終戦後文壇見聞記

前日のつづき。

終戦後文壇見聞記

終戦後文壇見聞記

文壇派閥

早稲田派、三田派、赤門派などがあるのは私もよく知っていた。早稲田派は強力であったからか、他の派閥から嫉まれたのかもしれないが、「早稲田田圃の矩燧の中で、触れた触れぬと大騒動」と、人生に触れていることを重んじる自然主義を旗印としていた早稲田派を揶揄する言葉が昔からあったらしい。この言葉を私は三田派の佐藤春夫氏から聞いた。赤門派の高見順氏が手の甲に唾をつけて、指でそこを何度も強く擦ってみせて、こうしていると何もないところに垢が撚れて出て来るでしょう、こういう風にして書くのが早稲田リアリズムなんだそうだね、と言った。

匿名小説

28年新年号から始めた第一回の匿名小説は『架空研究会』というタイトルだった。(略)匿名にする意味がない、三島由紀夫だということはすぐわかる、という匿名批評が出た。自信満々で書いたであろうその筆者は、二月号で丹羽さんであることがわかって驚いたようだ(略)
第五回の匿名小説『青頭巾』について平野謙氏が、あれはすぐに分かった、北原武夫だろう、と言ったが私は黙っていると、あの傍点の打ち方は北原武夫だよ、そうでしょう、と念を押すから、私はゴメイトウと答えた。翌月、八木義徳氏と出ると(略)平野さんは大変口惜しがっていた。(略)
匿名小説は私の意図とちがう読み方をされたし、書き手もなくなって、十回で終りにした。批評家は文士の文体をよくわきまえていると思っていたのに、そうでないことがわかったことが、私にとっての収穫であった。

高見順、ショック療法で悪化

高見さんのは白い物と尖った物を恐怖するノイローゼで、ビルなどによくある白い壁の部屋には入れないし、安全剃刀の刃などが恐くて、それを遠ざけるために土の中に埋めようと考えると、誰かが草花を植えようとして、土を掘っている時に手を切ったりする情景を想像してしまい、処置に困るというような症状のようだった。(略)
菊岡久利氏がショック療法がこの病気には効くと聞いて来て、親切心から高見さんに手紙を出し、その中に安全剃刀の刃を入れておいたことがあったようだ。少しよくなっていたノイローゼが、それで元に戻ってしまった、と高見夫人が言っていたことがある。

時代物に手を出すな

高見順さんはそのエッセイの最後を、日頃勇ましい大言壮語を弄していた批評家である花田清輝氏が小説を書き出したら、『群猿図』という時代物で、コミュニストとして現代と現実に強い関心を持つべき批評家の花田さんが小説を書けば当然現代を書くと思っていたら、易きについた時代物であったことへの非難で結んでいる。花田さんは、高見さんがゴロツキ批評家と言った「ゴロツキ論争」の相手であったから、きつい言葉で非難しているが、このエッセイの批判の対象は、花田さんにことよせた井上靖氏批判であることを高見さんは私に漏らしていた。そのことを私は口外しなかったのに、高見さんが私以外の人にもそれを漏らしたのか、井上さんがそのエッセイが出てから間もなく、あれは本当は私に向って書いたんですよ、と私に言った。文壇の情報伝播の速さに驚いた。

臨終

その前の日は日本近代文学館の定礎式の日で、その日まではもつまいと言われていたのに生きのびて、川端康成氏や伊藤整氏などが、もう意識はないと思われる高見さんに顔を近づけて、定礎式の模様を告げていた。(略)
どうも病室が気になるので様子を見に行くと、夫人が出て来て、あなたは必ず臨終に立会って下さい、高見が可哀そうになって来たのよ、みんな高見を近代文学館の高見として扱っているけど、近代文学館のことを始めたのはここ数年のことで、ずっと文士として生きて来たのだから、文士として死なせて上げたいのよ、と言った。(略)夫人の言葉に胸をうたれ、逆らえなくて、夫人と医者と中川宋淵師と私の四人で高見さんの最期を見とった。

常識知らず

誰にでも常に絶妙の仇名をつけたり、ひとをかついだりして、大変悪戯好きの佐藤春夫氏だが、世渡りに無器用な私に、高見さんのように俗人の常識に従えなどとからかったりはしなかったのは、佐藤さん自身があまり俗人の常識を知らなかったからだと思う。高見さんはよく俗物という言葉を使って人物評をしたのも、俗物をよく知っていて、俗物的なことを一切しないように自分を戒めていたからだと思う。

日本は負けてないと主張する佐藤春夫

佐藤さんが、日本は戦争に勝ったのだ、と自分を担当する編集者や新聞記者たちをはらはらさせるようなことを言ったのは、終戦直後の頃の文学者が戦時中の言訳をしたり、戦時中に書いたものや戦時中の行動を消し去ろうとするのに反撥したからなのか、自分を戦犯扱いする者への怒りからなのか、それを確かめるために、日本は無条件降服をして、敵国の軍隊によって占領されているのに、なぜ戦争に勝ったと言われるのか、それをじかに訊いてみた。
佐藤さんの言われた理由は次のようであった。
戦争の勝ち負けはどちらが戦争目的を達成したかだ、日本の戦争目的は欧米の国々によって植民地にされている東亜の国々を解放して独立させることだった、どうだ、東南アジアの国々は次々に独立したではないか、つまり日本の戦争目的は達成されたのだ、だから日本は戦争に勝ったのだ、戦闘に負けただけだ、ということだった。

侃侃諤諤w

二十六年十月号から、見開き二頁の匿名批評欄を「群像」が設けることになり、その欄の名をきめる時に、一番下っ端の私が出した「侃侃諤諤」にきまったこともあって、私はその欄をわれわれの腕の見せどころだと思い、大事にした。ほとんど死語になっている侃侃諤諤をちゃんと読めない読者が多いにちがいないという反対論のために、その字面がいいのだが、と私は主張したけれど、「かん・かん・がく・がく」とすることで妥協した。年が明けた正月号から「侃侃諤諤」にしてもらった。ところが文壇でもケンケンガクガクと言う文士がかなりいた。
この欄は「群像」の評判記事になり、「群像」を手にすると、ほとんどの文士が自分がやられてるかどうかを確かめるためもあって、必ず「侃侃諤諤」から読むということだった。この欄の筆者は永遠に明かさないという方針だったが、花田さんは、署名でも匿名でも自分の書くものは同じだからと、それを本に入れてしまったから、私は花田さんの名を明すのだが、この欄の最もすぐれた筆者の一人は花田さんだった。

佐多稲子の希望で中野重治とおかまバー

中野さんはあまりおもしろくなさそうだったが、佐多さんは上機嫌だった。実は私も丹羽さん同様、佐多さんは立派すぎておもしろない人と思っていたから、おかまバー行きには驚いていたのだ。
昭和三十年代の半ば過ぎ、川上宗薫宇能鴻一郎、富島健夫の三氏をポルノの御三家と言って、ポルノ小説が大流行したことがあった。その頃、佐多さんが親しい女の編集者に、わたしポルノ小説を書いたらうまいと思うわよ、と言ったということを聞いた。佐多さんはポルノ小説など絶対に書きはしないだろうが、書けば確かにうまいかもしれん、と思った。

梅崎春生

マルキシズムの洗礼を受けていない梅崎春生氏を私は戦後派の作家とは思わないのだが、終戦直後に出て来た作家のうちで、最も小説のうまいのが梅崎さんだと思っている。椎名麟三氏も小説がうまいが、野間宏氏や武田泰淳氏や埴谷雄高氏は、その前の世代の作家が重視していた小説のうまさには重きを置いているとは思えなかった。武田泰淳氏の小説はおもしろいけれど、前の時代の小説作法から見れば目茶苦茶なような気がした。梅崎さんの後で、うまい小説を書こうとして出て来たのは第三の新人であった。
第三の新人は戦後派作家とは親しもうとはしないのに、梅崎さんを兄貴分のようにして親しんでいたのは、第三の新人にとって、戦後派には越え難いマルキシズムの壁があるのに、梅崎さんにはそれがなかったからだ、と私は思っている。私の目から見ると、梅崎さんは戦後派作家の中にいるよりも、第三の新人たちといる方がいつものびのびと楽しそうであった。梅崎さんが亡くなった時、その葬儀に献身的な奉仕をしていたのは第三の新人の作家たちだった。戦後派で重要な役割を担ったのは僧侶出身の武田泰淳氏と葬儀委員長をつとめた椎名麟三氏だけで、武田さんは梅崎さんの戒名をつけた。

野坂参三は神戸の裕福な貿易商の息子

その神戸の野坂邸にふわふわした上等の蒲団で泊めてもらった青野さんら運動家が、翌朝、荒畑寒村氏がいなくなったのに気付き、あちこち探したところ、蒲団があまりにもふわふわしていたので、寝ていたのに気付かず、お手伝が荒畑氏を蒲団ごと片付けてしまっていたのがわかった、というのである。

その中野は石川達三を評して「ボディーが流線型で、見た目には最新式だけど、エンジンがえらく旧式の自動車」