マルセル・デュシャンとは何か 平芳幸浩

 
マルセル・デュシャンとは何か

マルセル・デュシャンとは何か

 

デュシャンはいつも「いま」

デュシャンは万能ダシみたいな人で、この半世紀くらいいろんなアーティストや理論家たちがデュシャンから多種多様な旨味を引き出して、新しい味(アート)を作り出してきた。日用品、機械、運動、ポップ・カルチャー、言葉遊び、コンセプト、反復、即興、エロス、などなど。

(略)

モダン・アート自体が歴史遺産になろうとしている今だからこそ、見出せるデュシャン作品の魅力というものもあるのだ。

 たとえば今日、アートはますますプロジェクト化し、どこまでが作品でどこからが資料で、何を体験する(鑑賞する)ことがアートに触れることなのか、判然としなくなってきている。一過性のパフォーマンスや保存の利かない作品が遠い過去のものになって、アート・ドキュメンテーションやアーカイヴの重要性が説かれる。オリジナルな作品の「創造」はもはやアートの原理ではなく、過去の作品やイメージ群を再編集してみせること(キュレーション)も立派なアートとして捉えられるようになってきている。私たちがアートに求める射程が大きく変わってきているのだ。そんな変化にもデュシャンは十分に対応してみせることだろう。アート・ディーラーやキュレーター、インストーラーやデザイナーとしてのデュシャンの活動にここ最近スポットが当たっているのもその証左である。デュシャンはいつも「いま」なのだ。

遅れを挽回するために「レディメイド

[キュビスムを追求していた年の離れた二人の兄やその仲間は]

ピュトー・グループと呼ばれていたが、そこにデュシャンも参加しながら、どこか自分が「遅れてきた画家」であると感じていたことであろう。兄の世代からすでに遅れをとっていたデュシャンは、ピカソからは二重に遅れていたことになるのだ。のちに「遅延」という概念がデュシャンにとって重要な意味を持つようになるのは興味深い。

 遅れを挽回する方法のひとつは、その先行者を「時代遅れ」とまでは言わないまでも「過去のもの」として扱うことである。(略)
兄たちのキュビスムを、印象派セザンヌと同様に、既成の様式として捉えて「練習材料」にしてしまえばよい。これがおそらくは、デュシャンキュビスムに対する態度である。キュビスムも含め過去の前衛的な諸様式をすべて「練習材料」あるいは「訓練のための教本」のようなものにすること。つまりデュシャンは、キュビスムを含めた油絵の近代的諸様式を「レディメイド」として扱ったのだ。

網膜的絵画の限界

 なぜデュシャンは絵画を描かなくなるのか。そこには彼が嗅ぎ取った近代絵画の限界がある。絵画はあまりにも「網膜的」であると彼は感じたのである。

(略)

「網膜的絵画」とは、ただ目の快楽に供されるための絵画という意味である。彼は、アートは灰白質(頭脳)に働きかけるものでなくてはならない、と考えていた。そのような働きをデュシャンは当初絵画に託していたのである。心理状態の推移表現から様態変容の図示、そして設計図を引くような機械的描法まで、知的な刺激を与えるアートとしての絵画の可能性を模索してきたが、それを油絵の具とカンヴァスという伝統的素材でもって行なうことが不可能であると、おそらく一九一三~一四年頃に見極めたのだ。

(略)

 クールベ以来、絵画は網膜に向けられたものだと信じられてきました。誰もがそこで間違っていたのです。網膜のスリルなんて!以前は、絵画はもっと別の機能を持っていました。それは宗教的でも、哲学的でも、道徳的でもありえたのです。[…]今世紀全体がまったく網膜的なものとなってしまっているのです。

(略)
 反復するというアイデアは、私から見れば、ひとりのアーティストにあって一種のマスターベーションなのです。(略)毎朝、目が覚めると画家は朝食とは別に、少量のテレピン油の臭いが必要なのです。それで画家はアトリエに行くのです。[…]それが一日をまた始めるのに必要なこと、つまり唯一の大きな喜び、ほとんど自慰的な喜びなのです。

視覚的無関心

[61年の講演「レディメイドについて」]

非常にハッキリと申し上げておきたい点は、これらの「レディメイド」の選択は決して美的な快楽によって決定されたものではないということです。この選択は、視覚的無関心という反応に基づいており、同時に良い趣味も悪い趣味も完全に欠如したものです。……実際、完全な不感症なのです。

(略)

だが、この点については留保が必要だ。デュシャンは結局自分の趣味で物品を選んでしまっているのではないか?(略)趣味判断(美的判断)を逃れて何かを「選ぶ」ことなどできないだろう、という疑問が残るからだ。

(略)

[ロバート・マザウェルは]「デュシャンが選んだ瓶掛けは一九一四年に彫刻として制作されたほとんどすべてのものよりも美しい形をしている」と述べている。デュシャンが左右対称で突玩物が多い製品を選びがちである、という特徴は研究者の間でも指摘されてきた。実際のところ、デュシャンが選んだ物品は工業製品なので均整は取れている。

(略)

 デュシャンがここで主張している重要なことは、形や色などの形態的な良し悪しといった「ひとの感性に訴えかけるような要素」でレディメイドを選んでいると思わないでくれ、ということなのである。
(略)

 デュシャン自身、自分が工業製品に強い関心を持っていることは公言している(略)

画家仲間たちと航空機の展示を観に行き、プロペラを指差しながら「絵画は終わったね。このプロペラに勝るものは誰にも描くことなんてできないさ」とコンスタンティンブランクーシに語った。子ども時代にお菓子屋さんのウィンドウ越しに見た「チョコレート磨砕器」を繰り返し絵画に描き、百貨店の製品カタログが大好きで、一九三五年にはパリの発明品見本市で(略)「製品」販売を試みている。一九三〇年代になるとシュルレアリスムの展覧会のカタログ・デザインを手がけるようになるし(略)アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』の装幀デザインをしたこともある。

(略)

デュシャンが「視覚的無関心」という言葉で「美的判断」を退けようとしたのは、選ばれた物品と選ばれなかった物品の問の「同質性」を前提とするためである。つまり、同じ機能を持つもの(「シャベル」や「櫛」など同じ名称で同定できるもの)であるならば、すべて「同じ」物品であり、それゆえ「交換可能」であるということだ。

(略)

 類似した二つのもの――二つの色、二つのレース、二つの帽子、何らなかの二つの形――を識別する可能性を失うこと。ある類似したものから別の類似したものへの記憶痕跡を移すのに十分な視覚記憶の不可能性に達すること。

 このメモは《大ガラス》の構想時期、レディメイドの実験が開始されたその時期に書かれたものである。まさに、同じものが大量に産出される工業製品は、類似したものの違いを視覚的に認識できなくするものではないか。

 《泉》の伝説化

 歴史の主役となった便器を事件当時に実際に目にしたのは、デュシャンとその仲間たち、独立美術家協会の臨時委員会に出席した一〇名の委員たち、そしてスティーグリッツの撮影現場に立ち会った数人の人物のみ。たったそれだけの人たちしか「オリジナル」の《泉》を観ていないのである。私たちは、オリジナルの「写真」かレプリカしか観ることができない。この事態が《泉》とリチャード・マット事件を二〇世紀最大のアート神話に祭り上げることになった大きな理由であることは間違いない。

(略)[「オリジナル」の]便器が今もなお残って いれば、《泉》はこれほどまでに影響力を持たなかったであろう。(略)

物体としての便器がこの世から消え去って、写真イメージとなったことによって《泉》は生まれたのだ、と言ってもいい。皮肉なことに、この伝説がのちに実物信仰をもたらし、「レディメイドの再制作」という反転現象を生み出していくことにもなる。

(略)

レディメイドのオリジナル(最初の選択品)とレプリカ(のちの代替品)を同一とみなす、というデュシャンの考えは、アート作品の単独性・一回性を否定するものと考えられるが、コンセプトそのものがアートなのだとすれば、何かを選択するというアイデアの独創性がアートのオリジナリティを保証することになるからだ。デュシャンが男性用小便器をアートだとするコンセプトを一〇〇年前に出している以上、誰が便器をアートだと言っても、コンセプチュアル・アート的には、それはデュシャンのコンセプトの「パクリ」でしかないのだ。

チェス

 一九二三年、デュシャンは突如《大ガラス》の制作を中途で放り投げ、ニューヨークを発ちヨーロッパヘ戻る決意をする。デュシャン自身は《大ガラス》の制作放棄の理由を「根っからの怠惰な性格」のせいだと語ったが、八年以上の期間を費やしてきたわりにはあまりに唐突な終焉であった。この心境の変化のきっかけのひとつは、一九一八年から一九年まで滞在したブエノスアイレスでの生活にあると言えるかもしれない。そこで四か月をイヴォンヌ・シャステルと過ごしたデュシャンは、のんびりとチェスをする日々を送った。若い頃より慣れ親しんだチェスに没頭することで、チェス・ゲームの可能性がアートの可能性を凌駕していく。それと同時にチェス・プレーヤーとしての自らの実力を試してみたくなったのかもしれない。チェスは、デュシャンのアートの主題ではもはやなく、彼の生の基盤となる。彼は自分がどれほどチェスに没頭しているか記した手紙をいくつも友人たちに送っている。

(略)

 この時期のデュシャンの活動は、これまでエアポケットのような扱いを受けてきた。たとえば、デュシャンの再評価が高まる一九六〇年代においては(略)「アーティストをやめた」デュシャンの「沈黙と不制作」こそが、現代アートヘ強い影響を及ぼしていると語られることとなった。一方で、デュシャン没後の一九六九年にフィラデルフィア美術館で遺作《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》が公開され、彼が一九四六年から二〇年以上にわたって誰にも知られることなく大作品を密かに作りつづけていたことが判明して以降は、「アーティストをやめていなかった」デュシャンの活動が見なおされることとなった。(略)

プロジェクト型の作品や協働的な活動、そしてそれらのアーカイヴィング(資料集権化)をアート活動とする動向が隆盛するに従って、デュシャンがこの時期に行っていたさまざまな活動が、《大ガラス》やレディメイドとの紐づけとは別の文脈で強い関心を引くようになってきたのである。

(略)

[チェスに集中し、アートから解放され]この時期のデュシャンは多種多様なアートを実践している、とも言える。(略)

[但しデュシャン自身にその意図はなく]作るものがアートにならないようにする、アートから何とか逃げつづける、それがこの時期のデュシャンの思惑であったのだ。 

「アート」ではなく「デザイン」

三〇年代のパリの前衛アート動向の中で、デュシャンシュルレアリスムと(微妙な距離感を保ちながら)付き合っていくことになる。(略)

[主宰者アンドレ・ブルトンは先駆者としてのデュシャンを尊敬。デュシャンは新作も旧作も提供しなかったが、雑誌やカタログデザイン、展覧会場構成やなどで協力]

 このように、デュシャンシュルレアリスムに対して行なった協力は、ひとりのアーティストとしてシュルレアリスム運動に参加することではなく、アーティストあるいはシュルレアリストと呼ばれないような立場、つまりデザイナーでありインストーラーでありコラボレーターであり、という職能においてであった。デュシャンシュルレアリスムとの関係においても、「これはアートではない」と説明(言い訳)ができるようにあらゆることを進めたのだ。ではそれは、いかなる意味において「アートではない」のであろうか。
 おそらくこの時期のデュシャンの制作物の大半は、「デザイン」という名称で括ることができる。

(略)

美的判断と付加価値をともなう「アート」ではないような、現実的かつ具体的な活動あるいは職能としての「デザイン」を積極的に選択しているのである。

(略)

デュシャンがこれらの仕事をある種のシステムとして捉えているからである。(略)

[「職人仕事」として]その制作物の金額は労働の対価として、つまり〈材料費+労働単価×時間〉という式のもとで決定されるであろう。このような「ドライな」価格決定システムの中に自己の制作物を置くことをデュシャンは目指していたと言える。

「アートを定義することの可能性を否定する形式」

だけどね、そういうようなの〔レディメイド〕をたしかに生産しはしたけども、あのころは何千も生産しようなんて了見は持っていなかったんですよ。アート作品の交換可能性、いや、貨幣化なんて言う人もあるかもしらんが、ほんとうはそういうものから抜け出すためだった。レディメイドを売るつもりなんて一度もなかった。だからほんとうは、カネ儲けしようって魂胆を頭の片隅に持ってなくたって、何かをすることはできるんだ、と示すための身ぶりだったわけです。
 ここで語られるレディメイドは、なによりもまずアート作品としての「交換可能性」を排除する形式としてある。つまり、レディメイドは既製品である以上、たとえば一〇〇ドルで購入された場合、それは一〇〇ドル以下の金銭的価値しかモノとしては持ちえない。新品よりも中古品が高くなることは原則的にありえないのだ(それを逆転させるのがプレミア=付加価値である)。それゆえレディメイドは、「趣味」という主観的な判断材料で価格が決定される「アート」の流通システムには乗りようがない形式ということになる。逆に言えば、この既製品が「アート」の流通システムに乗る事態が生じれば、それはシステムそのものを自己矛盾に陥らせることになるであろう。それゆえデュシャンは、レディメイドを「アートを定義することの可能性を否定する形式」と呼んだのである。

(略)
レディメイドを選び出す基準と二〇-三〇年代のデュシャンの「デザイン」的(非アート的)活動を結びつけて見えてくるのは、ここで目指されている趣味判断の排除が、作家の独創性の否定であるよりも、アートの価格決定システムからの離反のための条件であることである。

(略)
ポスターや書籍や箱、展示デザインから錯視装置までのさまざまな手仕事を通して、デュシャンは、言うなれば、レディメイド=既製品を作ってきたのである。つまり、「職人的な」手仕事によって、完成品が既製品として流通するものたちを。

チェス的な造形思考

 デュシャンがチェス・プレーヤーとしてどれほどの才能があったのか、当時の証言としては印象に若干のばらつきがあるようである。「いつも美しいゲームをするために危険をおかす傾向があった」と述べられたかと思えば、「彼は古典的な考え方を使うし、理論に明るい人だった。順応主義的であること、つまり理論に素直であることは、大変よい指し方だ」という意見もあった。デュシャンの対局の棋譜を分析した研究者に共通する見解としては、中盤の戦術には長けているものの序盤と終盤がうまくない、というものである。出足で躓いて、創造性に富んだ指し手を繰り出して盛り返すが、最後の詰めが甘い

(略)

彼は刻々と変化するチェス盤の状況を造形的な観点から見ていた。

(略)
チェスのゲームには、とくに運動の領域できわめて美しいものが存在します。しかし視覚的な領域には、まったくありません。この場合、美をつくり出しているのは、運動の、あるいは身振りの想像力なのです。それは完全に頭の中でのことです。
(略)

さらに、このチェス的な造形思考は四次元への彼の関心ともリンクしている。なぜなら実際にチェス盤上で展開する駒の動きは、可能であったが実現しなかった別の選択結果を排除して成立するものであり、潜在的に存在する無限の造形可能性からひとつの三次元空間を暫定的に切り出してくることになるからである。
 チェスの思考とは凡人にはおよびもつかない多元的並行世界が脳内に展開するものである。(略)

このような思考のあり方は、目に見えるものだけがこの世界を成り立たせているのではない、という思いをデュシャンにしっかりと植えつけることになったであろう。
 彼が《大ガラス》の構想段階でさまざまに思いをめぐらせた、蝶番や遠近法や射影や鋳型やエネルギー循環などはすべてこのようなチェス的思考と分かちがたく結びついていると言ってもいいだろう。

ゲームとしてのアート

デュシャンにとってのアートは、常に作者と鑑賞者の間のゲームとして成立しているものであった。

(略)

作品のアート性を決定づけるのはのちの世の鑑覚者の判断に委ねられている(略)

作品の外部にありながらその作品を規定する要因として鑑賞者

(略)

 その初期の典型が《泉》である。レディメイドというメタ・アートの装置としての働きとは別に、《泉》はアメリカ独立美権家協会の主要メンバーのダイレクトな反応、つまり「拒絶」や「嫌悪感」という反応を引き起こすようにすべてが計画されていた。その結果として起こる出来事性がデュシャンにとって重要であったとするならば、当然そこには「ゲームの舞台」が用意され、プレーヤーが男性用小便器を挟んで対峙するよう仕向けられる。この舞台が整って初めて《泉》は歴史に名を残す「アート作品」になるのであり、その背後に「アートワールド」なる一種の暗黙の制度が存在することを浮き彫りにさせることができるようになる。《泉》が暴露した制度とは、アートをめぐるゲームのルールであり、そのルールの無効性が露呈したことによってアメリカ独立美術家協会展は混乱をきたすことになったのだ。

 デュシャンの再評価

[ダダ・リヴァイヴァル、ネオ・ダダの他に]

 アメリカにおいてデュシャンの再評価を決定づけたもうひとつの要因には、ジョン・ケージの存在がある。(略)

[ケージは無調音楽の先を]模索する中で、ピアノに異物を挟み込んで演奏する「プリペアド・ピアノ」や偶然性に基づいた作曲「チャンス・オペレーション」などの方法を編み出していく。その過程でデュシャンのアートに触れることになるのである。ケージは一九四二年にデュシャンと出会い、彼の思考法に強く共鳴していく。
 戦後のデュシャン再評価におけるケージの重要性は、音楽家としてのそれだけでなく、教育者としての役割が同じくらい大きかった。ブラックマウンテン・カレッジやニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチといった教育機関で若いアーティストたちに指導者としてケージが及ぼした影響力は計り知れない。彼の弟子たち(ハプニングの創始者であるアラン・カプロウ、フルクサスのメンバーとなるジョージ・ブレクトやジャック・ヒギンズなど)は、彼を通してデュシャンの存在を知り、その重要性を受け取って自らのアートヘと反映させていくことになるのである。

(略)

 日用品を用いて絵画や彫刻の素材の規範を乗り越えようとしたネオ・ダダ、通俗的な広告や商品を記号的に転写したポップ・アート、錯視効果を絵画のイリュージョンと重ね合わせたオプ・アート、アーティストと経営者が一体となる環境を生み出そうとしたハプニング、偶然性をともなう日常的な行為をアートに変換しようとしたフルクサス、作品への情動的な介入を徹底的に排除して制作を工場に発注したミニマル・アート、動きながら形状を変化させる彫刻であるキネティック・アート、作品を言語的メッセージと捉えアートはコンセプトのみで成立すると考えたコンセプチュアル・アート、一九五〇年代から七〇年代初頭にかけて生まれ出たアートの「新しい」潮流のほぼすべてにおいて、デュシャンはその「先駆け」となり、彼の副作物にその「先例」を探し出すことができるとみなされた。とりわけ、デュシャンが(こっそり《与えられたとせよ》を制作しながら)暮らし、若いアーティストたちと交流する機会があったアメリカでは、デュシャンは(自分ではどれほどその影響力を否定しても)、スーパー重要アーティストになるのだ。

デュシャンの作品が美術館に置かれるということ

 つまり、鑑賞者は美術館の展示室で壮大なる矛盾と対峙することになるのだ。類いまれなる才能を持ったアーティストたちの優れた手仕事による作品とともに、アーティストの手の介入しない既製品が「アート」として展示されていることの矛盾、そしてそのアートの歴史的転換が「マルセル・デュシャン」という「偉大なるアーティスト」によってなされた、ということを私たちは既製品を前にして再確認する、というもうひとつの矛盾。デュシャンの作品が美術館に置かれるということは、このような矛盾を抱え込むこと、まさしく「アートを定義することの可能性を否定する形式」であるレディメイドを「アート」として示すことの矛盾を真正面から引き受けることなのだ。
 《与えられたとせよ》の制作を秘匿し作品内部の公開を禁止したのは、このような矛盾の場としての美術館に《与えられたとせよ》と鑑賞者を同時に放り込むためだと見て取ることができる。なぜなら、そうすることで美術館(フィラデルフィア美術館)は、さらにもうひとつの矛盾を顕在化させることになるからだ。つまり、アーティストの手の介入しない既製品によるアートの可能性を切り開き、アート作品を作ることは無意味であると高らかに宣言したデュシャンが、まさにその実例となるレディメイドが置かれたすぐ横で、徹底的に手作りで視覚的な造形物である《与えられたとせよ》を突然開示することで、「作らないアート」「コンセプトがすべてで知能に働きかけるアート」こそが現代アートであると信じた者たちからその根拠を奪い去ったのである。

(略)
 だが彼は、自身が[代理人として任された]複数のコレクションを美術館に寄贈するための交渉を行なう途上で、そして自分の過去の活動が現在のアートの礎として再評価される大きな波に乗って、かなり早い段階でこの結果がもたらす効果を計りはじめたにちがいない。(略)

自分の作品と「マルセル・デュシャン」というイメージと、そしてアーティストの殿堂としての美術館との間のちょっとしたゲームを開始したのだ。

「箱」

「バラバラになってしまう」という特性こそが、デュシャンが本ではなく「箱」に拘泥したひとつの理由であると思われる。

(略)

「箱詰め」という形式は、本のように前後関係・因果律・時系列などに則って線的なストーリーとして内容を理解することを拒絶する形式なのだ。箱の中身を手にする者は、自由に対象を選び、好きなように配列し、勝手にストーリーを作ることができる。

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