コペルニクスの仕掛人―中世を終わらせた男

コペルニクスの仕掛人―中世を終わらせた男

コペルニクスの仕掛人―中世を終わらせた男

 

コペルニクス

 コペルニクスのことを知っていた人々にとって、彼は多才な人物であった。本職の行政官、頼がいのある金銭管理者、人文主義者の鑑であり、とりわけ熟練の医者なのだった。しかし、彼のことを(略)卓越した天文学者として歴史が記憶するようになると思った人は皆無に近い。コペルニクスと知遇を得た人たちは、彼が天体の科学に深入りしていることを漠と知ってはいたが、光り輝く彼の宇宙論については、何も知らなかった。

 これは当然のことである。コペルニクスは技術的には素人の天文学者であった。後の有名な後継者(ティコ・ブラーエ、ヨハネス・ケプラーガリレオ・ガリレイアイザック・ニュートン)と違って、科学で収入を得ていたわけではないし、科学の探究を支援してくれる庇護者が付いたこともなかったからである。イタリアでの学生時代から、学会や大学で天体力学や数学について説じたこともなかった。三〇年ほど前の一五一〇年代に、「動いている地球と静止した太陽」についての斬新な着想を述べた原稿を回覧させたことがあったが、わずかでも注目した人はいなかったようである。

 四年前、二四歳のゲオルグ・ヨアヒム・レティクスがこの年老いたアマチュア天文学者の理論に注目して、それを探究することに駆られたときも、この状況は変わっていなかった。ヴィッテンベルクのマルティン・ルター大学の数学教授であったレティクス(略)は、コペルニクスに会うことを望んで、運任せにワーミアへの長い巡礼に旅立ち、彼のもとで二年半の間暮らすことになる。一五三九年五月下旬の彼の到着は、両名に驚きをもたらした。レティクスにとっては、やがて「わが尊師」と呼ぶことになる人物から世界がひれ伏す着想を直に聞いたことが驚きであり、コペルニクスにとっては、愛弟子、生涯で唯一の弟子を獲得したことが驚きなのであった。

(略)

 レティクスがその師の宇宙観として提示したものを誰もが信じたわけではなかったが、欧州の学者が重大な関心を寄せたことは確かである。レティクスとギーゼによる絶えざる励ましと、ニュルンベルクの出版業者からの文書による激励が事態を変えた。コペルニクスは、とうとう、その作品を世界と共有することに同意したのだった。(略)

唯一の弟子が原稿を書き写して完成させて、出版元へもってゆくことになった(略)

最愛の師へ最後の別れを告げたとき、コペルニクスの長年にわたる天文学研究の成果は、南への長旅に向けて、念入りに包装されたのである。

 使徒レティクスのニュルンベルクへの使命は、種々の困難に遭遇する。骨の折れる出版作業がまだ完成に程遠かった一五四二年一二月、コペルニクスが卒中に倒れた。さらに、この頃ライプツィヒ大学で新たなポストを得たレティクスは、残念ながら、校閲の作業を他の誰かに託さざるを得なくなる。

(略)

半身麻痺の危篤状態にある、この本の著者には回りのことがもはやわからないだろうとは思ったが、ドンネルは、最近到着したその作品を(略)コペルニクスの眼前にそっと置いた。出来たての頁の束がその枕元に置かれるとすぐにコペルニクスは臨終の吐息をつき、やがて永遠の眠りについたのである。

「悪貨は良貨を駆逐する」

経済学におけるコペルニクスの著作(通貨改革に貢献した)(略)『貨幣制度に関する小論』は、トーマス・グレシャムが実はその第一発見者ではないにもかかわらずグレシャムの法則として今日知られている、「悪貨は良貨を駆逐する」という原理を最初に体系化したものである。

(略)

コペルニクスは、硬貨において、銀の銅に対する比率が経時的に低下したことに気づいた。同じ額面価値の様々な硬貨が異なる実勢価値を有したのである。二つの硬貨があって、その一方が他方よりも高い比率の銀を含むことがわかっていれば、買い物をするのに銀の比率が低い方の硬貨を使うのは当然であろう。こうして、「良貨」は「悪貨」の存在ゆえに、流通から締め出されてしまう。コペルニクスは、政府が旧硬貨を一掃しないままに本質的により価値のある通貨を導入しても、より低価値の新しい通貨を導入しても、この現象が起こることを認めた。

(略)

 しかし、問題は、通貨にとどまらなかった。貨幣が価値の変動するものであれば、商品との交換時に硬貨を受けとるとき、商人は懐疑的にならざるを得ない。実際、提示される硬貨の本質価値(銀含有量)が確かでなければ、売る気も起こるまい。コペルニクスには、プロシア通貨の価値低下が国内外の商売や交通に影響を及ぼしていることがわかっていた。

 通貸に関する考察において、コペルニクスは、「貨幣は……価値の尺度である。しかし、尺度は、固定された一定の基準を保たねばならない」と早くから主張した。それは、「不変の大きさ」でなければならない、と。宇宙論において宇宙の「秩序だった配置」と「驚くべき対称性」を称揚したように、経済学においても、定常性、秩序、及び不変性の正しさを主張したのである。したがって、実践面では、一定の価値がある硬貨をひとつの場所だけで、あるいはどんな場合でも二つ以下の場所での鋳造を提案することにより、通貨の統一と安定を模索したのであった。「多数性は均一性を妨げる」からである。

(略)

 コペルニクスが経済学において天文学と同様に認識したことは、ある種の相対性であった。後に彼とレティクスが、太陽のみかけの運動が地球の実際の運動によって説明することができることを示した(略)ように、彼は、経済学では、品物の代価のみかけの上昇が実は通貨価値の低落を明示すると考えた。いずれの分野でも、「注意深い」こと、事物が、見えているものとは違っている可能性があり、その逆ということさえあり得ることを理解することが必要なのであった。

学界での成功者レティクス

ライプツィヒ大学側からすれば、「著名で博学の士であるヨアヒム・レティクス教授をヴィッテンベルクから誘い出した」ことは、「してやったり」なのであった。

 この目標を達成するために、ライプツィヒには支払う用意があったし、レティクスも支払ってもらうつもりでいた。(略)

ライプツィヒは、他の大学で教鞭をとる教授より四〇%高い価値の教授を雇うことに満足していた。レティクスは、盛大な祝福を受けながら(略)「全員一致で高等数学の教授として」受け容れられた。

 

 レティクスは、どこから見ても、学界での成功者であった。わずか二八歳で、最高水準の学問を名門大学で教えて、破格の俸給で遇されたのだから。しかし彼は憔悴していた。ワーミアにいる間は、研究に明け暮れて、コペルニクスの教えを吸収することの興奮に身を捧げた。『第一考察』を出版しただけでなく、地図作成研究のためにレーバウ、ダンチヒケーニヒスベルク、他のプロシアの地方への旅をした。以来、大学での職責に加えて、ニュルンベルクや南西部の故郷へ何度も足を運び、最後にライプツィヒへ着いたのだ。四年もの間、動き続けてきたのである。

 肉体的な疲労は別にして、レティクスの気性は、組織に安住して楽しむことをよしとしなかった。きわめて社交的で、人を愛し、人文主義の学問や学術談義を好み、誠実な友人であり得たが、彼は、生まれついての一匹狼だった。(略)彼は、ひとつの学校または大学に長い期間奉職することができなかったし、その気もなかったのである。

(略)

 一五四二年から四三年の秋と冬の間、レティクスの心を奪っていたのは、新しい職位ではなく、ライプツィヒから三二〇キロほど南のニュルンベルクにあるヨハネス・ペトレイウス印刷工房で活字に組まれて、校正作業に入った書物のことである。敬愛する師から託された著作は、今や、厄介にも他者の手中にあって、レティクスができることといえば、大学での職責に追われながら、ニュルンベルクでの万事順調を祈ることでしかなかった。

オジアンダーの裏切りに激怒するレティクス

[レティクスから『回転論』を託された神学者オジアンダーは神学論では論争好きの頑固者で知られたが]

宇宙論では、あからさまに協調的かつ懐柔的な態度[で、批判をかわすためにコペルニクスの著作は実体のある主張ではなく単なる仮説と提示する序文をつけた]

(略)

 一五四〇年代当時、コペルニクスへの反論は、神学者からではなく、大学で大勢を占めてアリストテレスプトレマイオスの教えに固執し続けた哲学者たちからのものだった。

(略)

コペルニクスの仮説は、「想像力により考案されたものであり、それが真実であると説得するものではなく、信頼できる計算の基礎を提供するものにすぎない」と示唆することによって、彼らの懸念を和らげようとしたのである。

 この待ちに待った大著の第一刷が一五四三年の春にライプツィヒへ届いたとき、その最初の頁に「読者へ」を見たレティクスは、呆然として、それから激怒した。ニュルンベルクに留まって『回転論』の印刷を最後まで見届けるべきだったと後悔したし、コペルニクスの意向へのこのような裏切りをペトレイウスが許したことを悔しがった。問題は、「仮説」ということばにあるのではない。レティクス自身も「地球の運動に関する仮説」と言及していたのだから。しかし同時に、その仮説は、十二分に「みかけと調和しているので」、理性によれば、これほど「真実に近い」ものはないと言えるとも言及していたのだ。コペルニクスが新しい本当の世界を提示しているのに、ここにあるのは、有用であるが想像による虚構細工としての仮説を提示する、臆病風に吹かれた、曖昧な「読者へ」なのである。

(略)

[レティクスは]赤のクレヨンを右手に取るや、オジアンダーの序文を激怒した手書きの大きな✕印で読めなくした。贈答用のものも含めて、自分に届けられた各冊に同じことを行った。これを受取る人には、このコペルニクスの作品を目にしたときにレティクスがどんなに深い絶望と挫折に襲われたかがわかったはずである。

天文学占星術

レティクスは、それまでの勤務(一五四二年一〇月~四五年七月)よりやや長い、三年以上の間ライプツィヒを離れていたことになる。仮病ではなかったとしても、ライプツィヒの同僚は、自分たちの忍耐が悪用されたと感じたことだろう。しかしながら、大学からの警告状でみれば、レティクスを大学に呼び戻したいという欲求が法的見地だけのものでなかったことは明らかである。ライプッィヒ大学の教授や学生は、彼を心底から必要として、学者として高く評価していたのである。

(略)

 健康と精力を取り戻したレティクスは、狂おしかったイタリア旅行とその余波を御破算にして、彼の人生の最も生産的な二年間を開始した。学部長としての管理業務をこなす傍ら、天文学と数学(愛好する幾何学が含まれる)の講義をした。甦ったコペルニクス主義者の使命感を抱いた彼は、これらの学問を織り合わせて、現代の三角法の母胎をつくり上げてゆく。三角表を完成させるには、膨大な時間と手助けが必要であることがレティクスにはわかってきた。天界が含まれる世界の地図を作成するのに必要である、正弦(サイン)、余弦(コサイン)、等の正確な数値にたどり着くまでの果てのないような計算である。

 しかし、これにも金がかかるのだった。レティクスの生涯の後半を支配するのは、自らの計画への資金調達に悪戦苦闘する姿である。

(略)

 今日の一部の大学教師と同じように、レティクスも、専門研究と、大衆受けする可能性がある研究の狭間で悩んでいた。彼の場合、この拮抗をもたらしたのは、天文学占星術という、関連してはいるが枝分かれした分野である。何世紀もの間、「天文学」と「占星術」の用語はほとんど相互交換可能であったが、一六世紀の中頃には、現代では馴染みの対照的な見方があらわれていた。一五四二年にペトレイウスから出版された作品では、占星術が、天文学的データの測定ではなく、解釈を教えるものと説明されている。「占星術師は結果に関心があり、天文学者は原因に関心がある」。一般大衆の関心は、今も昔も、想定される結果にある。カルダーノ、ガッサー、レティクスといった多くの学者には、かなりの市場が存在するデータを公表する機会が与えられた。そこからは、金銭上の利益が見込まれたのである。

 天文学占星術は、分岐したとはいえ、まだ緊密に結びついていたので、暦や天体暦に関する研究が自らの天文学の必然的な発展であるのか、そして金儲けの欲求により突き動かされた大衆商売でしかないのかは、あまりはっきりしていないし、レティクス当人にも判然としてはいなかっただろう。しかし、そのような出版物が利潤の動機によるものであっても、レティクスは、すべては将来の研究のためである、と豪語していた。受け継いだコペルニクスの遺産を発展させるためなのだ、 と。

『三角形の科学の規準』

『天文暦』の第二の序文、「著者から読者へ」においても、レティクスは、そのコペルニクス主義者の色彩を大胆に示した。コペルニクスを「その御手により、この世界という機械を前進させた」人物として称え

(略)

『天文暦』は、彼の師の理論と密接に結びついていた。「私は、コペルニクスの教えにごくわずかでも背きたいと思ったことはありません」。

 この注目すべき時期の間にレティクスが製作した、科学的に最も重要な最高傑作は、一五五一年のはじめに公刊された、『三角形の科学の規準』という表題の小冊子である。これには、六種の関数の三角表がはじめて含まれ、三角法(ただし、「三角法」という用語はまだつくられていなかった)の有用性を称揚する対話が続いている。このような表は、天文学者や地理学者が角度の測定値から距離を導く計算を速やかに行うことを可能にした。

 男色で追放

[男色行為で訴えられ]一五五一年に、そして公式には翌年にライプツィヒから追放されたレティクスは、十分な大学の俸給とともに、庇護の見込みや用紙や本の売上げからの収入の見込みを全て失ってしまった。破産宣告者よろしく、借金から解放されると同時に、信用を失墜したのである。

[仕方なく医学習得に専念](略)

特定の場所や組織に縛られることなく、儲かりそうな職業に就きたいとすれば、医学はうってつけに見えた。

 異端パラケルスス医学

 すでに目覚しい業績が達成されたにもかかわらず、一五六〇年代の後半に、レティクスの職歴は、岐路に立っていた。一五六八年のゲスナーの『ビブリオテカ』に彼自身の数学上の声明書が掲載されたこと、そして次いで、一五六九年の『数学の諸学派』においてラムスが尋常でない紹介をしたことで、レティクスは、ヨーロッパの数学地図に確固たる地位を占めた。潜在能力が十分に発揮されていないとラムスが力説したところで、その時代の最高の数学者のひとりであるというレティクスの世評は、パリから黒海まで広がっていたのである。

 その世評は、一六世紀の数学者や天文学者が活動した二つの主要領域(権威のある大学と宮廷)にも及んでいた。 

(略)

レティクスの心を奪っていた医学は、手堅い、伝統的なガレヌス医学ではなかった。真新しくて、議論の余地が多いパラケルススの医学理論である。(略)

[それは]植物よりも鉱物に基づく治療を重視した。(略)

レティクスは、鉱山に由来する岩塩や鉱石の有用性を称揚している。

(略)

 しかしながら、洞窟のようなヴィエリチカ岩塩坑は、パラケルスス医学の不吉な側面の象徴としても機能した。今日では想像し難いことかもしれないが、近世初期には、採鉱の行為が瀆神的、さらには悪魔的と見られがちであった。

(略)

レティクスの友人で、チューリッヒ出身のコンラート・ゲスナーは(略)「パラケルススは.…キリストの神性を否定しています……キリストが所詮人間であったと人々に信じ込ませたいのです」と断じて、この種の攻撃を開始した。

(略)

 最も大きな反パラケルススの影響を及ぼしたのは、紛れもなく、皇帝の侍医であったクラートで

(略)

宮廷に取り入ることに腐心してきたレティクスからすれば、医学とそれに伴う神学上の異端という烙印は、前途多難を予兆させるものであった。

(略)

皮肉にも、数学と天文学の研究の大風呂敷を広げてから数年もしないうちに、レティクスは、多忙なパラケルスス派の医師にして活発なパラケルスス派の著述家になっていた。彼が数理系の科学へ貢献することを待ち侘びていた人々が疑心暗鬼になったのも無理からぬところである。

ヴァレンチン・オットー

 ヴィッテンベルクのヴァレンチン・オットーは、幾何学への熱中という得難い経験を積んでいた。(略)

[『三角形の科学の規準』を読み著者を訪ねたいと思い]

レティクスがまだ住んでいるハンガリーへ出立したのです」。

(略)

レティクスの応対は、ヴィッテンベルクからの熱狂的な若き巡礼が期待した以上のものであった。(略)

今の君は、コペルニクスを訪ねたときのわしと同じ歳なんだな!わしが旅をせなんだら、先生の研究は日の目を見ることがなかったろうに」

(略)

彼の出現は、他に何もなし得なかったレティクスの数学者としての使命感を再燃させた。

(略)

[レティクスがクラクフに遺してきた三角法関連の大切な荷物をオットーが背負って戻ると師は呼吸器感染症で臥せっており]

自分が死んだならば、その著作を……オットーに託して……完成させるように頼んだ

(略)

「それから四日も過ぎて、病状は悪化の一途をたどった。その夜の二時頃、敬愛するゲオルグ・ヨアヒム・レティクス先生は、わが胸の中でこときれた」と、オットーは書いている。[あと二ヶ月で六一歳だった]
(略)

 一五七四年の終わりにレティクスが亡くなると、「天の星辰の精密な説明」に必要とされる正確な計算を可能にすることを意図した『三角形の科学』の計画は、北部ハンガリーの片田舎に、未完成で未公表のままになった。

[ルーバー男爵が]この件を神聖ローマ皇帝へ直に持ち込んだ。マクシミリアンは、レティクスがやり残した研究を公式に認めただけでなく、オットーによれば、「我が希望と期待以上に、この研究を完成させるのに必要な資金を賜った」のである。敬愛する師の喪に服している間に、オットーは、レティクスの遺著財産の法定所有者にして、彼の研究計画を継続するための下賜金の受領者ともなったわけである。

 しかしながら、オットーも、レティクスと同じように、遅延の憂き目に遭う。帝国からの承認から二年も経たないうちに、マクシミリアン皇帝逝去の知らせが届き、その後すぐにオットーへの下賜金も消滅したのである。しばらくの間は、ルーバー男爵が自腹を切って援助を続けたが、これもそう長くは続かなかった。間もなく、間違いなくこの男爵の縁故のお陰で、オットーはヴィッテンベルク大学の数学教授へ招聘され、ここでザクセンアウグストゥス王子選帝侯がオットーの計画を支援することになった。

 そこでのオットーの滞在は、短いものであった。ヴィッテンベルクが(略)「隠れカルヴァン主義」を巡る神学論争により分裂したためである。(略)

異端嫌疑の暗雲が彼の後継者にもかかったのだった。彼の女婿のポイツァーは、すでに一五七六年から投獄されていた。(略)

オットーは、「数年間を放浪して過ごした」が、結局は、一〇年の獄中生活から解放されたポイツァーの助言に従って、パラティネートへ向かい、そこで一五八六年五月にハイデルベルク大学の一員として迎えられ、翌年、教授になる。ハイデルベルクでは、時折襲う身体の不調に邪魔されながらも、レティクスの三角法の計画の完成へ向けて作業を続けた。

 こういった努力の終着点は、欧州全域の学者及び科学者が待望していたものである。一五九三年には、著名な数学者のアドリアヌス・ロマヌスがその「待ち焦がれた」著作を鳴り物入りで宣伝した。

(略)

 しかしながら、オットーは、鈍重なヘラクレスになりつつあった。二折判ではぼ一五〇〇頁の著作(その大部分は、数表なのであるが)を製作するというのは、気が遠くなる作業だったろう。それには、ほぼ一〇万もの比の値を少なくとも小数点一〇桁まで(略)計算することが求められた。

(略)

クラクフに居た一二年間で、レティクスは、五名の計算機(機械でなくて、人間である)を計算のためだけに雇って、いた。

(略)

[オットーの著作が出版されたが計算間違いが多いと不評、しかも50過ぎたオットーに改訂する力は残っていなかった。フリードリヒ選帝侯は下駄をバーソロミュー・ピチスクスに預けた。ピチスクスは]角度の関数について一〇桁まで正確な結果を得るためには、実は一五桁までの計算を実行しなければならないことに気づいた。レティクスが実際に一五桁までの表を作成していたとオットーから聞いたことがあったのだが、オットーは『宮殿の作品』を作成するときにそれを使用しなかったのである。

[老いたオットーはその場所を思い出せなかったが、オットーの遺品を整理していたクリストマンが発見]

(略)

より最近の数学史家が三角法について述べているが、レティクスの表は、「驚くほど正確で、その後数世紀の間、天文計算の基礎となった……レティクスは、[三角法の計算の]方法を体系化して、断片的な学問ではなく、厳密な科学へ転化させた」

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