やっぱ志ん生だな! ビートたけし

やっぱ志ん生だな!

やっぱ志ん生だな!

 

 実際の下町

[『男はつらいよ』が広めたイメージで]誤解されているところもあるんだよね。(略)

下町って、ぜんぜん「親切」なんかじゃなくて、どちらかというと「人見知り」なんだよ。基本的に人と関わりたがらない。困っている人を助けるのは、親切じゃなくて、最終手段なんだ。いき倒れが あったって、できれば見て見ぬふりをしたい。

落語

 たまにオイラの話し方が志ん生さんに似てると言われるんだけど、たぶんオフクロ経由なんだよね。

 オフクロはかなりの志ん生ファンで、「やだもう、お前はね」なんて言い方が志ん生さんそっくりなんだよ。

(略)

 ウチのオフクロからすれば、志ん生さんは年上なんだけど、「志ん生はかわいい」と言ってた。

 もしかして、オフクロから「落語家にでもなりなよ」と言われていたら、オイラは落語の世界に進んでいたかもしれない。

(略)

まだ坊やだった談春さんがタクシーの助手席で、オイラと談志さんの会話を聞いてたらしくて(略)オイラが談志さんに、

「落語っていうのはネタがどうこうよりも、結局、『誰が話すか』のほうが重要ですよね」

と言ったんだって。

 談春さんは、漫才ブームの真っ只中であえて落語の道を選んで談志さんの弟子になった人だから、それを聞いて、何か思うところがあったのかもしれないね。

落語を「画」と「カット」でとらえる

 志ん生さんの『富久』は、映画的でもある。
 撮るべきカットを撮って、丁寧につないでいる感じがする。言葉だけなのに、どの画で寄って、どの画で引くのかが的確なんだ。
 芝の火事の場面、旦那が店の者に「お前ら、あわてちゃいけない。鳶頭に任せておけばいい」と指示を飛ばしている画は引き。で、「誰か来た?誰だ?」という旦那の台詞をきっかけにポンとカットが替わって、「へへッ、久蔵でございます」は寄りの画。すると、ここからはカットバックになって、
「久蔵か!どっから来たんだ?」
「浅草の三軒町から駆けつけてきました!」
「そうか。そんな遠くからよくやって来たなあ……えらい、出入りは許しでやるぞ」

「そう来るだろうと思った」
で、また切り替わって、今度はミドルサイズの画になって、
「お前は芸人だ、何もできやしねえ。怪我するといけないから、引っ込んでな」

「何を言ってんですか。こういうときこそご恩返しを。風呂敷出してください」
と、こう来る。
 富くじの抽選の場面も、まずは神社の境内を俯瞰で押さえて、ザワザワしているところにポンと寄ると、久蔵じゃない連中が、
「俺、くじが当たったらどうしよう」
「一等だったら、酒で池をつくって飛び込んじゃおうか」

なんてしゃべっている。そこに、遠くから当たりくじの番号が聞こえて、
「鶴の千五百番!」

「ワー、外れた!」
すると、ここからがうまくて、
「うん?ここに一人、ぶっ倒れているヤツがいるぞ」
倒れている人の表情に切り替わり、
「あたあたあた……当たった!」
これがなんと久蔵という。

 いったん本人ではない人物の視点を経由することで、かえって久蔵が主人公として浮かび上がってくるという構成になっている。

 で、久蔵が胴上げ状態で運ばれていくんだけど、ここは久蔵の顔のアップだろうね。
 志ん生さんのつなぎがうまいから、ついオイラだったらどう撮るかも考えてしまう。
 くじが当たった久蔵は、でも、くじの札がないからカネを受け取れないと言われてしまう。絶望してとぼとぼと歩いていく久蔵を捉えるのは横移動のカメラだね。レールを引いて、ミドルサイズ。ここで寄るとよくないんだ。寄るならすぐに事件を起こさないといけないから。
 向こうからくる棟梁と会って、普通はここからは寄りなんだろうけど、オイラの場合、まだ寄りたくない。何か事件が起こっても、引いたままで見せたいんだよな。 

最高傑作はやはり古今亭志ん生

 オイラは『饅頭怖い』とか『寿限無』とかは笑えないんだよね。他の噺だとネタバレしてても笑えるんだけど、この二つみたいな噺は何が面白いのかさっぱりわからない。

(略)

[落語って]よくわからないままありがたがられてる部分も少なくないと思うんだ。(略)

[三遊亭圓朝の]落語家の技術としての本当のところは、いまとなってはわからないんだよね。(略)

[だから]最高傑作はやはり古今亭志ん生だと思う。

 志ん生さんって、出からサゲまで「俺の芸を見ろ」という押しつけがましさを絶対に感じさせないんだよ。ただもう、お客が喜んでくれればいい、という。(略)

[三平とも違って]きちんと落語という芸と向き合った上で、お客を笑わせている。
 志ん生さんは講釈がメインのネタも普通に落語としてやってしまうよね。(略)
[談志がやると]どこか「どうだ、俺の芸は」という意識が見えるんだ。
 そこへいくと志ん生さんは、負けず嫌いではあるんだけど、根底に、あくまで落語とはお客を笑いに持っていくための道具である、という考えがあって、「俺の芸を見ろ」というふうにはならない。
 それでいて何気なくギャグとかは、笑顔の大阪商人ばりに計算ずくなんだよな。だから、一見、まったく力が入っていないように見えるし、人によってはどれだけ笑わされても、そのうまさには気づかない。
 このうまさは、ライバルとも言われる同時代の桂文楽とも違う。

(略)

 志ん生さんには、特有の「声の質」というのもある。志ん生さんのトーンは高いよね。文楽さんもわりと高いけど。
 低いのは金馬。あの人はもともと講釈師だからね。だから、金馬さんがやる子どもって独特なんだよね。それがオイラはあまり好きじゃなくて。子どもだったら、やっぱり志ん生のほうがいいなと思う。
 声の張り方もうまいんだよね。『寝床』のマクラで小噺を振ってから、本編に入るぞっていうところで、いきなり「あのね」とやる。(略)
 あの冒頭の声の張りで一気に噺に入って、お客を会話に巻き込んでいくんだよな。
 ある意味、テキヤのやり方と同じなんだよ。

病後の志ん生

 オイラは、脳硬塞で倒れたあとの七十代後半の志ん生さんの落語も、わりと好きなんだよね。滑舌は悪いし、間もちょっと長くなっているんだけど、やっぱり、うまい。(略)
 志ん生さんの落語を聴きたくて聴いているんだけど、いつのまにか、大好きなおじさんの噺が聴きたい、という感じにさせられているんだよな。
 改めて芸人としてのスケールが違うんだ。他の人は、「あ、商売で笑わすために出てきたんだな」とか、「この人、これでいくらもらっているんだろうな」とか思ってしまうんだけど、志ん生さんにはそういうことを一切感じない。「なんかこの人、人前で話すのが好きなだけなんじゃねえか」とすら思えてくる瞬間があるんだよね。

『芝浜』

 志ん生さんも『芝浜』をやるけど、いろいろあるネタの一つという感じ。やはり『芝浜』といえば三代目桂三木助、それから談志さんも晩年には力を入れてやっていたネタだよね。(略)
 たしかに熱演ではあるんだけど、あくまで役を演じるという意味での熱さであって、落語としてはどうなんだろう?という疑問は残ったな。まあ、談志さん自身も、「『芝浜』は恥を覚悟で熱演している」なんて自分でも言っていたけど、それを聞くと、やはりオイラとしてはそういう「熱演」からいちばん遠いところにあり続ける志ん生さんのすごさを一方で思ってしまうんだよね。(略)

[志ん生のは財布を拾うシーンをカットして]男がウチに戻ってくるところから話を始める。だから、カミさんが財布を拾ったのが夢ではなかったことを告白するくだりでも、それを聞いた男の怒りは案外、少ないんだよな。
 「あー、なんだあ、夢じゃなかったのかい」
 ぐらいの感じ。さらっとしてて、熱演しようがないというか。

「危うさ」 

 芸人には、売れているとか、売れていないとか、そういう物差しもあるにはあるんだけど、芸人同士でいえば、だいたい並んだ瞬間に「どっちが勝ち」かはわかるんだよね。
 土佐犬のにらみ合いみたいなもんだ。だいたいどちらかが先に頭を下げてしまう。
 そういう勝負では、オイラはいまでもほぼ負けないっていう自信があるけど、落語にかぎっては、志ん生さんにはかなわないなっていう意識がある。
 じゃあ、その強さってなんだと言われれば、それは「危うさ」なんだよな。(略)
「この人、ふっと明日にはいなくなってしまうんじゃないか」と思われるヤツは強いよ。

『火焔太鼓』【たけしコメント】

志ん生さんがやる奥さんは、腰巻きの匂いがして、あったかいよね。

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