ジョージ・オーウェル――「人間らしさ」への讃歌

 

 船旅の思い出

 エリック・ブレアをのせたスクリュー汽船ヘレフォードシャー号は一九二二年一〇月二七日にリヴァプールを出港、途中マルセイユコロンボに寄港し、四週間後にラングーン(ヤンゴン)に到着した。インド生まれとはいえ、一歳でイギリスに移っているのでその記憶はなく、マルセイユでフランスの地を踏んだのが、物心ついてから初めての海外経験だった。一等船室の乗客であったブレアはこの航海で長く記憶に残る見聞をしている。

(略)

四十がらみの年季の入った白人の操舵手で、豊かなブロンドの口ひげをたくわえ、前腕も金色の毛で覆われている。豪華客船で乗客の命を預かるこの操舵手の働く姿をブレア青年は神のごとく仰ぎ見ていた。ところがある日、甲板上でその操舵手が、半分食べかけのカスタードプリンが入った皿をこそこそと持ち帰っていく姿を目撃する。乗客の食卓で出た食べ残しを給仕長がこっそり与えたものであるのが見てとれた。二〇年以上たっているのにそのときに感じた衝撃を忘れられないと彼は書いている。「この出来事をあらゆる角度から見るにはしばらくの時間が必要だった。だが職務と報酬との落差をこのように突然見せつけられて、つまり高度の特殊技能を備えていて、われわれの生命を文字どおり手中に握っている人間が、われわれの食卓から喜んで残飯をくすねるさまを見せつけられて――五、六冊の社会主義パンフレットから得られる以上のものを私は教えられたのだといったら、大袈裟すぎると思われるだろうか」

困窮

 「物書き」としてのエリック・ブレアの初めてのエッセイはパリ滞在中の一九二八年一〇月に発表された。

(略)

 ジャーナリズムの仕事がいくつか新聞・雑誌に掲載されたとはいえ、本を出したいと思ってもスムーズにはいかない。パリ滞在中の一九二九年六月には二六歳になった。同世代の何人かはすでに文壇で注目を浴びる作家となっている。イーヴリン・ウォーはD・G・ロセッティ伝と最初の小説『大転落』を一九二八年に立て続けに刊行していた。シリル・コナリーも文芸批評家として頭角をあらわしていた。パブリック・スクールからオクスフォードやケンブリッジへという進路を辿った者たちと、英領ビルマで埋もれていた自分とのハンディキャップを痛感していたのではあるまいか。『葉蘭をそよがせよ』(一九三六)で主人公のゴードン・コムストックが店員を務める貸本屋古書店で、「イートンからケンブリッジへ、ケンブリッジから文芸誌へと、かくも優雅に滑り込んでいった、金のある若い畜生どもがものした無難な画家や無難な詩人についてのお高くとまったお上品な本」が書棚の好位置に並んでいるのをいまいましい思いで眺めている様子(第一章)は、ハンディを負ってなかなか芽が出ないブレア自身の鬱積した感情をよくあらわしているといえるだろう。じっさい、彼が本を出すまでにはさらに四年の期間を要するのである。

命名ジョージ・オーウェル

 先ほど引いたムーア宛の手紙で『パリ・ロンドン放浪記』の「匿名での刊行」を希望する旨が記されていた。じっさい、一九三三年一月にこれがゴランツ社から刊行された際に初めて「ジョージ・オーウェル」の名前を用いることになった。ただし評論や書評についてはしばらく本名のエリック・ブレアを使いつづけている。

(略)

ムーア宛の手紙のなかで、ペンネームの候補をいくつか挙げている。浮浪生活をしていたときにはP・S・バートンを使っていた。だがこれがふさわしい名前でないなら、ケネス・マイルズ、ジョージ・オーウェル、H・ルイス・オールウェイズのいずれかでどうかと問い、「このなかではどれかといえばジョージ・オーウェルが気に入っています」と言い添えている。結局これでジョージ・オーウェル名が決まったのだった。

 本名を捨てることについてリチャード・リースはオーウェル本人からこんな話を聞いたことを伝えている。すなわち、自分の出版物に本名が印刷されているのを見ると不安な気持ちになる。なぜなら「だれかがその名前を切り取ってそれにある種の黒魔術をかけないともかぎらないではないか」と言ったそうである。そういう迷信的なところがあったので(なにしろこのころ幽霊を見たと信じていた)(略)

リースはまた、ブレアという苗字がもつ「スコットランド的な響き」を嫌っていて、イプスウィッチを流れるオーウェル川が「イースト・アングリア的な連想」をもつことからこれを選択したと推測している。

(略)

 ともあれ、『パリ・ロンドン放浪記』が「自慢できるものではない」からというのが筆名を用いることにした直接の理由だった。ただでさえ息子のドロップアウトと「奇行」が町の噂となっていたところに、実名でこれを出せば両親の重んじる上層中流階級の体面(リスペクタビリティ)を決定的に損なうことになる――そんな体面など守るに値しないと思っていたにちがいなくても、親子関係をさらに悪化させない現実的な配慮が働いたわけである。「ジョージ・オーウェル」――それはおそらく練りに練った命名というものではなかった。それにもかかわらず、その名は、とりわけ苗字の「オーウェル」は、その後(一九五〇年以降)、形容詞「オーウェル的」(Orwellian)とともに、等身大の、生身の人物の生涯をはるかに超えて、ひとつの文化的アイコンと化し、世界規模でそれが増殖されることになる。本人も、周囲のだれも、そうなるとは予想だにしなかったことであろう。

 かくして「ジョージ・オーウェル」の最初の本『パリ・ロンドン放浪記』は一九三二年の暮れに初一五〇〇部が刷り上がり店頭に並んだ(略)

書評は概ね好評で(略)一月のうちに二刷五〇〇部、三刷一〇〇〇部と増刷され、著者に自信と希望を与えるものだった。もっとも、売れたのはそこまでで、本当に広く読まれるようになるのは一九四〇年にペンギン文庫のペーパーバック版として復刊され、五万五〇〇〇部が売れてからのことだった。

(略)

 オーウェルは『ビルマの日々』を一九三一年秋に書きだし(略)

仕上がった旨をムーアに知らせることができたのは一九三三年一一月のことだった。なお、オーウェルは三三年九月からロンドン西の郊外にあるアクスブリッジのフレイズ・コレッジの講師となっていた。生徒数は二〇〇人、教員が一六人で、前任校よりも規模が大きな学校で、フランス語を教えた。学務にかなりの時間を取られたが、時間をみつけて執筆にあたった。

『ウィガン波止場への道』 

 ヴィクター・ゴランツはこの年の五月に『レフト・ブック・クラブ』を発足させている。(略)

[会員は2万8000人に急増]

本の長さを問わず毎月の選書(略)が一冊二シリング六ペンスの低価格で会員に頒布されるというのが売りだった。ゴランツの予想を超えてこの読書クラブは大成功を収めたのである。

 一九三六年一一月、オーウェルは『ウィガン波止場への道』の完成を急いだ。スペインに行くことを決めたからである。

(略)

『ウィガン』の第二部の自伝的記述をまじえた既存左翼への歯に衣着せない批判は、ゴランツおよび他の委員(ストレイチーとラスキ)には承服しがたいもので、これが選書にするのに二の足を踏ませるものであったのは想像に難くない。だが第一部の北イングランドルポルタージュはゴランツには捨てがたいものだった。結局

(略)

ゴランツ自身が序文を寄せ、あらかじめ第二部での既存左翼への批判に対して反批判をおこなうという措置が執られた

カタロニア讃歌

[初版1500部、それすらオーウェルが没した1950年時点で売れ残っていた]

 じっさい、このルポルタージュでは笑いを取る表現は枚挙にいとまがない。

(略)

 この時期にファシストが発射した砲弾はひどい代物だった。(略)

四発に一発は不発弾だった。(略)真鍮の信管を拾った者がいて、そこには一九一七年製と刻印されていた。ファシスト軍の大砲は型も口径もわが軍とおなじだったので、しばしば、不発弾を修繕して撃ちかえした。伝えられるところでは、特別にあだ名の付けられた古い砲弾があって、けっして炸裂することなく、敵味方のあいだを行き来していたそうである。(第五章)

 

 両軍の宣伝合戦の話もある。銃器の代わりにメガホンを使って敵の塹壕に向けて叫び合いをした。政府軍側からファシスト軍に向けて、「ファシストの弱虫野郎め」とやると、逆の側からは「スペイン万歳!フランコ万歳!」などと返ってきたりする。(略)

「国際資本主義の単なる傭兵になるな」とか、「君とおなじ階級を相手に戦うな」といったたぐいの「革命精神」にあふれたもの(略)

はある程度効果があり、ファシスト軍から脱走者がぽつぽつと出てきたという。そうした敵軍への資金文句のなかには、革命的スローガンなど交えずに、こちらの食糧がいかにすばらしいかと説く誇大宣伝もあった。

(略)

 

「バター付きのトーストだぞう!」彼の声がさびしい谷間にこだまするのが聞こえる。「われわれは、いま、こっちに座っていて、バター付きのトーストを食っているんだぞう! おーいしい、バター付きのトーストだぞう!」彼だって、われわれと同様に、もう何週間も、何カ月も、バターなんぞにお目にかかったことがないに決まっている。けれども、凍てつく夜に、バター付きトーストの知らせを聞けば、たいていのファシスト兵たちがよだれを流したことだろう。なにしろその話が嘘だとわかっている私でさえ、よだれを流していたのだから。(第四章)

喉を撃ち抜かれる

爆発の中心にいるような感覚だった。(略)痛みはなく、電極にふれて感電したときのような、激しい衝撃だけだった。(略)

殺されたと思ったのは二分間ぐらいのことにちがいない。(略)

最初に考えたのは、ありきたりだが、妻のことだった。つぎに考えたのは、この世を去らなければならないことへの激しい憤慨の念だった。なんだかんだ言ってもかなりよくなじんだこの世界なのだ。

(略)

こんな重傷を負いながらもオーウェルは死を免れた。ある医者からは弾丸が「一ミリばかり」動脈を外れたと言われる。声帯をやられたので声はもうもどらないだろうとも言われる(のちに回復するが)。

「医者も看護婦も実習生も仲間の患者も、このとき会ったみんながみんな、首を撃ち抜かれて生きながらえるとは、なんと幸運な人なんだ、と私にかならず言うのだった。そもそも初めから弾丸に当たらないほうがずっと幸運だろうと私は思わずにはいられなかった」とオーウェルは独特の笑いを取る調子で負傷の顛末を語る章を結んでいる。

スペイン脱出

[オーウェルが入隊したPOUMは亡命中のトロツキーに共鳴しており]

ソ連にとってファシスト軍に劣らず、あるいはむしろファシスト軍以上に危険で、「粛清」に値する対象とみなされたのである。(略)

[POUM党首アンドレウ・ニンは拷問の末、惨殺。戦友ボブ・スマイリーも国境で逮捕され獄死]

「スマイリーの死は私には簡単に許せることではない。ここに勇敢で才能ある青年がいた。ここに来てファシズムと戦うためにグラスゴー大学での学業を投げ捨て、私がこの目で見たとおり、申し分のない勇気と意志をもって前線での任務をまっとうした。そんな彼に連中がやれたことといったら、牢屋に投げ込んで、捨てられた動物のように死なせてしまうことだけだった」(「カタロニア讃歌」第一二章)。

(略)

オーウェル夫妻の身も危なかった。(略)

[後年明らかになった文書では]

「狂信的なトロツキスト」であり、「ILPとPOUMをとりもつ諜報員」だとされている。ふたりが捕縛されれば、スマイリーと同様にバルセロナで獄死したか処刑されていた可能性はかなり高かったのである。(略)

皮肉にも(略)富裕層らしい服装と上層階級の英語発音が役にたった。(略)

外国人の「不審者」を調べるためにふたりの刑事が乗り込んできたとき、食堂車にいた彼らは、ことさらにブルジョワらしい態度を示していたので、簡単に見逃された。(略)

繰り返すが、オーウェルたちを捕えようとしたのは、内戦で敵対したファシスト軍ではない。(略)ソ連の援助を受けた共和国政府の主流派によってだったのである。まさに「裏切られた革命」を身をもって経験したのであり

(略)

カタロニア讃歌』を書いた直接の動機は(略)

彼らを弾圧したコミュニスト側と、その公式見解を鵜呑みにすることで弾圧に加担したジャーナリズムに反論し抗議をおこなうことだった。

(略)

スターリンの独裁体制下のソ連共産党が、敵対するファシズム勢力と、装いは異なるが同質性を有する全体主義体制であることを、オーウェルは、共産党による非スターリン主義系組織の弾圧、粛清の現場に立ち会うことで察知した。

(略)

この経験はすべて「貴重な実地教育」だった。「全体主義プロパガンダが、民主主義の国々の進歩的な人びとの考え方をいかにやすやすと支配してしまえるか、それを私は思い知った」(「『動物農場ウクライナ語版への序文」)。その抑圧的な雰囲気をオーウェルはこう伝える。「当時バルセロナにいた人なら(略)

だれであれ、恐怖、猜疑心、憎悪、検閲された新聞、囚人であふれる監獄、食料を求めての長い行列、徘徊する武装兵の一団――こういったものから生み出されたあのひどい雰囲気を忘れないだろう」

次回に続く。