レノンコンパニオン 60篇のレノン論

 ジョンよ永遠に ロイド・ローズ(1985) 

 レノンが父と心得ていたジョージ・スミスは、彼に居心地のいい中流家庭を提供してくれた牛乳屋だった。スミスは彼に読み書きを教え、彼が初めて吹くハーモニカを買い与え、厳格なミミの目を盗んでは彼を甘やかしていた。彼はレノンが一四歳のときに世を去っている。

(略)

レノンの人生においては忘れ去られた存在とはいえ、父親のいない少年に彼が及ぼした影響は甚大なものだったに違いない。

 さすがというべきか、フィリップ・ノーマンは《Shout!》の冒頭に、姉の生まれたばかりの赤ん坊を抱き上げようと、空襲にさらされたリヴァプールの街を病院へと疾走してゆくミミ・スミスの物語を据えた。「『男の子、男の子よ。待ちに待った男の子なんだわ』と思わずにはいられませんでした」。「ジョンを見たが最後」と彼女はハンター・デイヴィスに語った。「私は永久に彼の虜となってしまったんです」。

(略)

ミミがすべての愛情を甥に注ぐなかで、伯父のジョージは脇に押しやられ、伝統的なファミリー・ドラマのようなレノンの少年期の体験が、父親代わりの人物から母親代わりの人物を勝ち取るという結果をもたらしたとも言える

無意識の世界 

 コールマンによれば、彼は八つか九つの頃、ミミ・スミスのキッチンに入り込んで、神様を見たと言ったという。何をやっていたのか彼女が尋ねたところ、彼はこう答えた。「うん、暖炉のそばで座ってただけだよ」。幼い頃に見たこの宗教的な幻は、神秘的な含みとあいまって、きわめて特異な青年期の体験の前兆となった。死の直前にデイヴィッド・シェフが試みたプレイボーイ誌のインタヴューのなかで、レノンは少年期から青年期に及ぶ過敏な感受性について、幾分長めに語っている。「僕にとって、シュールレアリズムは現実なのさ。サイケデリックな夢想も僕にとっては現実だし、ずっとそうだったよ。一二、一三と鏡に映った自分を見つめていると…… 文字通り、アルファ波の世界へと引き込まれていったものさ……そして、自分の顔の幻像が変化して、壮大で完全なものになっていくのを見ていたんだ。僕はトランス状態に入り、両眼は大きくなってゆき、部屋は消え失せてしまうんだよ」。

(略)

 確かに彼は、きわめて深く無意識の世界と親しみ、またそれに依存していたように思える。(略)

彼の曲は、あたかも彼の心の海辺に打ち上げられた、幾重にも渦を巻いたそれ自体で完全なる姿を誇る美しい貝のようだった。〈Across the Universe〉や〈Nowhere Man〉を作った頃について、彼はシェフに「霊媒のように、取りつかれた」ようだったと語っている。

 音楽のコンセプト

「ジョンの音楽のコンセプトはとても興味深いものです」と、ジョージ・マーティンはデイヴィスに語った。「ラヴェルの『ダフニスとクロエ』を弾いて聞かせたことがありましてね。彼は、メロディーのラインが長すぎてついて行けないやって言うんです。音楽っていうのは、短いものをこしらえて、それからつなぎ合わせていくものだと思ってると言ってましたよ」。

芸術かぶれのテディ・ボーイ マイク・エヴァンス

(略)

 過去と現在とを問わず、イギリスは最も階級意識の強い国家である。皮肉なことに、戦後の平等主義が生んだ社会の“均質化”は、伝統的な格差をより際立たせるとともに、新たな格差をもたらすしか用をなさなかった。一九四四年に定められた教育法は、“戦争の落とし子”の世代に関するかぎり、階級事情にふたつの直接的な影響を及ぼした。伝統的な中学校に入学するための11歳試験に実力本位制度が導入されたことは、労働階級の背景を持つ子どもたちが、初めて高等教育の本流に数多く入り込んでくることを意味していた。だが、この制度が破壊に寄与した生まれながらの階級という障壁は、知能に左右されるという階級の価値体系にとって代わられてしまったのだ。労働階級や、中産階級でも貧しい部類に属する家庭に育った子どもたちは、11歳になると、彼らの出自などにはほとんどお構いなく、有望株と落ちこぼれ、すなわち成功の可能性に恵まれた者と最後通牒を突きつけられた者に分類されてしまうようになった。ちょうど彼らの父親が、工業地帯の人生と田舎で作業に従事する人生とを振り分けられたように(このシステムでもうひとつ異常な点は、こうした学校制度のアパルトヘイトも上流階級には強固な拘束力を持っておらず、国家レベルでの変革も、袖の下に動かされる教育については触れずじまいだったことである)。

 “公立中学”に通っているか、“ただの中学”に通っているかというアイデンティティがもたらすプレッシャーは甚だ強く、ジョン・レノンが一〇代だった一九五〇年代の中盤には、そこかしこで芽を吹いていた新鮮な若者文化の面でも、くっきりと一線が画されている状態だった。グラマー・スクールの文化は“スマート”な傾向にあった――彼らの出身が労働階級で固められていればなおさらである。彼らは“ガリ勉”であり、一九五〇年代の半ばでは、ジャズにのめり込んでいそうな子どもたちだった。校庭では、ザ・グーンズが最も崇拝されていた。フォークとスキッフルが蔓延していた。反核運動は、最も大規模な支持母体を見つけたのだ。五〇年代の末には、グラマー・スクールは最先端を行っていた大学とともに、(フリート・ストリートの助けを借りて)ビートニクたちを生み出すにいたっていた。

 一方、セカンダリー・スクールは、プロレタリアの一〇代を代表しており、こちらも芸術的というよりは経済的な動機ゆえに、文化におけるアイデンティティを獲得していた。それはアカデミックでもなければ文学的でもなく、基本的には芸術と敵対するものであり、その中心はロックンロールを取り巻くスタイルと音楽に定められていた。

 より高度な教育機関――大学、教員養成所、美術学校――は、グラマー・スクールを卒業した大衆の子孫たちの前に開かれていた。だが、そうした機関の大部分が入学について特定の学問的基準を設けていたのに対して、美術学校の進学システムははるかに杜撰なものだった。学問のうえでは大した成功を収められなかったジョン・レノンの場合も、事情はまるで同じだった。知的な面での才能にも恵まれていながら、彼は試験に入っている科目に憤慨してこれを受けつけず、0級さえひとつも取らずに終わってしまった――彼が本当の才能を披露したと教師も認めた国語と美術の二科目でさえ、0級を取っていないのだ。学校時代、特に最後の二年間の彼はトラブルメイカーないし教室のジョーカーという異名をとっており、その関心といえば、もっぱら組み始めたばかりのスキッフルのグループとか、彼の特別な漫画新聞「ザ・デイリー・ハウル」に向けられていた。この新聞は、彼が自分で描いた教師たちのカリカチュアが売り物となっていた。クォーリー・バンクの校長は、まるでわがままなレノンの役割を見つけてやることに絶望したかのように、彼が書きためた豊富な漫画を、リヴァプール美術学校に入学を請願する際の資料の中心とすることを提案した。地方の美術学校の場合、基礎的な中級課程なら、カット画の成績だけでも入れてもらえたのだ。このようにして、たまたま芸術的な才能を発揮した“アカデミックでない”学生たち、すなわち広範囲にわたる芸術家予備軍に門戸が開かれていた。

 大戦後、徴兵制度によって一八歳の男子全員に兵役が課せられるようになると、高等教育は召集を逃れたい利口な少年たちの吹き溜りとなった。学生の大部分が、やすやすと兵役を免除されたのだ。一九五九年に徴兵制が廃止されてからも、カレッジはキャリア志向の少年たちだけでなく、いまだに一、二年の“誠実なおつとめ”にビクついている者たちの心も惹きつづけていた。美術学校が芸術好きの少年たちに提供していたのは、大人としての責務を回避するチャンスとともに、技術的な習練と美術学校生特有のボヘミア風ライフスタイルの双方を楽しめるチャンスだった。多くの少年たちにとって、後者のほうがはるかに魅力的だったことは当然である。

 こうした緊張感や、たとえようのない文化的な重圧ないし影響の中から、新たな反逆者が登場してきた。一方では、ダッフル・コートに身を包んで、パイプをくゆらすジャズ・ファン[や]

(略)

[保守的な国粋主義者な]悪ガキたちのことでもない。(略)[その]派手な暴れっぷりにしても、もはや一九五〇年代の末には田舎のジュークボックスでしか耳にできないような音楽(初期のエルヴィス、バディ・ホリー、リトル・リチャード)の受け売りという有様だったのだ。ちょうどこの時期に美術学校を席捲していたものは、一〇代の不満を体現したこれらのモデルの、強力な混合物だった。グラマー・スクールに存在した社会のるつぼから、さまざまな文化の参考書の寄せ集めというべきものが生まれてきたのである。高台の裏通りで育った少年たちは、ピカソよりもパルプ・マガジンのコミックスのほうに興味があった。郊外のロマンチストたちは、“アメリカン・ビート”派の新進ライターたちに首ったけだった。そして、そうしたいたる所で、ロックンロールとそれに油を注いだイギリスのスキッフルの影響が広く浸透していたのだ。その結果が、まだ一七歳だったジョン・レノンが典型となり、また先駆者のひとりともなった種族として現われた――美術学校のテディ・ボーイである。

 レノンはすでにクォーリー・バンクでも、オール・バックをグリースで固め、許容限度まで細くしたズボンをはき、細いネクタイを締めて、「テディ・ボーイのはしくれ」という風情で、美術学校ではまるで腫れた親指のように目立っていた。

(略)

こうした学生たちは、突如としてロンドンにあるRCAやスレイドなどの大学院研究科課程に登場し、労働階級の(あるいは地方の)アクセントで騒ぎ、まるでマッチョのバイク野郎のように闊歩し、下品な言葉を連発し、通りすがりの喧嘩に割り込み、教官たちを脅かし、女の子たちのほとんどにちょっかいを出していた。だが、さかのぼって一九五七年、レノンがリヴァプールの中級課程に出現した当時は、彼の度胸の座ったスタイルと粗暴な振る舞いは、ほとんど例のないものだった。ほとんどということで、まったくというわけではないが。

 ジョンよりひとつ上の学年には、準テディ・ボーイとでもいうべき学生がもうひとりいて、イメージという点だけについて言えば、レノンは必然的にこの男に惹かれていた。この人物こそ、ステュアート・サトクリフである。

(略)

新学期を控えた夏休み中に、プレスコット・グラマー・スクールを去るのとほとんど時を同じくして、サトクリフは自分のいかにも学生っぽい“ダサい”髪型(誰もがそう表現していた)と、“ガリ勉”メガネを、彼のヒーローだった死後間もないジェイムズ・ディーンに似るように変え始めていた。一年後、若きジョン・レノンが後輩として馳せ参じてくる頃には、もうサトクリフはスリムなズボンをはき、サンダルを愛用し、前髪を後ろになでつけてサングラスをかけるという、甚だ個性的なポーズを取るにいたっていた。

(略)

 だが、ジョンの内部で熱狂をかき立てていたものは、サトクリフのスタイルへのこだわりや、ヴィジュアルに対する姿勢であり、これらは彼が自身のどこかに感じ取っていたものだった。彼らは何時間も話し込み、ステュアートは心酔している画家たちや(彼はカレッジの画学生の間では期待の星と目されていた)、ジェイムズ・ディーンや、人生一般のことについて熱っぽく語った。ジョンのほうは、ややこしい言葉遊びが生み出すユーモアや辛辣なウィットを交えて、ロックンロールの世界に向けた野望をまくし立てていた。

(略)

 サトクリフはロックンロールが大好きだった。そして彼は、ジョンが持って生まれたダイナミズムの中に、ロックンロールのミュージシャンになるというロマンティックな夢想を抱いたのである。この夢想は、実際に演奏するという、誰もが心のなかで育みそうなイメージに根差したものだった。だから、ジョンがスキッフルのグループから様変わりしたロック・バンドでの地位を提供するや、彼は一も二もなく参加したのである。

(略)

五九年頃の、モヘアやラメで飾ったようなポップスは、彼らには無縁だったのである。結成当初から、彼らは“クール”なロックを取り上げていた。髪型が明らかにアメリカの一〇代に範をとったものであっても、身なりは当時の他のグループよりもダークで繊細なものだった。黒いタートル・ネックのセーターに濃紺のジーンズをはき、白いスニーカーという案配である。

 (略)

ビートニクや美術学校生とちがって、テディ・ボーイは反知性、ひいては反芸術を恥じることなく標榜していた。美術学校生のためのパブ「イエ・クラック」でハッタリ屋たちを楽しませていたレノンは、舌なめずりせんばかりに、こうした立場を取っていた。彼は一度ならず、「アヴァンギャルドってのは、フランス語でナンセンスって意味だぜ」と公言していた。 

ヨーコ・オノとので出会い ジョン・ジョーンズ

(略)

ヨーコ・オノの記事を初めて目にしたのは、アート・シーンへの近道になりそうな芸術イヴェントを探すためのヴィレッジの新聞だったと思う。夜明けに屋上で起こすという“ハプニング”を見るために、暗いうちから起き出したことを記憶している。目ざす家は見つかったものの、なかなかドアをノックすることができない。

(略)

 こんな時のコツを心得ている芸術好きがやって来るのを街角で待ってみたが、誰も現われず、私はベッドへと引き返したのだった。後で教えられたことには、ドアさえ押し開けば階段が屋上へと私を誘い、朝日の最初の光線がテーブルについたヨーコ・オノの姿を照らし出すさまを見られたのだという。卓上には似たような石ころが列を作り、それぞれに五セント、五〇セント、五ドル、五〇ドル、五〇〇ドル、五〇〇〇ドルと値を付けられていた……。明らかにこんな疑問が呈されていた。「ほとんど同じ石ころなのに、なぜこれほど値段が違うのか?」。買うことで価値が決まる、というのが答だった。五セント払ったなら、それは五セントの石ころになる。五〇〇〇ドル払ったものなら、それは五〇〇〇ドルの石ころになるのだ。芸術とはわれわれが芸術と呼べるもののことだという、デュシャンが度々発した宣言をディーラーたちが台無しにしてしまったような、市場における芸術に対する鋭い見方が示されていた。だが、この宣言がヨーコ自身のものであったことも察しがつく。当時、彼女の心に去来していたテーマは、物事とは私たちがそれをどう考えているかということに過ぎず、「すべては心の中にある」ということを断言することにあったのだ。(略)

 このジャンルでは、すでにヨーコは代表者としての確固たる地位を築いていた。一九六一年にはカーネギー・ホールでコンサートを開き、ジョン・ケージと日本を回ってもいたし、たびたびニューヨークに登場してもいた。

 初めて実際にヨーコを見たのは、アラン・カプロウが床に何か(新聞紙?)を撒き散らし、それから掃除するというパフォーマンスが入っていたプログラムでのことだった(略)

シャーロット・ムーアマンも出演していたが、彼女はかつて、弾いているチェロ以外は何も身に着けずに公衆の面前で演奏したという一件で、警察と悶着を起こしていた。多分これは、ヨーコが観客を引っ張り上げ、ハサミで自分のドレスを切り刻ませた際のことと思われる。観客は、多少を問わず思うままに切り取ることができた。特にこの作品については、当時の私も“意味”をはかりかねた。引用符を付したのは、“意味”などはハプニングにとって必要な特徴ではないことがわかったからである。

(略)

 だが、ヨーコの創作の多くには一九六〇年代版の“モラル”とでもいうべきものが備わっていた。ドレス・カットにしても、もっと謎めいたものに感じられはしたものの、相当ドラマティックなサスペンスを生み出していたのだ。観客はまず、「よし、自分で頼んだんだからな」とでもいうような比較的冗談めいた反応を示し、若い男たちは進み出て彼女をどうしても裸にしたいという姿勢を露わにした。だが、有志たちがついにハサミを手にして、いざ切ろうと構える段になると、状況の奇妙さ――及び、公開レイプをするのだという強烈で金縛りになるような思い――ゆえに、彼らはどうにもハサミを入れられなくなってしまったのである。私の記憶では、彼らは冗談でごまかしてから、一、二センチ切り取るか、飾りボタンを取るにとどまっていた。観客のなかに生じた秘かな想いは、残忍かつ乱暴でエロティックな夢想から、起きようとしていることへの不安感に姿を変え、ハサミを持った有志に対するリアルな敵意へと集中していった(略)

そして、それこそがポイントだったのである。刺激としてはごく小さなものなのに、観客は、ずっと手の込んだ芝居が喚起しようと躍起になっている同情や不安といった多彩な心の動きを体験している自分に気づいていたのだ。

 申し込んだ記憶はないのだが、私はヨーコにインタヴューを行ない、彼女は幼い頃の体験がどのように最近の創作に結びついているかを語った。たとえば、袋に入って来客から隠れることもあったという。ネオ・ダダ集団の“フラクサス”についても触れていた。

(略)

ヨーコの作品リストを取り寄せ、一巻のテープを購入した。結局、そこには何も録音されていないことがわかった。誤解したのかも知れない。そこで、リストを読み返してみると、私は次のようなものを買ったのかも知れないことに気がついた。「夜明けに降る雪のサウンド・テープ……。一インチ二五セント。Aタイプ=インドの雪 B=京の雪 C=エイオスの雪」。もう一度聞いてみても、私のテープがどこの雪なのか、もはや知るよしもなかった。

 同じリストでは、「自分だけの短所を目立たせる」ラシャ製の特注下着を買うこともできた。「コインを入れると涙を流して泣く…… 三〇〇〇ドル」というクライング・マシーンもあった。そして、「コインを入れても何も起こらない」スカイ・マシーンはその半値だった。

 ハプニングを自演する要領を印刷した一組のカードも持っている。一日にひとつずつ、二週間つづけるのだ。「一日め、二日め、三日め=呼吸しなさい……一〇日め=夢のなかを、できる限り遠くまで泳ぎなさい」。ビートルズの曲名さながらである。一九六六年、ロンドンのインディカ・ギャラリーでヨーコ・オノに出会ったさいに、自分に通じる精神を感じ取ったという、再三披露されたジョン・レノンの主張もわかろうというものだ。それが、世間体を気にしたエプスタインによる拘束にすでに苛立ちを感じていた彼の、異端で空想的な面にしっくりきたという。

 一九六四年、ヨーコは《Grapefluit》という“作品集”を刊行した。彼女は私にその一冊を送ってくれた。このタイトルは、グレープフルーツがレモンとオレンジをかけ合わせてできたもので、人間と自然の共同作業の賜物であることをヨーコが理解していたからこそ選ばれたものである。

(略)

何気なく本を開いてみると、「地図の断片。道に迷うために地図を描く」と書いてあった。

 ヨーコの指示には、自分がもらいたいものを誰かにプレゼントするというものもあったため、彼女が夕食に招いてくれた際、私は彼女にヴィレッジで買った本を贈った。古くて作りもしっかりしていたが、文字は印刷されておらず、楽しい穴のパターンがページを突き通したものだった。

(略)

 イギリスに戻って一年ほど経った頃、彼女と夫のトニーがアート・カレッジに出演するためリーズを訪れるという話が伝わってきた。彼らは私の家に滞在してほしいという申し出を受け、幼い娘のキョーコを連れてやって来た。

 彼らのパフォーマンスにはふたつの演目があった。メインとなったのはブラック・バッグだが、もうひとつはパーティ・ゲームを模したもので、列を作った人々があるセンテンスをささやいて伝えてゆく。このゲームでは、最後の人に達するまでにはメッセージがまるで誤って伝わってしまう。ヨーコは最前列の端に座っていた観客の耳に口を当て、自分が他のことをしている間に、すべての列を経由して最後列の端の観客までそれを「伝える」よう指示した。終わった後、彼女は最後の観客や途中のいろいろな地点にいた観客にどう伝わったかを尋ねた。奇怪なほどバラバラな言葉や旋律、擬音などが披露された。そして、ヨーコが――もうおわかりとは思うが――何もささやきはしなかったことが明らかにされたのである。

 ブラック・バッグは、大人ふたりが楽々潜り込めるほどたっぷりした袋だった。ヨーコとトニーは袋に入って床に横たわり、袋の口を閉じた。しばらくの間、大したことは起こらなかった。講堂を埋めた人々は、期待に満ちた沈黙の中で、壇上の白い塊を見つめていた。袋に入ったふたりが動き始めると、観客はその動きを詮索し始めるのだった。ふたりは裸になったようにも見えた。袋はねじれ、落ち着くことがなかった。裸になったのだろうか?あの出っ張りは膝なのか、それとも肘なのか?抱き合っているのだろうか?そして長い休息……。彼らは今度は争っているように見える。セックスなどできるはずがない。それとも?少なくとも三〇分はつづいていた。ついに袋から出てきたとき、彼らは入ったときと何ら変わっていないように見えた。袋の中で起こっていたはずのことは、観客の想念の中で起こっていたに過ぎなかったのだ。観客の想像力は、ささやかれた“メッセージ”を作り出したのと同様、今度は袋のシナリオを書き上げたのである。トニーとあらためて話したとき、彼はこれを「観客を創造のプロセス自体に巻き込む試み」と説明した。

(略)

 ヨーコは映画を企画しており、その元手となる現金を必要としていた。私は五〇ポンド貸してやった。私の協力に対しては、このアンダーグラウンドの傑作《Bottoms》のクレジットで謝意が表された。循環ベルトの上を“歩く”一○○人の尻を、二○秒ずつ撮影した作品である。映画の画面はぐらぐらする十字型のシャドウで四つに仕切られ、それぞれの中で肉が柔らかに波打っているのだ。ひとりとして、同じ演技をする者は見当たらない。人間の尻の多彩な形状には、観賞の価値がある。この映画はすべてを備えている。強固な主題には、一○○にのぼるヴァリエーションや形式の一貫性、人間的興味、そしてちょっとしたユーモアが込められているのだ。

(略)

 映画が発表される前に、ヨーコは借金の半額を返済する小切手を郵送してきて、その後トニーから、残りの半分はアップルに払ってもらうように、という指示があった。ある朝、私は一〇代のファンたちに囲まれたポール・マッカートニーのすぐそばで待機し、新任のビートルズ経理部長から二五ポンドを現金で受け取った。

 数カ月後、ある配達人が大学の研究室で私を待っており、秘書の指示で私の自宅に向かった。彼は妻に巨大な花束を届けたのだが、その中には新たな二五ポンドの小切手と「ラヴ・アンド・ピース ジョンとヨーコ」と書かれたカードが埋もれていた。

 私はこの余分な小切手をアップルのヨーコあてに送り返した。だが、一週間後、この封書は「宛先不明」という判を押されて戻ってきてしまったのだった。

パワー・トゥ・ザ・ピープル レッド・モール 71年

(略)

ジョン いつだったか、フットボールの観客が“All together Now”って歌ってたのも楽しかったな(略)

アメリカで起こった運動が〈Give Peace a Chance〉を取り上げてくれたのも嬉しかった。そういうことを思い浮かべながら書いたんだからね。一八〇〇年かそこいらあたりから歌ってる 〈We Shall Over Come〉の替わりになる現代的な歌があればいいのにって思ってたわけさ。あの頃でも、みんながパブやデモで歌えるような曲を書く義務を感じていたんだ。だからこそ、今は革命のための曲が書きたいのさ。

(略)

 僕が音楽をやり始めた頃は、僕の年齢や環境にとってはロックンロール自体が基本的に革命だったんだ。僕たちみたいなガキの身に襲いかかってくる冷酷さや重圧から逃れるために、何か音がデカくてハッキリしたものが必要だったわけだよ。アメリカの猿真似から始めることは、ちょっとばかり気になってたけどね。でも、その音楽を探究してゆくうちに、それが半分は白人のカントリー・アンド・ウェスタン、半分は黒人のリズム・アンド・ブルースでできていることがわかった。曲の大部分はヨーロッパやアフリカから伝わってきたわけで、これで僕たちのほうに戻って来られたってことになったのさ。ディランの最高の作品にしたって、スコットランドアイルランドイングランドから伝わったものが多いんだよ。文化の交換みたいなものだったんだね。ただし、もっと関心を惹いた音楽は黒人のヤツだったと言わざるを得ない。よりシンプルだったからさ。ケツだのオチンチンだのを振り回せとか言ってるようなものなんだから、まさに革新的だったよね。それから、主に自分の苦痛を表現する田舎者の歌が出てきた。連中は知的に自分を表現することができなかったから、自分たちに何が起きているかをわずかな言葉で表わさなきゃならなかったわけだよ。すると今度はシティ・ブルースが出てきたんだけど、こっちはもっぱらセックスや喧嘩の歌だったね。こういうのにしても、自己表現になり得ていたものも多かったけど、ブラック・パワーとして自分たちを完全に表現できるようになったのはほんのここ数年だよね。エドウィン・スターが戦争のレコードを作るとかさ。それ以前は、黒人歌手の多くはまだ神の問題に悩まされてたんだ。「神はわれらを救い給う」みたいなヤツばっかりだったわけさ。でも、それから苦痛やセックスについてもダイレクトに、即座に歌う黒人たちが登場してきたおかげで、僕も気に入ることができてるんだよ。

(略)

 子どもの頃、僕らはみんな、あまりに中流っぽいという理由でフォークにそっぽを向いていた。でかいスカーフを首にまいてビールのジョッキを手に、僕たちが気取り声って呼んでた歌声でフォークを歌ってたのは、みんなカレッジの学生だった――「炭鉱で働いたニューゥキャァースルッ」とか、そんな下らないヤツさ。本物のフォーク歌手なんてほとんどいなかったわけだけど、ドミニク・ビーハンはちょっと気に入ってたし、リヴァプールでは結構いい曲も聞けたんだ。ほんの時たま、アイルランドかどこかの本物の労働者たちがそういう曲を歌ってる、えらく古いレコードがラジオやテレビでかかるんだけど、そのパワーといったら凄いもんだぜ。でも、大部分のフォークといえば、甘ったるい声の持主が古ぼけたり死んじまったりしたものを生かしておこうとしてるだけでね。まるでバレエみたいに退屈なんだ。少数のグループがつづけてる少数の音楽さ。現代のフォーク・ソングはロックンロールだよ。

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