マルセル・デュシャンとチェス 中尾拓哉

マルセル・デュシャンとチェス

マルセル・デュシャンとチェス

「絵画」と「チェス」

彼は1955年にフィラデルフィア美術館の一室に集められ展示された、それまで自身が制作してきた大部分の作品を前にし、肩肘張らずに、平易な言葉で「絵画」と「チェス」には類似点があると、次のように明かしている。
私は、絵画は表現手段であって目的ではないと思います。他の多くの中の一つの表現手段であって、人生を満たすべき目的ではありません。(略)私は自分を狭い枠に閉じ込めようとは決してしませんでしたし、可能なかぎり普遍的になろうといつも努めてきましたから。ですからたとえば、私はチェスに興じ始めました。(略)チェスには大変真剣に取り組み、楽しみました。絵画とチェスにいくつかの類似点を見つけたからです。事実、チェスをやっているときは、まるでデッサンをしているかのようになるし、あるいは機械仕掛けを構成しているかのようですよ、この機械仕掛けの構成具合によって勝ったり負けたりするんです。その競技の側面は少しも重要ではありませんが、ゲームそのものは非常に、非常に造形的でして、おそらくそれが私を魅了したものです。
(略)
彼は一つの表現手段にとどまらず、「絵画」と「チェス」の双方に潜む、より普遍的な「造形性」を希求していた。(略)彼が「芸術」という制度にとらわれず、普遍的であろうと求めた結果、すなわち「チェスは造形的である」というように、そのどちらの枠組みをもすり抜けてしまう帰結だったのである。

《チェスプレイヤーの肖像のための習作》

何より見落としてはならないのが、この二つの習作がトリプティック(三連祭壇画)のようになっていることである。(略)
トリプティックの配置をよく見ればわかるように、両端に分かれている小さな枠内には頭部だけが、そして中央の枠内には駒やチェッカー柄が頭部とともに配置されているのである。このことから、それがプレイヤーにはさまれたチェス盤の位置にあって、ゲームそのものを表していることがはっきりとわかる。デュシャンはプレイヤーを別の枠へと移すことで、中央の矩形がチェス盤であり、チェスのゲーム空間そのものであるとして区別しようとしている。
(略)
 デュシャンは、キュビスムの空間構成とチェスのゲーム構成が一つとなる、脳内で引き起こされている仮想空間を描こうと試みていたように見える。それは、当時のキュビスムと同様の、物体を多視点から把握し、画面内にその全方位像を再構成するという方法に、脳内で引き起こされている思考の展開、つまり際限なく起こりうる局面をシミュレートしている脳活動のレンダリングを含ませることである。それゆえ、これらの習作の重要性とは、描画行為にデュシャンのチェス・プレイヤーとしての体感が大きく入り込み、絵画空間とゲーム空間の構成を混合していることにある。それは現実空間を多視点あるいは同時性によって絵画空間に再構成しようとするよりも、むしろチェスのゲームによって、絵画空間に脳内で展開される仮想空間を構成しようとする試みに他ならない。
 これらの六枚の習作をもとに11月から12月にかけて《チェス・プレイヤー》が仕上げられる。完成作では、テーブルや静物、そして背景まですべてがキュビスムに準じるように、多角的な視点によって分解されながら、習作群と同様に空間内に散らばったチェス駒が、ゲーム空間を表しているように見える。

倦怠

 絵画を十年続けたのち、私はうんざりしてしまったのだ。――事実、何か新しいものに向かって目が開かれる感覚のあったごくはじめのうちを除けば、私は描いている時ですらいつもうんざりしていた。
 しかし、例えばこの絵画制作にたいする「倦怠」の訴えの中に、デュシャンの望みもまた含まれていよう。それは「何か新しいものに向かって目が開かれる感覚のあったごくはじめのうち」の記憶である。彼は「実をいえば、私は絵画をやめたいという願望を口にしたことは一度もない………やめようと決意したことさえ一度もないのだ。私がやめたのはなかば怠惰のため、なかばアイディアの欠如のためだ」とし、何か新しいことができると思えば、自分はまた明日にでも絵画をはじめるだろうと吐露してもいた。

まとめ

 チェスには偶然――はじめはなんのことだかわからないが――と、必然――説明されればしごく当たり前――の対立を生じさせる、生成と消滅から成る遊びがあり、その間にのみゲームは成立することになる。デュシャンの生涯において「芸術の放棄」と呼ばれたのは、実のところ「芸術」と「チェス」の二つの態度の対立の中にあって、チェスにあるスリリングな造形の展開と崩壊の瞬間にその身を投じることであったのではないか。そのときチェスは、常に新しい造形の誕生に関与する体感として、彼に歓びを与えていたはずである。
 このようなプロセスをたどり、永遠に組み換えられるだけのチェスに、新しいフォルム、新しいパターンが生まれ、造形が現れては消えていく。絵画のモノローグからチェスのダイアローグヘと至った対立の創造過程、そのプロセスの射程は、造形とひらめきを直結させる場へと向けられている。
 その射程が、つながりをもたない論理、あるいはつながりを見分けることのできない論理を引き寄せ、「芸術」における「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」、および「チェス」における「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」との結び目をつくり出すのである。二つの活動は何らかのかたちで交わりうる。そこにこそ、デュシャンが追い求めた「完全なかたち」が見え隠れするのだ。
 デュシャンが「チェスは描いていない時間を満たしてくれるのです」と話したように、チェスは「デッサン」そして「機械仕掛け」となって、さらに「エロティスム」そして「ショック」となって、「裸体」を引き出していた。そこで探索し切ることのできない、際限なく絡み合うプロセスこそが、制作以前にあるものを満たし、取り結んでいたのである。
 マルセル・デュシャンとチェス、それは「芸術の放棄」として語られたものである。そのとき「芸術」という語によって、失われた何かがあるとしたら。デュシャンの絶え間ない二つの行為は、「創造行為」の連鎖、その環が互いに解かれる中で、「芸術係数」のもと、一つの「創造行為」となるのである。

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