10セントの意識革命 その3 ハスラーの世界

 

前回の続き。

見事にカモられたことで、ハスラーという人種に興味を持った著者

10セントの意識革命

10セントの意識革命

 

見事にカモられる

 この男は、やはり一種の食いつめ者なのだろう。ワーク・ブーツに洗いざらしのデニムの作業ズボン、白い半袖のシャツにまっ青なナイロンのウインド・ブレーカーを着ていて、薄くなりかけた砂色の髪をべたっとなでつけていた。そして、早口で喋った。

 昼すぎの、客のすくない時間にぼくがひとりで突いていると、どこからともなくいつのまにかやってきていて、「ひまつぶしを小銭かせぎにかえようじゃないか」などと、話しかけてくる。ぼくは、負けるにきまっている。ハンディキャップをつけてもらったって、結局は負ける。だから、ぼくは、それはいやだ、と言った。

 おまえはなかなかうまいではないか、とその男は言う。すこしもうまくないのはこのぼくがよく知っているから、そんなことを言うだけですでに、この男が腹のなかで一計をめぐらせていることは、知れてしまう。

 五ドルほど賭けようではないか、と男はなおもつづける。この話のつづけかたが、男どうしあくまでも友好的にちょっと腕を競ってみようではないか、といった調子でなかなか巧みで

(略)

 いざゲームがはじまってみると、その男のポケット・ビリヤードの腕は、ぼくと互角だった。じつはこれが巧妙に仕かけられた罠であったのだが、そのときはまったく気がつかなかった。

 突きながら比較してみると、はんとうにどっこいなのだ。(略)

 スキル・ゲームが互角で進行し、その進行に自分が参加している場合はちょっとした快感であるから、ぼくはうれしくなってしまう。男が使うプール・ホール用語についてぼくが問いただしたりすると、男は、意外にインテリジェントに説明してくれる。

 最初のゲームは、ごく少差でぼくが負けた。少差ではあっても負けは負けだから、ぼくはその男に、一ドル紙幣を三枚、渡した。そして、負けがほんとうに少差であったがため、ぼくは、もっとやろうではないか、ともちかけた。「うん、やろう」と、ふたつ返事で言わなかったところが、非常に憎い。ちょっと表情をくもらせ、時間がどうのこうのとぶつぶつ言い、しかしまあいいや、つきあおう、というような顔をして、YEAH. OK. とその男は言ったのだ。

 二回目はぼくが勝ち、その次はまた負け、もういちど負け、五回目は、ぼくが勝った。ここで、男は、賭け金を五ドルにあげることをもちかけ、そのもちかけぶりが巧みであり、しかもぼくは二度目の勝ちをおさめたばかりだったから、なにも考えずに承知してしまった。

 それからは、その男が勝つほうが多くなり、はじめのころはミスしていたちょっとむずかしいコースをぴたりと決めたりしはじめ、ときにはぼくが勝つことがありはしたが、四時間ほどのあいだに二五ドル、ぼくは負けた。

 一ドルを二六〇円で計算して二五ドルは六五〇〇円だと思う。それほどの額ではないけれど、二五ドルも負けるようでは、このさきもやはり負けるにきまっているから、そこでやめにした。

 もうやめよう、おまえのほうが明らかに腕は上である、とぼくが言うと、男は、気の弱そうな微笑をうかべ、そんなことはない、ちょっと今日はついていただけだ、外へ出てビールでも、おごろうか、と言った。

 おごってもらわずに、その男とはそこで別れた。二五ドルも負けたのに、たいへんいい気分だった。うまくひっかけられたことにまちがいはないのだが、ひっかけかたがあまりにも誠意に満ちていて巧みであり、しかも、ポケット・ビリヤードというスキル・ゲームを、楽しませてくれたのだ。ハスラーという人種に関していろんなことを知るのはきっと面白いにちがいない、とぼくは思った。

ハスラー・ビート、その他』

ハスラー・ビート、その他』の著者、ネッド・ポルスキーは、ハスラーは自己充足度のきわめて高い、自分ひとりで自給自足の生活を送っている人間である、と書いている。

[彼の本は]ポケット・ビリヤードのハスラーについて書かれた唯一無二の質の高い文章であるらしいのだ。

(略)

プールホールでの賭けは違法であり、どこの店でも客の目につきやすいように大きく「ノー・ギャンブリング」と、注意書きが出ている。しかしこの注意書きは完全に無視された状態

(略)

 どのようなゲームが、その場にいあわせた人たちのもっとも大きな興味をひくかというと、高度な技術を持ったふたりのプレーヤーの、技術上の対決ではなく、アクション(賭けられている現金の額)が可能なかぎり大きいゲームなのだ。

 プールホールのハスラーが、たとえばぼくのような人間をカモにする場合、ワン・ゲームのハスリングは二ドルから三ドルが平均的なところで、これが五ドルから十ドルまでになると、ハスラーにとっては、かなりいい仕事なのだ。十五ドルをこえ、さらに二〇ドルをこえることはあまりなく、五〇ドルのゲームなど、めったにないという。もしあったとすれば、たいていの場合それはハスラーうしの対決だ。ワン・ゲームが1〇〇〇ドルの、ハスラーうしの果たし合いをネッド・ポルスキーは見たことがあり、やはりハスラーうしの対決であったが連続六時間のセッションで勝ったほうのハスラーが八〇〇ドルかせいだのを目来したことがあると書いている。

(略)

 技術上の決闘ではなく、賭けられている現金の大小のほうが興味の対象であるからには、どのゲームもなるべく早くにけりがつき、おかねの回転が早くなることが望ましい。だから、ポケット・ビリヤードのスタンダードなゲームはその目的にそってデザインされなおされていて、五分から十分でワン・ゲームが終了するようないくつかのヴァリエーションが、おこなわれている。所要時間をみじかくするには、玉の数を半減させたり、クッションの使い方に制限をもうけたりするわけで、このことは、ひとつの幸せでしかも奇妙な結果をもたらす。十五個の玉をみんな使うスタンダードなルールによるゲームでは、玉の数の多さがすでに「偶然」のポケットを生む原因になっているけれども、玉の数がたとえば半減すれば、それだけでもう「偶然」はほぼ完全に切りすてられ、玉の動きを支配するのは技術のみであるということになっていく。

(略)

カモがハスラーにハスリングされているとき、常連のお客たちはゲームの進行をひと目みればそのことがわかるのだから、見物人どうしがそのゲームにおかねを賭けることはまずない。そして、このようなゲームはハスラーにとってはハスリングではなく、なるべくなら避けるように心がける。ハスラーハスラーのゲームのほうをむしろ彼らはとるのだが、一般に抱かれている印象とはちがって、このようなゲームもハスラーたちは好かず、これがハスリングだとも考えてはいない。だが、ほかに格好のハスリングが見あたらないときにはこのゲームを彼らはおこない、このときだけは真に技術上の果たし合いだから自分にとって挑戦的であり、賭けられる現金も、このゲームのときがいちばん額は大きい。(略)

[ダイスやカードと違って]ポケット・ビリヤードでインチキをおこなうことは、事実上、不可能だ。自分の一挙手一投足は、相手および何人かの見物人によって注意深く見守られているし、テーブル上の玉にはいかなる細工もしかけも出来ない。

(略)

 ポケット・ビリヤードというゲームの構造には、しかし、ある種のインチキの入りこめる余地がただひとつだけある。実際にはたいへんな技術を持っていながら、その技術を決定的ないくつかの場面で故意に発揮しない、ということだ。(略)

実際には落とせても故意に落とさずにしかもそのことを気づかれずにいるのが、高度の技術者には可能であり、ハスラーたちはここを最大限に利用する。

(略)

[しかもそれは]微妙に屈折してくる。狙うべきポケットを故意にはずすのは、あまりにも容易にすぎるし、力量のある相手なら、故意にはずしている事実を見抜いてしまう。だから、ハスラーの高度な技術は、はずしかたのさまざまな開発と実践にむけられる。キュー・ボールをまっすぐに突くべきところを、ほんのわずかに左右いずれかへはずしてしかもスピンを適当にきかせて突き、そのキュー・ボールのスピンがオブジェクト・ボールに伝えられ、その結果、ポケットにいったんとびこんだオブジェクト・ボールが、ポケットのかこいの内側を半円に走って出てきてしまう、というような手口も使う。トップ・スピンをきかせてオブジェクト・ボールをテーブルの外へとび出させることも、おこなう。微妙な加減でこのようなさまざまなテクニックが発揮されると、そのひとつひとつは、完璧な「偶然」に見える。

(略)

 困難きわまりない玉を見事に落としてみせる快感をハスラーはほとんど常に抑制していなくてはならないし、勝つべきゲームはほんの少差で勝たねばならず、と同時に、カモにすべき相手にも、タイミングを巧妙にはかりつつ、時たまは勝たせてやらなくてはいけない。

(略)

 ワン・ゲームごとの賭け金は、わずかなものなのだから、一回のゲームにいくらす早く勝ったところで、なんにもならない。延々と何時間もつづくゲームに持ちこんでこそ、小さなかせぎをいくつもつみかさねてかなりのまとまった現金を手にすることができるわけだから、このような局面での巧妙な詐欺的な技術が、ポケット・ビリヤードの技術とおなじく、あるいは時としてそれ以上に、重要になってくる。ゲームをながびかせれば、たとえば何回かつづけて負けた相手に、賭け金を倍にしていっきょに挽回してはどうか、というような提案もできる。そのときの事情によっていろいろにちがってくるだろうが、賭け金が倍になったときには、かならずハスラーのほうが少差で勝つ。相手をうまくカモにすると、一度に何時間もつきあってもらえるばかりか、それ以後、何日もカモになりつづけてもらうことができるという。

 やがて、そのカモは、ハンディキャップをつけることを要求してくる。ハスラーは、自分が平均して勝っている金額のなかから何パーセントかを削り、それをハンディキャップとして相手にあたえる。それでもなお、ハスラーが勝ちすすんでいくのは、当然のことだ。 ハンディキャップのことは、アメリカの現場の言葉では、スポットと呼ばれている。スポットのあたえ方がフェアだと、見物人が賭けに参加してくれることがある。それに、プールホールの常連見物人は、そのほとんどがかなりすぐれたプレーヤーでもあるわけで、ハスラーにとって彼らは潜在的なカモであるから、彼らに自分の技術のほんとうの姿を見せてしまうのは得策ではない。

 自分に対するまわりの人たちからの評価を、ハスラーは、常にできるかぎり低いところにとどめておかなくてはならない。自分のほんとうの力量を知っている人たちの数を、できるだけ少数にとどめていなければならず、ほんとうのことが知られてしまうにしたがって、相手にあたえるハンディキャップは大きくなり、やがては、カモにすべき相手と互角でゲームをすることになってしまう。(略)

これだけはぜったいに避けなければならない。

(略)

 さらに重要な能力のひとつは、自分がカモにすべき相手とのゲームの条件をとりきめるセールスマン的な能力だ。(略)ハンディキャップをたくさんつけていただければやりますよ、などという標準的な反応を、セールス・トークでどうきり抜けていくかが、ハスラーとしての生活に直接にひびいてくる。

 自分にとってたいそう不利な条件でしか相手がゲームに応じてくれないときには、ほかにゲームの成立するみこみがまったくなくても、きっぱりと断らなくてはいけない。(略)

 肉体的なスタミナも、ハスラーの武器だ。(略)

ポケット・ビリヤードのために必要なあらゆる筋肉が完全な成長をとげているから、体を無理な姿勢で使うことがまずない。長時間にわたるゲームにも、だから楽に耐えることができ、セールスマンシップによってカモをうまく乗せてしまえば、ゲームに夜を徹するどころか、あくる日にまでおよぶ。そして、賭け金の額がもっとも多くなるのはこのような長時間のゲームの最後の二、三時間だから、このときハスラーは自分よりもはるかにくたびれてしまっているカモを、決定的にしとめることができる。

(略)

[カモを引き込む]詐欺的なテクニックだ。アルコールがまわっていて、身のこなしが多少ともあぶなっかしくなっている状態を完全な素面で演技してみせるのは、昔からひろくおこなわれている。自分の力量のほどがそのプールホールの常連たちに知れわたるところとなり、そこに居づらくなって旅に出るときには、兵隊の制服を買って持っていき、その制服をまとって見知らぬ町のプールホールへ出むいていく。

(略)

 結婚指輪をはめ(略)賭け金はズボンの尻ポケットから取り出したその財布のなかから支払う、という簡単なカモフラージュもある。結婚していてしかも財布などを持ち歩くプロのハスラーなどいないから、自分をハスラーではなく見せかけるには、この手は有効だ。

(略)

店のなかに居あわせた人たち全員が有機的にからみあいつつ、いくつかのゲームが進行していく。だから、その時の関係人物の動きをこまかく読んだうえで、さらにそのさきを読みあてなくてはいけない場合だって、ごく日常的にひんぱんにある。たとえば、次のような場合だ。

 ハスラーがノン・ハスラーを相手にゲームをおこなっている。ワン・ゲームの賭け金は、三ドルだ。そして、ハスラーは、容赦なく高等なテクニックをふるい、相手をあっさりと負かしてしまう。ハスラーがやるべきではないことなのだが、あからさまにおこなってしまったのだ。当然、それには、わけがある。ハスラーをA、ノン・ハスラーをBとすると、いまひとりCという人物がからんでいて、じつはAとBとが三ドルの現金を賭けてゲームをはじめるまえに、CがBに、Aはプロのハスラーなのだよ、と耳うちしたのだ。この耳うちを、年季の入ったハスラーのAは、目つき鋭く見のがさなかった。(略)

 相手がプロのハスラーであることを知っているBは、そのゲームの進行に関してAがどのような挙に出るかをさぐるため、ハスラーがおこなうのとおなじように故意に自分のテクニックをおさえた。

 おさえている、という事実を、しかし、ハスラーのAは、ただちに見抜く。これは好機である。持てるあらゆるテクニックを全開する、というわけでは決しないけれど、とにかくAはBをこてんぱんに負かしてしまう。このときBは、早くもふたつの弱点を背負いこむ。ひとつは、自分がどの程度まで自分のテクニックをおさえたのか、プロとしての場数を踏んでいないBには、正確な見当がつかないということだ。これが、ふたつめの弱点につながっていく。ハンディキャップを要求すれば、自分はこのAに勝てる、と思いこんでしまうことだ。これは、多分に心理的なトリックにひっかかってのことだ。自分がテクニックをおさえたばっかりに負けてしまい、しかも、イチコロの負けぶりだった。ようし、こんどはハンディキャップをつけたうえで、といきおいこむのが、じつはカモの資質なのだ。

 ハスラーのAは、もちろん、ハンディキャップに応じる。ただし、ワン・ゲームの賭け金は五ドルとか七ドルとかにあげさせ、シーソー・ゲームで適当にながびかせたうえで、最後は、大勝する。

(略)

[ハスラー同士がグルの場合]

スペクテーターがふたりのいずれかのハスラーに対して賭けるのだが、その賭けるスペクテーターの数が、いずれかのハスラーに大きく傾いている場合には、賭けを相手よりも多く自分のほうにあつめたほうのハスラーがそのゲームに勝ち、もうかった現金はあとでひそかに相手と二分する、という約束がある。

 ネッド・ポルスキーは、自分で目撃したこのようなゲームの実例を、ひとつあげている。

 Aというハスラーと、Bというハスラーとが、七〇ドルを賭けてゲームをおこなった。(略)

ハスラーどうしがおたがいに現金を奪いあってみても、それは、ハスリングにはならない。単なるギャンブリングなのだ。現金は、ハスラー以外の人たちからまきあげるのが、鉄則だ。

 ハスラーAがスペクテーターからうけた賭けの総額は、一〇〇ドルだった。ハスラーBは、総額三八〇ドルの賭けを、スペクテーターから受けた。だから、Aは、スペクテーターたちにはぜったいに気づかれないよう、高度のテクニックを駆使して、故意にBに負けた。おもてむきBに対して、ゲームの賭け金である七〇ドルを支払い、スペクテーターには、一〇〇ドルを支払った。

 Bは、Aに勝たせてもらうことにより、スペクテーターから三八〇ドルの現金がとれた。あとで、ふたりだけのところで、Bは、Aに対して七〇ドルをまずかえし、Aがスペクテーターに対して支払った一〇〇ドルを三八〇ドルから差し引いた額の半分、つまり一四〇ドルを、支払った。AとBのふたりのハスラーは、スペクテーターおよびハスラーとしての自分たちのさまざまなテクニックをつかって、一四〇ドルの現金をかせいだのだ。

 ハスラーどうしが現金を賭けてゲームをすることは、めったにない。だが、アクションがさっぱりないときには、スペクテーターたちを誘いこむ意味で、ハスラーどうしがおかねを賭けてゲームをおこなう。だが、スペクテーターをひっかけてやろうという意図が、そのふたりのハスラーにはじめからあるのではなく、スペクテーターがふたりのハスラーに現金を賭け、その総額の比がいずれか一方に大きく傾いていることがわかったその一瞬、ハスラーだけにしか通用しない、それもごくみじかい言葉、このゲームはニセのゲームになるのだということが、おたがいのあいだで了解される。

 この了解は、ハスラーたちの用語では、ダンピング(DUMPING)と呼ばれている。(略)

 このダンピングが、スペクテーターに対してあからさまにばれてしまうことはめったにない。しかし、うさんくささがなんとはなしにスペクテーターたちに伝わることはしばしばあり、そうなると、ダンピングは、危険でやっかいな方向へ発展していってしまう。

 だから、ハスラーうしのダンピングは、やらないですむならそれにこしたことはないのだが、しかし、スペクテーターがハスラーに現金を賭けるというスリルをプールホールのなかにのこしておくためには、ダンピングという一種の不正行為の存在が、スペクテーターたちに対してある程度は知られていることが大事でもある。このゲームはインチキかもしれないと思いつつも、そのインチキに賭け、同時に、おそらくは真剣勝負だろうという可能性にも賭ける。スペクテーターのかけに関して、そのような二重の構造が、時たまは存在することが、圧倒的に望ましい。

(略)

 たとえば、次のようなはこびようがある。XとYというふたりのハスラーが、あらかじめとりきめをつくったうえで、ワン・ゲームに二〇ドルの現金を賭けて、ゲームをおこなっていく。まずはじめの三ゲームほどを、Y のほうが故意に負けていく。Yは、腹を立ててみせる。Xは単に運がよくて自分に勝っているだけであり、こんどこそは必ず自分が勝ってみせる。その証拠に、賭け金を五〇ドルにあげようではないか、とYはXにもちかけ、Xはこれを承知する。はじめの三ゲームは、スペクテーターからの賭けは受けつけなかったのだが、賭け金が五〇ドルにあがった第四ゲームでは、Yだけが、スペクテーターから賭けをうけつける。そして、このような場合、アメリカのプールホールでは、Yに対してスペクテーターたちからの賭けが、たくさんあつまる。もちろん、その第四ゲームは、Yが勝つのだ。さきに書いたとおり、このようなつくられたゲームは、現実にはめったなことではありえない。そして、ダンピングの場合とおなじく、こんなふうにつくられたゲームは、参加したハスラーたちにとっての確実きわまりない収入として、かえってくる。

(略)

[ハスラーが文無しの場合]

 平均的なハスラーなら、賭け金をたてかえてくれるバッカー(BACKER)をさがしてきて、その人に出させる。

 バッカーは、とりあえず賭け金をたてかえるだけで、ほかにはなにもしない。自分が賭け金でうしろだてするハスラーの相手えらびや、ゲームの条件に関しては、いっさいロを出さず、ハスラーにまかせる。バッカーにおかねを出させるにあたって、ハスラーは、そのゲームにおかねを出すことがいかに有利であるかを言葉たくみにバッカーに対して説得しなくてはならない。

 バッカーは、ワン・ゲームにつきその賭け金の限度を定めるだけで、何ゲームまで賭けるとか、総額でいくらまで賭けるとか、そのような条件づけをしたうえでのバッキングは、いっさいおこなわない。だが、自分がバックしているハスラーが負けつづけたような場合には、バッカーは自分ひとりの意志でいつでも抜けることができる。ハスラーのほうには、このような自由はない。たとえば、自分が勝ちすすんでいるとき、途中からバッカーをはずし、それまでに自分がかせいだおかねをつかって自分ひとりで賭けるというようなことは、許されない。

 バッカーは、ハスラーが勝ちとった現金の五〇パーセントを受け取る。もちろん、いちばんはじめの賭け金も、ファースト・ゲームで自分のハスラーが負けたときには、総額をかえしてもらえる。

(略)

[したがって絶対に勝てるゲームならハスラーはバッカーに頼らず借金して賭ける。だが難しいゲームの場合は]

負けた場合の保険として、自分はおかねを持っていても、バッカーに賭け金を出させるようにするべきだ」

 ネッド・ポルスキーは、ある優秀なハスラーの、こんな言葉を引用している。

 ハスラーから、賭け金を出してもらえないだろうか、と持ちかけられたバッカーは、したがって、このハスラーはこれから非常にむずかしいゲームをおこなうのだな、ということをまず第一に考えなくてはならない。

 そして、そう考えると、そのハスラーに対して抱く興味の次元が変化してくる。ハスラーを働かせてなにがしかの現金をかせぐ興味から離れて、むずかしいゲームをこのハスラーがどうきり抜けるか、そのプロセスをこまかく具体的に観察する興味へと、次元をうつすことができる。

 バッカーは、常に読みを深くしている必要がある。たとえば、ふたりのハスラーが事前に計画を立てたうえで、ひとりのバッカーからおかねをしぼり取ることをたくらみ、実行に移す場合がある。バッカーのついたほうのハスラーが、故意に負けつづけ、バッカーから賭け金として出させた現金を、あとで二分するのだ。

 もっと手のこんだ場合もありうる。たとえば、プロフェッショナルなハスラーが、バッカーに賭け金をあおいだうえで、ハスラーではない人とゲームをおこない、やはり故意に負けつづけたり、あるいは、勝ちよりも負けをずっと多くしたりすることもある。相手に負けつづけることによって、バッカーの手持ちの現金をひとまず相手のほうに移しておき、バッカーが手をひいてから、その現金を相手からたくみにうばいかえす。自分がバックアップしているハスラーが負けこんでいるときには、なんらかのかたちで自分はそのハスラーからカモにされているのだと、バッカーは思ったほうがいい。

 自分の賭け金を出してくれるバッカーをも、このようにソフィスティケートされた手段でハスラーたちは自由に弄んでいく。その当然の結果として、ハスラーは、自分がハスリングするプールホールで各種の常連たちからどのように評価されているかに関して、絶えずこまかな注意を払っていなければならない。

 そして、その他人のからの評価は、マイナスの評価ではないかぎり、正しくないまちがった評価であればあるほど、仕事はやりやすくなる。ハスリングは一種の詐欺行為だから、自分に対する他人の評価を意のままに探ることによってその詐欺は成立する。  

DVD付き ビリヤードCUE'S(キューズ) 2020年1月号

DVD付き ビリヤードCUE'S(キューズ) 2020年1月号

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: BABジャパン
  • 発売日: 2019/12/11
  • メディア: 雑誌