書評稼業四十年 北上次郎

書評稼業四十年

書評稼業四十年

  • 作者:北上 次郎
  • 発売日: 2019/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

傍若無人大森望鏡明には

あまりに話が飛びすぎてしまった。作家とは会いたくない、という話である。それは、会ってしまうと批判を書きにくくなるということなのだが、大森望がすごいのは批判した作家と平気な顔で会えることだ。この図太い神経が私にはない。

 それを私は長い間、ずっと誤解していた。そういう性格の男なのだ、と思っていたのだ。私に対して終始タメ口であるように、傍若無人であるのは大森望のキャラなのだと考えていた。だったら仕方がない。それに、おれに対しては敬語を使え、と言いたいわけでもない。

 そう思っていたのだが、そういう大森望が、鏡明に対しては、きちんと敬意を表す口調で話しかけるのである。大森の名誉のために付け加えれば、媚びるのではない、ごく自然な敬意なのだ。そんな姿を二十年以上も見たことがないので、妙な言い方になるが、すごいじゃん、美しいじゃん、この姿。と、私は感動してしまった。感動してから、待てよ、と思い返した。ということは、私に対する態度は、こんなやつには敬意を表さなくてもいいということではないか。ま、いいんだけど。

 大森を知る人にあとで聞くと、SF関係の人で尊敬する人にはいつもああいう態度だという。いやはや、びっくりした。敬意を表されない私だが、しかし大森にそういう人間的な感情があることを知って嬉しい。ここは大森の腹黒さを語る場ではないので、思い切り褒める。

中間小説の時代

[昭和40年の直木賞作]新橋遊吉八百長」に対する違和感は、この四十年間に日本のエンターテインメントが成熟してきた、その落差が生み出すものではないのか。

[高校時代に愛読した源氏鶏太を再読してそのしょぼさにガックリという話の流れから]

(略)

 五木寛之「さらばモスクワ愚連隊」が載った小説現代の昭和四十一年六月号に、富田常雄「肩」という短編が掲載されている。(略)

いま読むと、古びた印象を受けてしまうのは致し方ない、その後の新時代を切り開く五木寛之の登場と、富田常雄の晩年の作品が掲載された号が同じというところに、時代の皮肉がある。

 

小説新潮」創刊七百号記念号(二〇〇二年九月)の「業界名物編集長大回顧座談会」で元「小説現代」編集長大村彦次郎が興味深いことを語っているので、その談話をこの項の最後に拾っておきたい。(略)

小説新潮は中間小説というジャンルを作ったわけだけれども、狭義の中間小説というのは、昭和三十年代で役割を終えたと思います。つまり、松本清張という作家が出てきて、ミステリーが台頭した段階で、中間小説は終わった。その後も、時代小説やSFまで含めて中間小説と呼んでいましたが、厳密に言えば、中間小説というのは昭和三十年代半ば頃までの「小説新潮」に載っていた小説のことだと思うんです。決定的に中間小説の息の根を止めたのは、昭和三十六年秋の「別冊小説新潮」ですよ」

(略)

整理してみる。まず、純文学と大衆小説という明確な区分けがあった戦前に比べ、戦後は「小説新潮」が純文学作家に挿絵入りの小説を書かせて、中間小説という分野を作った。『新潮社一〇〇年』(略)に、「中間小説とは、純文学の作家が書く娯楽小説と大雑把に言っておいていいだろう」とあるように、それは純文学の作家にわかりやすい小説、面白い小説、つまりは娯楽小説を書いてもらうという方針である。獅子文六に「スープもデザートもない、トンカツ屋のメニューみたい」と揶揄されたのは、小説がずらずら並んでいるだけで、レベルは高くても野暮ったい雰囲気があったからだという。対するオール讀物は(略)エンターテインメント総合雑誌としてスタートし、倶楽部雑誌を母体(?)とする小説現代は荒荒しい時代の気分を反映して出発する。つまり、まったく出自の異なるものが一時期、中間小説誌という名のもとに共存していたことになる。

 昭和二十年代に小説新潮が飛躍的に部数を伸ばしたのは、船橋聖一「雪夫人絵図」と、石坂洋次郎「石中先生行状記」の連載らしいが、そうやって中間小説が興隆を迎えると、純文学の牙城が侵されるという危機意識が作家や評論家に広まり、その典型例が中村光夫「風俗小説論」で、あれで小説新潮的作家の頭目と思われていた丹羽文雄をやっつけたのだという(大村彦次郎)。しかしそれも昭和三十年代半ばくらいまでで、その後空前のミステリーブームが到来する。大村の談話の続きを引く。

 「当時のミステリーブームというのはすごいものです。水上勉佐野洋笹沢左保結城昌治さんら、新世代のミステリー作家が出てきて、各社争うように原稿を奪い合っていた。それに「別冊小説新潮」の完売がさらに火を付けたわけです」

(略)

松本清張を筆頭に、新世代のミステリー作家が次々に出てきて、昭和三十年代後半はミステリーの時代だった。私が貸本屋ふたば文庫に顔を出したころ、松本清張笹沢左保黒岩重吾などの小説がその棚にあふれていたのは、そういう時代だったからだが、それでも中間小説誌に載るすべての作品がミステリーだったわけではない。そんなに簡単に切り替わるわけではない。

(略)

ミステリーもSFも時代小説もあったが、それらとはまた違うタイプの小説もあった。やがてその新しいタイプの小説が主流になっていくのだが、それを六〇年代後半に切り開いたのが五木寛之野坂昭如であり、それはのちに「エンターテインメント」と呼ばれる新時代の大衆小説の夜明けでもあった。

(略)

植田康夫『ヒーローのいた時代』によると、週刊誌のトップライターだった梶山季之に、「梶さん、小説を書きなさいよ」とバーで飲みながらすすめていたのが、当時光文社の編集部員だった種村季弘で、のちに『黒の試走車』を書かせるプロデューサー役となる。梶山季之はそのときすでにトップ屋をやめていて、ある芥川賞作家がノイローゼで新聞連載小説が書けなくなり、梶山に白羽の矢が立って引き受けたのが『赤いダイヤ』だったという(橋本健午梶山季之』)。つまり、スポーツ新聞に『赤いダイヤ』を連載しながら、『黒の試走車』を書き下ろしたことになる。並の新人ではない。

(略)

 野坂昭如『文壇』は昭和三十六年の中央公論新人賞のパーティの場面から、昭和四十五年の三島由紀夫の自決までの十年間を描く「新人作家」の自伝的回想録で(略)

[色川武大の受賞パーティーで]舟橋聖一に近づいて挨拶すると、「当方を認めるなり、シッシッといわんばかり、手の甲を上に振って、追い払う仕草、びっくりして離れた」というくだりや、文壇バーで飲んでいると五木寛之が編集者と現れたとき、隅にいた長部日出雄が近づいてきて、「どう、やはり気になりますか、アハハハ」と豪快に笑ったくだり、さらには山口瞳が『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞を受賞すると、大河雑文というべきで小説とはみなさなかった野坂が「ぼくはあれなら書けると勢いこみ、また嫉妬した」というくだりなど、興味深い箇所が少なくない

(略)

『文壇』にはもう一つ、興味深い光景が描かれている。梶山季之が『黒の試走車』を刊行したその年の暮れ、大宅壮一のノンフィクションの会の忘年会(その席で、今年の殊勲甲は梶山君だなと大宅壮一が発言して、大隈秀夫、草柳大蔵、村島健一、藤島泰輔など居並ぶ面々の顔が一瞬強張るシーンがある)でエロ映画をセッティングして上映が終わったあと、引き止める梶山に、その前日が結婚式なのであまり遅くなるのも、と言う野坂に、「それは悪いことしちゃったなあ。ちょっと待って、帰らないでよ」と姿を消した梶山季之がすぐに「祝・野坂夫妻」と記された白い封筒を手に現れ、「みんなの気持ち、お願い、受けてくれ」と片手で拝みつつ玄関で渡される。中には十万円入っている。そして野坂はその光景を振り返って次のように書いている。

「硬ばった一同の表情が焼きついて、文章で世渡りは、丸谷のいう意味だけじゃなくきびしいと判った。ほとんどむき出しといっていい梶山に対する嫉妬、そして大宅は、草柳、大隈、村島のほうが、師弟関係は長いだろうに梶山だけを認め、他は雑魚扱い。居心地悪いはずの梶山の屈託のなさ、祝儀は彼の独断だろう」

 出世作を書いたばかりの梶山と、まだ暗中模索していた野坂の、すれ違う一瞬を鮮やかに描いた箇所だろう。 

文壇 (文春文庫)

文壇 (文春文庫)

  • 作者:野坂 昭如
  • 発売日: 2005/04/08
  • メディア: 文庫
 

 

北上さんとはお逢いしたことがない

「月刊DONDON」に書いたのはミステリーのコラムだけでなく、作家インタビューもしていたということも書いておこう。(略)

西村寿行インタビューには思い出がある。

 当時の仕事場は新宿西口のマンションの一室で、なんだか暗い部屋だった。その一部をここに引いておく。

 

――『瀬戸内殺人海流』『安楽死』『屍海峡』の初期三作は、社会派ミステリーの衣装を借りながらも、それまでになかった新鮮さがあったと思うんですが、あの傾向のものは今後もう書かないんですか?

「もう推理小説なんて書きたくない。おれはイヤなんだよ。トリックとかいう面倒くさいやつは。自分の性にあってないんだ。でもあの当時は推理小説にしなければ売れなかった」

――これまでの作品で愛着のある作品は何ですか?

「別にないな。強いていえば『安楽死』かな」

――長編と短編、自分の資質にあっているのはどちらと思いますか?

「短編だな。余分な遊びが出来ないし、疲れるが力が入るよ」

 

 そのとき私が聞きたかったことは、寿行はなぜ短編を書かなくなったのか、ということだけであった。寿行は質の高い短編を書いていて、私はその短編群を好きだったのである。資質は短編向きだと自分で考えていたとは意外であった。ではなぜ書かなくなったのか。重ねて質問すると、あんなに割りに合わないものもない、との返事だった。短編一本書く手間を考えたら長編を書いていたほうが楽だ、と西村寿行が言ったことはまだ覚えている。

北上次郎さんとはお逢いしたことがない」

 ずいぶんたってから、寿行がそう言ったということを人伝に聞いた。一度だけ寿行に会ったことがあると私が酒場などで発言したことをどこかで聞いた編集者が、何かの雑談の折りに話したところ、寿行はそう言ったという。そうか、覚えていないんだ、と思った。いや、それだけの話なんですが。

書評家の副業

 次に書評家の副業として書いておかなければならないのは、新人賞の下読みだ。というより、この仕事が副業として圧倒的に多い。対談や座談会のまとめなどで必要とされる人数よりも、こちらのほうが多くの人数を必要とするからだろう。各社に新人賞がある昨今では、複数の新人賞の下読みをするケースが少なくない。もちろん、書評家だけでなく新聞記者OBとか編集者OBとかが担当するケースもあるけれど、絶対数が多いので書評家は残らず駆り出される。私が知っている書評家を二十人とすれば、彼らが下読みを担当する新人賞は各自四~六本というケースがいちばん多い。エンタメ系の新人賞はこの二十人が微妙にクロスしながら担当しているのではないか。現実的にはプラス十人くらいが担当していると思うが、中核はその二十人で、しかも全員が知り合いなので、二重投稿は露見しやすい。いちばん大変なのは各社の新人賞がほぼ同じころに発表されるので、下読みの時期も重なることだ。年明けから五月末までの間がいちばんのピークで、この間、下読みを副業にしている書評家たちは悲鳴をあげている。噂では年間十本の下読みをやっている強者が複数いるとのことだが、本当に読んでるのかと酒場のネタになっていることも(そんなのは絶対にムリだとの声が多い)付記しておく。

 

 私がこの業界で仕事を始めた四十年前は、各社に新人賞がほとんどなく(あのころからあるのは江戸川乱歩賞くらいか)、だから下読みの声もかからなかった。各社の新人賞が出始めたころは本業が忙しくなったころでもあったので「北上次郎」としての原稿を書くのが精一杯で、とても下読みまで手がまわらなかった。

 私が下読みを始めたのはつい最近である。もう「本の雑誌」を退職し、収入も減ったころだ。競馬で大負けが続いて身動きがとれなくなったのである。かといって、原稿執筆は増やしたくない。しかし無職の年寄りで、他に何の技術もない人間がなにをすれば稼げるというのか。競馬をやめるわけにはいかないのだ。その資金をなんとしても稼ぎたい。そういうときに浮かんできたのが下読みである。

 若いころに「日本読書株式会社」というのを考えたことがある。本を読むだけで生活していけないものか、という夢想である。社員五十人が毎日せっせと新刊を読んで、データを蓄積していく。顧客の入会金は一万。会費は毎月千円。それだけで毎日電話できる。何度電話してもいい。で、ただいまはこういう気分なのだが、そういうときに読む本は何かあるかと質問すると、たちどころに答えてくれるのである。

(略)

 私は社長室で毎日好きな本を読み、飽きるとビルの下に降りて、まずは児童文学課に顔を出して、何か面白そうな新刊はないかと尋ね、しばらくコーヒーを飲んでから、隣のミステリー課に寄って無駄話に興じる、という毎日だ。

 若いときにそういう話をしたことを椎名誠が覚えていて、作家になってからあるとき電話がかかってきた。短篇小説の締め切りが迫ってきたのにネタがなくて困っていたらしい。で、私の夢想を思い出したようだ。

「お前のあの話、五十円で売ってくれ」

 私が椎名に五十円で売ったネタは他にも数本あるが、いちばん思い出深いのはこれだ。それは「日本読書公社」というタイトルで「小説新潮」に載り、一九八四年に新潮社から刊行された『蚊』に収録されている。

 下読みを始めて真先に思い出したのは、その若き日の夢想だった。(略)

読むだけ。それでなにがしかのお金をいただくのは、まさしく「日本読書株式会社」だ。いろいろと事情があったので私がいまでも下読みをやっているのは二本だけだが、私にとっては「理想の仕事」ということになる。下読みのギャラは、それぞれの新人賞の枚数が違うので異なっている。だいたい一篇三千円から六千円くらい(一部例外もあるが基本)。だから五十篇やると十五万から三十万、それを六社やれば総額が百万から二百万。増減もあるかもしれないが、これが一般的な相場になっているようだ。「理想の仕事」ではあってもそれだけで生活するのは少し辛い。難しいものである。

「締め切りを守ること」

 この四十年、私が心掛けてきたことは幾つかあるが、その一つは「締め切りを守ること」。二十五年間、本の雑誌を作ってきて、締め切りを守らない著者に悩まされてきたので(いちばん困るのは最後の最後に連絡が取れなくなる人だ。いるのであるこういう人が。その前日までは大丈夫ですと電話で言っていたのに、その翌日から連絡が取れなくなるからホントに困る)、自分が著者のときはとにかく締め切りを守ろうと考えてきた。

 締め切りにサバを読むのは全然かまわない。本当は二週後の月曜でも間に合うけれど、その数日前の金曜を締め切りにしたのは何か個人的な事情があるのかもしれないではないか。家族旅行にいきたいとかなんとか。だから全然かまわない。あの雑誌は何日でも間に合う、と平気で言う人を私は好きではない。たしかに間に合うかもしれないが、みんなが一度にそのぎりぎりの日に送ったら編集者はパンクする。それに書く側から考えても、一つ遅らせたら、締め切りは惑星直列のように並んでいるわけだから、全部がどんどん遅れていくのだ。一つ早くすれば、すべて楽になるというのに、どうしてこんな簡単なことがわからないのか。ただし、サバを読んだらその責任は取らなければならない。つまりその締め切りの日に、あるいは数日前に催促の電話(いまならメール)を入れることだ。自分が早めの締め切りを通達したことを忘れているのか、締め切りを一週間も過ぎているのに「そろそろ締め切りなんですが」と連絡を寄越す編集者がいるが、そろそろじゃないだろもう過ぎてるだろ、と言いたくなる。

 私、書くのは早いのだが、ときどき送るのを忘れたりするのだ。そういうときに「そろそろ締め切りなんですが」と連絡がくると、いけねえと思い出し、「そろそろ」じゃないだろと言いたくなるのである。原稿を書くのが早いのは前記したように、編集者に迷惑をかけたくないこと、どのみち締め切りは惑星直列みたいにつながっているのだから一つを早くすればあとが楽になること、そしてもう一つ、重要なことがある。本を読んですぐに書かないと忘れてしまうのである。

(略)

記憶が鮮明なうちに書いておきたいのだ。

 ただし、原稿はすぐには送らない。なぜならそうやって書くときは頭が沸騰した状態で書くことが多いので、飛躍や省略があったりする。時間がたつと客観的に原稿を読むことが出来るので、ここは言葉が足りないだろうとか気がつくのである。

(略)

 ゲラをほとんど直さないということを書いておこう。これはずいぶん前に鏡明に教わった。彼はほとんど原稿を直さないのだ。いつだったか、それを直接聞いたことがある。その返事がカッコよかった。「だって書いちゃったものは仕方ないじゃん」。それを聞いた瞬間から、おれもこれでいく、と決めたのである。

 もちろん、間違いを指摘されたら直します。ただし、間違い以外は、違う表現のほうがいいかなとの気がしても、大半の場合は赤を入れない。「書いちゃったものは仕方がない」のだ。鏡明がすごいのは、対談や座談会のゲラも直さないことだ。私、そこまでのレベルに行ってない。よほどうまい人がまとめた場合は別だけど(大森望のような)、座談は気になるから赤を入れてしまう。鏡明の境地にはなかなかなれない。 

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