憲法パトリオティズム 過去の断罪と解消

 まず「監訳者あとがき」を先に。

 憲法パトリオティズムは、戦後ドイツにおいて展開された構想であるが、2000年代以降、社会統合の一つのあり方を示すものとして、政治理論の分野、特に英米圈の文脈で注目されるようになった
(略)
1990年代以降の冷戦崩壊とグローバル化の進展は、これまで自明視されてきた国家という「政治単位」を捉え直す契機となった。(略)その際に、コスモポリタニズムとナショナリズムとの間の選択肢として憲法パトリオティズムが注目されることとなった。
(略)
とりわけ日本の憲法学では、憲法パトリオティズムという(場合によっては魅力的な)語感から、誤解が生じている可能性もあり、ここでは今一度、それらを確認しておきたい。
 誤解の一つは、憲法パトリオティズムの構想がドイツ特有の問題と捉えられていることである。これは、東西ドイツに分断されていたドイツ「特有の」歴史、そして現在のドイツの憲法である基本法が闘う民主主義を採用するなど、「特有の」憲法であることにも起因していると考えられる。しかし、憲法パトリオティズムは、普遍性的原理に根差し、各々の文脈で憲法文化を生成していく社会統合の構想として理解されるものであり、ドイツに「特有の」ものではないのである。
(略)
 もう一つは、憲法パトリオティズムが、憲法典への愛着であるという誤解である。つまり憲法パトリオティズムは、現憲法を愛し、現憲法の改正を一切否定するといった思想ではない。周知の通り、日本においては、日本国憲法九条への愛着が強く語られるところであるが、憲法パトリオティズムはこの種の特定の条文への愛着を意味するものではない。本書でも述べられているように、自由、平等などの憲法に含まれる普遍的原理(いわゆる憲法の必須事項)への愛着である。
(略)
そもっとも、憲法パトリオティズムが、普遍的原理への愛着であることからすると、復古的な憲法改正に対する批判軸となる可能性があるのは確かであろう。
 さて、日本において、憲法パトリオティズムは展開可能であろうか。この点、すでに樋口陽一が、批判理論としての憲法パトリオティズムの成立可能性について言及している。また井上典之は「『国家と憲法』の関係を考え直す素材として、日本国憲法の正当性を他国からの『押しつけ』として批判し続けて『美しい国』とのスローガンに頼ることで統一体としての、『愛国心』に富む統合された国民による国民国家の再生・強化を求めるよりも、グローバル化に直面する現在におけるその存在基盤の脆弱性を前提に、政治的共同体としての国家を憲法によって補完しようとする議論としての憲法パトリオティズムに求めることは、一つの選択肢と考えることは可能といえるのではないだろうか」と指摘し、より具体的な展開可能性を肯定している。

「記憶」と「闘争性」

ドイツの文脈において、憲法パトリオティズムには、簡潔な表現を用いれば、「記憶」と「闘争性」と私が呼んでいるものがかなり含まれていた。記憶とは、主に過去のホロコーストナチスについての自己批判的な回想である。これに対して闘争性とは、民主主義の敵に対して示されたものであり、政党の禁止や自由な言論の制限といったような司法的手段を通じて多くは行われた。すなわち闘う民主主義とは、明らかに、それ自体の諸原則や諸価値について、中立的ではなく、それらに対して敵対的な(または敵対的と認められる)ものに対する強力なチェックを行うことである。

憲法裁判所

 誰が民主主義の敵から憲法を擁護するのかというカール・シュミットの提起した問題が、多くの戦後の法的論争において中心的な位置を占めたのは、驚きに値しない。このような番人の候補者としては、強い大統領(シュミット自身はこれを候補としている)から、国家官僚制、さらに労働組合にまで及ぶ。しかしながら、その後すぐに憲法裁判所が民主主義の敵に対して、それを擁護する役割を担う主要なライバルとして出現した。このような方向性を決定付けたのは、1958年のいわゆるリュート判決である。判決の中で憲法裁判所は、諸基本権において具体化された「客観的な諸原則」は法秩序全体に浸透していると判示した。この判決によって、憲法裁判所は、あらゆる法的・政治的決定に対する司法審査は正当であるという立場に自ら立つことになった。

カール・レーベンシュタイン

憲法パトリオティズムは、1938年にドイツ人の亡命政治学者カール・レーベンシュタインによって初めて定義された概念である「闘う民主主義」と親密な関係を結ぶようになった。(略)
レーベンシュタインは、民主主義が「民主主義的原理主義」「法に対する盲従」「法の支配の過度な形式主義」との関係を維持し続けるならば、ファシスト運動には対抗できないと主張した。彼によれば、ファシズムは知的レベルでは真っ当な中身を有さないが、民主主義が太刀打ちできないような一種の「感情主義」に依拠しており、それこそが新たな試みであるとされた。したがって、民主主義には、政党や民兵の禁止といった反民主主義勢力に対する政治的・立法的解答が用意されなければならなかった。同時に集会・言論の権利、とくにファシズム運動を支援していると疑われる(略)人々の活動が制限されなければならなかった。レーベンシュタインの言葉によれば、「炎には炎をもって戦わなければならない」。(略)
1950年代、憲法裁判所はこのような概念を用いて、社会主義ライヒ党や共産主義政党の禁止を正当化し、その後もテロリストの仲間に加わった(と疑われる)として有罪にされた人々に対する厳しい措置を正当化している。西ドイツ政府により継続的に用いられた憲法裁判所の判断およびそのレトリックを見ると、民主主義が右翼だけでなく、左翼に対しても戦闘的であるべきとされたことが明らかになる。換言すれば、戦闘性は、過去のナチズムという危険の復活だけでなく、東側の共産主義者からの脅威に対する「反全体主義」の一形態として創り上げられたのであった。
(略)
このような反過激主義が、ナチスの過去への対処にほとんど役に立たなかった一方で、正当な反対者(とくに左翼の反対者)に対抗する手段に容易になりうると、当初から批判されていた。むしろソ連共産主義(略)とナチズムの暗黙の同一視により、ナチズムの特殊悪が相対化されたようにも考えられる。

終息しなかった憲法パトリオティズム

国家主義者たちは、憲法の普遍主義的価値は社会の連帯を維持するには不十分であると幾度となく告発してきた。作家のマルティン・ヴァルザーは(略)「政治的自慰行為の当世風理解」と名付けもした。
 実際、その傾向は1990年にドイツが統合されたときに、完全に終息したように見えた。ハーバーマス自身、すべてのドイツ人に新しい民主主義的秩序を肯定させ、そして憲法パトリオティズムをより強固にするための、統合に関する国民投票を要求した。また、正式な憲法制定議会の開催を要求する声もあった。しかし最終的に、東ドイツは既存の西ドイツ基本法の条項に基づき連邦に加盟した。憲法委員会による長年にわたる討議の末に、大規模な憲法改正はなされなかった。多くの知識人――全員が国家主義者ではもちろんない――は分裂という「異常性」が無くなった今、ドイツ人は「標準的な」国民意識を形成するだろうと考えた。憲法パトリオティズム――「教授たちのためのパトリオティズム」――のような人工的な構造は、安全に棄却することができると考えたのである。
 しかし結果をみれば、憲法パトリオティズムの歴史はまったくもって終息などしなかった。憲法パトリオティズムは、例えばスペインヘと輸入され、地域の自治権や非対称的連邦主義に関する広範囲にわたる議論の一部としてしばしば誤用された。憲法パトリオティズムはまた、カナダのような国における文化の承認を求める主張にも適応できる、架橋的な市民の忠誠の様式として議論された。そして最初に述べたように、「ヨーロッパの統一性」を得る方法として提示されもした。

第三章

ヨーロッパ憲法パトリオティズム

 長年にわたり、多くの政治家や知識人は、欧州連合を中心とした憲法パトリオティズム形成への期待という願望を公然と表明してきた。
(略)
1990年代初頭における危機の始まりのかなり前から、「ヨーロッパのアイデンティティ」(略)は、EUの創始者たちを悩ませてきた。(略)「ユーロ・バロメーター」調査は、定期的に、EUとヨーロッパ人とが「同一化している度合」を計測している。もっとも、ユーロ・バロメーターはより正確には、ヨーロッパ大陸の患者が再びナショナリズムの熱に浮かされていないかを確かめるユーロ体温計のように見える。
(略)
「我々はヨーロッパを作った。次はヨーロッパ人を作る必要がある」。それにもかかわらず(略)ヨーロッパの特殊性は、捉えどころのないままであったし、そのような特殊性を獲得しようとする主張は、否応なしに、ヨーロッパ中心主義という疑惑につきまとわれた。
 以上のような懸念を背景として、ヨーロッパ憲法――そして、ヨーロッパ憲法パトリオティズム――の構想が生まれた。
(略)
「明確な憲法」とは、「われら人民」によって制定され、疑いなくリベラル・デモクラシーの原理にもとづいたもので、市民にも十分理解でき、明確な「憲法のモーメント」として機会を固定された憲法のことである。しかしながらなによりも明確な憲法は、正統性を獲得し、(たとえ、形式において、ヨーロッパ憲法が、構成国間における一つの条約でしかないことが判明したとしても)「人民をヨーロッパにより近づける」ための手段となった。
 おそらく、まさにこのような構想――正統性を創出する手段としての成文の統一的な憲法――によって、ヨーロッパ憲法を制定しようとした初めての試みがなぜ失敗したかということをも明らかになる。(略)
ヨーロッパのエリート層は、たとえヨーロッパ憲法が実際上「憲法条約」の形式をとらねばならなかったとしても、かつてからの慣習として、結局、国際条約よりも「憲法」と呼ばれるものを望んだのである。あたかも、憲法制定のあらゆる象徴的な道具立てをもって政策目標と権限分配に権威を与えれば、自動的に市民の支持が得られるかのような、「憲法」という言葉そのものの魔力に対するほとんど迷信的な信仰が存在した。ことによると、ヨーロッパの指導者たちは、この「教訓」を戦後西ドイツの経験という歴史上の参照点から引き出してきたのかもしれない。
(略)
政治家たちは、連邦国家の実体ではなく、ただ伝統的な象徴が欲しかっただけのようである。誰も――特に、小さな構成国は――、自らを、アメリカ合衆国をモデルとするような「ヨーロッパ合衆国」を構成する計画の一員とみなさなかった。
 そうであるとすれば、ヨーロッパのエリー卜層は、アンシャンレジームのように、実現することもできず、実現する気もない期待を創出していたということになる。民衆の不満は、ヨーロッパのエリー卜層が、参加や異議申し立ての仕組みを増やすことで状況を少しでも改善しようと努めていたまさにそのときに噴出した。他方で、ヨーロッパ憲法の批准をめぐるいくつかの国民国家における国民投票の連鎖は、それらの国の一部の政治家と少なくない市民による、最悪の扇動を引き起こした。彼らのうち多くは、欧州憲法条約を実際とは異なるものとして描出した。それゆえに、情報を得たEU市民のあいだでの洗練された国境を超えた議論によって息を吹き込まれ、十分に成長した、選挙によるヨーロッパの民主政という見通しは、実に厳しいものにとどまるという確信を懐疑論者は強めることとなった。

「新しい過去」、他国の過去を断罪すること

ヨーロッパ全体で共有される憲法パトリオティズムは、それぞれの構成国のために「新しい過去」を包摂しなければならないからである。
(略)
国家的な共同体は、ヤスパースハーバーマスが提案したような方法で十分に過去についての責任をとることができるし、継続的な公共のコミュニケーションのなかで、過去について議論することさえできるであろう。しかしながら、国家が、他の国の過去について、議論すべきかということだけでなく、議論しえるかということについてもまったく明らかではない。ドイツ人が、フランスの「ヴィシー症候群」、すなわち、1945年以降、フランスがナチスとの協力について意識に上らぬようにしていることに評価をくだすべきなのであろうか。なぜ、フランス人は、イギリス人のアイルランド人に対する扱いを議論しなければならないのであろうか。スペイン人は、ポルトガル植民地主義について申し訳なく思う立場にあるのであろうか。見方を変えれば、ある国は、他国が過去を受け入れることの成果を認める(そして、見習いすらする)ことはできるが、それを自身のものとして受けとめることはできないということではないか。
 にもかかわらず、いくつかのヨーロッパの国々は、実際に、他国の過去に対処する方向に勢いをもって進みつつある。たとえば、フランスの国民議会は、第一次世界大戦時におけるアルメニア人への扱いがジェノサイドとして分類される(そして、断罪される)とする決議を可決した。決議は、フランス政府と大統領の明確な意思に反して、承認された(決議は、アルメニア人のジェノサイドを否定することに対して、一年の自由刑と45000ユーロの罰金を科すことによって可罰的な犯罪とする2006年の法案において成立することになった)。当初の決議の重点は、公的、そして、国際的に、この出来事の特徴を「ジェノサイド」として認めさせることにあった。このような決議の擁護者は、ジェノサイドの事実は、罪を犯した当事者である国家的共同体による承認や認知によって左右されるものではないと主張した。フランスの政治家が、定義されるべきものを定義したという事実は、重要ではなかった。たとえ、恥ずべき真実の承認が、フランス国内におけるアルメニア人マイノリティの政治的要求を充たそうとしたものであり、そして何よりも、フランスの政治家たちの道徳的な資本を増大させようとしたものであったとしても、恥ずべき真実は国家の所有物ではない。

自己卑下とヨーロッパ中心主義

EU自体が、つねに、第二次世界大戦の記念碑の一つであり続けていることは忘れてはならない。(略)
それは、過去から負の教訓を得ることでもあり、(略)撞着語法である(略)「批判的な記念碑」を建設することでもあった。しかし、実際には、新たな潜在的な正統性の一形態でもあった。ヨーロッパの知識人の中には、「批判的に過去を克服しようとする」衝動が「ヨーロッパ文明」の要であるとまで主張している人がいるのは不思議なことではない。
(略)
 このようなレトリックは、つねに、ヨーロッパ人の自己卑下とヨーロッパ中心主義とのあいだに危うげに位置しており、一方はあまりにも容易く他方へと変貌しうる。
(略)
特に、欧州統合の構想そのものでさえ、葛藤を孕んだ歴史があることを忘れてはならない。(略)
ECの形成以前の直近の欧州統合の壮大な計画は、ヒトラーの「新ヨーロッパ」構想だったのである。(略)
ヨーロッパ大陸の多くの知識人や官僚は、その計画を熱狂的に支持したし、ひとかたまりのイデオロギー――それは単にナチズムと同じものではない――が、平和の理念と明確な「ヨーロッパの価値」のまわりに築き上げられた。そして、特に、この連想のひとかたまり――ヒトラー、ヨーロッパ、征服、そして植民地主義――が障害となって、1945年以降多くの左派知識人が、ECに異議を唱えた。

統合による過去の解消

ヨーロッパ諸国が、ホロコーストにおけるそれぞれの役割を、その「普遍的な重大さ」を確言すると同時に認めるという傾向は生じたようである。
(略)
集合的記憶、そしてある程度は個人の記憶でさえも、国家の正統化と冷戦に関連する友敵を区別する思考回路の必要性によって強制されていた束縛から解放されたのである。
 その結果の一つは、抵抗運動や清廉さに関する戦後の神話の多くが薄れていったことのように思われる。それは、ヨーロッパ大陸中に、罪悪感や責任をあまねく平等に配分することができるということでは、もちろんない。
(略)
欧州統合は、西ヨーロッパ諸国が自らの過去から距離を置く助けとなったといえる。過去は、各国家の道徳的基礎としての、固有の戦後の役割を果たすことをやめたからである。統合は、国家の自己擁護の必要性や国家の連続性についての同質的な物語を得る必要性を減少させた。したがって、道徳的に汚れのない過去を示す必要性もまた小さくなったのであった。
 それゆえに、過去への強迫観念(略)はもはやドイツ特有のものではない。ナチスに関する経験が全体として「ヨーロッパ化」されたと主張するのはやりすぎかもしれないが、今や確実に、罪悪感や政治のもつれ、致命的な排除についての共通の言語がある。要するに、国家の集合的記憶は、より雑多に、そして、不連続なものとなった。言いようによっては、「神話性」を失ったとも表現できるであろう。その間、浮遊するこれらの記憶の粒子は、今度は、結びついて、「薄い」国家横断的なヨーロッパの記憶へと変化していくようにみえる。

闘う民主主義

ほとんどすべてのEU構成国は、闘う民主主義の伝統や規定、あるいはぺーター・ニーゼンが「否定的共和主義」と呼ぶもの、すなわち国家の特定の過去を振り返り、拒絶することによって民主制を守るメカニズムを有している。さらに、欧州人権裁判所は国家の法的判断についての審査において闘う民主主義というアイデアを肯定し、それをEUにおける先例としている。(略)
 ある意味では、EUは既に国家の枠を超えた闘争性に関して一つの経験を有している。興味深いことに、オーストリアが2000年春の連立政権にイェルク・ハイダー自由党を加えたことに対する制裁措置の決定には、闘争性だけでなく政治道徳と記憶が一定の役割を果たしていた。このとき、突如として多くのヨーロッパの指導者たちが、ヨーロッパの境界は地理的な境界線、ましてや文明的な境界線によって決まるのではなく、特定の政治に見出されることを示すという確固たる政治的意思を共有したように思われた。民主主義諸国はそれぞれオーストリアに対して二国間の制裁措置を実施し、市民社会オーストリアに「恥をかかせる」ように仕向けた。これらの制裁には、特別な(そして奇妙な)道徳的な特徴があった。ヨーロッパ民主主義諸国の公式代表たちは、外交交流において握手を拒否したり、その場を退出したり、その他の類似したジェスチャーをする(あるいはしない)ことによって、オーストリアの代表を認めないようにしたのである。記憶は、ヨーロッパ民主主義諸国が一丸となってオーストリアに対抗する上で重要な役割を果たした。ヨーロッパの指導者たちがオーストリアに対抗する措置を講じたのが(略)「ホロコースト・フォーラム」において「集団責任」を真摯に誓った直後であったことは、偶然であるとは言い難いだろう。
(略)
 最後に、オーストリアに対する制裁が多くの点において失敗したと当然に判断されたことは、記憶に留めておく必要がある。ヨーロッパの指導者たち(略)が偽善であると非難を浴びただけではない
(略)
オーストリア自由党と過去の様々なヨーロッパのファシスト政党との間に「本質的な親和性」があると主張することは、20世紀後半のポピュリストおよび外国人嫌悪的な政党や運動について、何が新しく、また様々な形で真に混乱を招くものであるかを理解しようとする努力に反しており、到底信じがたいように思われた。
(略)
EUレベルにおいては、闘う民主主義への賛同のはっきりした居場所は存在しないように思われる。EUが非民主主義的国家を排除することは疑いないが、民主主義的原理からの明らかな逸脱に満たないレベルでは、EUに何ができるのかは定かではないし、ヨーロッパの闘う民主主義の実行がヨーロッパの憲法パトリオティズムを強化することになるかどうかも不明である。

EUの憲法道徳

 我々はお気に入りの普遍主義的道徳理論をそのままEUに投影できないということが、既に明らかになっている。
(略)
歴史による正当化から一歩離れるべきだろう。また、普遍主義的道徳に注目することからも距離を置くべきかもしれない。
(略)
EUの憲法文化は、公的な領域を「浄化」するものでも、このような民主主義を「保護」するものでもない(どちらの要素もEU内に存在しているが)。野放しの主権を飼いならし、妥協の政治、節度ある争い、相互学習を確立するものなのである。
 ここに至って、「シュミット的な要請」の支持者たちが声を上げるだろう。この要請とは、単純に言えば、権威あるいは意思決定の最終的な所在を明確に定義することを求めることである。
(略)
EUは、誰が決めるのかというホッブズ的な問いに答えることに失敗し続けている。EUでは、恒常的に権力が分散しているように思われる。議論のチャンネルは複雑であり、ヨーロッパの諸国民が何を共同で行い、何を単独で行いたいのかということを測る手段は非常に豊富なのである。
 私の見解では、このシュミット的な問いに対する単純な哲学的あるいは法的答えはない。EUに劇的な変化が起きて伝統的な連邦国家になるのでなければ
(略)
EUはその政治的共同体の個々の成員に対して「ブリュッセルのために死ね」と要求することはできない。(略)
これは「ポスト政治的」世界とも(略)「ポスト・パトリオティズム的」世界と呼んでもよい。

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