「接吻」には阿久悠の影響
10代はずっとパンク/ニューウェイブだったから、ひたすらカッコいいもの、アグレッシブなものに惹かれていた。
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20歳を過ぎた頃、ものすごくソウル・ミュージックが好きになった。そのことが僕の中では大きな転換点になった。それまでは意識して“セクシーな曲”を書いたことがなかったんだ。つまり、ラブ・ソングだよね。ソウル・ミュージックが好きになって、自分もセクシーなラブ・ソングを書いてみたいと初めて思った。だけど、最初はどうやって書いたらいいかも全然わからなかった。ようやく何とかラブ・ソングが書けるようになるまで、7、8年はかかったかな。「接吻」を書いたのは27歳か28歳だから、まさにその時期。あの曲が書けたのは、自分にとってのタイミングもすごくよかったんだと思う。
「接吻」の頃は、どうやって日本語でラブ・ソングを書いたらいいのかをすごく研究していた時期だった。昔の人はどうやっていたのかなぁとか、古い歌謡曲の歌詞を読んで研究してみたり。そういうことをやって2年ぐらい経った頃に、ドラマの主題歌として「接吻」を書くことになった。アマチュア時代は、日本語の歌詞をちゃんと読んだこともなかった。でも、デビュー後しばらくして阿久悠さんの詩集を読むようになったり。だから今になって思うと、「接吻」にはどこかに阿久悠さんの影響があるような気がする。
ポスト・パンクとポップス
90年代になってあえてメジャーからやってみたいと思った。そもそも自分の気分としては、20歳になった頃にはパンク/ニューウェイブがすでに過去のものになりつつあった。僕、それまではジョン・ライドンの信奉者だったんだけど、PILが「ディズ・イズ・ノット・ア・ラブソング」を出したあたりからヒップホップの方向に行っちゃうし、クラッシュも、ミック・ジョーンズがビッグ・オーディオ・ダイナマイトやったりとか、パンクとヒップホップは違うものだろと思っていたのに、そういう中心人物までそっち方面に流れていっちゃってさ。
だけど僕はそんなにヒップホップって興味なかったから、自分の音楽的な指針っていうのを更新しなきゃいけない時期だったんだよね。そんなこともあって、特にソングライティングの面ではスタンダード的なものへの興味が高まっていたから、ポップスを含めた、もっともっと大きなフィールドにある音楽に近づきたい気持ちが強くなっていた。で、だったらインディペンデントではなくメジャー・レーベルだろ、と。演歌とかアイドル・ソングとかポップスが溢れている世界に飛び込んで、実際にリアルにヒットするような曲を自分で作らないとポップスを目指す意味がないだろうと。あくまでやりたいのはポップスだったんだけど、心情としてはパンキッシュというかね。
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ポスト・パンクの中でも、リップ・リグ・アンド・パニックとかギャング・オブ・フォーとかみたいに、70年代まで続いていた音楽の素直な継承の仕方を一回断ち切って、そこから自分たちの音楽の作り方を見つけてゆく……という作業をしている人たちが出てきていたわけだけど、それが僕の場合は、メジャー・レーベルの中で自分の思うようなポップスを作っていくことだった。
XTC
メロディに対する意識は、パンク/ニューウェイブの頃から変わってない。自分の軸になっているのは、いつもメロディだった。XTCが大好きだったのもメロディがド真ん中にあったからで
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だから、XTCはせっかくあんなにいい曲書くのにポップを二重三重にひねくれさせちゃって、ヘンな人だなぁと思ってたしね。そのひねくれがいい、という人のほうが多いのに、僕はメロディ主義だから、もったいないと思っていた派。コリン・モールディングは素直にいい曲を書いているけど、アンディ・パートリッジはどうして屈折しちゃうのかなと。とはいえ、その中からも彼の音楽に対する考え方やエッセンスは伝わってきたし、好きだったけどね。
スタンダード・ミュージック
最近になって思ったことだけど、ひょっとしたらビートルズよりずっと前、デューク・エリントンの時点でかなりのことがすでに完成しちゃっていたのかもしれないね。曲の作り方、和音の作り方も、今になってみるとデューク・エリントンが全部やっちゃっている。そこから始まった歴史の中に、R&Bの時代もある。もともとあったブルースを電気楽器を使って洗練させて、ダンスミュージックにして、そこにジャズの要素も入っている。という、あれは微妙な時期の非常においしい音楽だったんだな。60年代の、いろんな音楽が融合し始めた一番幸せな時期の音楽というか。
そうやって古今の名曲のメロディについて貪欲になりつつある時期に、ちょうどピチカート・ファイヴに参加することになった。それはタイミング的にもとてもラッキーだった。彼らはアメリカン・ミュージックを専門に学んでいるポップス博士のような人たちだったから。ブレーンとして長門芳郎さんみたいな人もいたし。ピチカート時代には本当にたくさんのことを学べた。ポップスのメロディの一番いい形っていうか、70年代までのスタンダード・ミュージックのメロディの美しさとかね。やっぱり、20世紀のポップ・ミュージックの最高の形ってアメリカン・ミュージックだと思うんだ。そのオリジナルの人たちの素晴らしさを知れば知るほど、いつか自分もそういうスタンダードを作ってみたいという気持ちがどんどん大きくなっていった。
スターリンの前座
[郡山駅ビル]の1階にヤンレイというレコード屋さんができて。(略)
僕はそこでキュアーとかエコー&ザ・バニーメンとか買ったり、店主の板垣さんにいろいろな音楽を教わっていたんだ。実は板垣さんは、スターリンの遠藤ミチロウさんと大学時代の友達だった。当時のスターリンと言えば、すでにもう、ものすごい存在だった。(略)
板垣さんが言うには、あまりに過激すぎて東京のライブハウスがスターリンには貸せないと追い出されそうになっていると。そんなわけで福島でライブをやることになったんだけど、田島くんたち前座をやらないか?と声をかけてくれた。そりゃ、やりますよ。と、二つ返事でOKした。でも、やると言ったはいいものの、スターリンのライブってウワサを聞けば聞くほど恐ろしいんだよ。とにかく、おっかないというイメージしかなかった。それで、どんな怖い人たちが来るのか、やばいな……とドキドキしながら会場に着いたら、ミチロウさんがいた。すっごくいい人で、僕たちに「どうも、よろしく」って声かけてくれた。バンドの人たちもみんな優しい人たちで。ああ、いい人たちでよかったなーと思いきや、開場してみたら、もう、客がおっかない人ばっか。(略)
カッターで胸とかギザギザに切ってる人もいるし。いわゆる典型的なハードコア・パンクの人たちだよね。もう、福島の高校生はビックリですよ。(略)
みんな東京からわざわざ観に来ていたんだよね。すごい熱気だった。もう、僕たちなんか出て行ったたらボコボコにされるんじゃないかと思いながらも、ステージに出てガーーーッとやった。心配しなくてよかった。客はね、微動だにしなかった。で、何ごともなく、あっという間に終わった。ホッとしたような、残念なような。ははは。でも、スターリンはすごかったよ。ミチロウさんが出てきたとたん、客全員がステージにツバを吐きまくるの。たちまち舞台上はツバまみれですよ。その中をミチロウさんが上半身裸でゴロゴロ転げ回る。客席はあちこちでケンカとか小競り合い。思えば、一番スターリン幻想が盛りあがっている時代だったからね。その後もスターリンはしょっちゅう郡山でライブやるようになったんで、必ず観に行ってた。ミチロウさんともちょっとした顔見知りになれてさ。あの時期のスターリンを観られたのは幸運だったと思う。ミチロウさん、ふだんはやさしいのに本番直前はものすごいテンションなんだよね。あの集中力、すごかったな。
タイアップ地獄
90年代前半はCMやドラマのタイアップ全盛期。スタッフからもタイアップ関係は絶対にやるべきだと言われていたし、僕自身もチャンスを逃す手はないと思っていた。ただ、タイアップの曲って、いつもびっくりするくらい締め切りが早い。(略)
“すぐ書ける?できないなら他のアーティストに振るよ”って言われたら“やる!やりますよ!”って答えちゃうよね。でも、引き受けてからが大変。スタッフもふだんよりピリピリしていて、現場のムードも緊迫する。そういう中で曲を作らなくちゃいけないのは、やっぱり、音楽を作る環境としては悪すぎたな。なんか、オリンピックに出る選手みたいな心境だったね。絶対に金メダルとらないといけない、みたいな。あの時代、みんなそうだったと思うけど。あれは相当マインドが強くないとついていけない世界だな。締め切りが迫ってきて周囲を見回すと、いろんな人がキレてるしさ。スタッフも重圧を感じているから、その重圧は僕にものしかかってくる。ふだんのレコーディング環境とはまったく違う空気が漂っている。そんな中で安心していい曲なんか作れるはずないよという思いもあったけど、こんな環境でも絶対いい曲を書いてやるという気持ちのほうが強かったからできたんだろうね。いやぁ、若かったね。タフだった。けっこう容赦ないダメ出しもされるし、メンタル面でも鍛えられた。
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90年代のタイアップ・ブームはタイアップさえつけば何でもヒットするかのように批判されたりもしたけれど、そんな安易なものではなかったよ。
ソングライティングの原点
[高校時代は]コードの名前もよく知らなかったけど、「アンディ・パートリッジが弾いてるこのコードは何だ?こんな音かな」と探りながら、サーティーンスやフラット・サーティーンスの音を入れてみるということをやっていた。(略)
変わった響きに聴こえることがカッコいいと思っていた。現在に至るまで、僕の曲の特徴としてテンション・コードを多めに入れるという傾向があるけど、それはもとを通ればニューウェイブ系ギタリストからの影響なんだと言う。
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「デヴィッド・シルヴィアンはドビュッシーを聴いているらしいぞ」ということで、僕も貸レコード屋で借りてみたり、さらにそこから聴こえてくるコードをギターで弾いてみたりもしていた。
そういえば当時、郡山のジャズ喫茶によく通っていた。そこではフリー・ジャズをメインにジャズ全般を流していて、マスターはおもしろい人だったし、高校生の僕をいい感じに放っておいてくれた。(略)
その店でよく流れていたアルバート・アイラー、マイルス・デイヴィスが好きになって、それをきっかけにジャズを少しずつ聴くようになった。そこでときどき流れていたラウンジ・リザーズは今でも好きだな。ジャズをよく聴くようになったことは、曲を作るうえで間接的なヒントになっていると思う。
そうやってギターで曲作りをしながら、高校1年の頃にはリズム・ボックスを使い始めた。最初の一台はアムデックという自作キットのリズム・ボックスで、それはイマイチだったけど、次に大学生の先輩が持っていたローランドのTR-606を使うようになり、作曲やデモテープ制作に活用した。
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その頃、なぜ日本にはロンドンにいるようなカッコいいバンドがいないんだろうという思いがあって、日本で一番カッコいい最新の曲を作ってやる、僕の頭の中にはそれがある!という気持ちだった。今振り返ればフリクションやプラスチックスや P-MODEL がすでにやっていたようなことだけど、当時の僕は日本のバンドの日本的叙情感から距離を置いたところで自分の音楽をやりたくて、もっとソリッドな世界、ジョイ・ディヴィジョンみたいなダークなブリティッシュ・ロックをやりたいと考えていた。
当時、いわゆるギタリストらしいギタリストは大好きだったロリー・ギャラガー以外はほとんど聴かず、ハードロックはあまり興味がなかったな。
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ニューウェイブらしい一風変わったギターを弾こうとしていた。
ただ、それと同時にポップな曲を作らなければダメだとも考えていた。その一因は(略)
[ラジオで渋谷陽一が]「自分の趣味性を飛び越えていくポップな要素が曲にないとダメだ」というようなことを言っていて、当時の僕は、確かにそのとおりだと思ったんだよな。
ポール・ウェラー
僕はデビュー当時よくポール・ウェラーに影響されているのではと質問されたが、XTCには影響された自覚があるが ポール・ウェラーにはそんなに影響されていないと思う。当時の僕の先輩達はポール・ウェラーから半端なく影響されていたので、それに比べて自分はそんなでもないかなと思っていたんだ。
ポール・ウェラーを見ると、しゃらくさい感じがした。かっこ良すぎて嫉妬していたんだ。でもやっばり当時イギリスのパンク/ニューウェイブ・シーンのなかで一番スタイリッシュだったのがジョン・ライドンで、二番目にスタイリッシュだったのが、ポール・ウェラーかスペシャルズか Bow Wow Wowだったように思う。
ポール・ウェラーは、ロックがブラック・ミュージックをシンプルにして爆発的にラウドにした音楽だということを、音楽的な態度で示していてかっこ良かった。でも僕は結局モッズにはならなかった。モッズには嫉妬のような憧れのような微妙な感情をずっと持ち続けたままだった。
その6、7年後、とある音楽フェスでポール・ウェラーと同じステージに立ったとき、彼は、爆音で鳴らしているギター・アンプの上に、大きなヒマワリの花を生けていた。歌っている曲は、イギリスの選挙制度についての歌だった。イメージ通り、おしゃれな人だった。
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