもそのイラストが私の理想の男性像そのものだったので、切り抜いて財布の中に忍ばせていたのだった。ジェリー・ゴフィンに出会った日、その切り抜きはまだ財布の中にあった。

 一九五八年秋、ジェリーは十九歳、私は十六歳で、彼はクイーンズ・カレッジの夜間学生だった。(略)

ある日の午後、友人のドロシーと学生会館で試験勉強をしているとき、私はひどい生理痛に悩まされ勉強に集中できずにいた。そしてちょうど教科書を片付けているところに、ドアが開いて、ジェリーが入って来た。その瞬間心臓が止まった。彼は、財布の中に忍ばせているイラストに瓜二つだったのだ。

(略)

ジェリーと知り合いだった(略)ドロシーは彼に手を振って呼び寄せ、私たちを紹介し、私の具合が悪いことを伝えた。すると彼は、家まで車で送ってくれると言う。帰り道、薬局に立ち寄りジェリーは煙草を一箱、私は痛み止めのマイドルを購入した。車に戻ったジェリーは箱の上部からセロファンを剥がして箱を振りながら煙草を出し、唇に挟んだ。そして火を点けた後、マッチを振って窓から外に放り投げた。私は父親の職業[消防士]を考えると身が縮んだが、何も言わなかった。ジェリーは再び車を走らせた。ラジオからはジャズが流れ、会話は自然と音楽の話題に。私たちは二つのジャンルで好みが共通していた。ジャズと、舞台音楽だ。そして彼は唯一好きになれない音楽がある、と言うので「それはどのジャンル?」と尋ねるとこんな答えが返ってきた。「ロックンロール」

(略)

 私は彼にリトル・リチャードの音楽がどれほど自分に感動を与えているか伝えたかったが、それどころか私は、目の前の理想に近い男性に日は西から昇るのだと説得されそうになっていた。

 それから彼は、ジュリアン・ヘィルヴィの小説『若い恋人たち』を基にして、『ベイブス・イン・ザ・ウッズ』というミュージカルの脚本と歌詞を自分で書いたことを打ち明けてくれた。その歌詞に曲をつけてくれる人がいれば、ブロードウェイのプロデューサーに作品を持ち込んで、九時から五時の一般職に就かなくてもいいほど金儲けする夢が叶うという。

(略)

彼は片手でハンドルを回しながらもう片方の手でもう一本煙草に火を点けた。あまりにもその仕草がクールだったので、私は正気を失い、こんなことを自発的に口走ってしまったのだろう。

「実はね、アトランティックがミッキー&シルヴィアに歌わせる曲を探しているの」

 ジェリーは煙草を深く吸い込んで、煙を吐き、こう言った。「じゃあ一緒にその曲を作ってみない?」

 私は唖然とした。さっきまで彼は二十分もかけてロックンロールをけなして過小評価してきたのに。それほど嫌いなジャンルの曲をなぜ書こうと思うのかと聞くと、勉強のためにやってみたい、自分にできるのか見てみたい、と言う。

(略)

 母にジェリーを紹介してから、私と彼は居間に入って行った。そして「ラヴ・イズ・ストレンジ」を二回聴いただけで、ジェリーはその曲の第二弾となるアイデアを出してきた。ティーンエイジャーの恋人同士が、いい雰囲気になるたびに女の子の弟に邪魔されるという筋書きの「キッド・ブラザー」だ。(略)

 こうして初のゴフィン&キング作品は、わずか三十分で完成した。

 ジェリーと曲を作る作業は、とてもやりやすかった。

(略)

次々と曲を書くうちに、一曲に前金二十五ドルをもらえるまでに成長していった。それは音楽出版社にとっては小銭程度でも、私たちには大金だった。

結婚、アルドンとの契約

一九五九年の夏、私たちはローズデイルの両親の家で結婚した。

(略)

ジェリーはブルックリンのダウンタウンで科学者としての職を続け、私はマンハッタンにある工業用煙突製造会社で秘書として働いた。仕事が終わると、祖母のレシピ本やリア・レオナルド著『ユダヤの料理』を参考にして自分たちの夕飯を作った。

(略)

 夕食が終わると二人で曲を書いた。前金二十五ドルの小切手を期待して、私が仕事を休んで音楽出版社やレコード会社の重役に会いに行くこともあった。

(略)

さらに素晴らしい出来事があった。妊娠したのだ。

(略)

[ひどいつわりと音楽のために休みを取り過ぎたせいで解雇、そんな時]

偶然ブロードウェイで出くわしたのがニール・セダカなのだ。ニールに、ジェリーと私が自作曲の買い手を探している旨を話すと(略)アルドン・ミュージックのドン・カーシュナーとアル・ネヴィンズに会うように、と指示してくれた。

(略)

「アルドン」とは、アル・ネヴィンズとドン・カーシュナーの名前を合体させた社名。アルは、一九四四年のヒット曲「トゥワイライト・タイム」で知られるスリー・サンズの元メンバーだ。同社はアルが共同出資し、ドンがボビー・ダーリンやコニー・フランシスとの近しい人間関係とヒット曲を的確に聴き分ける能力を提供して、運営されていた。

(略)

[何曲かピアノで演奏すると、明日、ジェリーとまた来てと言われ]

 翌日の会合の結果、ドニーとアルは私たち作曲チームに三年間の音楽出版契約と、それに伴う前金として最初の一年目は千ドル、二年目は二千ドル、三年目は三千ドルを提示してきたのだ。合計六千ドルの前金を受け取る代わりに、アルドン・ミュージック株式会社「及び(又は)その相続人その他の継承人」との契約期間内にジェリーと私が書く全楽曲の著作権所有権をアルドンに譲渡し、前金はすべて、作曲家が受け取る出版印税から差し引かれる。音楽出版社と作曲家の著作権配分は同率で、音楽出版社の取り分がアルドン及び(又は)その相続人その他の継承人に行くことになる。当時、私は「相続人その他の継承人」の意味が一体何なのか分からなかったが、アルドンとの契約をその後延長したことで、一九五九年の契約時から一九七一年に発表した「つづれおり」の数年後まで契約は続き、私とジェリーの共作曲に限らず、別々に書いた曲もその中に含まれることになった。

(略)

六千ドルという金額は私たちにとって大金[だったが](略)

アルとドニーにとって、六千ドルの投資は比較的少ない額だったかもしれない。ジェリー及び(又は)私が書いた全楽曲の版権の所有権及び(又は)その移動権を、当時は五十六年間保持できたのだから。

「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」

ドニーがシュレルズの候補曲に選んだのは、ジェリーと私の曲だった。次の関門は、セプター・レコードの人の前で演奏すること。(略)

手にジェリーの手書きの歌詞を持ち、私はエレベーターを使わず階段を駆け上がり、セプターの社長フローレンス・グリーンバーグと、プロデューサーで「トゥナイツ・ザ・ナイト」の共作者であるルーサー・ディクソンの前で演奏した。二人は曲を気に入り、すぐにシュレルズでレコーディングしたい、と話が進む。私はそのままセプターのスタジオでデモを録ったのだ。自分のピアノ伴奏に生で歌を乗せただけの未熟な見本演奏だったが、シュレルズのリード・シンガーのシャーリー・オーウェンズに似せて歌った。後になって、シュレルズの誰か(略)が教えてくれたのだが、シャーリーがリード・ボーカルを録ったとき、私のデモを真似て歌ったという。シャーリーを真似て歌った私を本人が真似て歌ったとは!

(略)

 多くの人が歌詞を書いたのは私だと勘違いしているが、それはこの曲が十代の女の子の不安――一生に一度のご褒美を彼氏に捧げてしまうともう愛してくれなくなるかもしれないという心境を雄弁に表現しているからだ。作詞をしたのはジェリーで、彼は人間の本性を男女を超えて理解できる人。私はメロディを書き、スタジオでピアノを弾き、ストリングス向けのアレンジを作った。

(略)

 アレンジに取り掛かっているとジェリーが、ボーカルをこんな風にしたらどうか、と歌ってみせた。(略)

ヒントを探して私たちは、作曲家チーム、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーによるヒット・レコードを、ウィルバート・ハリソン(「カンザス・シティ」)からコースターズまで聴きあさった。(略)

今まで耳にしたことのない独特のアレンジは(略)「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」(ドリフターズ)だった。ドリフターズベン・E・キングの歌声にチェロとティンパニーを合わせるなんて、リーバー&ストーラー以外に誰が思いつくだろうか?

(略)

手書きで十五以上のアレンジ譜を作り終えた頃、私は目がかすんでいた。時計を見ると午前四時四十五分。ルイーズの寝顔を覗いてからベッドに入った。

(略)

ミュージシャンたちが(略)各パートを弾き始めたとき、私は興奮して目がくらむようだった。自分が書いた五線紙上の黒い丸と線が、美しい音楽となって流れ出すのだ。このときの経験は、私の期待を遥かに超えたものだった。

 私は十八歳だった。

(略)

私たちは、ジェリーが日中の仕事を辞めるタイミングをシングル百万枚という数值に設定していた。ドニーは、シングルが百万枚を記録したと知った日、このニュースをジェリーに個人的に伝えることにこだわり、運転手を出して私を拾ってからジェリーの職場のあるブルックリンへと車を走らせた。ジェリーは知らせを聞いて仕事を辞め

(略)

昼の空いた時間を使って他のアルドン所属作曲家たちと曲作りするようになった。その一例がバリー・マンとの「フー・プット・ザ・ボム」で

(略)

私もまた、他の作詞家と共作するようになった。シンシア・ウェイルやハワード・グリーンフィールドが有名だ。

「ロコモーション」 

 “黄金の耳”をもつドニーがヒットの太鼓判を押した「ロコモーション」をカメオ・パークウェイが見す見す逃したことは、ドニーをディメンション・レコード設立に駆り立てた。カメオ・パークウェイがレコード会社として成功していた事実も後押ししたのだろう。ディメンションは、アルドン・ミュージック所属作曲家たちが制作し、アルドンの管轄下にあるアーティストたちが歌ったレコードを発売することになった。我が家のべビーシッターをリトル・エヴァ命名したのはドニーである。こうして「ロコモーション」はディメンション・レコードの第一弾シングルとして、一九六二年六月八日に発売された。

 ドニーの直感は、本当にお金を生み出した。「ロコモーション」が全米一位になるのに大した時間はかからず、その後七週連続一位。

(略)

「ロコモーション」は新種のダンス・ステップをほのめかしてはいるが、ジェリーも私も具体的なダンスを思い描いていた訳ではない。そのためエヴァは人前で歌うために自分でダンスを考案せねばならず、宣伝写真撮影の日、彼女は機関車の横に立ち、「ロコモーション」の曲がスピーカーから大音量で流れる中、機関車のように腕を動かした。こうしてダンスが生まれたのだ。

(略)

 ドニーは「ロコモーション」のヒットにご満悦で、ジェリーに他のアーティストのプロデュースも任せるようになった。間もなくディメンションは強力なインディーズ・レーベルへと成長し、ジェリーは才能あるプロデューサーとして認められる。

郊外暮らしに退屈していた夫

 全体的に見て私たちは安泰だと思っていた。だがジェリーは郊外での暮らしを楽しんでいなかったのだ。「プリーザント・ヴァリー・サンデー」(モンキーズの六七年ヒット曲)と言う曲の中で彼は自分の意見を強く主張している。

[バリー・マン&シンシア・ワイル夫妻とマンハッタンでディナーを楽しむと、二人]

(略)

は歩いて帰るが私たちは駐車場から車を出し(略)西に車を走らせ、ようやく家に到着する。“私たち”と言ったが運転手はジェリーで、私は寝ていた。そしてジェリーは運転を好んでいなかった。理由は二つ。一人で運転するから、そしてマンハッタンに帰るほうがよっぽど楽しかったからだ。

(略)

私は幸せで、その安堵感に溺れる中で夫も幸せに違いないと思っていた。だがジェリーは、東と西の両海岸で起こりかけている社会運動の風を感じ始めていた。その風は嵐となって、家族を分裂させるに十分なエネルギーを伴い、私たちは東から西へ、国から国へとバラバラになっていくのだった。

(略)

 ニューヨークを制したドニーは新たな征服地を模索した。

(略)

 西海岸にオフィスを構えるというドニーの決断は、明敏かつタイムリーだった。そしてその運営にルー・アドラーを抜擢した人選もまた賢明と言える。ルーは西海岸のアーティストやプロデューサーたちと長い付き合いがあり、彼を登用したことでアルドンの作曲家たちの元には幅広いジャンルのアーティストたちのヒットが転がり込んできた。

次回に続く。