科学と宗教

科学と宗教 合理的自然観のパラドクス

科学と宗教 合理的自然観のパラドクス

いい加減に読んだので、もう一回読んだ方がいいような気がしつつ放棄。

コペルニクス説が宗教的な偏見だけから反論されたと想像するのは完全な誤りである。

カトリック教会がアリストテレス哲学に肩入れしていたのは事実だとしても、一見科学と宗教の闘争と見えるもののほとんどは実は新しい科学と旧世代が承認した科学との対立だったのだ。
 ある科学仮説の不運を説明するのに、教会による弾圧を論拠とする遣り口は過大に評価されてきた。ガリレオは薄々感じていたのだが、彼がカトリック教会とうまくいかなくなったのは、元はと言えば、彼が大学の学者たちを怒らせたことにあったようだ。それで彼らが教会の権威筋に圧力をかけて彼を告発したのである。常套的な闘争モデルでは、様々な宗教伝統における穏健派と革新派の差違もはっきりと映し出されない。ローマ・カトリック教会内部にあった様々な圧力集団がすべてガリレオに敵対したのかということや、当時一部の人々に信じられていたように、彼はイエズス会の陰謀(ガリレオに侮辱されたイエズス会の名士たちの報復行為)の犠牲者にすぎなかったのではないか、と問いかけることも大切なのだ。

空間位置なんか関係ねえ

コペルニクスの論文に遡ること百年前に、ニコラウス・クサヌスは、人間の特性はその空間位置にあるのではなく、無知を啓蒙する能力にある、と論じている。真の英知とは、知識の限界を知ることであり、人間の独自性の源泉は、霊的な探究を可能にする精神の力能なのであって、宇宙における位置などではないとして、人間の霊的な意義を空間座標とは無縁のものとした。宇宙の内部で起こっているあらゆる運動が相対的であることに思いを馳せていたニコラウスならば、地球が動くということがキリスト教の世界観を破壊すると聞いて、驚愕の念を禁じえなかったことだろう。

世界の複数性

ジョン・ウィルキンズは、一つの宇宙に複数の世界が存在していることと、宇宙そのものが複数存在していることを峻別した。後者はキリスト教一神論の脅威となりうるが、前者ならば差し支えない、他の世界に関する聖書の沈黙はあからさまな否定ではなく、むしろ容認なのである。

自転いろいろ

1543年から1600年にかけて地動説を積極的に唱えたとされるコペルニクス主義者は10人しかいない。その内訳は、プロテスタント七人、カトリック三人(略)
さらに複雑なのは、コペルニクスの理論が複数の仮説から成り立っていたことである。つまり、取捨選択が可能だったのだ。地球の自転を認めることで厄介な天球の回転をなきものとするが、公転については認めず、地球の中心性を救うという魅力に富んだ選択肢もあったのである。(略)ニコライ・レイマーズ・ベーア(略)は地球以外の惑星は公転しているが地球は自転しかしないという独創的なモデルを1588年に提唱した。(略)
ティコ・ブラーエは太陽が惑星を引き連れて地球のまわりを公転するという着想をウルサスが盗んだと逆襲した。(略)ティコはプロテスタントであり(略)地球中心説を維持しながら他の惑星を公転させる彼の体系は、数学上の利点が認められて、イエズス会天文学士により、1620年にイエズス会公認の体系とされた。

初代教父の解釈に縛られたガリレオ

プロテスタントがいとも無造作に聖書を自己流に解釈したことがトリエント宗教会議の宣言につながったのだが、これが70年後のガリレオ問題を引き起こすのである。1546年4月の第四回公会議で「初代教父の合意に反して」聖書を解釈することは何人にも許されないと決定された。この統制は厳格な直解主義を要求するものではなかったが、教父と後の聖書解釈者が聖書の関連個所を地球静止論として解釈したがために(略)
[地動説を唱えることは聖書の新解釈となり、信仰の問題になってしまった。それでもガリレオは]
初代の教父が太陽の運行を当然視していたのは、その当時は別の考え方がなかったからだ、[とさらに抗弁したが却下される](略)
ガリレオが致命的なほど性急に地動説を唱えたのは、カトリックの学者として名声を高めようとする純粋な欲望の反映だったのかもしれない。コペルニクス説を理解できるカトリック教徒は一人もいないと考えるのは誤りだ、と彼はかつて書いていた。あるいはまた、ティコの体系よりもコペルニクスの体系のほうが優ることを立証することによって、プロテスタントの科学よりもカトリックの科学のほうが優れていることが再確認されるとさえ考えていたのかもしれない。彼がコペルニクスのカトリシズムを強調したり、そのローマとの結びつきを誇張したりする機会を逃さなかったのは確かである。

  • インターミッション

この本の趣旨に反するツッコミを入れるなら、でもそりゃなんとか穏便済ませようとしたから「カトリシズムを強調したり、そのローマとの結びつきを誇張したり」したんじゃないのとなるのだが。

唯物論

フランスの異端的な司祭であったジャン・メリエの論拠から、唯物論哲学がカトリックキリスト教を糾弾するものへ転化しうることがわかる。彼の著した悪名高き『聖書』は、18世紀フランス社会の闇ルートで広く流布された。メリエは、誰が物体をこしらえ、動かしたかなどと問うのは的外れも甚だしいと考えていた。その問いが、「では、それをしたとされる存在をこしらえたのは誰か」という堂々巡りに陥るからである。そして、善と悪いずれにも責任があるという完璧な存在をこしらえることで何か得られるのか、と問うのだった。無神論者でさえ、他の人々と同じように善行をなしうるではないか、宗教は支配階級が育てた創作物なのだ、と。メリエは、相対主義的な論拠によって啓示を貶め、道徳的な論拠によって旧約聖書選民思想という概念を不正と断じた。キリスト教道徳を擁護しえないのは、苦痛を甘受し、敵に屈服し、暴君に黙従するからだ。

1740年代には唯物論者を興奮させる三つの発見があった。

生物の内部に存在する物質に思いもよらぬ能力があることが示されたのだ。第一の発見は、イングランドカトリック司教ジョン・ターベヴィル・ニーダムによる自然発生の証拠である。(略)すべての生物は原初の肉汁から出現したのかもしれないという心穏やかならぬ可能性が生まれることになった。ヴォルテールは、ニーダムの結果は物質の自己組織化を提唱する哲学者にとって魅力的だろうと述べた。
 第二の発見をもたらしたのは、スイスの博物学者アルブレヒト・フォン・ハラーである。死んだばかりの動物の心臓が動き続けることを知っていたハラーは、心臓の組織には未知の力が宿っていると推論した。(略)物質には、組織化された魂から独立したそれ自身の運動能力が備わっているらしい。(略)
 第三の発見は最も衝撃的であった。1740年代の初めに広まった、淡水性のポリプ、ヒドラが切断されても自己再生しうるという知見である。アブラハム・トレンブリーのこの驚くべき発見からヨーロッパじゅうにポリプ切りが流行し、(略)
この動揺は、単に物質が自己を再組織化できることによるものではない。一つのポリプが人工的な切断によって二つになりうるならば、動物の霊魂の不可分性が怪しくなるからだ。霊魂をなきものにしたい唯物論者にとっては喜ばしい限りであった。

ダーウィン学説が様々な論争に手を貸したのは、彼の説明が様々に解釈できる柔軟性をもっていたためである。

人間と動物の近縁性に関する彼の説明は、慎ましい人類平等主義的なメッセージを孕んでいたが、進化を強調したことで、ヨーロッパ人を頂点とするヒエラルキーを復活させる可能性もあった。また、規範からの変化は、逸脱を重視する一方で、生物体はその環境の要求に従わねばならないという従順さを肯定する価値観を生むことにもなった。ダーウィン学説には楽観性と悲観性が同居していた。自然選択が必ず種のために作用するという点では楽観的だったが、自然が闘争と悶着で裂かれているという点では悲観的なのだった。

ウィリアム・ジェイムズの恐怖

[ボストン知識人のサークルにおいて]ダーウィンはすでに強烈な印象で迎えられていた。来る日も来る日も恐ろしい不安に苛まれて目を覚ました、とジェイムズ自身も日記に残している。道徳の基盤が崩壊し、意思の自由も科学的決定論の生け贅になったように思われた。思考を自己管理できるという感覚が錯覚に他ならないとすれば、心の救済はあるのだろうか。しかし、ジェイムズは1870年4月には絶望状態から脱していた。「自由意思によってなすべき最初の行為は自由意思の存在を信じることであろう」と自戒したのである。それでも、科学的真理と宗教的真理との関連性という火急の問題には答えを見出せないままであったが、両者を和解させようとする試みこそがジェイムズを強烈に刺激し、プラグマティズムという新しい哲学体系を構築する一因となったのである。