私説 集英社放浪記 鈴木耕

 『週刊明星』と『月刊明星』

[「週刊明星」がゴッシプを]扱うのに対し「月刊明星」は徹底したアイドル雑誌、スターは大切に[スキャンダルは見ないふり](略)

「週刊明星」の同期に聞かれたって絶対に明かしたりはしなかった。「『週刊明星』と『月刊明星』は仲が悪い」というのが、とりあえず業界への建前だったのである。そうしなければ、「月刊」だっていいネタをとることができなかったからだ。

「こちら側」と「あちら側」 

[取材対象が映画スターからテレビのアイドルに移り始めた時代、アイドルに興味が持てなかった著者は、若者に深夜DJが人気です、と上を説得しラジオ局巡りを開始。DJ界に進出しはじめたフォークシンガー達と仲良くなる]

 音楽界の新興勢力といっていい彼らは、いわゆる芸能界とは一線を画そうとした。それまでの興行形態としては一般的であった「歌謡ショー」という形ではなく、自らの手で行う「コンサート」を開催して、直接ファンを獲得していくという方法をとった。主催する若いイベンターたちも地方に登場し、この新しい手法で日本のミュージック・シーンに変革をもたらそうとしていた。その代表格が[「ユイ音楽工房」や「モス・ファミリー」](略)ぼくはその事務所に入り浸った。

 彼らはよく「こちら側」「あちら側」という表現をした。つまり、旧い体質の芸能界を「あちら側」、それに対抗して新しい音楽表現を試みる自分たちを「こちら側」と呼んだわけだ。ぼくは「あちら側」そのもののような雑誌にいたのだが、なぜか彼らは「こちら側」の一員として遇してくれたようだった。「『明星』におかしなやつがいる」ということだったろう。
 ただ、のちに拓郎さんがぼくに語ってくれたのは、逆にそういう区分への違和感だった。
 「ほんとうは、おれは『こちら側』じゃないと、ずっと思い続けていた。『こちら側』で一応は地位を得たけれど、本来は『あちら側』のほうが自分には似合っていると思っていたよ」
 結局、「こちら側」だったはずのフォークやロックが「ニューミュージック」といわれるような、牙をもがれたものへ変質していく過程に、やがてぼくも違和感を抱くようになっていく。

保坂展人

 活版班に移っていたぼくは「読者ページ」を担当していたが、この記事[保坂の「内申書裁判」]に興味をひかれ[早速コンタクト](略)

 「『明星』なんて芸能雑誌が、ぼくにいったい何の用事があるんだと、猜疑心でいっぱいだった」というのが、のちの彼の感想である。
[ジャーナリスト志望と聞き、中高生の悩みを探るルポをやってみないかと提案]

かくして1982年に「保坂展人の元気印レポート」[開始](略)

「元気印」という言葉はのちに流行語になったが、ここが発祥の地だったということは、あまり知られていない。

 副編集長には怒られた。
「こんな連載を断りもなく勝手に始めるとは何事だ」というわけだ。しかし、この記事が読者アンケートで(略)アイドルのグラビアに交じって、堂々の3位を獲得してしまったのだ。少女たちの学校や友人関係の悩みに、保坂さんが正面からぶつかるようなページを作っていったからだった。
 評判がよければこっちのもの。やがてこの連載は「月刊明星」の売り物のひとつになった。 

 「PLAYBOYインタビュー」

[日本版独自の硬派な記事も売りだった「月刊PLAYBOY」に念願かなって異動。だが部数は全盛期の100万部から半減し、すでに退潮期。「PLAYBOYインタビュー」を任される]

  テープを速記者に起こしてもらう。5時間分、原稿用紙にして100枚前後にも及ぶ。それを、原敏さんという当時60歳代の超有名な長老ライターのもとへ届ける。しばらく原さんと対象者について雑談する。どんな口調だったか、どんな態度だったか、笑顔はあったか、驚くような発言は出たか、帰りの際の機嫌はどうだったか……。原さんはちょっとだけメモする。
 原さんは超の字がつくほどのインテリだった。(略)確か「文藝春秋」連載の匿名の名物コラム「蓋棺録」を書いていたはずだ。博覧強記の尊敬すべき大ライターであった。
 数日後、ぼくは川崎市の原さんのお宅まで原稿をもらいに行く。そのときに「今回は面白かったな」と原さんに言われると、ぼくは帰りの車の中で小さくガッツポーズをしたものだ。原さんとは、それほど素晴らしいリライターだったのだ。ぼくの文章上の師匠のひとりだったと、いまでも思っている。
 その原さんには、いろいろと教わった。ぼそぼそと、けれどかなり辛辣なことを言った。
「“ところで”を多用するインタビュアーは、まずダメだね。相手との会話が成立していない証拠だからね。相手の言葉をきちんと捉えられれば、そこから新しい発展がある。それができないから“ところで”と、話をずらしてしまうのだ。相手の話の腰を折ることになる」

(略)
 堤清二さんの原稿を受け取りに行った時、原さんが珍しく「これは面白かったな。堂々と相手と切り結んでいるじゃないか、鈴木くん」と言ってくれた。

 村上春樹インタビュー(86年5月号)

はっきりとした物言いをする方だった。「七〇年代に馬鹿だったヤツは、八〇年代も馬鹿だし、九〇年代も馬鹿だ。変わるわけがないんだ」(略)

すごく自信もあった。「僕はいま受けているこのインタビューを小説の中で書こうと思う。しかし、あなたは僕の小説を読んでもどれがこのインタビューのシーンかわからないはずです。それが小説なんだ」なんて言ったりね。 

 原発特集と広告

[「天安門事件」で「パリ・マッチ」誌に掲載された方励之インタビューを確認もせず掲載したら別人の仏在住の中国人作家で出荷停止。損害は1億円]

[ベルリンの壁崩壊、自分が行きたかったが、姜誠という在日韓国人ジャーナリストを派遣]

同じ分断国家を祖国とする在日ジャーナリストの目にはどう映るか。ぼくはそれが知りたかった。
 「とにかく、思い入れたっぷりでいい。姜くんが見たまま、それを自分のことと重ね合わせたルポを書いてきてほしい」

(略)

 姜誠のルポは、みずからの祖国の現状を背景にしたものだったが、意外なほど抑えた筆致で、統一コリアの未来を見据えていた。

(略)

 それにしても、いかに週刊誌に元気がある時代だったとはいえ、よくこんな無茶がやれたものだと、いまにして思う。

 副編の熊谷からは「もう取材費はないですよ。もう何が起きても、取材費は出せませんからね」と釘を刺されたが、やればそれだけの効果はあった。ジリジリと部数は伸びていた。
 原発特集も、かなり頻繁に掲載した。うるさい週刊誌だなと、電気事業連合会も思ったらしい。(略)「『週プレ』に大きな広告を掲載したい」との話があった。広告料金も破格の提示があったという。(略)正直に言えば、「週プレ」はあまり大きな広告の入る雑誌ではない。“破格の料金”は喉から手が出る。そこで、ぼくは答えた。やせガマン。
 「いいですよ。その代わり、原発広告が載る週は、必ず『週プレ』なりの原発記事を載っけますから、それでもいいんなら……」
 広告部の担当者は、フフフと笑った。恵一という剛毅な人だった。
 なぜか、電事連からの広告は入ることがなかった……。 

 文庫の“談合”

 [自身の企画による新雑誌「パピルス」は同時期創刊の「Bart」の陰で宣伝費もゼロ、最終売上30%の大惨敗、集英社始まって以来の「創刊号で廃刊」。そこからあちこちたらい回しに異動させられ、「集英社文庫」編集部へ]

 文庫というのは、よく考えると不思議なものだ。オリジナル作品の2次使用、3次使用が当たり前の世界。時には4次使用だってある。

(略)

 「文庫六社会」という会があった(略)出版6社の編集部の責任者たちが集まって、ある種の“談合”をする会である。

(略)

「◯◯さんのあの小説、××社さんはもうそろそろ期限切れでしょ。これ、うちで新装版を出したいんだけどね。◯◯さんも了承済みだし」

「じゃあ、その見返りに例のアレ、うちでもらってもいいよね」

(略)

各社の文庫本がこうやって決まる部分があるのだとは、それまでぼくは知らなかった。もちろん、目玉に関しては秘中の秘。ここで話されるのは、旧くなって、ある意味でほぼ耐用年数の過ぎたもの。それに、かつて大ベストセラー作家だったけれど、いまではそれほど部数の見込めない作家への印税での配慮ということもあるわけだ。
 こんな“談合”が一段落すると、あとはいわゆる文壇の噂話が酒の看。某先生はこのごろ少しボケてきただの、あの女性作家の書くものが変わってきたのは、どうも男のせいらしい……とかなんとかひとしきり。けっこうヤバイ話も出てきたような記憶もある。文芸編集者の世界の一端を垣間見た気がした。
 いやはや、ここもかなり凄い世界なのだった。
(略)

 作家の側にもいろいろと事情はある。いまはほとんど新しい作品を書けないけれど、かつて売れたものを、A社の文庫からB社の文庫に移して印税を得ようとする人もいる。

(略)

狙われるのは文庫を持たない中小の出版社の本だ。(略)少出版社から出たベストセラーなどは、文庫各社の取り合いになる。 

(略)

[自分なりの道を模索し「オリジナル文庫」を作ることに。フリーの刈部謙一の提案で「荒俣宏コレクション」全10巻で80万部]

原発記事騒動 

[部数減に“やわらか路線”を導入するも効果なしの「週プレ」が、硬派路線に戻そうと、94年、著者を編集長に迎える。ナンパまではいいけど、カネでオンナを買う企画は止めると宣言、反発を買う。4週連続巻頭特集で「敦賀原発銀座で悪性リンパ腫多発」記事]

発売直後から大きな騒ぎになる。

 それまでは、取材班からの度重なる「年齢調整死亡率データ」などの提供要請に対して「データは出せない」と拒否してきた福井県福祉保健部が「データを年齢補正していないではないか」とクレームをつけてきた。その基礎となるべきデータ提供要請には一切応じないのに、このクレームは的外れだ。「週プレ」側は「それなら基礎となるべきデータを出してくれ」と返答したが、今度は「データがない」と言う。(略)

[県知事が厳重抗議会見、県職員がテレビを引き連れ集英社を抗議訪問。さらに電事連、科技庁等から続々抗議文。訴訟を覚悟したが]

ついに訴訟は提起されなかった。

「こちらはデータを出したのだから、そちらもデータで反論してくれ」と言い続けた「週プレ」に、どこからも記事を否定するようなデータは示されなかったのだ。データがなかったのか、あったが出すと電力側に都合の悪いものだったのか……。

“オウム・バブル”によるメディアの変質

 いまになって振り返ると、あの“オウム・バブル”が、マスメディアの性格をかなり歪めてしまったのではないかと思う。情報のウラをとる、というジャーナリズムのイロハのイが、疎かになっていた。

(略)

 本来なら「ウラを取れ」と叫ぶべき上司が「とにかく他社に負けないネタを探してこい!」と煽ったのだから、ウラ取りが多少いい加減になるのは当たり前だったのだ。

(略)

[ウラの取れない情報に手を出さなかった「週プレ」は低迷。のちに森達也が講演で]

「オウム報道はほんとうにひどかった。中で、まともな姿勢を取ったのが、意外だが『週刊プレイボーイ』だけだった」という話をしてくれた。(略)ぼくは、ほんとうに嬉しかった。

(略)

[本人が知る前に、凸版印刷営業から「今度は『イミダス』ですってね」と異動を知らされる

集英社新書』創刊 

[最盛期の半分にまで部数が落ちていた『イミダス』を綜合社へ委託して経費削減。200名に及ぶ項目執筆者は殆どが気鋭の若手研究者。その熱い想いを活かそうと「イミダス選書」を企画。販売部取締役が選書だとイメージが硬いと新書を提案してきたのが97年。そして99年年明け、事前連絡もないまま突如社長が『集英社新書』創刊をぶちあげる。]