ファシスト的公共性―総力戦体制のメディア学

後半をチラ見。

記者飼いならし

 情報委員会は日中戦争勃発の約二か月後、また国民精神総動員実施要項が決定されたちょうど一か月後の一九三七年九月二四日に内閣情報部へと改組された。(略)
 かくして「思想戦」を担う国家組織が構築されたが、そこで陸軍が主導権を握ったことは確かである。そもそも「思想戦」という言葉を広く国民に知らしめたのは[陸軍パンフレット](略)
 戦後の「陸軍悪玉論」から陸軍軍人の言説はファナティックな反動の象徴として取り上げられる傾向が強いが、志願兵を基盤とする海軍と異なって、意欲に劣る徴募兵に依存する陸軍は、国民世論の動向に最も敏感な大衆組織だった。
(略)
[当時の陸軍省新聞班の仕事、一つ目は陸軍省記者クラブでの公式、非公式な会見・懇談。二つ目は非公式な会食や往来訪など新聞記者との私的な接触・交際]
特に、後者の「飲み食い」には陸軍省機密費が使われており、日常的な情報交換のやり取りを通じて「情報幕僚としての親軍記者」が育成されたという。(略)
[雑誌記者も同様で]
硬派、総合雑誌の四社(中公、改造、文春、日評)と軍報道部との関係は、毎月定例会議を持つことになってきた。それは気味がわるいとか性にあわないというようなものではなかった。報道部配属の軍人の一人一人は話のわかる連中で、お話をきいていると、どうしても暗々裡に牽制され、飼いならされて行くことになる。」

戦前から継続したメディアシステム

 重要なことは、こうした戦時情報システムの構築によって「言論弾圧」は「情報統制」へと変質したことだろう。(略)
統制経済の下で各メディア企業は「戦争景気」を謳歌しつつ、今日まで連続するメディア・システムが急ピッチで構築された。
 特に「言論の自由」の旗手と目された新聞の変貌が象徴的である。(略)
一九四二年七月情報局は新聞社の「一県一紙主義」を発表し、全国紙、ブロック紙、県紙からなる今日の日本型新聞システムが確立した。(略)
 この新聞システムの連続性は、同じ敗戦国であるドイツと比べれば一目瞭然だろう。降伏後のドイツでは非ナチ化政策により既存紙の継続・復刊は一切認められず、ドイツの新聞企業は「零年」から出発した。これに対して、日本の新聞企業に一九四五年の「零年」はない。新聞は「八月一五日」を含め、一日も途切れることなく国民に情報を伝え続けた。言論統制の効率化の目的で生まれた情報管理システムは、敗戦後日本を軍事占領したGHQにとってもまた不可欠なものであり、占領軍統治にほとんど無傷で組み込まれた。唯一の例外は、国策通信社である同盟通信社監督官庁である情報局廃止とともに、共同通信社時事通信社に分割されたことである。

思想戦

内閣情報部―情報局の活動でキーワードとなった「思想戦」については、渋谷重光や赤澤史朗らの先行研究がある。だが、そうした研究では大衆説得を意図した宣伝文献と大衆宣伝の企画立案に関わる研究文献が必ずしも区別されることなく論じられることが多かった。特に渋谷の「思想戦」論調分折では、「思想戦」は国民大衆のイメージ操作を目的とする「物語」的言説とみなされ、「実体のない思想“戦”を交戦中のごとく唱える意味合い」が強調されていた。それにより大東亜戦争開戦の正当化、敵の意識化、皇道思想との一体化、国民の不満のすり替えが目指されたと、渋谷は主張する。
(略)
 しかし、本章で焦点を当てる「思想戦」は、大衆向けの宣伝読み物でも報道広告テクノクラートの技術論でもなく、国策の中枢にいた情報官や情報部参与たちが思い描いた「戦時=戦後」構想である。いわば密教的部分である「構想された思想戦」の検証を試みることは、敗戦から現在にいたる日本の言説空間を分折する上で不可欠な作業である。
(略)
 一九三六年正式に官制化された、内閣情報委員会の会議室には、聖徳太子十七条憲法冒頭の「和以為貴」の額が掛けられた。
(略)
 清水盛明は思想戦という言葉を広く世間に知らしめた陸軍パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』の起案者である。語学堪能な清水は欧米の宣伝研究をかなり消化しており、その主張は高嶋以上に合理的である。
 「由来宣伝は強制的ではいけないのでありまして、楽しみながら不知不識の裡に自然に環境の中に浸って啓発教化されて行くといふことにならなければいけないのであります。ドイツの国民教化運動の一つと致しまして(略)コンサートをやったり、素人音楽会を開いたりして、各種の慰安を通じて自づから人間を教化して行くやうな方法を執って居るやうであります。
(略)
宣伝パンフレットを作るためにも、無料での配布は極力避けるべきだと指摘している。
 「只で配ったものは決して読まない。此処〔内閣情報部〕で出して居ります週報でも五銭で売って居りますから、之を買って読む、只では何十万出しても誰も読まない。宣伝用の出版物を出す時には成るべく定価を付けて金を出させて之を読ませるといふことが必要であります。」
(略)
[事変勃発後]古川緑波氏と相談致しまして時局宣伝を加味して貰ふこととなり、二時間ばかりの喜劇の中に五分ばかり支那事変の解説をやつたのでありますが、民衆は笑ひながら見て居る間に不知不識の中に支那事変の意義を教へ込まれることになるのであります。これが初めから終りまで支那事変の説明をやられましたら誰も入らぬと思ひますが、緑波々々で面白がって見て居る中に五分ばかり支那事変の真意義を聞かされて帰る。これが本当の宣伝のやり方ではないかと考へるのであります。」

転向者を利用

マルキシズムの克服」を論じた平田勲は一九三三年に東京地方裁判所検事として佐野学、鍋山貞親日本共産党幹部から「転向」声明を引き出して名を挙げた思想検事である。(略)
平田は非転向者をいつまでも閉じ込めておくドイツの強制収容所、中国の反省院とは異なり、日本では非転向者にも自由な生活をさせて保護していると主張する。さらに、この「保護」を戦場での「宣撫」的仕事に重ねて説明している。その際、平田が引用するのは、自ら転向させた鍋山貞親から寄せられた手紙の一文である。
 「支那を下から日本化しなければならない。どうぞその支那を下から日本化する大きな聖戦に私共思想犯転向者諸君を動員して、皇国の為めに御恩報じさせて頂きたい、お詫びさせて頂きたい、その点に力を注いで頂きたい。」
 「思想犯転向者」は思想戦の戦場体験者であり、「国民一人々々が思想戦の戦士である」総力戦体制の貴重な人的資源だというわけだ。思想犯保護観察法が目指したものは、「日本精神の涵養」による「思想上の善導」であり、思想犯を「新日本建設に役立ち其の礎石たらむとする強き自覚」に立たせることであった。
(略)
防諜論において、国民は単なる情報の「受け手」ではなく、情報に対して能動的に行動することを要請されていた。

日本精神論は知的な学生をして満足せしめるような理論的体系を欠いており、それが「学生の無気力」「思想上の無関心」など深刻な問題を引き起こしていた。
(略)
思想戦は内閣情報部で構想された合理性を離れ、武力戦、経済戦、外交戦に行き詰まった日本の「見えない戦争」として国民の戦意を維持する「情念の物語」となったと言えようか。
 結局、戦時期日本の思想戦は総力戦体制という技術合理主義システムを「持たざる国」が強行しようとした時に生じる論理的飛躍として展開された。

大東亜「共貧圏」

三枝メモを前提に催された外交懇談会の議論からは、真珠湾攻撃の二か月前の知識人たちのホンネが読み取れる。司会の三枝は「アメリカの「海洋の自由」といふ如きスローガンを掲げる」ことを提案するが、松下正寿と稲原勝治は「東亜共栄圈」や「東亜新秩序」など観念的なスローガンに難色を示している。


三枝 防衛とか存立とかいふことに関連して、「東亜共栄圈」を掲げてもよいのではないか?
松下 余り意味がないと思ふ。寧ろ正直に言った方がよい。
松下・稲原・三枝 日本が占領すれば「栄」に非ずして「貧」になるのが現実である。むしろLebensraum〔生存圈〕として掲げた方がよい。
三枝 「東亜新秩序」ではどうか?
松下ソノ他 観念的に過ぎる。(中略)理念では人間は戦はない。生きんがために戦ふのだといふ所以をはっきりさせなくてはならない。日本はもっと謙遜にならなくてはいけない。(略)
松下 アメリカの場合は一〇〇奪へば七〇返す。(略)日本の場合はさうではない。日本は取るのみで与へるものはなく、日本のみが唯一の市場にもなつてゐない。「共貧圏」になることは日本人自身がよく覚悟してかからねばいけないことだ。


 文化政策を語る以前のレベルで「大東亜共貧圈」への悲観論がリアリティを帯びていた。それでも「大束亜共栄圈の実現」が段階的に可能だと、議論の落とし所を探る三枝に対して、同じ元外交官・田村幸策の応答は冷たい。


田村 大束亜共栄圈とは何のことか。それを明らかにして貰いたい。いろいろ読んで見たが矛盾だらけで把握できなかった。
稲原 宣伝やスローガンはさうしたもので内容がないから宣伝になるのだ。
三枝 内容がなくはない。具体的な概念だ。
田村 (略)大東亜共栄圈は実現されてもゐないし、その可能性もない。世を欺くものである。
(略)
 敗戦後、三枝は公職追放となり、その解除後は国士舘大学教授として国際政治学を講じ、憲法改正反共主義の立場で多くの著作を刊行し続けた。
 いずれにせよ、一九二〇年代の国際協調論者が一九三〇年代の対外文化政策論を踏切板として思想戦に跳躍する姿は、戦間期日本の「文化外交」の歩みを体現している。

観光立国

 小山の「戦中」宣伝論が摩擦なく「戦後」マス・コミュニケーション研究に直結していることは、すでに第四章で確認した。実際、日米開戦後に刊行された小山栄三『戦時宣伝論』の最終章は「文化宣伝としての観光政策」である。「観光立国」というスローガンは、小泉純一郎内閣で二〇〇四年設置された観光立国推進戦略会議に始まり、二〇〇八年麻生太郎内閣の観光立国推進基本法制定、二〇〇九年鳩山由紀夫内閣の観光立国推進基本計画策定と続くが、その源は一九三〇年代にまで遡ることができる。戦後的な常識ではにわかに理解しがたい事実だが、ジャパン・ツーリスト・ビューローを利用した来日外国人の鉄道利用者数は一九三一年の五万人から一九三七年の一五・四万人へと三倍増まで拡大し、一九三六年に訪日外国人観光客の消費総額、一億七六八万円は外貨獲得額の第四位にまで上昇していた。宣伝伝研究者・小山にとっても、「大東亜戦争」勝利のイメージとは、国際観光立国の実現だった。
(略)
 日本人の共栄圈観光、諸民族の日本観光、欧米人の極東観光のそれぞれを活性化させることが、国際親善と国際貸借改善、つまり文化政策かつ経済政策の目的であると主張している。
(略)
戦後、小山は立教大学社会学部観光学科(現・観光学部)の設置に尽力している。

ドイツ国民に告ぐ』

 注目すべきことは、マッカーサー占領下で多くの知識人が読み返した古典が、フィヒテドイツ国民に告ぐ』だったことである。ナポレオン占領下のベルリンで打ちひしがれたドイツ国民に民族の自覚を説いたフィヒテ講演から、東京帝国大学総長・南原繁は自由な「文化国民」の世界主義を読み取っていた。一九四七年片山哲内閣の文相に就任する森戸辰男も、「文化国家論」でフィヒテを引いてこう述べている。
 「かつてナポレオン戦争に敗けたドイツは「フランスは陸を支配し、イギリスは海を支配し、ドイツは空を支配する」といって自ら慰めたといふが、現に空(学術思想)を支配してゐない日本は、これを将来に期し、文化国家の提唱によって自ら慰め、自ら励ましてゐるとも考へられる。」
 もっとも、森戸は戦時下に「戦争は新文化生誕の機会である」と書いているので、それを「敗戦は新文化生誕の機会である」と言い換えただけと言えなくもない。
 この森戸文相が一九四八年四月(略)口にした「マス・メディア」こそ、メディアという外来語の国会議事録における初出である。
 「文化の面におきましては、純粋の芸術というものに関する問題と、他面にはまた大衆芸術といいますか、殊にマス・メデイアとユネスコで言っておりまする映画、放送、新聞放道[ママ]というような面、こういう面におきましても重点をおいて考えていかなければならず