ヨーロッパ憲法論 ハーバーマス

 

ヨーロッパ憲法論(叢書・ウニベルシタス)

ヨーロッパ憲法論(叢書・ウニベルシタス)

 

 序文

加盟諸国が合意して持続可能な財政収支の水準を定め、各国が自発的に国民国家の予算をその水準に従わせるというオルド自由主義の夢は、失敗に終わったという認識である。ここで、夢想されたのは、それさえあれば協同の政治的意思形成は必要なく、民主主義の暴走を防ぐことができるとされた「メカニズム」だった。(略)

今日では誰もが、通貨同盟の「構造的欠陥」について語っている。通貨同盟にはそれが必要とする政治的なカバナンス能力が欠けているというのだ。

(略)

 目下検討されている計画は、ユーロに参加する一七か国の共同統治を、政府首脳のサークルで、すなわち欧州理事会の「中核」で実現しようとするものだ。指導部となるこの組織には、法的拘束力を持つ決議を行う権限がない。(略)

「ユーロプラス協定」によって、欧州理事会の決議が及ぶ範囲は拡張した。経済的に格差が広がっている国家群は、クローバル市場における競争力を左右するような政策のすべてについて、欧州理事会の決議に従うことが求められる。

(略)

そのつど自国の議会において、EUによる処罰という脅しをちらつかせながら、過半数をまとめる。ここで想定されているのは、あきらかにそのような手続きである。こうしたやり方は、一七か国からなる欧州理事会が全権を奪取して行う統治連邦主義といえる。(略)それは、まるでポスト民主主義的な支配行使の模範となることだろう。

 政府間の決議を通じて民主主義を空洞化するこの動きは、当然のごとく抵抗を引き起こしている。(略)

ひとつは国民国家を擁護する勢力からの抵抗である。彼らは(略)建前としては残っている国家主権の概念に、ますます意地になってしがみついている。

(略)

別の方面では、長い間沈黙してきた「ヨーロッパ合衆国」の支持者が、ふたたび名乗りを挙げている。

 人間の尊厳というコンセプトおよび人権という現実的なユートピア

ここ数十年(略)世界中で幅を利かせている政治は、なによりも経済的自由を保障することで、自己決定に基づく市民生活を可能とし得るかのように称している。このような政治は、基本権の異なる範疇間の均衡を破壊してしまう。

(略)

基本権が法システム全体により深く浸透するほど、それはより頻繁に、個々の市民と国家の垂直的関係を超えて、個々の市民の間の水平的関係に介入するようになる。

(略)

「人間の尊厳」は地震計である。この地震計は、民主的な法秩序にとってなにが根本的であるのかを──すなわち、政治的共同体の市民が、たがいに自由で平等な人々からなる自発的結社の成員として尊重し合うためにおたがいに認めるべき権利がなんであるのかを示すのである。この人権の保障によってはじめて、平等な権利の主体として自らの人間的尊厳にふさわしく尊重されることを要求し得る市民という法的地位が生じる。

(略)

人間の尊厳はいわば扉であり、その扉から、平等主義的かつ普遍主義的な道徳内容が、法のなかへと持ち込まれた。

(略)

不偏不党とは程遠く、全体の代表とはいえない安全保障理事会が、恣意的で一面的な決議をしたことが思い出される。また、議決された介入を実行する気乗りしない中途半端で無能な試みも、──そしてそれがしばしば悲劇的な形で失敗したこと(ソマリアルワンダダルフール)も思い出される。さらに、こうした警察力の投入は戦争のごとく執り行われ、軍隊は無辜の住民たちの死と悲惨を「副次的被害」として無視する(コソボ)。その上、介入を行う諸国は、当該地域を平定しても、その地域で破壊された、あるいは崩壊したインフラを再建し、国家を建設する能力も、そのために必要な忍耐も、見せてはくれなかった(アフガニスタン)。人権政治が、大国の国益の実現の道具と、そのことを覆う隠れ蓑のようなものになってしまうならば、そして、超大国国連憲章をないがしろにし、介入の権利を不当に行使するならば、さらには、人道主義的な国際法を破って侵略を行いながら、普遍的価値に訴えてみずからの行為を正当化するならば、人権のプログラムは人権の帝国主義的な乱用そのものだという疑念のとおりということになる。

 人権の実定法化によって、理念と現実の間の緊張が、現実そのもののなかに入り込んできた。そのことが今日われわれに、ユートピア的な起爆力を裏切ることなく現実的に思考し行動するという挑戦的課題を突きつけている。

(略)

人権のプログラムを一括りに捨て去ろうとするカール・シュミット的なやり方はとっくに現実的でなくなっている。人権のプログラムはいまや、支配体制を揺るがすそのパワーによって世界のあらゆる地域で深く浸透しているからだ。したがって「現実主義」は今日では別の様相を示すことになる。正面切って人権の建前を突き崩そうとする批判にとってかわったのが、人権の穏健な価値切り下げである。この新しいミニマリズムは、人権からその核心である道徳的原動力、すなわち各人が等しく有する人間の尊厳の保護という内容を切り離すことによって、理念と現実の緊張の緩和を促す。

 ケネス・ベインズはこのアプローチを、ジョン・ロールズに依拠しつつ「政治的な」人権の企てであるとする。さらに、そうした「政治的人権」は、人間であるという理由だけでなんびとにも「生来」の人権が備わっているという自然権的な人権観とはちがうものである、としている。「人権は、政治共同体への包摂の条件として理解される」。これには私も賛成である。問題なのは、それに続く指し手である。つまり、この包摂の道徳的意味──各人が等しい権利の主体として、その人間的尊厳において尊重されるという内容──を、フェードアウトさせてしまう点である。人権政治に最悪の失策がともなっていたことを考えると、慎重になることはたしかに必要である。だからといって、人権それ自体からその道徳的な付加価値を奪ってよいということではない。そして、人権政治の失策は、人権という主題の論点を、はなから国際政治の問題へと狭隘化してしまう十分な理由とはなりえない。 

 「政治的なるもの」、カール・シュミット

法は一方では、支配の権威的な行使のための組織手段であったが、同時に他方では、そのつど支配する王朝にとって自身の支配の正当化には欠かすことのできないものでもあった。つまり、法秩序は、国家の処刑・制裁権力を通じて安定的なものとなっていたが、それとは別に政治的支配権力は、自らが正当なものとして被支配者から受け入れられるためには、自らが取り扱う聖なる法のもつ正当化の力に依拠せざるをえなかった。王の裁判権および法が、聖なるアウラを帯びていたのは、元来は神話的な暴力との結びつきによってであり、のちには、宗教色を帯びた自然法に依拠することを通じてであった。しかし、法がその独自の力を発揮したのは、ローマ帝国において法という媒体が社会の風俗習慣から分離独立してからであった。そしてついには、支配権力の行使そのものが法というチャンネルを通じるようになることによって、法は合理化の作用を持ち、また展開できるようになったのだ。

 もちろん、支配の正当性が、被支配者たちの側からの法的に制度化された同意に依拠するようになるためには、それ以前に国家権力そのものが世俗化され、法そのものが隅からすみまで成文法として実定法化されていなければならない。そうなることによってはじめて、政治的支配の行使そのものが民主的な法制化を見るという、我々の議論の連関で重要なプロセスがはじまりえたのだ。法制化が国家権力からその権威的性格を奪取し、それによって政治的なものそれ自体の内実を変化させる程度に応じて、この法制化は、合理化の力だけでなく、文明化の力をも発揮するようになるのだ。この文明化の流れに不審の目を向けたのが、政治神学者カール・シュミットである。彼から見れば、それによって支配の権威の中核が柔弱となり、聖なるアウラそのものが奪われてしまうからである。彼の理解では「政治的なもの」の「実体」は、法的に確立された支配権力の自己主張の能力のことであり、この支配権力を規範的な鎖で縛ることはゆるされない、というのだ。

(略)

「政治的なるもの」をシュミットが振りまくようなアウラ重視の反啓蒙の霧から救い出して、決断および統治権力の民主的な法制化という核に還元するならば、このシュミットの記述が意味するところが明らかになろう。

 国民主権と国家主権

とはいえ、政治的支配を、国境を越えて民主主義に即して法制化することへの執拗な懐疑は、間違った集団主義的な理解、つまり、国民主権と国家主権を混同して考える誤解から養分を得ているのだ。この誤解は、例えばコミュニタリアン的な理解にも、リベラルなそれにも、また保守的な、そしてナショナリスティックな解釈にも登場しているが、それは、偶然的な歴史的状況を一般化しすぎるためである。つまり、一九世紀のヨーロッパで構築されたナショナル・アイデンティティという人工的で、それゆえいくらでも変わりうる意識を誤解してそのまま受け取ることになってしまうのだ。
 市民たちは、民主主義的な選挙に参加することで、自分たちの中の何人かに全員のために行動する権利を付与する。それによって市民たちが共同の政治的 実践に参加していることはたしかかもしれない。しかし、それだけでは、民主主義的に生じた決定を、当該集団の決定とすることにしたといっても、それは、分配的に普遍的な意味で[一票でも多ければ、全体の意志となるという意味で]そうなっているにすぎない。多様な個人の多様な見解が民主主義の規則にしたがって生み出され、論じられる結果として、集団的決定が生じる。複数で多様な意見形成と意志形成のプロセスの結果が、特定の行為へと決定する主権者としての国民の意志の表明ということになる。しかし、こうした考えは個別の異議を無視した集団主義的な解釈によっている。そして、このように主権を物象化し、単数化することによってのみ、国家主権と表裏一体として国民主権があるというような想定が生まれることになる。それによって古典的な国際法の意味で交戦権を持ち、それゆえに無制限の、つまり、競争相手となる別の国際法上の主体の決定によってのみ制限されうる行為主体の自由を享受する国家、その意味での国家主権の鏡像であるかのように国民主権が見えて来てしまうのだ。こういう誤解のパースペクティヴから見るならば、国民主権という考えは、国家の外交上の主権に実現していることになる。こうして国家の行動を通じてその市民たちは、おたがいに、そして自分自身を当該の政治的集団の一緒に行動する成員として確認し合うことになってしまう。

 なるほど、共和主義的な自由、国民皆兵制とナショナリズムは、おなじフランス革命にその歴史的起源を持っているにはちがいない。とはいえ、内政における民主主義的な自己決定と外に向けた国家主権とのあいだに強固な関連を設定するこうした考え方が多くの人に訴える力があると言っても、これをこうした歴史的コンテクストを越えて一般化してはならない。古典的な国際法で保証されている主権国家の行動の自由は、おなじ自由とは言っても、「自由の法の下での自律」(カント)、つまり、市民たちが憲法国家において用いる自由とは、異なった種類のものなのだ。国家の外交面での主権は、恣意的自由というモデルで考えられている。それに対して、国民主権は、民主主義的な普遍化を目指す法に、つまりすべての市民に同じ自由を保証する法に表現されるのだ。「恣意的自由」は、「法としての自由」とは本質的に異なるものなのだ。この理由からして、国家主権を制限して、スプラナショナルな審級にいくつかの主権条項を移譲するからといって、それは必ずしも、民主主義的な市民の権利の剥奪に至る必要はない。この主権の移譲こそは、すでに国民国家の枠内で市民たちが自分たちの自由の源ととなる国家権力を憲法的に確立した行為を、継続することになるのだ。もちろんその際に、民主主義的な手続きが無傷のまま残されるとしてのはなしだが。

 とするならば、国民国家からスプラナショナルな審級に移譲された、あるいは、そうした審級と分かち合うことになる権能は、国際条約にもとづくレジームにおいて法制化されるだけであってはならない。それ以上に、こうした権能は、民主主義的な 法を通じて法制化される必要がある。そうした主権諸項目を移譲する際に、市民たちの国家公民としての自律性を発揮する余地が狭まるのではないかという危惧があるが、そうしたことが起きないためには、こうしたスプラナショナルな法制定に当該国家の市民が、それ以外の参加各国の市民たちと民主主義的な手続きにしたがって、ともに加わる必要がどうしてもある。

 [リーマン破綻後、オバマ選出の数日前のトーマス・アスホイヤーとのインタビュー]

ハーバーマス──(略)

こうした潮目の交替は、公共の議論のパラメーターを変えます。それとともに、どのような政治的対案が可能かという幅も変化します。朝鮮戦争とともにニューディール政策の時代が終わりました。レーガンサッチャー、そして冷戦の解消がはじまるとともに、社会福祉国家というプログラムの時代が終わりました。そして今日、ブッシュ時代が終わり、ネオリベラルの大言壮語の吹き出しが泡のようにはじけると、クリントンおよびニュー・レイバー[イギリスのブレア政権。労働党]の綱領も命脈が尽きました。それでは代わりになにが来るでしょうか。私が望むのは、ネオリベラルの綱領が、額面通り受け取られなくなり、ともかくいったん看板を下ろさせて考え直そう、という風になることです。生活世界を、なりふりかまわず市場の指示に服従させようというプログラムは、考え直す必要があります。

──ネオリベラルにとっては、国家といえども経済のグラウンドでのゲームの一参加者にしかすぎません。国家は小さくなった方がいいというのですが、こうした考え方は、もはや信用されなくなったということでしょうか?

ハーバーマス──それは、危機のこれからの進行しだいです。また各政党がどのように危機を受け取るかによります。そして、公共の議論がどのように論じるかにかかっています。ドイツではまだなんとも言えない議論の無風状態です。ともかく一連の政策が醜態をさらしたのです。たとえば、投資家の利害をなにがなんでも中心にしようという考え、そして社会的不平等が拡大しても平気でいられ、不安定雇用者層の発生も、貧困児童、低賃金などなども仕方ないと見ていられるような物の考え方は、顰蹙を買うようになっています。あきれられているというその点では、民営化に狂奔して、国家の中心的な機能まで空洞化させるやり方も同じです。また、政治的公共圏で当面の利害を離れて論議できるわずかに残る拠点までも、配当性向の上昇を企図する金融投資家に売り飛ばしたり、文化や教育を、景気に応じて対応の変わるスポンサーの利害や気分に委ねてしまうやり方も、その馬脚を露わしています。

(略)

証券取引のリスクに曝してはいけない傷つきやすい生活分野もあるのです。例えば、老齢年金を株に委ねることなど、してはならないことなのです。

(略)
彼らはもう大分前から、金融市場に規制が必要なことについては、分かっていたのです。(略)

ところがアメリカとイギリスの政治指導者たちは、野放図な投機であっても、うまく行っているかぎりは、利用できると考えていたのです。そしてヨーロッパ大陸でも、ワシントン・コンセンサスに服してしまいました。

(略)

──ワシントン・コンセンサスとは、一九九〇年に国際通貨基金(IMF)と世界銀行が打ち出した有名かつ悪名高い経済構想のことですね。まずはラテン・アメリカの、そしてそのあとは世界の半分を思いどおりに改革しようというものですね。その中心テーゼはいわゆるトリクル・ダウン説です。つまり、金持ちをもっと豊かにしようではないか。そうすれば豊かな生活からのおこぼれが貧者のところにもまわってくるようになる、というわけです。

ハーバーマス──この予測は間違っていることを示す経験的データが何年も前から沢山出ています。生活水準の向上は、ひとつの国の中でも、また世界全体でもきわめて不均衡に配分されています。現在では、貧困地区が、われわれのすぐ目の前にまで広がっているのが実情です。

(略)

──ネオリベラリズムというのは、ひとつの生活のあり方ですね。市民一人一人が、起業家に、そして顧客になれというのですから……

ハーバーマス──そして競争相手になれというわけです。この競争社会の広大な荒野で勝ち残った強者は、成功は個人的能力の成果であると自惚れてかまわないと言うわけです。経済マネジャーたちは(略)テレビのトークショーで有名人たちのおだてに乗って、自分が模範的な目標であるかのようにもてはやされるのを本気で受け入れ、自分たち以外の社会を心のなかで下に見ています。そうしたさまはなんともぞっとする喜劇です。機能エリートと、身分が違うとぶっているエリートの区別がもうできなくなっているみたいです。トップの役職にあって自分の仕事をまあまあ普通にこなしている人間のキャラクターのなにが、いったいぜんたい模範的だというのでしょうか?もうひとつ警告になったのが、二〇〇二年のブッシュ・ドクトリンです。イラク侵攻の下敷になったドクトリンです。このドクトリン以来というもの、市場原理主義という社会ダーウィニズムは、社会政策の分野だけでなく、外交政策においてもその力を振るうようになったのです。

──しかしそれはブッシュだけではありませんでしたね。彼の味方をする影響力のある知識人が驚くほど沢山いました。

ハーバーマス──しかも彼らの多くはなにも学んでいません。ロバート・ケーガンのような先導者にあっては、イラクの大失敗のあと、カール・シュミット型のオオカミのカテゴリーを使った物の考え方が、さらにはっきり前面に出てきています。国際政治が、核武装を伴う危険きわまりない力のぶつかりあいへと後戻りしているさまを見て、「世界はまた正常状態になった」とコメントする始末ですから。

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