エレクトリック・ギター革命史

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

エレクトリック・ギター革命史 (Guitar Magazine)

 

ティール・ギター

[正当に機能するギター・ピックアップを発明したジョージ・デルメティア・ビーチャム]
 ハワイアン・スタイルのスティール・ギターは、ジョージの得意分野だった。(略)
この演奏スタイルは1880年代にハワイアンのギタリストだったジョセフ・ケククが金属製の犬釘の側面でギターの弦の上をそっと撫で、硬質のトーンでグリッサンドを生じさせたことを起源とする。
(略)
20世紀初頭のアメリカにおける、圧倒的なハワイ音楽の人気ぶりを十分に理解するのは難しい。(略)
ブームに火をつけたのは1915年に開催されたサンフランシスコ万国博覧会のハワイのパビリオンだった。(略)
[ハリウッド映画もブームに一役買った]クララ・ボウが腰蓑をつけてフラを踊るシーンはなななか刺激的だ。(略)
風に揺れる椰子の樹の下で気楽で制約のない生活を送る理想郷のようなハワイのイメージは、自由奔放なジャズ・エイジに抜群に受けが良かった。
(略)
創成期のエレクトリック・ギターの技術革新は、ハワイアン・ギターに焦点を当てたものが非常に多い。
(略)
誰もがギターのボリュームをもっと上げたいと願っていたのである。
(略)
[ビーチャムが1926年頃、楽器職人ジョン・ドピエラと共同開発した]
アコースティック・リゾネーター・ギターは、[SPプレーヤーの音響ホーンを応用した]薄手のアルミニウム製の円錐型共鳴板を一つ、もしくは複数、ブリッジ下に取り付けた楽器だった。(略)
[父からバイオリン職人として仕込まれ、20世紀初頭スロバキアから移住してきたドピエラ5兄弟]
[莫大な財産を受け継いだ放蕩プレイボーイ、テッド・E・クラインメイヤーの資金で会社設立]
これらのギターは狂騒の時代の寵児のように贅を尽くした究極の楽器であり、光沢のあるボディの表面は四角形の集合体のような細かいサウンドホールが刻まれていたり、花柄やハワイのモチーフを曲線上にデザインしたエッチング模様に彩られていたりする、なんとも魅力的な芸術作品だ。しかし、凄いのは外見だけではなかった。金属製のボディと内部の共鳴コーンが一体となって生み出したトーンは、あたかもホーン楽器のように特徴的で、楽器のアンサンブルの中で効果的に際立った。
 ギターのニッケル・シルバーのボディの鋳造は、アドルフ・リッケンバッカーという名の機械工のところへ外注に出された(略)
[1891年スイスから移住したリッケンバッカーは逆玉の輿で、20年代にLAに自前の金型・鋳型の機械工場設立]
(略)
[ビーチャムばかり脚光を浴びることや、シングル・コーンで特許権をとったこと、さらにクラインメイヤーの放漫経営などに不満を抱きドピエラはナショナル社を離れ、1929年、ドブロ・マニュファクチャリング社を設立。ビーチャムが告訴するとドピエラも逆告訴]
(略)
[エレキ・ギター発展における3つの新機軸。第一が電気、第二が真空管、そして増幅した音を聴くための第三の発明、1921年のペーパーコーン・スピーカー。これらによりラジオ黄金期が到来]
 このときラジオが文化に与えた多大な影響は、私たちの時代のインターネットの出現になぞらえてみるとわかりやすいだろう。
(略)
そして言うまでもなく、平均的な個人が自力で開拓できる規模をはるかに超えた音楽のセレクションが電波に乗り始めた。
(略)
録音物を再生する環境が劇的に改善された。(略)
人々は自分たちが電気によって拡声された音に囲まれた環境で暮らしていることに気づいた。この事実は総体的な知覚大変革を引き起こし(略)
ついに刺激的な楽器が誕生する。エレクトリック・ギターは技術的にみても文化的にみても、まさにこの時代精神の賜だった。

ピックアップ導入

弦の振動に着目したのがビーチャムの勝因だ。(略)結局、他のパーツで拾うのはすべて伝導してきた振動だ。(略)
過去の拡声の試みがなぜギターのトップを中心としたものばかりだったかといえば、伝統的なアコースティック・ギターの設計では常にトップがトーンを決定づける最も重要なパーツだったから。しかし木の箱を鳴らすのではなく、電子的なトーンを生み出すのであれば、そういった理屈もすべて的外れとなる。
(略)
なぜ発明者であるジョージ・ビーチャムの名ではなく、アドルフ・リッケンバッカーの名で楽器が売り出されたのか?その理由ははっきりとはわからないのだが、アドルフと妻シャーロットが果たした新会社への財政的貢献を反映しての決定だろうというのが有力な見方だ。

特許権訴訟をしなかったビーチャム

[追随して参入してきた競合他社]ギターに使用されたピックアップの多くは、先駆であるビーチャムのデザインの類似モデルだった。ビーチャムがピックアップ・デザインの特許権を1937年になるまで取得できなかったため、他社に模倣品を出す時間を与えてしまったのだ。(略)しかし彼は競合相手に対して寛容な姿勢をとった(略)訴訟には持ち込まない方針を選んだのだ。
 しかし世の中はこんなに心の広い人ばかりではなかった。(略)
自分が30年代初期に取得した特許を侵害したとして数々のエレクトリック・ギター・メーカーを訴えると脅し、初期段階に市場を独占しようとあからさまに攻めの姿勢を貫いた企業家の一人がベンジャミン・フランクリン・ミエスナーだ。エピフォンのような大手を含め、当初は数社が屈服した。だが最終的にミエスナーの論拠があまりに脆弱で、大した脅しにもならないことが判明すると、彼は40年代前半までに、ほとんどのクレームを取り下げた。もしこのときミエスナーのクレームがまかり通っていたら、彼のせいでせっかく発展しかけていたエレクトリック・ギター産業が収束してしまう恐れもあったのだ。
(略)
[ビーチャムは1940年、41歳で引退、半年後、心臓発作で死去]

黒人を意識的に起用したジョン・ハモンド

[“キング・オブ・スウィング”ベニー・グッドマンは、ライバル楽団の台頭、ハリー・ジェイムス、ジーン・クルーパ、テディ・ウィルソンらの独立に対応するべく、タレント・スカウト兼アドバイザー役にジョン・ハモンドを起用]
ジャズとは基本的に黒人文化から生まれた芸術形式だということを認識していた彼は、好んで白人ばかりの編成の楽団に黒人ミュージシャンを雇い入れた。
(略)
“ジャズを演奏させれば黒人が覇権を握るのだ、という事実を世に知らしめることこそ、私が考え得る中で最も効果的で建設的な社会に対する抗議の形だったんだ”とハモンドは数年後に語った。(略)
彼は明確な意図をもって[ライオネル・ハンプトンビリー・ホリデイを起用]
ことにビリー・ホリデイを白人ばかりが主流の観衆の前で歌わせたことは、商業的な成功につながっただけでなく、社会的に広範囲に影響を与えた。

チャーリー・クリスチャン

[ハモンドのオーディションに合格し、グッドマンの前で演奏したが緊張で失敗。グッドマンの不機嫌も一因だった]
依然としてエレクトリック・ギターに懐疑的だった彼は苛立ちを露わにし、クリスチャンがギターをアンプにつなぐ時間すら与えようとしなかった。そして初対面のギタリストが覇気のない「二人でお茶を」の演奏を無骨に終えたところで、興味を失ったグッドマンは立ち上がり、そそくさとその場から去ってしまったという。だが、クラリネット奏者も、はるばるカリフォルニアまで出てきた哀れなオクラホマのミュージシャンに同情し(略)ナイトクラブで演奏するからもう一度会いに来いという2回目のチャンスを提示した(略)
ハモンドは、グッドマンに感銘を与えるための最後の機会をチャーリーに与えるべく、ディナー・ブレイクの間にこっそりギタリストを舞台上に紛れ込ませた。休憩から戻ったベニーは演奏壇にチャーリーがいることに気づいておもむろに嫌な顔をした。そして彼はギタリストが到底知らないだろうと踏んで、次の演奏曲に「ローズ・ルーム」をコールした。グッドマンの予想を覆し、お気に入りのナンバーで水を得た魚と化したチャーリーは、セカンド・ストリートの熾烈なジャム対決で培った情熱的かつ革新的なプレイをここぞとばかりに披露する。スライドやベンドやスラーを駆使し、洗練されたブルージィなスタイルでホーン・プレイヤーのように長く複雑なラインを奏でるチャーリーの能力に完全に魅了されたグッドマンは、ギタリストに驚異の20小節超えのソロをプレイさせた。この曲の演奏が終わった時点で、チャーリーのバンド内での地位は確約された。
 この日から3週間もかからないで、ぎっしりと詰まったグッドマンのツアー・スケジュールと大人気だったラジオ番組の絶大なる宣伝効果でチャーリー・クリスチャンは大スターとなった。そして5ヵ月後には、アメリカで最も影響力のあるジャズ雑誌だったダウン・ビート誌のギタリストの人気投票でナンバー1に輝いたことで、チャーリーは音楽界で最も尊重されるビッグ・ネームの一人となった。ジャンゴ・ラインハルトが集めた55票やレス・ポールの12票と比較しても、チャーリー・クリスチャンの得票数2665は圧勝だった。
 チャーリーの評判が爆発的に広まるに連れ、エレクトリック・ギターの人気も炸裂した。ほとんど間をおかずにエピフォン、ケイ・ミュージカル・インストゥルメンツ、ヴェガ、ハーモニー、グレッチ各社が競合してエレクトリック・ギターを発売する。ギブソンは臆することなく“チャーリー・クリスチャン・ピックアップ”の載ったギターとしてES-150の販売を促進した。
(略)
ギタリストはグッドマンとのギグを終えると夜の毎に出て、ジャムの機会とあらば飛びついた。そして間もなく彼はハーレムの118番街にあるミントンズ・プレイハウスという薄汚いクラブをアウェイの拠点として定めた。この店で彼が交友関係を結んだのが、いずれもモダン・ジャズの創始者であるクラブのバンド・リーダー兼ドラマー、ケニー・クラークと、ハウス・ピアニストだったセロニアス・モンクの二人だった。
 ギタリストはすぐに知る人ぞ知るミントンズの深夜の伝説のジャム・セッションの看板スターとなり、自ら指揮を執る形でジャズ界に起こった革命運動の炎を煽る手助けをした。ビバップの誕生である。小編成のアンサンブルが新たな高みに達した演奏技術や複雑なハーモニーを披露しながら超高速テンポでプレイするのがこのスタイルの特徴だが、ダンスには向かないこの音楽は、ベニー・グッドマンのようなビッグ・バンド・スウィングに対抗する若い世代が生んだカウンター・カルチャーだった。
(略)
[結核が再発。1942年ダウン・ビート誌で3年連続でギタリストのナンバー1に]
彼はスタテン島のシー・ヴュー病院の病棟で寝たきりの状態だった。恐らくこれは彼が最後に受けた朗報だったと思われる。3月3日、肺炎にかかったチャーリー・クリスチャンは25歳という若さで亡くなった。
 エレクトリック・ギターに生を与えたのがテクノロジーの魔術師、ジョージ・ビーチャムだったとするならば、エレクトリック・ギターに存在価値を与え、用途を拡大したのがアーティスティックな天才、チャーリー・クリスチャンだった。

レス・ポール

[1940年代後期、レス・ポールは]30代にしてアメリカ屈指のギタリストの一人としての地位を築いていた。(略)
レオ・フェンダーレス・ポールより幾分年上で、すでに40代だった。(略)
機械や電気工学のことしか頭になかった彼は、常にシャツの胸ポケットのプラスティック製の保護板から数本のペンと鉛筆が突き出ている地味な理系の眼鏡男だった。当時彼はラジオの修理屋をたたんでフェンダー・エレクトリック・インストゥルメント・カンパニーという零細企業を立ち上げ、ラップ・スティール・ギターとアンプの製造に着手したばかりだった。
 レス・ポール邸のサンセット・ナイトのもう一人のゲストは、ポール・A・ビグスビーという叩き上げの人物だ。(略)オートバイのレースのチャンピオンとして幾多の苦難を乗り越えた後、自らの手でバイクをデザインし製造する道へと転身を図った。腕の立つ機械工だった彼は、やがてバイクの製造よりも(略)カスタム・メイドのラップ・スティール・ギターを作ることのほうに魅力を感じるようになっていた。(略)レス・ポールと同様に社交的で、幾分ワイルドなキャラクターだった。
(略)
 レスがガレージ内に構えたスタジオ付き工房も客人にとっては大きな魅力だった。レス・ポールによる重要なギターの設計は、ほとんどがここで生み出されたものである。
(略)
後にレスは当時の会合について振り返った。彼らと一緒にあの頃の最先端だったグループの作品を聴いたり、アンプやギターの音を比較してみたり、近々実践してみようと思っている改良点などについて話し合った。
(略)
 レス・ポールがエレクトリック・ギター、言うなればソリッド・ボディのエレクトリック・ギターを独力で発明したという説は、広く世に浸透した誤解である。(略)
[その]神話はどこから生まれてきたのだろう?(略)
この創造伝説の出処は、大抵はレス自身だった。彼には事実を脚色し、自分自身をただ一人の英雄として音楽史の転機となる章をリライトしてしまう才能があった。(略)巧みな話術で大らかにさりげなくホラ話を盛り込む彼の台詞を人々はみな鵜呑みにした。
(略)
 30年代初期に十代後半に達したレスは自力でラジオの電波に乗り、ルバーブ・レッドという親しみやすいカントリー風芸名を使ってギターや歌を披露していた。
(略)
[1934年見慣れないギターを見かけラーソン・ブラーズが作ったものだと教えられる]
レスはラーソン兄弟に(特徴の異なる)2~3本のギターの製作を依頼した。どのギターもホロウ・ボディにおよそ1センチの厚さでサウンドホールのないメイプル材のソリッド・トップと二つのピックアップを付けるよう注文した。
(略)
 シカゴを拠点としていた当時のレスは(略)ヒルビリー影響下のサウンドから次第に離れ、勢力を増していた都会的なジャズ・ギターのスタイルに移行中だった。(略)
ここからレス・ポールと名乗り(略)以前よりも洗練されたプレイヤーに変貌を遂げた。
 “日の高いうちは、とりあえずラジオでカントリー・ミュージックを演奏して稼がせてもらった(略)夜になると私はジャズをプレイした。(略)大した金にはならなかったが、学ぶことは多かった。あの頃の私はコールマン・ホーキンズアート・テイタムなど、錚々たる巨人たちから直接学べる特権を生かしたんだ。シカゴはジャズにどっぷり浸って吸収するには最適の土地だった”。(略)
[1938年NYへ]
20年代にギターをいじり始めた当初に私が抱いた素朴な疑問がすべての鍵を握っていたんだよ。「弦の振動音だけになったら、どんな音がするんだろう?」ってね。”(略)
1939年のあるとき、レスは独自の理論を実践に移した。(略)
従来のアーチトップのギターのボディ(およそ20~22インチ)の長さを持つ幅4インチ×高さ4インチの松の角材だった。彼はここへブリッジと、木で覆われた自作のピックアップを二つと、やはり自力で原型を鍛造した(弦を固定してベンドでピッチを上げる)ビブラート・テイルピースを取り付けた。それから彼は松の角材の上部にスパニッシュ・ギターのネックを取り付けたのだ。[角材の側面に真っ二つにしたエピフォンのホロウ・ボディを取り付け](略)
 通称「ログ」として知られるようになるこのギター(略)のサウンドは「ラヴァー」や「レディ・オブ・スペイン」[などで聴くことが出来る]
(略)
40年代のある日、「ログ」を携えたレスがミシガン州カラマズーのギブソン本部を訪ねた時点では、ギブソン社もまるで興味を示さなかった。その頃ホロウ・ボディのアーチトップ・エレクトリックが売れに売れて笑いが止まらなかったギブソン社には、得体の知れないソリッド・ボディなどに手を出す理由が見つからなかったからだ。(略)
レスは“ピックアップの付いたほうきの棒を持つ奇妙な男”として扱われ、ギブソンのオーナーだったモーリス・H・バーリンとの面会も叶わなかった。後年、バーリンは彼に打ち明けた。“我々は10年もの間、君を笑い物にしていたんだ”
(略)
[タイミングも最悪だった、1941年は米が参戦した年で]
戦時下の材料不足は多くの製造業の生産性を圧迫した。
(略)
[事故で手を潰した男から入手したホロウ・ボディはレスにより改造されまくり、クランカー(ポンコツ)と呼ばれた]
[42年、西海岸へ移り、ビング・クロスビーのバッキングをするように]
[多重録音の実験]
彼が使用したのはテープではなく、キャデラックから切り取ったフライホイールと複数の切削ヘッドを使って手作りしたレコード用カッティング・マシーンだった。レスは遡ること30年代から「多重録音ディスク」(私たちにとっての「マルチトラック録音」の意)と戯れていたというが、彼の発明品が完成に近づき、技術革新に大きく貢献し始めるのは1946年になってからのことだ。さらにそこから派生した、レコード用カッティング・マシーンの再生ヘッドを用いたエコー効果もレスの発明だ。従って彼は現在スラップバック・エコーと呼ばれるエフェクト使用の創始者である。後の時代のロカビリーや初期のロックンロールの売り物だった“しゃくり上げボーカル”の部分は、ヘッドにおける音声信号の再生と再録音の迅速な反復によって作り出されていた。
(略)
[大傑作「ラヴァー」は]往年のスタンダードが一転、銀河系の向こうから放射されたような激しい高速テンポに変化する。レスのギターはあたかもヘリウム・ガスを吸い込んだかのように、めまいがするほどピッチの高いアルペジオとクレイジーな半音階のリックを重ねたアレンジで疾走する。このトラックは今になって聴き返しても依然として奇怪な魅力を放っている。これが40年代のリスナーにどれくらい奇妙な印象を与えたかは想像するに余りある。
(略)
先述のエコーはもとより、ここで使われたヘリウム・ガスのような効果は“バリスピーディング”と呼ばれるエフェクトで、ヘッド部分で録音テープの再生スピードの速度を上げて得ている。そしてトラックを重ねて録音していくオーバーダビングという手法がサウンドの決め手だった。
 この技術を基本法則としてフランスで誕生したのがミュジーク・コンクレートだ。(略)[前衛]作曲家たちが録音技術を使って開発したアート・ミュージックが、やがてポップスとして浸透した例だ。
(略)
[当時6歳だった、ジェフ・ベックの回想]
信じがたいサウンドだと思ったよ。ことにスラップ・エコーと3重に録音されたギター・ラインは凄かった。(略)
ある日突然、頭がイカれてるみたいなギター音が放送の電波に乗って急襲してきた。(略)当時トロンボーン隊の音ばかり聴かされていた人たちの耳にどう響いたかと想像できるかい?
(略)
[48年自動車事故で医者から右腕切断と言われ、ギター・シンセサイザーの開発を考えたが、ラッキーなことに右腕は助かり、ギター・シンセ開発もなくなる]

テレキャスター

競合するビルダーたちがダブル・コイルの実験を始めていた時期に、テレキャスターは敢えてリアのシングルコイル・ピックアップの特徴あるボイシングで、揺るぎなきフェンダーサウンドを打ち出した。(略)
硬質なトーンは、カントリーのプレイヤーたちに愛されたばかりでなく、分厚い楽器のアンサンブルの中でも映えるリードのトーンを求めていたロック・ギタリストたちからも大いに歓迎されたのだ。スティール・ギターが流行遅れの楽器となって久しかったシーンに颯爽と登場したテレキャスターのブリッジ・ピックアップの歯切れのいいトゥワングは、スティール・ギターの持つハイ&ロンサム・サウンドのDNAを新たな時代の音楽に継承した。
 厚い単板のシンプルなボディというテレキャスターの基本構造も1949年のプロトタイプでほぼ決まった。
(略)
 テレキャスターのどこが最も型破りだったかといえば、恐らくネックの取付手段として4本のボルトが使われていた点だ。(略)木工テクニックの“あり継ぎ”ジョイント以外認めてこなかったギター作りの伝統を、数世紀ぶん遡って根底から覆す暴挙だった。名のあるギター・メイカーの多くが発売当初のテレキャスターをあざ笑ったのは、単にこの理由のためだ。あたかも労働者階級の人間が自宅の地階の木工作業場で作り上げたギターのように見えたのだろう。
(略)
[実際]テレキャスターは誇りをもって一般大衆に向けられた、労働者階級の楽器だったのである。
(略)
 ヘンリー・フォードが開発したモデルTの自動車(サンダーバード)と比較されることの多いフェンダー社のテレキャスターだが、これは日銭を稼いで生きるミュージシャンたちにとっても非常に実用的な楽器だった。価格も手頃なら、簡単に修理の依頼もできた。ほんの少しのスキルがあれば、傷がついたりダメージを受けたネックをギタリストたちが自力で交換することも可能だった。(略)[これが]70年代に巻き起こったギターのホットロッド・レース大流行のお膳立てをしたのかもしれない。(略)[ギタリストたちが部品を交換し]理想のトーンやハイ・パフォーマンスのプレイアビリティを追求したからだ。
(略)
[1950年秋“ブロードキャスター”として売り出すと、「Broadkaster」というドラムセットを販売していた老舗グレッチから商標差し止めを求められ、“テレキャスター”とすることに]

 次回に続く。

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