フラクタリスト マンデルブロ自伝

 

発端 

「この抜き刷りをおまえにやろう。こんなばかばかしいものを気に入るのはおまえしかいないから」

 ショレム叔父を訪ねて帰り際に言われた言葉が、扉を一つ開くことになった。

(略)

ハーヴァード大学の数学者でアメリカ数学会会長のジョゼフ・L・ウォルシュから届いたばかりの[書評の]抜き刷り(略)

ジョージ・キングズリー・ジップの『人間の行動と最小努力の原理』という本を好意的に取り上げていた。金持ちで学界の変わり者であるジップは、ハーヴァード大学で(略)自分が考案して「統計人間生態学」と命名した分野の講義をおこなっていた。彼の研究テーマは、たいがいの想像を絶して風変わりだった。通常の文章において語が「頻出」と「まれ」のあいだでどのように分布しているかを実際に買べ、その膨大なデータを普遍的に成り立つかたちで要約したという、ばかばかしいほど単純な数式なのだ。

 私は夢中になった。最初はひどく当惑し、それから全面的に疑いもしたが、やがてどうしようもないほど魅了され、現在に至っている。(略)

地下鉄の道中は長く、ほかにすることもなかった。下車するころには、もっと普通的に成り立つ式を考え出していて、早く実際のデータと照らし合わせたくてたまらなかった。まもなく私は、この奇妙な“道”に沿って歩いていってみよう――そして博士号をとるのだと決めた。その成果が現在ではジップ = マンデルブロの法則と呼ばれている。

不均衡と不均一はあまねく存在する

 ベストセラーリストに入った本は、いつまでリストに載りつづけるか? たいていは数週間だが、なかには一○○週間、あるいはそれより長くとどまる本も少しはあるかもしれない。このように極端なばらつきが生じることは、出版業界では広く知られている。

(略)

 極端な不均衡は、自然界にも人工物にもよく見られるパターンだ。このような分布は「ロングテール」と呼ばれる。ロングテールの分布では、標準的な値というものは存在しない。ショートテールとロングテールの対比が、私の研究で中心的な役割を担うようになった。

(略)

 書かれた文章や口頭での発話では、「the」や「this」といった一部の語については出現頻度(総語数に占める割合)を明確に特定することができる。一方、めったに使われないので明確な頻度が特定できない語もある。ジップは次のような手順を用いた。文章を一つ選び、各語の出現度数を数える。そして各語に順位をつける。最も度数の多い語を一位、二番めに多い語を二位……とする。(略)最後に各語の出現頻度を縦軸、順位を横軸としてグラフ化する。

 グラフ上に、奇妙で読み取りにくい曲線が現れる。曲線は、出現頻度の最も高い語から最も低い語に向かってなだらかに下降するのではない。めまいがするほど急激にひとしきり下がったところで下降の角度がゆるみ、あとはきわめてゆるやかな下降を描きながら長い足となって伸びていく。(略)

頻度は順位に対して逆相関となる。ジップはさらに、これよりはるかに強い主張をおこなった。頻度は順位の逆数のおよそ一〇分の一になるというのだ。そうだとすると、語の出現頻度と順位を掛けた積は約0.1となる。曲線はその大部分が座標軸と重なってしまい、ほとんど読み取ることができない。

 このような曲線どうしを比較するには、順位と頻度それぞれの対数をとり、もっと読み取りやすい形で描き直すのが一番だ。対数という言葉はちょっと物々しく聞こえるかもしれないが、別に恐れることはない。0から9の数字を使った標準的な十進法を用いる場合、ある数の常用対数はその数の桁数とだいたい一致する。もう少し正確に言うと、十進数字の桁数より小さくなる(その差は最大で1)。つまり100から1000までの数の対数は2から3までの範囲となる。ジップの主張を受け入れて(略)両対数グラフを描けば、傾きがマイナス1の下降直線が出現する。

 英語でもフランス語でもラテン語でも、言語による違いはない。非常に不思議なことだが、書き手の読み書き能力にも関係がない。これは物理学者がまもなく「普遍的関係」と呼ぶようになった現象の一例である。「スケーリング」というのもやはり物理学の概念で、フラクタルの根底にはこれが存在する。

(略)

 残念ながら、ジップの仮説から生じる結論は、現実にはまったく成立しえないものとなる。たとえばこの仮説に従えば、文章をどれほど読み進めても、だいたい一〇語ごとに一回の割合で初出の語が出現することになる。しかし実際には、初出の語が出現する頻度は徐々に下がるはずだ。さらにまずい点がある。頻度というものの定義によれば、各語の占める割合を合計したら一〇〇パーセントにならなくてはいけないのに、ジップの式はこの数学上の絶対条件に反するのだ。単純な解決策として、「切り捨て」という手がある。初出語数が二万二〇〇〇(eの一〇乗)に達したら、それ以上は新しい語を計算に入れないことにするのだ。

(略)

 ジップの説を詳しく検討した者がことごとく、それをまったくばかげているとして退けたのは、このせいなのだろうか? ジップの主張はすばらしく客観的であるように思われたが、じつは彼のグラフでは頻度と順位を掛けた積が0.1という普通定数にならないという事実が隠されていた。この積は変動するのだ!しかし正直に言うと、私もただちにこの点に着目したわけではない。

(略)

ジップ=マンデルプロの式に登場する指数の主要な性質である「言説の温度」というのは、統計熱カ学の発想から持ち込まれたものである。この指数によって、文章間や話者間の差異を測定することができる。個人の語彙の豊かさを数値で評価することもできる。温度が低ければ語彙が貧弱であり、温度が高ければ語彙が豊富ということだ。

オッペンハイマーノイマン

「黙ってはおれん!こんなひどい講演は聞いたことがない。タイトルとちっとも関係がないばかりか、中身もまるで意味がないじゃないか!」

 ここはプリンストン高等研究所だ。オットー・ノイゲバウアーという著名な学者(バビロニア天文学を研究する歴史家として名をなした数学者)が、終わったばかりの私の講演について発言した。

 私が口を開けたまま立ちすくんでいると、「原子爆弾の父」こと物理学者のJ・ロバート・オッペンハイマーがさっと立ち上がった。「私が答えてもいいですか、オットー。マンデルブロ博士が許可してくれるなら、いくつか言わせてもらいたい。講演の案内に書かれていたタイトルは仮のものだから、変更しなかったのは手落ちです。それでも、博士の研究について話を聞くことができたのはよかった。感心しました。ただし、彼の得た注目すべき成果がきちんと扱われていなかったような気もします。私の頭に残っている内容を整理してお話ししたい」

 聴衆は身じろぎもしなかった。思いがけず、有名な“オッピー・トーク”が聞けることになったのだ。彼はどんなセミナーに出席しても、そのまま印刷できるほどの完璧な文をいくつか口頭で述べて、内容を要約することができる。そして講演者がせっかく達成した成果を聴衆に伝えそこねた場合、それを本人に――しばしば初めて完全に――気づかせるのだった。

 オッペンハイマーが話を終えて腰をおろすと、今度は「コンピューターの父」こと数学者のジョン・フォン・ノイマンが立ち上がった。「マンデルブロ博士を一年間こちらに招いたのは私です。われわれはきわめて興味深いやりとりをしてきました。博士にお許しいただけるなら、オッピーが触れなかった点をいくつかかいつまんでお話ししたい」。身動きもできずにいる聴衆が、今度は“ジョニー・トーク” まで聞けることになった。(略)

会はどん底に沈んだような雰囲気から一転して、忘れがたいほどの盛り上がりへと変わり、大成功のうちに終わった。

(略)

MITを離れた私は、フォン・ノイマンにつく最後のポスドクとして、一九五三~五四年度の一年間をプリンストン高等研究所で過ごしていた。先ほどの講演の話は、あるとき通勤電車でオッピーと話していた最中に出てきたものだった。

(略)

[IMBで上司とうまくいかず]スローン財団に移っていたウォレン・ウィーヴィーに会いに行った。彼は何年も前に“ジョニー”(当時は末期のがんだった)から、私を見守っているように頼まれたと打ち明けた。私の選んだ道が危険で助けが必要になるかもしれないということが、フォン・ノイマンにはわかっていたのだ。そこでウィーヴァーは、好きな大学に客員教授として赴任できるように二年間の研究費を出してくれると言った。その金は別のことに使ってもいいから、まずはIBMでのトラブルを解決するように、とも。

 私が思いもよらない打ち明け話に驚いているのを見て、ウィーヴァーは重大な事実をもう一つ明かした。フォン・ノイマンは高等研究所で長らく不遇だったのだという。“まともな”の数学を捨ててコンピューターに転向したことで、彼は多くの数学者の怒りを買っていた。彼は軍事面についてはタカ派で知られていたが、数学者や物理学者はそれも嫌悪していた。

(略)

フォン・ノイマンはあまり温かい人ではなかったが、(異端者どうしだからか?)私のことは理解してくれていた。

(略)

[ある日通勤電車で]オッペンハイマーが隣りに座った。彼は新聞にざっと目を通してから私のほうを向き、「MITから新しく来た人じゃないか?君の研究について聞かせてくれないか?」と言った。(略)私は大喜びで博士論文の概要を説明した。彼は即座に要点を理解した。

(略)

 社会科学の文脈で熱力学の役割を主張することに、私はためらいを覚えていた。ほかの物理学者から軽蔑されやすいからだ。しかしオッペンハイマーは逆に、驚きながら感心したようすでこう言った。「社会科学の問題に熱力学を応用しようと試みている人はいるが、ことごとく失敗している。しかし君は実際に成果を出しているじゃないか」

 彼がとりわけ強い関心を示したのは、語の出現頻度に関するジップ = マンデルブロの法則を説明するために、私が「言説の温度」という概念を持ち出したときだった。この基本的な指数は、通常は1より大きいが、ある特別な場合には1より小さくなる。熱学のアナロジーで表現すれば、これは温度が絶対零度より低くなりえるということだ!

(略)

 最後にオッピーは、私に手伝ってほしいことがあると言った。「“文系と女性”向けの夜間の連続講演をやろうとしているのだが、ふさわしい講師がなかなか見つからない。初回をやってもらえないか?」。私は深く息を吸い込み、わかりましたと言った。

(略)

講演のあいだ、客席に座る有名人たちが眠ったりいびきをかいたりするのを見て、私は恐怖に震えつづけた。

(略)

[講演後]オットー・ノイゲバウアーが攻撃を始めて、この章の冒頭で紹介した場面となった。会場中の眠気が吹き飛んだ。

(略)

翌日、私はノイゲバウアーの研究室を訪ねた。彼はとても申し訳なさそうにしていた。

「昨日は言いすぎた。許してくれ」

(略)

とてもなごやかな雰囲気になり、後はその驚くべき研究の一端を披露してくれた。ノイゲバウアーが研究で扱っている銘板は、同じ楔形文字を用いて、かつてメソポタミアで話された二つの系統の言語が混ぜこぜに表記されているのだという。つなわちセム語族アッカド語と、語族不明のシュメール語である。したがって、どの銘板も二通りの意味で読み取れる可能性があって、どちらが適当なものかを見極めるのは至難の業なのだそうだ。

FORTRAN

MIT、ベル研究所ゼネラル・エレクトリックといったライバルは、ソ連スプートニクに対抗するために資金が潤沢に注ぎ込まれ、非の打ちどころのない資格をもつあらゆる人材をいくらでも雇ったり国外から招いたりすることができた。IBM研究所がユニークな実験(略)となったのはなぜなのか?答えの一つは、採用規定がゆるかったので、よその研究所との奪い合いにはならないような人材がたくさん入ってきたことだ。“奇人”や“風来坊”、そしてなにかの過失か指導教官との対立などで一流の経歴に傷のついた科学者などがいた。

 たとえばジョン・バッカス。彼は大学を転々とし、どこにも長く在籍しなかったので、おそらく指導教官には一度もついていない。あるとき彼はIBMの覇権に莫大な貢献をした。初期のコンピューターを使うのはとにかく難しく、時間もかかった。どんな問題も手作業で分解して、愚鈍なマシンにあらかじめプログラムされている多数のきわめて厳密な命令に変える必要がある。ジョンは少人数のチームとともに淡々と期限よりも早く、FORTRAN(「数式翻訳装置」を意味する「formula translator」に由来する名称)という“高水準”のプログラミング言語を開発した。これは決して芸術作品のようなものではなく、称賛されることもなかったが、紛れもない長所が一つあった。実際に「存在する」ということだ。それ以前のアセンブリ言語と比べれば、FORTRANは至福の境地だった。ジョンがライバル関係にあるよその研究所で働かなかったことは、IBMにとって幸運だったと言える。

(略)

 何年間も、研究部門にはコンピューターがなかった。一日に数時間だけ、ニューヨーク州ポキープシーにあるのを一台借りることができた。プログラムをコンピューターカードにパンチして、数時間の道のりをステーションワゴンで往復輸送した。おそろしく面倒なやり方をしていたが、それでもちちんと機能していた。午前中にポキープシーにカードの束を送ると、夕方に戻ってくる。たいていは、プログラミングに重大なエラーがあるので要修正というメッセージがついている。そこで翌日にそれを送り返す、という作業が続くのだった。

パスワードの発端

そう、コンピューターを使うのにパスワードが不要だった時代があったのだ!(略)

[ある日、長男の教師がプログラムが動かないと]私を頼ってきたのだ!ブライアントに助けを求めると、彼は私のアカウントを入力してすぐさまプログラムを書き上げ、息子と先生に渡せるように、レターサイズの用紙一枚に印刷した。

[数カ月後、計算センターの管理者にコンピューターを使い過ぎだと言われ]

調べてみると、周辺のウェストチェスター郡一帯で高校生たちがちょっとしたプログラムを大量に走らせており、すべて私がやったことにされているという事実が判明した。少なくとも一人の目ざとい生徒か教師が、私の名前を打ち込むだけで当時としては最高性能のコンピューターにアクセスでき、しかも料金はかからないということに気づいたのだ。

 そこで、計算センターのスタッフはパスワードを交付することになった。だから私は、このような方針変更としてセキュリティ管理が導入された発端に居合わせたのだと自慢できる(略)もちろんこの事件とは無関係にパスワードはいろいろなところで生まれたに違いなく、IBM研究所でもどうせすぐに生まれていたはずだ。

コンピューターグラフィックス以前

市販用のグラフィックスをつくっている研究所はたくさんあったが、私が入社した一九五八年にIBMではグラフィックスをしておらず、自社以外の装置を入手するのはとりあえず自作するよりも難しかった。そこでコンピューター計算のパイオニアという予期せぬ立場にまもなくまつり上げられることになる私は、自分ではまったくコンピューターに触れず、常にプログラマーやアシスタントに指示を出して、休むことなく尽力することを余儀なくされた。
 要するに、FORTRANが利用できるようになってもまだ、コンピューターグラフィックスが利用できるようにはなかなかならなかったわけだ。それでも一九六〇年代の終盤には、私はごく簡単なものを使って人工のフラクタル島の海岸線を初めて描くことに成功した。

(略)

六四×六四ピクセルの格子を使い、まず海面のすぐ上か下に位置するピクセルとそれに隣接するピクセルをすべて空白にする。この空白のピクセルによって、近似の海岸線が定まる。出力装置としてふつうのタイプライターを使い、M、W、Oといった文字を印字することで海岸線上の点を表すというやり方をした。こうして印刷された出力データをコピーして、今度はフェルトペンで島の内側を黒く塗りつぶす。

 涙ぐましいプロセスだった。M、W、Oをタイプするのに必要な“ソフトウェア”が適切に書けなかったからだ。また、バッファーメモリーの容量もきわめて小さかった。六四バイトまで印刷するとプログラムが停止してしまい、手で「リターン」と入力するとまた動きだした。私は絶望的な気分で、出力データを得るのに必要なかぎり何度でもこの言葉をタイプしてくれとアシスタントに頼んだ。私が一日の仕事を終えて帰宅したあとも、アシスタントは居残った。そして翌朝には、必要な出力データが私を待っているのだった。

 このあと初期の装置の一つとして、カルコンプという会社の既製品を使った。これは紙とペンからなり、ドラムに巻きつけた紙が回転するのと同時に、ドラムの回転軸方向にのみ移動できるペンが紙面に対して離れたり接したりする。ペンとドラムの動きを連動させるプログラムが用意されていたが、もどかしいほど時間がかかり、描けるパターンは限られていた。私たちは、本来の仕様をはるかに超えた用途でこの装置を強引に使っていたのだ。

 一九七〇年ごろにようやく、グラフィックス装置は機械的なものから電子的なものに変わった。そのおかげで、大型汎用コンピューターで計算した図をきわめて不安定な専用コンピューターに送り、ふつうのテレビ画面と同じような実験室用ブラウン管上でチェックすることができるようになった。特別な装置をつけると、ポラロイドカメラで画面を撮影することもできた。この方法で撮影して最初に発表した画像が、最も初期のフラクタルによる山の起伏だった。

(略)

 一九七六年のある日、開発部門にいる一人の同僚のために外部の業者が私たちの憧れのカラーグラフィックス装置を納入したといううわさが伝わってきた。私はすぐさまこの同僚に電話をかけ、直接話をするためにそちらへ向かった。「僕たちにもこの装置を使わせてもらえないかな?使えるとしたら、いつ、どのくらいの頻度で?」「もちろんいいよ、喜んで。ただし言っておくけど、ソフトウェアが一つもないんだ。システムプログラマーの費用は払えるけど、人を確保するのに半年かかりそうなんだ。ソフトウェアをつくるのにさらに半年かかる。だから一年後にまた来てくれ」「おいおい、それはないよ。僕たちはちょっと急いでいるんだから。君の研究室のキーコードを教えてもらって、今度の週末に来てはだめかな?装置のことを知りたいんだ」「いいよ、もちろん」。こんなわけで、金曜日の帰りがけに彼は私のごく親しい同僚リチャード・ヴォスにコードを教えていった。リチャードはただちに作業にかかり、どうやら一睡もしなかったらしい。月曜日の朝にはソフトウェアが完成していた。一年も待たされるはずだったのが、週末一回で片づいてしまったのだ!

 なぜ海岸線を研究するのか?海岸線を選んだ最初の理由は、研究の受け入れを妨げるような永続的な利害を海岸線に対してもつ人などいないからだったが、もう一つ別の理由もあった。父が地図マニアで、私も読み書きができないうちから父に教わって地図が読めるようになっていたのだ。

「価格変動」というテーマ

 ここでいったん立ち止まり、自分がまったくの門外漢だった、「価格変動」というテーマに私が関心を抱くようになった経緯を説明させてほしい。発端は、私が以前やっていた、あるきわめて古いテーマに関する研究に存在する。そのテーマというのは個人所得の分布の法則で、一八九〇年代にヴィルフレド・パレートが発見したものだ。この法則に――そして私の研究に――興味をもった経済学者が何人かいて、私はヘンドリック・S・ハウタッカーが主催するハーヴァードのセミナーで講演をしてほしいと頼まれた。

 “ハンク”の研究室に足を踏み入れた瞬間、驚きに見舞われ、おかげでその日は生涯有数の心に残る日となった。研究室の黒板に妙な図が描かれていたのだが、それは私が講演のときに描く予定の図とほとんど同じように見えたのだ!私が個人所得について発見したばかりの事柄が、もうこんなところに描かれているのはいったいなぜですか、と私はすぐさま尋ねた。「何のお話だか、さっぱりわかりませんが。この図は綿花の価格を表しているのですよ」。ハウタッカーは私が来るまで学生と話をしていて、黒板に描いた図をまだ消していなかったのだ。

 社会全体における所得や財産の分布が、綿花価格の変動となぜ関係するのか?この二つがなぜ同じ凹凸のパターンを示すのか?このことは、経済学の二つの側面を結びつけるもっと深い関係――チャートの背後にひそむ不思議な真実――の存在を示しているのか?

(略)

私がなんとかならないか調べてみたいと言うとハウタッカーは同意し、データの記録されたコンピューターパンチカードの入った段ボールをいくつも渡してくれた。「幸運を祈ります。データの意味がわかったら数えてください」

(略)

 株式取引所、証券取引所、商品取引所(略)

 何世紀ものあいだ、これらの市場は系統的な数理モデルの恩恵など受けずに栄えてきた。一九〇〇年にこの種のモデルを初めて提案したのは、フランス数学界のアウトサイダー、ルイ・バシュリエだった。このモデルは驚くほど早い時期に、時代を大きく先取りして発表されており、まさしく奇妙なものだった。これが相場モデルの標準となり、ハウタッカーが綿花価格に適用していたのもこれである。相場を表すものとしては高度だったが、データによる裏づけはまったくされていない。

(略)

 コンピューターのおかげで、私は一九六二年に大急ぎで完成させた報告書でバシュリエのモデルの欠陥を指摘し、数式を使わずに表現できる理論を対論として提出することができた。

(略)

 価格チャートというものは、どれを見ても互いに似ている。(略)日次、月次、年次のどのレベルでも、全体的な形状に大きな違いはない。日付と価格の目盛りを消してしまえば、どれがどれだか区別がつかなくなる。そしてどれも等しくくねくね動いている。「くねくね動く」というのは科学的な用語とは言いがたく、何年もあとで私がフラクタル幾何学をつくり上げるまで、こうしたあいまいな概念をうまく定量化できる方法は存在しなかった。(略)

スケールアップしてもスケールダウンしても見た目が変わらないという、フラクタルに特有の性質がここでは、たとえばカリフラワーの小房といった“形状”に生じているのではなく、“価格の変動”という別のタイプのパターンに生じている。ファイナンスの中核はまさにフラクタルなのだ。これで話はもとに戻る。ハウタッカーの綿花価格のグラフと私の描いた所得分布のグラフが似ていたのは偶然ではない。数学的に同じ性質を備えていたのだ。

 残念なことに、一九六三年にバシェリエを粉砕できたはずの入念な検証は、失敗に終わった。経済学の専門家たちが、私の研究はあまりにも複雑で、あまりにも新奇だと判断したのだ。(略)

専門家たちにとっては、延々と“修正”を続けるほうがずっと簡単だと思われた。そこで私はどうしたか?私はまったく別の“優先的な関心対象”に移り、価格変動にはときおり立ち返るだけとなった。私が疑義を訴えた一九〇〇年の市場理論は今でも生きながらえ、多くの若い数学者や科学者を引きつけ、そのせいで彼らを輩出したもとの分野が枯渇する結果となっている。

 そして二〇〇八年、私の予想よりやや遅れたかもしれないが、市場は当然のなりゆきに至った。破綻したのだ。

人生を変えた昼食会

 いったいなぜこうなったのか?一九七〇年代の半ば、私はしょっちゅうスティーヴン・ジェイ・グールドと会っていた。彼は精力的な古生物学者で、ハーヴァードで多数の職に就いていた。私たちはまったく別々に、不連続性の唱道者として非常に目立つ存在となっていた――彼は古生物学における断続平衡説の提唱者として、私は相場価格の変動において。一九七七年初めのある日[グールドを昼食に誘うと](略)

同僚で数論学者のバリー・メイザーを連れてきた。(略)

[『フラクタルな対象』を熱心に読んでいたバリーは翌日のブランチに誘ってきた]

 ブランチを食べながら、バリーは二つのテーマについて私を質問攻めにした。一つは実解析の初期、すなわち一九〇〇年ごろに書かれた論文や書籍についてだった。この時期、実解析は数学におけるさまざまな“病変”の寄せ集めと見なされていたが、私の考えではこれらは“おもちゃ”だった。二つめのテーマは、私がそのようなおもちゃを道具に変えた例であり、そのような例はすでにかなりの数にのぼっていた。話の途中でバリーはこう言った。「そうだね、これをうちの学科でやったらすばらしい講義になりそうだ。(略)私自身がそのへんの歴史をよく知らないし、実際の応用だって一つも思いつけない。ほかの人にも無理だ。君はどうだろう、やってみる気はないか?」

 まさに願ってもない話だ!

(略)

[その年の秋、物理学者アムノン・アハロニーの講演のあとに意見を述べると、フラクタルは物理学にも役立つかもしれないと言われ、共同研究することに]

 

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