内容見本にみる出版昭和史 紀田順一郎

『日本児童文庫』と『小学生全集』のデスマッチ

[北原白秋の弟・鉄雄の出版社「アルス」が『日本児童文庫』を企画、東京朝日新聞に五段抜きで広告を出したが]
その広告のすぐ下に同じく五段のスペースで興文社と文藝春秋社の共同出版として菊池寛芥川龍之介責任編集による『小学生全集』全八十巻を刊行するとあったものだから、たちまち大騒ぎとなった。現在なら単なる類似企画として済んだであろうが、前述のように当時は児童ものの企画自体がめずらしかったので、「さては」と白秋側が思ったのは無理もない。どうやら、広告代理店に双方の事情に通じる者がいて、企画を洩らしたということのようだ。菊池側にも漠然とした案はあったのだが、白秋側の動きにあわてて、とりあえず全集名だけの広告を打ったのだろう。その証拠に菊池側の広告はいかにも速成という感じで、細目の発表も一ヵ月近く遅れた。
(略)
[アルスは提訴し、白秋は新聞に「満天下の正義に訴う」という四千字の広告を出した]
「(略)何が児童への愛でありますか。何が人間としての愛でありますか。何が日本民族の徳性でありますか。
 児童よ、悪より守れ。児童よ、私は叫ぶ。私は熱涙滂沱としているのだ。誰が誰が、この日本のこの可憐な児童を自己の物的我執と営利慾の犠牲とし、堕獄せしめつつあるか。
 邪悪であります。陋であります。曲であります。ああ、寧ろ残虐であります。怒ったのです。私は怒ったのです。怒らずにはいられないのです。
 菊池寛何者であります。寛の芸術何ほどであります。何の勢力が彼の過分至極の声名をいつまでも保持し得られましょうか。かの常に金力の豊富と偉大とを盲信し呼号する興文社が何でありますか」
(略)
 これに対して菊池は三日後、「待て!而して見よ 満天下の正義をして苦笑せしむる勿れ」という広告の中で、つぎのように軽くいなしたにとどまった。
「天馬にも比すべき芸術家が、御令弟の出版事業に熱狂して自分に喰ってかゝっていられることは、非常に気の毒です。……正義とか芸術とか文教とか、そんな高飛車な物云いを、あんな時にするものではありません。少くとも一商人である令弟を防禦するときに使うべき言葉ではないでしょう」
 係争は七月末に示談、八月上旬に不起訴となったが、この紛争は双方とも四、五十万円(現在の十二億〜十五億円)もの広告代をドブに捨てたようなもので、アルスは翌年あえなく倒産、興文社も前後して姿を消した。企画だけの文藝春秋社は無傷だった。芥川龍之介は全集がスタートして二カ月後に自殺したが、当初は白秋と菊池との板挟みになったのではないかという噂も流れた。直接の原因ではなかったろうが、彼を厭世の念に駆り立てた一要因であったことは否定しがたい。

『現代大衆文学全集』

大正から昭和初期にかけての大衆小説といえば髷もの(時代小説)と通俗現代小説が中心だった。当時の人気作家江戸川乱歩などは探偵小説を大衆文学に分類されることに不満だったし、中里介山は自らの『大菩薩峠』を「大衆文学ではない、大乗文学だ」と主張していた。いずれにせよ、この“大衆文学”という名称を考えだしたのは白井喬二である。
 円本ブームの昭和初年、そのころ新興出版社だった平凡社下中弥三郎は、大衆文学をもって戦線に加わろうと、当時「報知新聞」の連載『富士に立つ影』で人気絶頂の白井喬二に『現代大衆文学全集』の編集を依頼した。白井は日ごろ提唱の大衆文学普及の好機到来と二つ返事で快諾(略)「失敗の時は筆を折って故山に骨を埋める覚悟を固めた」(略)
 内容見本にはまた「高級常識の教科書」「笑い囁きながらも処世の常識生活必須の知識を会得さする国民常識教科書であります」という表現も見られる。(略)大衆文学の普及にあたっては実利性、大衆教化性を売りものにする必要があったことを示すもので、講談社の出版哲学(面白くて為になる)とも軌を一にするものだった。(略)
[これに対抗し新潮社は『現代長篇小説全集』]「幾ら面白くても、近頃流行の剣劇髷物のようなものだと、余り殺伐過ぎたり、筋の運びが乱暴であったりして、優れた芸術品でないばかりか、往々悪い影響を及ぼさないとも限りません」と“文芸ものの老舗”としての見識を示すふりをしながら新参の平凡社にジャブをくれた。
(略)
円本ブームが過去のものとなった昭和十年、初の女流作家の全集として『古屋信子全集』全十二巻(新潮社)が出ている(略)
 『三聯花』という作品については「道のほとりの公衆電話で垣間見しが縁となった二人の処女、更に通り合せた一人の処女との三つ花に聯る人生現実の相」などとあり、第一巻配本の『女の友情』の惹句には「処女も主婦も青年も紳士もこの書の出るのをどんなに待たれていたことか?」という具合に“処女”が連発されている。当時の処女や貞操という語の響きには、昨今の放送禁止用語などとは比較にならぬ衝撃性があったことを知るのである。

漱石全集』

 いまから見ておどろくべきは校正担当者の報酬の安さで、森田草平が月額三十円、内田百閒が同じく月額十円にすぎなかった。今日の水準に換算すると、草平がせいぜい六万円、百閒がわずか二万円台ということにしかならない。あるとき、その十円を前借したら岩波が小切手でよこしたということを、百閒が憤慨して書いている。むろん、土地価格をはじめ物価の安い時代ではあったが、戦前の出版物がおよそ円本にせよ辞典にせよ、知的ルンペンプロレタリアートの労働価格の安さの上に成立していたことを忘れてはなるまい。
(略)
 推薦文といっても各人各様で(略)漱石本の装禎でも知られる画家の津田青楓などは、夏目家の風呂にあるじといっしょに入った思い出を記している。漱石は湯舟から頭だけ出して女房難をかこち、「西洋の偉い哲学者も生涯女房に苦るしめられたと云う話」をしたが、風呂からあがるさい、青楓が放っておいた石鹸箱を漱石がていねいに掃除してから出たのには、ふだん無頓着な人と思っていたので非常に意外な気がしたとある。恐妻のゆえだったかどうか、興味あるところである。

ゴミ扱いの古典

[戦後]海外のほうはフランスであろうがドイツであろうが、あるいは戦前軽視していたアメリカであろうが、旧訳まで引っ張りだしての出版合戦を展開したものだが、自国の古典となると神憑りの戦時中の反動から、だれ一人見向きもせず、神田神保町あたりでは国文の注釈書や『古事類苑』などの資料が均一台に放り出してある始末だった。ようやく古典ものに目が向くようになるのは、昭和三十年代に入ってからである。
 同じような状況が、じつは明治初期にも存在した。旧習一新、文明開化の時代とあって、近世以前の古典などは弊履のごとく打ち捨てられ、錦絵などは反古同然の扱いを受けた。ようやく人々が古典に回帰したのは、帝国憲法が発布され、ナショナリズムの昂揚ムードが支配しはじめた二十年代の半ばくらいからで、このころ淡島寒月を介して西鶴の存在を知った尾崎紅葉が、古典再評価の口火を切ったことはよく知られている。

『鴎外全集』

荷風としては従来鴎外を称揚してきた面目を保つことができ、大満悦だったに相違ないが、親潮社が一枚噛んできたことに強いこだわりを示しているについては理由があった。鴎外の死にあたって雑誌「新潮」が「生前イヤな奴で死後もイヤな奴がある。……鴎外だのがそれだ。……翻訳こそしたが彼の仕事が文壇に取ってどれだけ意義あるものかは疑わしい」という無署名記事(筆者、中村武羅夫)を掲げたからである。いまでこそ鴎外は大文豪だが、当時の文壇人からは敬して遠ざけられるという傾向があり、葬儀に参列した文壇人はわずかに「十四五人のみ」(『断腸亭日乗』)という寂しさであった。その意味で中村武羅夫の記事は、文壇の空気を伝えたものにすぎないといえようが、烈火のごとく怒った荷風は「今後新潮社へは一切執筆を拒否すること、および新潮社に関係する文士輩とは、誰彼の別なく、かの『新潮』の記事を是認しているものとして、たとえ席を同じくしても言語を交えない」という反駁文を認(したた)めた。
 中村は鴎外の官吏臭や権威主義的な一面を嫌ったのであろうし、一方の荷風は“坊主憎けりゃ”のたぐいで、一作家の些細な悪口を出版社ぐるみの陰謀であるかのようにいきり立った。もともと極端に組織的な仕事のきらいな荷風が生涯でただ一度他人の全集に肩入れした動機は、鴎外への傾倒の念に発することはいうまでもないが、このような「新潮」への強い反感がバネになったこともたしかである。

『世界古典文学全集』全五十巻

 内容は『ホメーロス』『詩経国風 書経』『ヴェーダ ウパニシャッド』からはじまって『ルソー』『ゲーテ』にいたる。『聖書』『禅家語録』『タキトウス』などという巻もあるが、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスアリストパネス杜甫シェイクスピアなどについては全作品を収録しているので、これだけでも従来の文学全集とは発想がちがう。
(略)
[推薦文は]三島由紀夫のものがいかにもそれらしい。「もし小説家志望の少年に会ったら、私はまずこの全集の通読をすすめようと思う。……ヘナヘナしたモダンな思いつきの独創性なんか、この鉄壁によってはねかえされてしまうのを知るだろう。その絶望からしか、現代の文学も亦、はじまらぬことに気づくだろう。一般読者には実はこの全集をすすめたくない。古典の面白さを一度味わったら、現代文学なんかおかしくて読めなくなる危険があるから」

『世界推理小説全集』 文壇人と推理小説

 「ハヤカワ・ミステリ」の成功を横目に見て、ひそかに期するところがあったのは、いうまでもなく東京創元社である。(略)『世界推理小説全集』第一期二十八巻の刊行を開始した。(略)
[内容見本]表紙に「花森安治装幀」「文学の香高い名訳 作家・評論家による処女訳多数」と謳った点がミソで、これが意外に時代の気分とマッチした。そもそも創元社推理小説に着目した動機は、同社に縁の深い小林秀雄大岡昇平吉田健一ら文壇人がこぞって推理小説好きであったことによる。(略)
 内容見本には乱歩、大岡昇平の監修のことばのほか、小泉信三椎名麟三の推薦の辞が載っているが、それより興味深いのは書目で、当初収録予定であった『奇巌城』(福永武彦訳)が途中で『矢の家』に変更になったり(略)
後年『矢の家』が福永訳ということで古書マニアの収集対象となったことも特筆さるべきであろう。ガードナーなどが林房雄訳ということでどれだけ“文学性”が高まったかは知らぬが、とかく話題の多い全集であった。
 忘れてはならないことは、この『世界推理小説全集』が“推理小説”という呼称そのものの普及に功のあったこと。戦後「探偵」の「偵」の字が当用漢字から外されたさい、木々高太郎が「推理小説」という名称を創案、自らの監修する『推理小説叢書』に用いたが、あまり普及しなかった。木々の主張する推理小説=文学論が性急に過ぎて、昭和初期を中心とする猟奇通俗小説の線上で探偵ものに親しんできた従来の読者の賛同を得ることが難しかったのである。そこへ古い衣を思い切り新しい衣装にくるんだ推理小説シリーズが誕生した。今日でいえばCIその他のイメージアップ作戦に該当するであろう。旧套のマニア(鬼と自称した)にとっては、“探偵本”につきものの禍々しさ、いかがわしさがキレイに染み抜きされ、高度成長期直前の戦後教養主義によって色あげられたようなこの全集は、まったく興味の対象外でしかなかったろうが、新しいエンターテインメントを志向する中間読者層からは歓迎された
(略)
国産の推理小説全集は春陽堂の『日本探偵小説全集』があるが、重量感のあるものとしては河出書房の『探偵小説名作全集』全十一巻が最初であろう。乱歩を筆頭に小酒井不木甲賀三郎横溝正史から戦後は高木彬光までの本格派の系譜を重視した選定で、蒼井雄の『船富家の惨劇』が収録されたのが話題になった。大井広介あたりが選者になっていることは、刊行のことばに「探偵小説を支える理念は市民社会の正義であり、……独裁国家には栄えない」などとあることからもわかる。荒正人の推薦の辞に「『船富家の惨劇』など、戦争の最中に、大井広介の邸で、終りの部分を閉じて犯人あてを夢中になって愉しんだものだ」とあるが、戦後の一時期に文壇の愛好家たちが犯人あてに熱中したり、警察庁や場末のバーなどの見学を行ったりしているのは、今日のミステリーのあり方からは考えられないことで、坂口安吾福永武彦の推理作品もこのような状況から生まれたのである。

『岩波英和辞典』

『岩波英和辞典』の初版が出たのは昭和十一年(略)辞典が完成したとき、島村盛助は田中に「君はこの七年間じつに苦労したが、どんな辛いときでも、決してただの一度も私ににがい顔を見せたことはなかった。これだけはなかなか出来ないことだ」賞賛した。
 それもそのはず、田中菊雄は英語=人生、人生=英語ともいうべき存在であった。明治二十六年、北海道は小樽の貧しい家に生まれ、高等小学校の卒業さえ待てずに列車給仕となり、勤務の間を縫って苦学をした。(略)
『オクスフォード英語辞典』に準拠し、語源を重視するのが最大の特色だが、これは田中が最初の赴任先である広島中学で、初講義にさいして生徒のいやがらせの質問に備え、第一課に出る二百の単語のすべてについて、徹夜で語源を調べあげた経験に発したもので、以後彼は人一倍語源に関心をいだくことになったという。
(略)
昭和四十九年に出た『小学館ランダムハウス英和大辞典』全四巻で、これまで研究社の独占だった大辞典の分野に、英語の辞書とはまったく無縁だった小学館が“殴りこみ”をかけたことで注目を浴びた。
 題名からは単なる翻訳と見られかねないこの辞書だが(略)
激動する現時点に立って、全く新しい観点から『米国における国語辞典』と『日本における英和辞典』との合体を企図し、今その成果を世に問おうとするものであります」ということになる。
 もっとも、この“合体”がそう簡単に実現したと恩ったら間違いで、当初ランダムハウス社の編集長は「原典に対していささかの変更も認めない」という強硬な態度だった。そこで、英語を母国語としている欧米人と、それを外国語としている日本人の立場の相違、文化的背景の相違などを縷々説明、やっとの思いで承諾をとりつけることができたという。(略)
「7年の歳月、300万ドルの巨費が投じられた世界でも屈指の大辞典」「人間と機械の偉大なる協力 4台のコンピュータを編集に駆使」……。当時、日本ではまだ辞書編纂にコンピューターは使用されていなかったので、このコピーはかなり目を惹いたと思われる。(略)
 小学館の企画は一種の快挙で、アカデミックな辞書づくりをしてきた既存勢力には衝撃であった。その理由は安井稔の推薦文に明らかである。「従来の英和辞典は、しばしば、いかにすれば既存の特定辞典に似すぎた姿にならないかということに腐心してきた。小学館ランダムハウス英和大辞典は、いかにして既存の特定辞典に心置きなく似せることができるかということを基本的な目標としている。……われわれは、これによって、真に大辞典の名にふさわしい英和辞典をはじめて手にすることになるであろう。歴史に残る偉業の成功を心から祈りたいと思う」。これは皮肉でも何でもなく、英和辞書の置かれた位置について率直に述べたにすぎない。