「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界

 

 『社会と文学』

 当時の純文学へのまなざしをもう少し詳しく見るために、明治三四年(一九〇一)に書かれた荒木鷲泉(省三)、今井緑泉の共著『社会と文学』を参考にしてみたい。

(略)

・大家を自認する蛆虫は始末に終えず、江戸っ子気取りの作家が江戸の価値を下げている。

(略)

泉鏡花の小説は何が書いてあるんだか分からない。小栗風葉幸田露伴はなかなか良い。

漢文学も新文学もダメ、国民がまともな小説を求めているが、瑣末な事柄を一年余り議論し続けている。

・赤門派は文学振興の阻害者で、〈文学はわれら専門家の文学なり、文学は赤門の占有物なり、文学の読者は赤門の出身者以外に断じてあるべからざるなり〉と定義して以来、ますます駄目になってしまった。

最初期娯楽小説「露西亜がこわいか」

 明治の娯楽物語は、極めてでたらめである。

 例えば世間で、日露戦争が話題になる。今と同じでブームに乗じ、日露戦争をテーマにした物語が生産される。現代との違いは、作者が妄想やら当てずっぽうで強引に物語を書き上げてしまうという点である。出版社もでたらめで、いち早く日露戦争ものの書籍を出して金を稼ぎたすぎるという気持ちが先走り、そのまま作品を出版してしまう。このようなシステムによって世に出された作品のひとつに山下雨花・編『露西亜がこわいか』がある。

(略)

[日露戦争勃発二ヶ月後に出版]

かなりの短期間である。作者によれば元々は芝居向けに構想していたものを、強引に小説に仕上げたとのことで、『露西亜がこわいか』 の本編は七〇頁しかない。これだけで一冊の書籍とするには、量が足りなかったようで、作者が集めた日露戦争関係の雑話を足して、九二頁に水増しするといった荒技も使われている。

(略)

露西亜がこわいか』『南京松』は、恐らく新聞記者によって書かれた物語である。『信州小僧』を演じた松林一派の講談師も、新聞記事をもとにネタを作ることが多かった。明治娯楽物語の作者たちの多くは、時世の最先端に触れていた。自然に最新の話題が扱われることが多くなり、現代人が主人公の物語を書くことができた。

 主人公の馬丁たちに共通するのは、忠義者という点だ。忠義者が活躍する物語は、江戸時代から連綿と続いている。(略)

一心太助スタイルでの喧嘩の仲裁や、突如入る芝居がかったヤクザ口調などがあった。これらは明治の普通の人々にとっては見なれたもので、抵抗なく受け入れることができた。

 そして最も重要なのは、物語としての質はたいしたことはないものの、正統派主人公の萌芽があったという点だ。

 『露西亜がこわいか』は、ストーリーを詳細に書けるくらいにはよく練られている。(略)

 『南京松』では、新しい主人公像が提示されている。国籍を持っていない本名もあいまいな長崎産まれの背中に刺青をした江戸っ子の清国人というのは、かなり新しいヒーロー像であった。もっとも新しすぎて使いこなせず、物語から途中退出しているのは残念だ。

(略)

 『露西亜がこわいか』の辰五郎の超人的な身体能力、『南京松』の国籍のない、氏名不詳の江戸っ子清国人といった設定、そして、『信州小僧』の宮城半三の気風のよさなどを合わせてしまえば、現代の物語に登場しても恥ずかしくない魅力的な主人公の完成である。(略)

明治娯楽物語の黄金時代に作られた新しい要素たちは、確かにのちのエンタメが爆発する時代に必要な欠片だった。

講談速記本の製造プロセス

 次は、講談速記本の製造のプロセスについてである。速記記号も含めた講談速記の完全な原稿は、ほとんど残っていない。なぜなら速記の世界に、原稿を残す習慣がないからである。

(略)

そんなわけで講談速記本の製造プロセスについて、はっきりしたことは分かっていない。以降はあくまで推測だと考えていただきたい。

(略)

 明治一〇年代から二〇年代は、速記者が演芸場に通い詰め、その速記原稿をもとにして一冊の講談速記本にするケースが多かった。

(略)

 講談速記本の人気が加熱し、競争が激しくなると、コストを下げるため速記者と講談師が一室にこもり作業をすることが多くなる。

(略)

 明治三〇年代には、講談師による口演すらなしに、手慣れた記者や仕事のない作家が直接原稿を書く「書き講談」の手法があらわれる。

(略)

大正時代に入ると大衆文学の勃興により、講談速記本の人気に翳りが見えはじめる。こうなったのには、いくつかの要因があるのだが、大正二年(一九一三)に起きた「講談師問題」が理由のひとつとされている。これは講談社の設立者である野間清治による雑誌「講談倶楽部」にまつわる騒動だ。

(略)

騒動の背景には次のような状況があった。

 

・当時は著作権があいまいだった。

・講談より浪曲(浪花節)の人気が高くなりつつあった。

・「講談倶楽部」に浪曲が掲載されるようになった。

 

 当時、講談師たちは浪曲の台頭に危機感を覚えていた。そんな折に「講談倶楽部」で浪曲の特集が組まれる。講談師は知識人であり、指導者、そして先生である。他の芸人とは異なるというプライドがあった。これは看過できないという空気が形成される。さらに「講談倶楽部」に掲載された講談の原稿が、他社に売り払われているのではないかという疑惑も浮上する。

 速記者の今村次郎が講談速記本サイドの代表として、講談社野間清治と交渉することとなるが、交渉は決裂、講談社は講談師を必要としない「書き講談」の掲載を決定、これが後の大衆文学へとつながっていく……というのが通説なのだが、個人的にはちょっと怪しいと考えている。野間清治が今村次郎側を挑発し騙し討ちにしたのだという話や、今村次郎が講談師たちを焚き付け利益を独占しようとしたという説もある。どちらにしろ世渡りベタなであった講談師たちが、割を食った騒動だった。

 この事件をきっかけに、講談社が書き講談を積極的に雑誌に掲載するようになったのは事実である。ただし書き講談自体は、すでに書いたように明治三〇年代には存在していた。さらに新機軸の講談速記本も、果敢に出版されていた。重要なのは、そんな改善を施し続けてはいたにもかかわらず、大正初期には、講談速記本が大人の読者には少し物足りないものになっていたということだ。

 ところがここから、講談速記本は再び息を吹き返す。大人が読んでくれないのであれば子供だッ! というわけで、過去の作品を子供向けに作り変える作戦に出たのである。さらに値段を安くするため判型の小さい文庫とし、ストーリーと文体を簡略化しページ数を減らすという工夫もした。子供向け講談師で最も有名なのは、なんといっても立川文庫で、三巻から四巻あった物語を[面白い部分を抽出し]一巻に圧縮してしまう(略)のだから、面白くないわけがない。この試みは成功し、講談速記本は一時的に人気を回復する。

複数人で書く、文士崩れがいる、厳密さは求められない 

[消えてもおかしくなかった講談速記本だが]

出版社と速記者は、いやがる講談師を説得し、なかば無理強いし、日清戦争の講談をしゃべらせる。人々の興味の対象が日清戦争に向いているのなら、日清戦争の講談速記本を出しゃいいだろうといった荒っぽい戦略だ。

(略)
 戦争の便乗して後世に恥を残すのはごめんだと言う講談師と、とにかく売れるものを作りたいという出版社、その間に入ってやや出版社よりの速記者という三者の関係がうかがい知れる。

(略)
 講談速記本なんか買って読むのは時間と金の無駄だから、安くて薄い時代薄小説の方がお得であると言うコンセプトで出されたのが、この時代薄小説[一冊五〇ページ程度]

(略)

講談速記の需要が増えるうちに、十分な技量のある速記者も、こんなことを始めてしまう。

 

もう速記してぼつぼつ翻訳していたのでは間に合わない。(略)いきなり普通文字で描けたらこんな便利なことはないというので、窮余の一策、講釈師と話し合ってゆっくり読んでもらい、その場で書いてしまうことにした。

(略)

さらに名速記者の出自については、次のような説がささやかれていた。

 

昔から名速記者として速記の歴史に名をとどめている人々の中には文士崩れが多い(略)

 

 文士崩れの速記者ならば、雑文書きに慣れているうえに、読んでいる量が圧倒的に違う。もちろん言文一致体にも馴染みがある。ライティングのスキルを活かし、講談速記本の文体を作っていったというのは、十分に考えられることである。

(略)

 速記者にとって花形はやはり議会の速記録で、講談速記本はアルバイト(略)

そして講談速記本には、議会の速記のように厳密さは求められない。

 複数人で書く、文士崩れがいる、厳密さは求められない、この三点が揃った時、どんなことが起きるのだろう?複数人だからと責任の所在はあいまい、聞き取れないところは昔取った杵柄、作文の技術で補ってしまう、正確でなくてもかまわないと自然に気持ちは緩む・・・。(略)

悪く言えば粗忽、良く言うと非常に自由度の高い環境である。誰かが意図したものではないのだろうが、これにより独自の物語形式が生まれることになる。(略)

無責任かつ不器用なりにさまざまな技術や文化を貪欲に取り入れながら作り上げた。情熱が空回っているところもあるが、だからこそある時期、最高に面白い物語分野として君臨することができたのである。

最初期娯楽小説

 講談速記本が明治娯楽物語の土台なら、進化の起爆剤となったのが〈最初期娯楽小説〉である。

(略)

明治人が同時代の人物をヒーローに仕立てるのは、かなり骨の折れる作業だった。日清・日露戦争が起きた後に発生した、軍人や馬丁をヒーローにしようといった動きはすでに紹介した。

(略)

しかし市井に生きる「普通の人々」が、日常の中で活躍する物語を描くのは一朝一夕とはいかなかった。

 そんななか、新聞記者を主人公にしようという試みがあった。なぜ新聞記者なのか。単純な理由としては新聞小説を書いている人間が、新聞記者であったからというものがある。(略)

加えて新聞記者は、明治時代にはチンピラやゴロツキのようなものだとされていた。そこで地位向上の気運が生まれたというわけである。

 初期の新聞記者は、いわゆる経世家、つまり政治や社会、経済といった問題について世の人々にいわば処方箋を与えるといったある種の知識人であった。

 ところが明治五年(一八七二)あたりには教養と公共心を合わせ持つ「知名の士」が筆を執ることがなくなり、新聞自体の価値が落ちてしまった。

(略)

伊藤正徳『新聞五十年史』によれば、明治二〇年代の後半から三〇年代だと〈中等学校を中途退学したものが、外の所では雇ってくれないから新聞記者になろう〉と思うような職業であった。そんな下等な新聞記者の地位を向上させようと、正義の新聞記者というキャラクターが創出される。

(略)

[帯刀禁止令により丸腰で武器を持った相手を制圧するヒーロー創出]

という巨大な課題が、明治の創作者たちの前に聳え立っていた。

(略)

 そんななか、比較的成功したキャラクターとしてバンカラがいる。バンカラとはなにか、今やあまり理解できないかもしれないが、破れた帽子に破れた服、汚いマントで街を闊歩するのが格好良いとされていた時代があった。

(略)

 明治に書かれたバンカラ書生系の主人公が活躍する小説で、今も多く読まれているのは夏目漱石の『坊ちゃん』であろう。

(略)

 明治娯楽物語におけるゲンコツを武器とする流れの源流に存在しているのが、物外不遷こと拳骨和尚である。幕末に活躍した曹洞宗の僧で、戦前はそれなりの人気を誇り、子供にも人気のキャラクターであった。

(略)

木材を殴れば拳の跡をつけることができ(略)八〇〇キロ程度の物質を持ち上げ

(略)
[京都にのさばる無頼浪人たちに]
怒った物外が一人の横面を殴ると目と口から血を噴き死亡、もう一人を蹴りあげると肋骨がすべて折れ即死、残る一人の頭蓋骨を割り殺害する。(略)悪事をすると怪力の坊主に殺されるという噂が京都に流れ、すっかり浪人は大人しくなり街に平和が戻る。

(略)

彼の登場により、講談速記本の世界で強さを表す表現に変化が生まれ、拳骨で顔面を殴ると脳骨微塵、目玉が飛び出し死亡といったパターンが出現する。その他にも、新撰組近藤勇を相手に、茶碗を武器に勝利してしまうという有名なエピソードも物外和尚は持っている。

犯罪実録、推理小説

 犯罪実録に類似したジャンルとして推理小説(探偵小説)がある。(略)

明治に発生した最初期の推理小説は「海外の推理小説を翻訳・翻案したもの」だった。明治二〇年前後には、推理小説ブームが起き(略)

たものの、明治二〇年代の半ばで流行は落ちついてしまう。その後にやってくるのが、犯罪実録の時代だ。推理小説が低迷した理由のひとつに、当時の読者にとってはレベルが高すぎたというものがある。謎解きだのトリックだのは七面倒臭い、とにかく痛快で面白いものを読ませろという一般層には、あまりウケなかったのである。書き手にとっても、精緻な筋書きを考えるより、犯罪実録を書くほうがずっと簡単だった。こういった事情から、読みやすく面白いうえに、簡単に生産できる犯罪実録がしばらく流行する。そして、明治の第一次推理小説ブームから約三〇年経った大正一二年(一九二三)、「新青年」に江戸川乱歩の短編「二銭銅貨」が掲載される。 (略)

そそそろ読者たちは犯罪実録のレベルの低さに気づき出し、再び推理小説に魅了され始める。

 忍者キャラ

[三宅青軒は催眠術や千里眼丹田呼吸の研究を活かし]

日本で最初に合理的な忍者キャラを創作する。

(略)

青軒は桔梗丸の中で、いくども忍術とは催眠術だと解説する。

(略)

 青軒が発明した催眠術使いの忍者は、講談速記本の世界に輸入される。(略)

許可など取ってはいないが、青軒も講談速記本を参考にして、読者が読みやすい「通俗の講談文体」を作り上げているのだから、ここはお互い様だとしておこう。

 立川文庫の創作者たち、つまり山田一族の特徴として、とにかく仕事が丁寧という点があげられる。盗作するにしろ、新しい要素をつけ加え物語を膨らませる。結果、オリジナルの物語より面白くなることがある。時には品質が下がることもあるのだが、努力は忘れない。この作業によって彼らは小説の技術を自然と習得し、物語のバリエーションを増やし、忍術を科学で説明する術を身につける。

(略)

まとめると、江戸の古臭い忍者や妖術ではなく、現代にも通用する忍者キャラを初めて作ったのが三宅青軒、それを洗練させて応用し活用したのが山田一族だ。

 玉田王秀斎による『鬼丸花太郎』(明治四二年)を改めて紹介しよう。本作は現代の忍者に必要な要素をすべて持っていた。火や水の幻覚を見せ大軍を食い止め、姿を消し城に忍び込んでは人を眠らせる。オーソドックスながらも、現在の忍者像と比べても見劣りしない。さらには暗い過去を持ち、単独でスパイ活動をしたあげく悲劇的最期を迎えるという、忍者物に欠かせない非情な運命も用意している。

猿飛佐助がなぜ少年になったか

[現代では小柄な少年というイメージの猿飛佐助だが講談速記本では]

大兵肥満の武士であった。(略)

[なぜ小さくなったかを解明するのに]欠かすことができないのがヒーローたちの「高齢化問題」である。

(略)

[明治の娯楽物語で人気だった真田一族などの豊臣方残党]

[死んだはずの真田幸村が]明治娯楽物語の世界では、夏の陣を生き延びる。薩摩の島津家へ落ち延び、豊臣方の勇士たちを引き連れて琉球を統治したり、世をはかなんで山奥で仙人となったりしている。幸村は年をとればとるほど強くなる。最終的に天狗となって姿を消し、目で動物を殺す。多少ならば空をも飛ぶ。ほぼ無敵状態だ。

 だがしかし、いかに天狗の幸村が無敵であろうとも、そろそろ七〇歳という年齢で江戸城に殴り込みをかけ、徳川家光の首をたたき切ろうというのは無理がある。(略)

[三好清海入道も]大坂夏の陣の時点で八〇歳を超えている。(略)

創作者たちは苦悩の末、彼らを若返らせるという荒業に出てしまう。

(略)

[さらに幸村の息子や孫をヒーローにする]

 鳥さし胆助の本名は真田金助、真田幸村の孫である。(略)

この金助がとにかく強い。琉球を攻め落とした後、真田大助天草四郎の軍師・森宗意軒として島原の乱に参加し、残念ながら討ち死にしてしまう。源義経がチンギス・ハンになったみたいな話で、初っぱなから作者の妄想全開ではあるが、この時代のフィクション世界では、真田大助は幸村以上の能力を持つという設定があった。当時の読者たちは「真田大助ならこれくらいのことはしかねない」と納得していたのだろう。

(略)

大助の奥さんは息子の金助を連れて、田舎へ落ち延びる。金助はすくすくと成長し、八歳になると鳥さしで母親を養い始める。(略)

真田幸村の孫だから、鳥さしの腕前も超一流である。金助が鳥をとりすぎた結果、近場の山から鳥がいなくなってしまう。金助は鳥を追い求め山奥にまで入り込み、偶然にも仙人と出会い、そこで修行を始める。

(略)

修行の結果、三六メートルの範囲内なら縦横自在に飛ぶことができるようになる。予知もできれば夜も目が見え、にらめば人を気絶させることができる。岩すら眼力で壊せる。これだけで十分に無敵だが、「梅干しの術」まで習得している。これは人を梅干しの種だと思ってにらむと、その人物が梅干しの種のように無力になるという特殊な術だ。ちなみに作者は理屈っぽい三宅青軒らしく、梅干しの術は臍下丹田に力を込め精神集中した上で、自己催眠をかけることで発生する作用だと、一応は科学的に解説している。

(略)

 大正になると(略)子供ヒーローが誕生するための要素が揃う。満を持して制作者サイドは、子供のための作品を作り出す。

(略)

 子供向けの作品が進化するにつれ、主人公たちは徐々に若返り、とうとう子供になってしまう。

無名作家と駄作の先に

 明治の末期まで講談速記本は、他ジャンルと比べて劣った存在ではなかった。新しい技術で書くために、西洋の小説を真似するしかなかった明治初期の文学よりも、磨き上げた話芸と速記という技術で勝負する講談速記本は、むしろ独自の道を行く、凛とした存在だったようにすら思える。初期娯楽小説や犯罪実録もやはり同じで、講談速記本とともに日本の娯楽物語の進化をブーストさせた業績は認めざるを得ない。

 大正時代に入ると、本格的な長編大衆文学が登場し、明治娯楽物語は懐かしの存在になってしまう。しかし大衆文学に、まったく太刀打ち出来なかったというのは間違った認識だ。新聞連載向けの講談速記の物語は、昭和にも生き残っていた。

 そして大正時代の娯楽小説にも、明治娯楽物語の要素は活かされている。中里介山の『大菩薩峠』で、同じ時代に生きるさまざまな人々が延々と活動し続けるというのは、豪傑たちが多数登場して活躍する講談速記本と同じ手法だ。

(略)

 残念ながら明治の創作者たちの多くは、原石を磨き上げ新しい領域へと進むことはできなかった。彼らは世間的な名声も、満足できる収入も望めず、執筆期間も短かった。(略)

物語を書くことで一定の社会的な地位や、満足できる収入が求められる状況となり、ようやく本格的な大衆文学が生まれ始める。

(略)

彼らが書いた物語は現代の水準でみればおおむね駄作かもしれないが、名もなき創作者たちが切り拓いた道なくして現代の豊饒な物語文化はありえなかった。

 大正生まれの娯楽物語は、明治娯楽物語を封じたタイムカプセルである。最初期の貸本漫画家たちが、貸本屋で流通していた子供向け娯楽物語から影響を受けていないわけもない。彼らの漫画を通じて英雄たちの物語は断片化し、至るところでごった煮にされながら、今も娯楽分野に染み渡るように広がり続けている。

(略)

 明治の人々は近代化を受け入れるため、フィクションをフィクションとして楽しむ術を一度は手放してしまった。彼らはリアルや実用を好み、実話とされている講談速記本や犯罪実録に熱狂した。その一方で最初期娯楽小説は、物語の様式を少しずつ拡張していった。やがて彼らは荒唐無稽な設定を受け入れるための理屈を考案する。大正時代に入ると彼らの活動は、大人向けの大衆文学や、子供向け講談速記本として花開く。明治の人々は、物語を純粋に楽しむスキルを再発見したのだともいえる。もしも明治娯楽物語の創作者たちがいなければ、私たちはいまだに実話とフィクションの間で戸惑い迷っていたかもしれない。

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